2-7
理緒が鮮やかな黄色い風船を空の中に飛ばしてから、エスカレーターで三階へ向かった。エレベーターだと鉢合わせたときに逃げ場がない、とは真の発案だ。
映画館に入ると途端に薄暗くなる。タッチ式の自動券売機で十一時に上映する映画を探した。
「字幕のと吹き替えのがあるね……」
「親父は字幕派だけどそっちは?」
「よかった、こっちもお母さんは字幕派だよ」
字幕上映のスクリーンをチェックすると、まだまだ空席がたくさんあった。座席選択の画面を理緒がスマホで写真に撮影し、後でチケットを買うことにして映画館を出る。件の二人がどの座席を選ぶのかを確認した後で、自分たちの座席を選びたかったからだ。
案内リーフレットとにらめっこの末、映画館の三つ隣にある輸入雑貨店で時間を潰すことにした。出入り口に派手なサボテンとトーテムポールのオブジェが置いてあるから、そのすき間から通路を監視して信治たちが通るのを待ち伏せるという算段だ。
奇妙な香の焚かれた店内で真はあくびを噛み殺す。さざ波の環境音BGMが眠気を誘った。
「ねえ見てみて、これ可愛い」
理緒が白い、何かの動物のマスコットを持ってきた。一体何の動物だろう。哺乳類かどうかも怪しい。
「全然可愛くない。ヤギがくしゃみするときの顔に似てる」
「お手洗い行ってくる」
はんっ、と不機嫌に鼻を鳴らして理緒はマスコットを置き踵を返した。棚の上で置き去りにされたマスコットに見つめられて、真は文乃の言葉を思い出す。――デートに行ったときは女の子を手ぶらで帰らせちゃだめよ。
「べべべつにデートじゃねえし……」
もごもご呟きながら、マンガ一冊分の値札を付けたマスコットをレジへ連れ去った。こちらから協力を依頼したのだから、相応の報酬が必要だと思っただけだ。ドレッドヘアの店員に紙袋へ詰められるそいつが、最後まで真を見つめていた。本当にブサイクだと思う。女子の趣味はよく分からない。
理緒と入れ替わりに真もトイレへ行き、戻った後はしばらく店内から窓の外を眺めていた。人は通るが例の二人は見当たらない。理緒と地名縛りのしりとりを始めたがそれも飽きてきて、今度は通りがかる人のファッション採点を始めた。
「……今来た人、何点?」
「彼氏さんは五十点、彼女さんは……四十点かな。スカートの柄がイマイチ。次、鷺岡くん」
「え、ああ……」先ほどから流行に呑まれて似たような服の人ばかりが歩いている。「背の高い方が八十点、低い方が七十五点。ええっと、スニーカーが良い」
「さっきからスニーカーしか褒めてなくない? 次のカップルは――あっ!」
「百点満点っ、大的中!」
二十幾度目かの採点で二人同時に飛び上がり、小さくハイタッチ。キラキラのサンダルと仕事帰りのような出で立ちの二人を、トーテムポールの脇からそっと覗き見た。楽し気にお互いの顔だけを見つめながら歩く男女がそこにいた。
「なんか、手繋いでるね」理緒が平然と呟いた。
「うん。紙袋とか持ってる。買い物したのかな」真も平静と返した。
「……ねえ、多分同じこと思ってると思うけど」
「うん。せーので言う?」
「いや、言わない」
――カップルみたい。
真は父親の、理緒は母親の、恋愛をする顔を初めて見た気がした。その人は確かに自分の親であるはずだが、今その人が愛を向けている相手は、自分の親ではない。どうして文乃と恋愛をしないのだろう、と真は思った。同じことを理緒も思っているのだと思うと、心強いと言うよりは、なんだか酷い気持ちになった。
「そうだ、カメラ」
