3-4

 どのように仙田に挨拶をして出てきたか覚えていない。真は気づいたら理緒に手首を引っ張られて、美容室の裏手にある公園にいた。幸い公園に人はいない。東屋の下に立つと、真の手を放り出して理緒が怒鳴った。

「なんで言っちゃったの!? 誰にも知られちゃいけない、内緒で進めなきゃいけなかったのに!」

 まだ頭がぼんやりとする。東屋の屋根からジジッとセミの鳴く声がして、最初から用意でもされていたように答えた。

「でも仙人なら大丈夫そうだろ。口が固そうだし、俺たちの親に告げ口するような関係性でもないし――」

「そうじゃない。私が言ってるのは、あんたが、鷺岡くんが、諦めようとしてるんじゃないかってことだよっ!」

 まるで、絶叫のような言い方だった。真は目を見張って目の前のセーラー服を見つめた。理緒は青ざめた顔をして怒っていたが、その怒りが真を責め立てるものではないということが分かった。

「諦めるって」

「さっきの鷺岡くん、もうどうでもいいって顔してたよ。仙人が秘密を守ってくれそうな人だからって言うのは本当の理由じゃないよ。もうルールを守らなくても良い、証拠がどうなろうと知らないって顔を」

「だってどうしようもないだろ、もう」

 とうとう真は吐き出した。

「証拠写真がなくなってヤケになったんじゃないぜ。俺たちがどれだけ頑張ったところで、所詮、力も金も道具もない子どもの悪あがき。親に邪魔されるんなら意味がないって思ったからだ。だって佐生は現に、スマホを壊された。俺は親父の休日の予定をきいただけで、母さんにすごい目でにらまれて、多分あれは、疑われた。初めて知った、家族なのにあんな目で見られること。あれを思い出したら、俺たちがやってることが正しいかどうかなんて……もうわかんなくなって……」

 ごめん、と真は謝った。膝から力が抜けて、屈み込んで膝に顔を埋める。何が、と理緒は言わなかったが、続きを促すように隣に屈み込んだ。言葉を整理しながらゆっくり話す。

「不倫見つけて勝手に一人で盛り上がって、佐生巻き込んで、あげくこんなことになって、写真がなくなったからって自信なくして。これじゃお前に責任転嫁しようとしてるみたいだ。――不倫を暴くことが正解だって最初は思ってた。でも暴こうとすればするほど家族を疑うことになって、疑えば疑われることになって、どんどん家族が壊れていく気が、するのが、こわいんだ。間違ってるんじゃないかって。結局我慢するのが一番正しかったのかもしれない……」

 話の途中で何度も理緒が遮ってくるのではないかと思ったが、結局理緒は真の声が止むまで黙っていた。反論されるのが怖かったが、反応されないのはもっと怖かった。膝から顔を上げられない。じっとまぶたの裏を見つめている内に、次に顔を上げたときに理緒が愛想を尽かしてどこかへ消えてしまっているのではないかと、悪い考えばかりが湧き出てくる。不安に思って顔を上げようとしたとき、ようやく理緒がゆっくりと話し始めた。

「私は、そうは思わないよ。でもその気持ちはすっごく分かる。だってそれは、私が塾で鷺岡くんに説得されるまでずっと感じてきたことだから。我慢してやりすごせばいい、見てみぬふりをして、黙って何も知らない子どもでいればこれ以上に嫌な気持ちにならないって思ってた。家族のはずなのに親を信じられなくなって、甘えたり話しかけたりが上手くできなくなるのは、本当につらいことだもんね。家にいたくなくなる」

 一度言葉を切って、息を吸う音が聞こえた。

「でも違うんだよ、時間が経てば経つほどこれ以上に悪化する。黙ってやり過ごそうとしても暴こうとしても、結局悪化のスピードが違うだけで、私たちが傷つけられることに変わりはない。あの人たちが不倫をやめない限り、むしろずっと、もっと苦しくなり続けるよ」

 顔を上げようとしたら、上からぐっと頭を押さえ付けられた。ずずっ、と鼻をすする音が聞こえた。次いで、震えた声。

「もしも今鷺岡くんが諦めるって言い出しても私は続ける。写真がなくなったらまた新しい写真を撮れば良い。時間があればラブホの周りで見張り続けるし、また二人がデートしないか探るし、塾であんたを見かける度にもう一度頑張ろうって今度は私が説得するよ。あんたが私に何回もチャンスをくれたように、私も一度や二度へそを曲げられたからって、絶対にあんたを見捨てたりしない。――これはもう、正しいかどうかが続ける理由になるものじゃないと思う。少なくとも私は、私の気持ちをスッキリさせるために、あの人たちの不倫を暴くんだ。何がどう間違ってても、もう知るもんか」

 真は自分の頭の上にある手にそっと触れた。細っこい指が冷えて震えていた。丁寧にそれを剥がして顔を上げると、理緒が鼻水を垂らして泣いていた。「ごめ」反射的に謝ろうとしたら、力任せに頭を抑えつけられて再び膝に額を擦りつけることになった。

 イライラとした声はがなり立てる。

「だから嫌なんだよ、誰かに目の前で本音を話すの! 本音で話すと、悲しくもないのに勝手に涙が出る。私は悲しくないしつらくもないのに、泣いてるってだけでみんな私に遠慮して、謝ろうとしたり慰めようとしたりする。で、まともに話ができなくなる。誤解しないで、私が泣いてるからって気にする必要なんかない。昔からの変なクセなの。本音を話すときに目からなんか出てるだけ。お願いだから、私が泣いてることを無視して、普通に話をしてほしいのに……」

 理緒からもらったルーズリーフの手紙を思い出した。“私は口で自分のことを話すのが苦手だから”と書かれていた。どうして直接話さないのだろうと当時は不思議に思ったものだが、あれは理緒が本音で落ち着いて話すための手段だったのではないかと、今なら思う。口では話せなくて、文字でなら伝えられる。昔の真には理解できなかったが、今ならよく理解できた。きっと物凄く怖いのだ。自分の言葉が、本音が、本当に口にしても良いものかどうか。嘘や演技を覚えた今では、心の内を何の加工もせずに目の前の相手に伝えるのが酷く恐ろしい。自分の言葉で相手の表情が変わるのを見るのが、こんなに怖いことだなんて知らなかった。

「……今じゃなかったら、泣いてる佐生を無視できるかなんて分かんなかったけどさ」

 理緒の手から力が抜けたので、真は顔を上げて目を合わせた。ぐすっ、とほぼ同時に鼻をすする。

「今なら大丈夫だよ。佐生は泣いてるけど、俺だって泣いてる。今は平等に話せるよ、俺たち」

 理緒はとうとうしゃくり上げた。なんて悲しそうに泣く子だろう。それを見ていたら真まで涙が止まらなくなって、一緒になってしゃくり上げた。お互いにもう何も言わなかった。わんわん騒ぎ合うセミに紛れて、声は上げずにしゃくり上げる音だけを鳴らし合った。

 今この機会を逃してはいけない、という暗黙のルールがその場には生まれていた。今のうちにたくさん泣いて、二人は何食わぬ顔をして家に帰らなくてはならないのだから。


 

 まぶたが腫れるから目は擦らなかった。泣きやんでから公園の水道で顔を洗い、水を飲んだ。お互いに顔をチェックし合って、不自然なところがないのを念入りに確認してから、塾へ戻って授業に遅刻出席した。教室へはお互いに少しタイミングをずらして入った。塾について別れるまで、決して気まずくはない沈黙が二人の間を満たしていた。


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