3-5

 授業の内容は頭を冷やすのにちょうど良く、塾から帰る頃には泣いた形跡など残っていなかった。真が帰宅して風呂掃除をしていると、家の固定電話に着信があった。鍋を煮込んでいた文乃が電話に出て、保留ボタンを押して声を張り上げる。

「マコ、電話! 五年二組の仙田君って男の子から」

 仙田が? 給湯器で湯張りのセットをしてから、急いで電話に出た。

「もしもしっ」

『や、こんばんは鷺岡君。今大丈夫?』

「大丈夫。それよりなんでうちの電話番号……」

『君の真似して原木君から教えてもらった。それより話したいことがあるんだけどさ、今、親御さんは近くにいるかな? 多分ええと……聞かれない方が良いと思うんだよね。できれば』

「ちょっと待ってて」

 保留ボタンを押し、子機を持ってベランダへ出た。壁にもたれ、閉めた窓の方を向いて保留を解除する。

「ベランダに出たから大丈夫。……あの……」

『うん、差し出がましいようなんだけど、今日言ってた写真の話について』

 やっぱり、と真は頭を抱えた。仙田は賢い奴だから、不倫の調査なんてやめろと言うかもしれない。確かに子どもが首を突っ込んで良いトラブルではない。いや、止められるだけならまだしも、親と話し合えだなんて言われたらどうしようか。自分に仙田を言い負かせられるだろうか――。

『鷺岡君と佐生さんが不倫の写真を撮ってどうしたいのかは分からないけど、もしも写真を証拠として突きつけるつもりなら、スマホの写真だけじゃ頼りないかもって伝えたくて』

 真は目を丸くした。「……どういうこと?」

『スマホ写真って簡単に加工できるでしょ? 撮影した後に撮影日を変えたり、合成写真を作れたりするから、スマホ写真は不倫の証拠能力としては不十分になりやすいみたいなんだよ。インスタントカメラみたいに、日付がしっかりフィルムに焼き付いてるやつの方が言い逃れできないんだって』慣れた口調でさらさらと告げられ、真は面食らった。

「マジ、かー……でも別に俺達、裁判を起こそうってわけじゃないぜ? 証拠能力がなくっても、親が認めたらそれで良い」

『そこだよ。裁判じゃないんなら、それこそ親が認めない限り、証拠として成り立たなくなる可能性が高い。裁判官がいないから、お前たちが作ったコラ画像だろって言われたらおしまいなのさ。だから不倫を暴くなら写真だけじゃなく、他の証拠も集めていおいた方が安心できるかもしれない。例えば二人が密会現場の近くに同じ時間帯にいたと証明できる――バスの乗車履歴とか、買い物レシートとか』

「なるほど、そういうのも証拠になるわけか。ためになるなぁ……。でもいきなりどうしてこんなにアドバイスしてくれるんだよ? 仙人もしかして俺たちが帰った後、不倫について調べてくれたの?」

『え? あ、うーんまあ……やっぱりスキャンダラスな内容だし気になってね……』

 仙田のイメージとはかけ離れた、妙に歯切れの悪い言い方だった。それに彼が噂や暴露話に注目するタイプとも思えない。飄々とした態度に騙されやすいが、仙田はやはり小学五年生で真の同級生なのだろうか。今日一日で、真の中にある仙田のイメージがブレ続けている。彼の意図が掴めずに首を傾げていると、そうそう、と仙田が話題を変えた。

『それともう一つ。多分もう佐生さんは今ごろ気づいてるだろうけどさ』

「佐生?」

『あの後わたしが佐生さんの秘密の質問に答えてみたら、うっかり正解しちゃったんだ。ほら、好きなキャラは誰かってやつ。ジオ・ブランデーじゃなくてアルファベットでGIOって入力したら正解だった。だから今彼女のメールアドレスに仮パスワードのメールが送信されてると思う。今度会ったら聞いてみて。それと、勝手に答えてごめんって言っておいて』

「わかった。……ほんと、いろいろとありがとう。仙人に相談してみて良かったよ、スマホ写真のことも、俺たちが今やろうとしてることも、仙人のアドバイスにめちゃくちゃ助けられた。インスタントカメラとか俺も佐生も全然思いつかなかったよ。使ったことなかったし」

『あはは。それはどうも。まあ…………あー……』

 電話向こうの声はやはり煮えきらない。きっと他にまだ言いたいことがあるのだろう。ベランダの手すりに背中を預けてあごを反らす。紫色の空に飛行機雲がかかるのを眺めながら、真はじっと待った。鳥の群れが横切るのを見ていると、仙田の声が戻ってきた。

『ええと、鷺岡君。別に先輩風を吹かすとか、偉そうに意見を押し付けるとかそういうわけじゃないんだけどさ』

 まるで悪いことでも白状するような口ぶりで、仙田はこう話した。

『……今の、全部父さんの受け売りなんだ。今教えた証拠の押さえ方や注意事項とかは、わたしが三年生のとき、父が母の不倫を暴くために実際にやったことなんだ。これはあくまでわたし個人の感想として聞いてほしいんだけど――険悪な両親が無理して揃ってるよりは、いっそ別れてくれた方が、子どもとしてはつきものが落ちた気分だよ』