理緒がスマホを取り出す。そろそろと店を出て彼らと同じ通路を歩きながら、真は理緒の前に立って背筋を伸ばした。自分の後ろに隠れた理緒が、そっと右肩の辺りにスマホをかざすのがわかる。ポップな店内BGMと客の賑わいが相手では、スマホのシャッター音など太刀打ちできない。カサリ、と紙くずを捨てるような音と共に、「撮った」沈んだ声が背後から聞こえた。
半券を持った信治たちが「スクリーン六番へどうぞ」と声をかけられるのを聞いて、、真たちも自動券売機へ向かった。理緒の撮った座席表と見比べると、前方の座席が二つ並んで埋まっていた。おそらく不倫中のカップルが座るのだろう。他に客は少ない。その席の四列後ろに二人で席を取り、スクリーン六番へ忍び込んだ。もうすでに予告ムービーの始まったほの暗い劇場内で、肩を寄せる二人の男女が見えた。
ジュースもポップコーンも買わずに映画を観るのは初めてだった。ビーム銃を持ったブロンドのスパイが活躍する、SF近未来物のアクション映画。吹き替え派の真には俳優の演技が上手く頭に入ってこない。やがて字幕を追うことすらできなくなった。上の方だからよく見える。前の座席で、女が男の肩に頭を乗せているのが。
隣の理緒を盗み見る。彼女も画面を観ていなかった。ヒロインが胸を銃で撃たれても顔色ひとつ変えなかった理緒が、遠くの座席で男女が身を寄せ合ったときに、分かりやすくぐっと顔をしかめた。そして真の方をちらりと見て、囁く。
「すごい顔してるよ、あんた」
自分がどんな顔をしていたか。そんなこと、理緒を見ていれば鏡を見るように明らかだった。
スタッフロールが終わっても信治たちはなかなか席を立とうとせず、少し何かを話してから明るくなった劇場を出た。身を低くしてそれを眺めていた真たちは、彼らが劇場を出てからそっと後に続いた。売店でグッズを物色している現場を理緒がもう一度激写する。パンフレットを購入した男女は映画館を出て屋上へ行くと、横文字のレストランへ入っていった。明らかに大人向けの、ゼロの数が多いメニューが入り口に立てかけられていた。
入り口に立っていた背の高い男性店員に微笑まれ、エレベーター前までの退却を余儀なくされた。
「うーん、困ったね」
「俺らどう足掻いても小学生。どうしよ?」
「まあ写真は撮れたわけだし」
理緒がスマホをかざして笑う。
「そう、だな。目標は達成。俺らは俺らでどっかで祝杯でも上げようぜ」
丁度良くやってきたエレベーターが開く。「ひとまず二階のフードコートとか」呟きながら中に乗り込もうととした真は、理緒が微動だにしないことに気づいて、一緒に立ち止った。その凍りついた視線を辿り、エレベーターの中から出てきた男性を見つけた。
「やあ、理緒ちゃんじゃない。どうしたのこんなとこで」
その中肉中背の男は馴れ馴れしい声で言った。とって張り付けたような笑顔、というのはこういうことだろうか。ネームプレートのようなものをかけていたが、開き襟シャツの胸ポケットに仕舞われているので名前が見えない。手に持っている蓋つきの紙コップは汗をかいている。垂れ下がった目尻を真はあまり良く思えなかった。信治より年下だろう――。
理緒が上ずった声で言う。
「叔父さん」
「何してるの? そっちの彼はお友だち?」
叔父さんと呼ばれた男が真に視線を向ける。まるで舐め回すように見下ろされた。査定でもされているみたいで気分は良くない。不気味だ。真はつい喧嘩腰になった。
「なんです――」
「――デートなの邪魔しないで」
理緒に手を握られた。自分より小さくて柔らかい手が震えていた。冷え切って手汗がにじんでいる。きっと理緒にとって苦手な人なんだろうと思った。叔父、つまり親戚。確かに見つかると厄介だ。残念なことに、女子と手を繋いで照れる余裕なんてなかった。
「そーなんです。デート。おじさん誰? 俺らまだ行くとこあんだけど」
