2-3

 水曜日。真は勢い良く塾の自習室に飛び込んで高らかに言い放った。

「俺って天才かもしれない!」

「元気だねこんな暑いのに……。なに、密会のあたりでもついた?」

 密会のあたり――そうだ、自分は理緒の母親とのデート予定について父親に聞かなければならなかった。確かにそんな任務もあったし、実際に実行した。だが今はそれよりも聞いてほしいことがある。

「その話はまた後で。それよりまずはこれを見ろよこれっ」

「また後でってあんたね…………なにこれ?」

 下敷きで扇ぐ理緒の机に二本の安全ピンと五つのカラフルなビーズを置いて、真は鼻高々に説明する。

「俺が考案した――まあ元ネタは某スパイ映画なんだけど――合図だよ。この自習室はいつも人が少ないだろ? だからカーテンの端にこっそり安全ピンをつけたってバレにくいだろうって算段だ。俺と佐生は調査をするならとりあえず塾に来て、他の場所で張り込みするつもりならその場所を安全ピンで伝えるんだ。雑貨屋なら黄色、古本屋なら緑、ドーナツ屋なら赤、ベンチなら青、調べものとかで図書館に行くなら白のビーズを安全ピンの針に通しておく。で、俺かお前のどっちか後から来た方が、このピンを回収して伝えられた場所に向かう……どう? 我ながら名案じゃね?」

「へえ……まるで暗号みたいだね。古本屋が緑で、図書館が白って言ったっけ? なるほどねぇ……」

 感心したのか呆れたのかわからない声を出しながら、理緒はペンケースから油性のネームペンを取り出しておもむろに一つの安全ピンを黒く塗り始めた。

「あっおいお前何してんだよ」

「同じピンを使ってちゃ、私と鷺岡くんのどっちが出した合図かわかんないでしょ。……だから、ほら」

 真っ黒になった安全ピンに五つ分のビーズを全て通すと、理緒は満足げに笑った。

「これで完璧。黒い方のピンが私の出した合図で、そっちの綺麗な銀の方が鷺岡くんの合図。――連絡の取り方はクリアできたね。ナイスだよ鷺岡くん、ほんと名案」

 てっきりダサいだのかっこつけすぎだのとダメ出しされると思っていたから――現に少し手を加えられたが――、こうして素直に褒められるとどうして良いかわからなかった。

「い、いやあ……」

 真が言葉に詰まって目を逸らしていると、口だけ笑ったままの理緒が「で」と鋭い声を出して安全ピンをしまった。

「え?」

「え、じゃないよ何本気で照れてんの鷺岡くん。何のために張り込み場所の伝え方を考えたの。やつらの密会現場をあぶり出すためでしょ? まさかあんた、本当はお父さんに聞けなかったからってごまかすために別の話題を持ってきたんじゃ――」

「待て待ておちつけ! それなら言い話が聞けたよ。佐生になりきったら上手くいった!」

 理緒が心底驚いた様子で声を上げた。

「はあ? 私になりきったの!?」

「だって佐生クールだし、親の不倫になんかこれっぽっちも興味ありませんって顔してたし。――それでええと、昨日の親父との話なんだけど……」

 自分の名案があっさり他の話題にすり替えられるのを残念に思いながら、自習室にまだ誰も入ってきていないのを確認して、前日の夜のことを真は話した。


 ――風呂と夕食を済ませた後、ソファの上で信治は映画のCMに釘づけだった。手に持ったままのスマホに視線を落とさないので、彼がテレビの内容が気になっているのだと真には分かった。だから自然に声をかけられた。

