2-8
小雨が大粒になりかけた辺りでショップに滑り込んだ。ハンカチで濡れた髪を拭いながら、真はカウンターの上に並ぶメニューを指さす。
「昼ごはん食べようぜ。佐生、なに頼む?」
キャップを脱いで両手に握り、理緒は気まずそうに俯いた。
「……ごめん、私こういうとこよくわかんない」
「マジ? お嬢様はやっぱ違うのなー」
「お嬢様って言うな!」目尻を吊り上げて怒られた。
「じゃあハンバーガー食べられる? ポテトとか。飲み物はシェイクにする? ジュースにする?」
「ええ? ええと、じゃあ……」
カウンターに並び、二人でチーズバーガーとポテトを注文した。真はチョコシェイク、理緒はストロベリーシェイクを選んで二階のテーブル席に運んだ。席に座るまで理緒はずっと所在なさげにしていて、真が「いただきます」と手を合わせたのを確認してから、緊張した面持ちでハンバーガーの包みに手を伸ばした。
「……こういうとこ来るの、小学一年生のとき以来だ」
「はあ! 一年生!?」
真は驚いてポテトを落とした。
「あー、やっぱ変だよね。うちお父さんが外食嫌いでさ。たまに外で食べるとしても、さっきみたいな高いお店ばっかで」
落としたポテトを拾って呟く。「やっぱお嬢様じゃねえかよ」
「そーじゃなくて。いや、そうなのかも……。一年生のとき、お父さんが出張中にお母さんと二人で出掛けたときがあってさ。そのときにお母さんが連れてってくれたの。駅の中の、こういうチェーン店。正直もう食べられないと思ってた」
言いながらチーズバーガーを頬張る顔に、何とも言えない気持ちになって真はストローを噛んだ。
「友だちとかと一緒には来ねえの?」
「学校の友だちはドーナツ屋さんとかそういう、甘いやつが好きでさ。我ながら属するグループを間違えたと思ってるよ……」
うえ、ピクルスだ。理緒が苦笑する。しばらく無言でハンバーガーを食べ進めて、包み紙を丁寧に折りたたみながら真は切り出した。
「……どう、しようか。これから」
「ああ、そうだよね。証拠掴んだんだもんね……」
理緒も食べ終えた包み紙を丁寧に畳み始めた。多分、真がやったのを真似て同じように折り畳んでいた。
「何でだろうな。あんなに必死に追いかけてたっていうのに、いざ不倫の現場を見て、本当なんだって知ったら、途端に気味悪くなってきた。ラブホの現場を見たときは俺の見間違いかもって少し思ってたから、佐生と一緒に見られたら安心すると思ってたのに」
「ほんとにね。私もさ、お母さんやお父さんと上手く話せないこの状況をどうにかしてやりたくて鷺岡君に協力したのに。いざ見ちゃうとなんか……もやもやするっていうか……」
妙な間が生まれた。先ほどの男性――理緒が叔父と言っていた人物のことを聞きたかったけれど、真は迷って結局口を閉ざした。自分で断言しておいてなんだが、もしも理緒が言うように、あの男が本当に真たちの邪魔をしていたとしたらどうしよう……。非現実的な不安が何度も喉奥からせり上がってくるのだ。もちろん口にしてしまえば不安にのまれるだけだから、絶対に言わない。
何を言おうか迷っていると、理緒が唐突に口を開いた。
「鷺岡君くん、どうやって子どもが生まれるか知ってる?」
真は固まった。同じ質問を原木や長沼にされたら取り乱していたけれど、このタイミングとこの相手では、寒気を感じる他なかったからだ。
「……佐生?」
「私はお母さんがお父さん以外の男の人と、鷺岡くんはお父さんがお母さん以外の女の人と、そういうことをしてるんだって気づいたらさ」
「佐生待って」嫌な予感が当たる予感がした。
「私たちの生まれてきた理由って何なんだろう。二人が愛し合ってないなら、どうして私たちはお父さんとお母さんの間で暮らしてるんだろう」
「佐生」話を止めさせたかった。
「さっきの叔父さんのときもそう。もう全部悪いことみたいに思えてきちゃうの。……私はね、お父さんとお母さんが、たまにでも仲良くしてる光景が見られたら嬉しかったんだ。それはドラマやマンガみたいなラブシーンに興奮してたからだと自分では思ってたけど、違う。両親が仲良くしていると、私が生まれて良かったんだって、私は二人にとっての良い結果だったんだって、そう思えるから嬉しかったんだね」
声と同じようにその手も震えていた。テーブルの下で真は理緒の手を握る。すぐさまぎゅっと握り返されたが、男子と女子で手を握り合ったって、これは信治たちがやっていたのとは全く意味が違う。あんなに汚らわしいものではない。これはただの、気持ちを共有するための握手だ。
理緒の言葉は図星だった。親の不倫を暴くのが難しいと感じる度、楽しげな不倫の真逆に位置するのが、自分たちの存在なのだと思わされた。けれどそれを認めては、息が上手くできなくなりそうだった。理緒もそうなのだろう。だから真は、理緒に何かを言わなければならない――。
暴力に抵抗するような気持ちで、しどろもどろになりながら必死に言葉を絞り出した。
「確か、に。佐生の言う通りかもしれない。親の不倫で、俺や佐生が生まれたのがなんか、おかしいことみたいに思うことがある。だけどだからって、俺達が生まれてきて悪かったとか、そんなのは」