真が話を合わせると、男はにこりと笑みを深めた。
「…………ああ、それはごめんね。そっか、理緒ちゃんももうそんな年頃か。初めまして彼氏くん、お名前は?」
「叔父さんにカンケーないでしょ。行こ」
ぐいと理緒に引っ張られて、半ば引きずられるように踵を返して通路を進んだ。エスカレーターを一気に一階まで駆け降りて、雑貨屋もアイスクリーム屋も通り過ぎ、保険屋に銀行、ケータイショップの間を突き抜ける。理緒は多分、周りを見ていない。
「なあ、佐生。さっきの誰? おじさんって言ってたけど」
理緒は返事をしない。とうとうモールを出てしまった。バス停とは真逆の出入り口を抜ける。
「なあ、佐生ってば――」
「叔父さんだよああもうっ、なんでっ! 私を尾行してたんだ絶対そうっ!」
理緒が声を荒げた。驚いた真の繋いだ手を痛いくらいに握り締めて、蒼白な顔で半ば叫ぶ。
「あの人はお父さんの弟で、職業は接客業とか言ってふわっとぼかす、正直言ってかなり信用できない人。いっつもへらへら、誰にでも頷いてる。今のは誰かに言われてお母さんの不倫をもみ消すために、私のことを尾行してきたところだったんだ。最初からあの人に見られてたんだよ、もうだめ、失敗だよ全部終わり。どうせお母さんかお父さんが叔父さんに言うこと聞かせて私を見張ってたに決まってる――」
「おい、佐生っ?」
あいている手で理緒の手を軽く叩いた。壊れた機械のようにまくし立てていた声が、はっとした表情を浮かべて静止した。理緒に何が起きているのか、真には手に取るように理解できた。
「お前、今、変なこと言ってるぜ……」
計画に例外が生じると、周りの全てが自分を失敗させるための敵に思えて恐ろしい。取り乱したくなるその気持ちが、真には痛いほどわかった。だから怖がらせないように、慎重にそっと告げる。
「あのおじさんのこと、ちゃんと見てた? シャツの胸ポケットに仕舞われてたけど、青い紐が首にぶら下がってただろ。多分あれネームプレートだぜ。手には何か持ってたよな、紙コップの、コーヒーとか買うときのあれ。他に鞄も何も持ってなかった。ちょうどお昼時だし、きっとあれ、仕事の休憩か何かだぜ。あの人ここで働いてたんじゃねえかな……ほら、接客業……」
理緒に説明しながら自分の頭もクールダウンするのを感じていた。実際、現実はこうだ。理緒を邪魔した着ぐるみも、真にティッシュを配った女性も、信治たちを囲い隠すように歩いていた人たちも、誰一人として真の邪魔をしているわけではなかった。冷静に整理すれば偶然なのだとわかる。ただその偶然が、恐ろしいタイミングで恐ろしい結果をもたらせば、運命的な恐怖を感じてしまうというだけで。
誰かを疑うことが前提の生活が、日常に余計なスリルを与えているのだ。
「そう……言えば……そう……だったね…………確かに……」
漏らすように発する理緒の青ざめた頬に、ぽつりと滴が乗っていた。泣いているのかと真は思った。その直後にぽつり、と真の鼻にも同じ滴が落ちてきて、それが誤解だと分かる。どうやら雨が、降ってきたらしかった。暗い雲が頭上へ流れてくる。
雨に気づいた理緒が我に返って目線を落とした。
「ご、ごめんなんか、騒いじゃって――」
「行こ。俺お腹すいた」
「……え、ちょっ、と」
握ったままの手を引っ張って真は走った。モールを出て少し走ると、交差点の向こうにハンバーガーショップのチェーン店があるのを真は知っていた。糖分が不足すれば人間は頭が回らなくなると、塾の講師が言っていた。
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