 ***


 水曜日、真は塾へ向かうと迷わずに汚くて古い方の自習室を目指した。教室の中にはすでに制服姿の理緒が座っていて、すまし顔で参考書を睨み付けている。理緒以外には誰もいない。きっとみんな設備が新しい、冷房の涼しい方の自習室へ行ってしまったのだろう。だから真が歩いて隣に立ったとき、理緒が顔も上げていないのに真に声をかけてきたからといって、真は驚かなかった。

「なんだ来たの。どうやって口説き落とそうか考えてたのに」

 考えるべきなのは、今お前が肘をついているテキストの問題だろう――。出かけた言葉を飲み込んで、代わりに鼻を鳴らして笑ってやった。いつも理緒がやる笑い方のマネだ。

「じゃあ出直そうか? そしたら口説いてくれるわけ」

 気取ったセリフ回し。お互いにドラマやマンガの観過ぎだ。くだならい。真が隣の席に座ったのを合図に、お互いに呆れた声を出して笑った。弱い冷風を扇風機がかき回す。

「なんだか恋愛って楽しくなさそうだね」理緒が言った。

「ほんと。誰かを口説いたり口説かれたり、一緒に手を繋いだり。宿題が増えるみたいにしか感じないぜ」真も言った。

 理緒は空欄だらけの参考書を閉じて、代わりにプライベート用のノートを取り出す。真もよく見慣れた赤いリングノートだ。理緒は一体、いつからここにいたんだろうか。真は仙田からの電話について話した。「仙人から伝言が」言いかけたところですぐに理緒が飛びついた。

「やっぱり仙人が秘密の質問を解いたんだ! 正解なんだったの?」

「ジオじゃなくてGIOだった。綴りの違いだって」

「そっちだったかぁー……! まあ結果オーライだよね。今朝図書館のパソコンでZoozleフォトにアクセスしたら、写真のバックアップは確認できたよ。もうUSBに移してあるから、証拠は無事に――」

「それなんだけど。不倫の証拠について、仙人からの伝言がもうひとつある」

 真も勉強とは無関係な方のメモ帳を取りだした。昨夜の内にまとめておいた仙田のアドバイスを伝える。スマホ写真だけでは証拠として頼りなく、可能なら他の証拠も集めた方が良いということ。少し迷った末に、仙田の父の話は伏せておくことにした。随分とヘビーな話をしてくれたのだ。彼からの信頼を裏切るわけにはいかない。

 話し終えると、理緒はふーんと感心したように唸った。

「……なるほどね。なんていうか、仙人はリサーチスキルが違うね。リテラシー能力を持ってるっていうかさ」

「りてらしー?」

「何が正しい情報かどうか見極めて取捨選択をする――要はガセに踊らされない賢さってことだよ。写真のバックアップについて教えてくれたときもだったけどさ、ネットでささっと調べてそんな情報持ってきちゃうなんてすごいよ。さて、私たちはこれからどうしようか……」

 きっと理緒はまた作戦会議をするつもりだろう。真も早く話し合いたかったが、その前にどうしても確認したいことがあった。

 なあ、と真は有無を言わさぬ声を出した。黒い瞳が真を見る。その瞳が膜を張り、耐え切れず泣き出す場面が今もまだ、鮮明に思い出せる。きっと理緒も真の瞳を見て、同じように同じ場面を思い出せるのだろう。――高学年の男子と女子がわんわん泣きじゃくるだなんて恥ずかしい出来事だが、なかったことにしてはいけないと真は考えていた。泣くという行為には、意味がなければならない。

「俺たちは証拠を集めて、それで、どうする? 昨日俺がプレゼンしたろ、不倫をやめさせるか、強請りの材料にするのか、何もしないのか。ゴールがどこかを決めておきたいんだ」

 真はその答えを理緒の口から聞きたかった。そして期待に応えるように、理緒が笑う。

「決まってるでしょ、やめさせる。ハッキリ言って気分が悪いんだよ。恋愛は自由だと思うけどさ、子どもに悪影響与えてまで続けることじゃないでしょ、良い大人が。ガツンと言ってやらなきゃ」

 直接本人の口から聞けて、心底安心した。だよな、と真は返して、机をくっつけてお互いのメモ帳とノートを並べた。再スタートだ。

「やめさせるんなら尚更、仙人の言った通り他の証拠を集めた方が良いよな。今回の件で分かったように、大人はずるい。スマホ写真だけじゃ絶対にあの手この手で俺達を邪魔するはずだぜ」

 理緒が大きくうなずいた。「周辺でホテルを見張り続けるのはもちろん、またデートしないかも探ろう。今度はインスタントカメラも使って。二人が一緒にいる店でのレシートなんかも探したいな」

 言い合いながらお互いに思いついたアイデアを記していった。レシートは証拠に残りやすいから、処分されやすい。そう簡単に手に入るだろうかと真が懸念する。それを逆に利用しようと理緒が提案した。証拠だからこそレシートは店で捨てて行くだろうから、それを見つけて後から拾うのだと言う。なるほど一理ある。レシート、とメモ帳に書き記してから、移動履歴についても話し合った。パッと思いついたのはバスカードの履歴やカーナビの移動履歴だ。バスカードなら、自動券売機にかざせば残額と利用したバス停の履歴が分かる。しかし親のバスカードをくすねるのは難しい。親不在の車に乗り込んでカーナビを操作するのはもっと難しいだろう。ラブホテルの近くに二人がいたことを証明するのは、なかなかに骨が折れそうだ。


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