「そんなのは?」
「間違ってる」
ハッキリと即答できたことに、真は自分で自分を褒めちぎりたくなった。
「今、分かった。子どもは親の愛の結晶だって言われてるけどあれは嘘だ。信じるな。だって子どもが生まれる理由って、本当に親が愛し合ったことだけ? もっと他にあるはずだろ。例えば俺はサッカーが好きだし、映画もゲームもスニーカーも、友だちも、好きなものはたくさんある。本当はそういう好きなものに出会うために生まれてきたんだ。絶対そう」
とにかく必死に嘘をついた。本当はサッカーに苦しめられている。本音を話せない友だちといるのはつらい。映画もゲームも、面白く感じられないときがある。
「おいしいものを食べたとき、難しい問題を解けたとき、誰かと友だちになれたとき――生まれてきた理由を感じるときって、親が仲良くしてるとき以外にもたくさんあるはずだぜ。だから、それを親が不倫してるってだけで台無しにされる筋合いはねえよ!」
理緒が膜の張った目をさらに大きく見開いた。こぼれる寸前の涙がまつ毛に絡み、まばたきを一つ。彼女は泣かなかった。
「そう……だね。確かにそれ、一理あるかも」
そっと離した手を伸ばして、理緒はトレイの上に散らばったポテトを一本つまみ、かじった。
「うん。新しくできた友だちとさ、もう二度と食べられないかもって思ってたハンバーガーを食べられたんだから、これだけで、生まれてきた理由になりそう。……へへ、生きててよかった、ってやつだ」
その笑顔に真は心底ほっとした。自分が巻き込んだ不倫調査で理緒が傷つくのは避けたかったし、何より、親の不倫に理不尽な苦しめられ方をする子どもを、真は何としても放っておけなかった。終業式の日、運動場で泣いていた実の姿が目の前の理緒と重なった。大人の間違いから子どもを救うためなら、自分だって嘘つきになれるのだと初めて知った。
切れ端の小さなポテトの欠片を二人で平らげて、理緒が努めて明るく言った。
「ところで今日掴んだ証拠はどうしようか」
「そーだなぁ。……どうしようか、佐生は考えてる?」
「一応考えはある」
「実は俺もある。せーので言おうか」
いいよ、と理緒が含み笑う。「せーの」真が切り出した。
「「保留!」」
重なる声に二人で笑った。これで終わりにするにはもったいないほど、理緒とはまだ話すことがたくさんあるのだ。
「また一緒に考えようぜ」
「そーだね。調査の次は復讐の計画だ。奇襲をかけてやる!」
「性格悪りぃ! 悪代官!」
窓の外ではすっかり通り雨が過ぎ去っていた。
このタイミングで虹でもかかれば、と真は空を見上げたが、映画のような演出はやはり映画の中だけだ。
水たまりをサンダルで飛び越えて、どこかスッキリとした顔で理緒は話した。
「よく考えたらさ、私の叔父さんいろんな職を転々としてるらしいんだよね。確かにモールで働いてても頷ける。ていうか第一、お父さんはもうお母さんの不倫に気づいてるわけだから、わざわざ叔父さんを尾行させるわけないよね。それにもしやるなら叔父さんなんかより、探偵とか雇うと思う」
自分を納得させるように語る理緒の言葉に、真も内心ほっとした。一人だと心細いが、二人で「大丈夫」と言えば本当に大丈夫な気がしてくるから不思議だ。
明るい雰囲気を保ちたくて真は茶化した。
「まあ……でも本当に大丈夫? 佐生、かなりパニクってたじゃん。ちょっと怖かったぜ、パニック映画みたいで」
「恥ずかしいからあんま言わないで。――それを言うなら鷺岡君だって、一階で尾行失敗したときすごい顔してたよ。強盗に人質にされた人みたいな顔」
「どんな顔だよ!」
二人で笑いながらぐるりとショッピングモールの外周を歩いてから、再び来たときのバス停にたどり着いた。帰りのバスが来るまで後六分。パスケースを取り出そうとウエストポーチの中を見て、真はにたりと笑った。
「あーでも、やっぱ面倒ごとにはなるんじゃねえかな、佐生」
「どういうこと?」
「だって勢いで言っちゃったじゃん。俺とデート中だって」
意外にも理緒は慌てず、むしろぷっと噴き出して笑った。
「あっはははは」
「おい何だよ!」
「だーって、こんなうだつのあがらないのが彼氏なわけないじゃん! それに鷺岡くん、ぜんっぜん私のタイプじゃないし。叔父さんが誰に言いふらしたって、すぐ別れたって言うよ」
「っ……ふーん。へえー、あっそう! じゃあ別に平気だよな、こういうのあげても!」
むっとして真はポーチから取り出した紙袋を理緒に突き出した。へ、と理緒が口を開けてそれを受け取る。おそるおそる中を覗いて、不細工なマスコットと対面して理緒はいよいよぽかんと口を開けた。
真は矢継ぎ早にまくしたてる。
「言っとくけど、これはお礼だからな。佐生に協力をお願いした身としての、誠意ってやつだ。こんなんあげて佐生が親に誤解されたらかわいそうだと思ってたけど、別に平気そうだからあげる!」
「うえ、あ、そんな……ありがと……」
お互いに目も合わせられず俯いた。別にデートなんかじゃないけれど、真っ赤な顔が二つ、水たまりに晒されていた。
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