3-2
塾の裏を少し歩いたところに神社があって、神社のすぐ脇には長い坂道がある。セミの合唱と灼熱の木漏れ日がトンネルを作っている坂道を、理緒とあっち向いてホイをしながら歩いて登った。お互い額に汗を滲ませてようやく坂を上りきると、今度は緩やかな坂道を少しだけ下って、地蔵と美容室に挟まれた歩道を抜ける。信号機のない横断歩道を渡れば、駄菓子屋オノが二人を出迎えた。
ブロックの欠けた看板を尻目に、未だ手動で開けるタイプのガラス扉を開いて真は理緒を促した。一か十かしかない、あからさまな冷房の風が心地よい。おずおずと入ってきた理緒は、店内を物珍しそうに見回しながら呟いた。
「……私、駄菓子屋って初めて来たかも」
「まじ? 遠足のおやつとか買わねえの?」
「え? おやつはお母さんが買ってきてくれるから……」
嫌味でも何でもない顔で言われて、真は行き場のないモヤモヤに溜息を吐いた。「わーお、これだからお嬢様は」吐き捨てるように言って小さなプラスチックのカゴを手に取る。
「お嬢様って言うな! ――わ、ロケモンだ。かわいい……」
腕をぶんぶん振って抗議していたかと思うと、壁掛けのロケモンカードに夢中になっている。女心と秋の空――何かのドラマで聞いた言葉を今思い出す。所狭しと並べられた駄菓子の中から、ビスケットとチョコレートと、小袋に入ったキャンディをカゴに入れた。「仙人とか呼ばれてるくせによー、さきいかとかあられとかはダメで、チョコとかクッキーとか好きなんだぜ。あいつ」いつかの遠足のときに原木が言っていた。仙人だから和菓子が好き、というのも嫌な先入観だ。
仙田へのお土産とは別に真の好きな駄菓子もいくつかカゴに入れて、ロケモンのパッケージの駄菓子が並ぶ棚の前に理緒を発見した。横に並んでその手の中を覗きこむ。
「佐生、ロケモン好きなの?」
ラムネ菓子を棚に戻して理緒がぶんぶん首を振った。
「えっ!? い、いいいいやいやいや。別にそんなんじゃ」
「うちも妹が好きなんだよ、ロケモン。学校のクラスにも何人かロケモン好きな奴いるぜ」
「へ、へえ、そう……」
理緒は安心したように、棚に戻したラムネ菓子をもう一度手に取った。ロケモンは確かに子ども向けのアニメだが、聞けば原作ゲームは大人が熱中するほどだと言う。理緒がロケモン好きを指摘されて恥ずかしがる理由が、真にはよく分からなかった。
オノのレジは一つしかない。しかも店員は、店主である老婦人しか真は見たことがない。二、三年生くらいの男の子の後ろに並び、レジを待っている間に真は後ろの理緒に話しかけた。
「……俺も昔は好きだったんだけどさ、最近のロケモンのアニメはなんか、違う気がして」
「わかる! 確かに変わっちゃったよねロケモン。アニメとか主人公の服装が変わってから性格まで変わっちゃって、ヒロインにミニスカート多くなるわ、ストーリーもなんか単純な良い話ばっかりだわ。昔はもっと重たい話も多かったのに。でもゲームの方は今も全然面白いよ。知ってる? ロケモンって初代の頃から今まで戦闘システムがほとんど変わってないんだよ。つまりロケモンってそれだけ完成されたゲームだってこと。大丈夫、アニメとゲームは別物。ゲームは変わらず面白い。アニメがダメならゲームだけでも復帰してみたら――」
「めっちゃ語るなー。ロケモンそんなに好きなのか」
「はっ、えっ」
理緒は見る見る間に顔を赤くして、口をはくはくさせて固まった。真は何だか面白くなって、つい笑みを深めてしまう。「ちょっと、次」店主に促されて真はカゴをレジに置いた。その後に並んでいた理緒は、依然赤いままの顔でその後に会計をして、悔しそうに真の隣に並んだ。冷房の利いた店から出て、ものすごく重たい溜息と共に吐き出す。
「……ごめん、引いた? 引くよね、自分でもキモいと思う」
そんな、と驚いて真は首を振った。
「引いたって言うか面白かったよ。佐生とこういう話ができるの、ちょっと嬉しい。だって俺ら、親の不倫のことしか話してなかったからさ。お互いの好きなこととか全然知らなかったじゃん」
今度は理緒が驚いた顔をしていた。ああ、とうわごとのように声を出して、目を逸らし、苦笑に近い笑い方をした。
「そう……だね。確かに私たち、全然そういう話したことなかったもんね。――ああ、なら鷺岡くんもさ、好きなことの話とか全然して良いからね。私、どんな話でも引いたりしない自信あるよ」
「好きなことの、話……」
言われて一番にサッカーボールを連想する。奥歯を噛みしめた。確かにサッカーは大好きだったし、語れと言われればいくらでも語ることは思いついた。好きなチームの話、監督の話、戦略の奥深さ、選手の性格やプライベートの意外な一面――。でも今は、その好きな気持ちを上回る苦い思い出のせいで、楽しく話ができそうもなかった。
「……鷺岡くん?」
はっとする。理緒の真っ黒な瞳がこちらを覗きこんでいた。心配げに「大丈夫?」と問われて、曖昧に頷く。「何でもない」早口に言って歩き出した。駄菓子屋の裏側を通り過ぎるときに、エアコンの室外機から出てくる生ぬるい風が、真の首をぞわりと嫌な心地でかすめた。汗は引いたというのに不愉快さがこびりついて取れない。何も考えまいとするように、真は努めて明るい声を自分で自分に聞かせた。
「っほら、ついたぜ。ええと三○二号室……」
コーポ青山はオノのすぐ後ろにあった。出入り口の集合ポストを確認すると、三○二と書かれたポストには確かに“仙田”と手書きで記してあった。小さな蜘蛛が跳ねる、段差の高いコンクリートの階段を三階まで上り、三○二号室の前に立つ。表札には記号めいた筆跡で“仙田”と書かれている。チャイムを鳴らすと、すぐにドア越しに声がした。
「はい、仙田です」
「こんにちは、鷺岡真です」
「ああ、鷺岡君。ほんとに早かったね、ちょっと待ってて……」
カシャン、とチェーンをずらして錠の開く音がする。玄関扉が開き、仙田が姿を現した。
「いらっしゃい。狭いけどどうぞ」
学校で何回か見かけた通りの人物がそこにいた。少し長めの前髪と、そのすき間から覗く三白眼、薄くて広い口。猫背なだけで意外と背の高い奴だと、真はそのとき初めて知った。
「お邪魔しまーす」言って玄関に入ろうとして、真は背後を振り返る。「……あれ、佐生?」
可哀想に、青ざめた様子で固まった理緒が半ば叫ぶようにお辞儀をした。
「…………っあ、はじっ、はじ初めまして佐生です! ええとその私は鷺岡くんの友達で、ええと」
「初めまして佐生さん、仙田です。二人とも好きに呼んでいいよ、仙田でも仙人でも。どうぞ上がって。麦茶でいいかな?」
柔和に笑って仙田が部屋に入った。その後ろ姿を見て、物凄く大人だ、と真は感心した。スマートな男とはきっとこういう奴のことを言うのだ。
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