「父さんこの映画観に行くの?」

「え? あ、ああーまあ。だって面白そうだし」

「ふーん。俺は興味ねえや。ミノはある?」

 巻き込まれた実は元気に答えてくれた。「ミノはロケモンの映画が観たいな! ムカリオが出てくるやつ」

「……あっそ。俺はどっちも興味ねえや」

 自分で作った流れに乗り、用意した声で答えた。素っ気なく言い放たれた息子の言葉に、信治はつまらなそうに、しかし聞き取りやすい声でこぼした。

「まあ、行くなら一人でいくよ。近々に」

 つまり彼は映画に行く予定があると、そう告げたのだ。


 ――真が少し興奮気味に話し終えると、理緒がふんと鼻を鳴らした。少し言いづらそうに口を開く。

「……つまり映画デートってこと? あの、私が言うのもなんだけどさ、ちょっと不倫に結びつけるには安直すぎない? デートって映画以外にもっといろいろあると思うし、鷺岡君のお父さんはマジで一人で観に行くのかもしれないし」

「確かにそうなんだけどさ、でも聞いてくれよ」

「聞こう」

「ありがと。うちの親父って映画くらいでしか出かけたがらないインドア派なんだ。そんなやつがいきなりショッピングデートや遊園地デートなんてしたがると思う? それに映画行くにしたってさ、わざわざ家族に断り入れて行くような奴じゃないんだよ。なのに俺が話を振ったらこれ見よがしに、映画に行くって言い出した。つまり、家族に“出掛けるぞ”って宣言することで、休日に不倫デートに出かけても不自然に思われなくするための準備をしたんじゃねえかと思えるわけだ。第一、映画館は暗くて静かで人目につかないから不倫にもってこいだろうし。――って、俺的にはわりと良い線いってると思ったんだけど、やっぱ佐生は違うと思う?」

 自分なりに考えた理屈を指折り説明しながら真が言い終えると、理緒が唖然とした顔で口を開けていた。「佐生?」顔を覗き込んでようやく、理緒が「ああ」と呻くように答えた。

「あ、あー、うん。確かにそれは、可能性あるかも。うん。…………びっくりしたーさっきから意外と賢いことばっか言うから」

「え?」

「ううん何でもない。独り言」理緒が両手を振って笑う。

「ふーん? まいいや、三原井の方にでかいモールあるじゃん? 親父あの中の映画館の会員なんだ。日曜日は割引でお得に映画が見られるってやつの」

 三原井とは、校区外のずっと向こうにある町のことだ。見学遠足で工場を観に行った地域だと真は記憶している。遊びに行くなら楽しい場所だが、頻繁に行くような距離でもない。

「なるほど……確かに。モールなら映画もショッピングも、ついでに食事も楽しめるよね。デートにはもってこい。いよいよ映画の線が濃くなってきたな。日曜日か……。GERデータサービスは土日休みだったよね。私もそれとなくお母さんに日曜の予定聞いてみる」

「おう! 怪しまれるなよ」

「もちろん」


 木曜日、午後一時五十分。快晴だったので真は自転車で塾へ向かった。今日こそは先に着いたと思ったが、佐生理緒はすでに自習室にいた。いったい何時からいるんだろう。入ってきた真を見て理緒はパッと顔を明るくした。蒸し暑い教室には他に生徒がいない。

「多分次の日曜日だよ。私も鷺岡くんになりきって聞いてみたんだ」

「なんで俺? 佐生そのままでも充分クールじゃん」

「親相手だとそうもいかないのよ。なんていうか私、親と話すのってちょっと苦手で、苦手っていうか、不自然になるっていうか……まあとにかくよ。挨拶して名乗って天気の話してもう兄弟って感じの鷺岡くんのまねをして」

「俺そんな風に思われてたんだ」

「できるだけフランクに日曜の予定を聞いてみたわけ。そしたら次の日曜日はお友だちと映画を観に行くんですってよ」

「へえ、お友だちねえ……」

 顔を見合わせて、お互いにうええ、と呻いた。

「グレーな言い方するよね本当。とにかく次の日曜日だってさ。鷺岡くん、どうする? ダメ元だけど映画館、行ってみる?」

「もちろん行ってみようぜ。尾行……は無理だよなあ。大人は車で行くだろうから、自転車や徒歩じゃ追い付けない。モールは広いから見つけられるかも分かんないし、そうなると……当日に映画館で張り込みかな」

 言いながら真は自分の計画にうんざりした。二人が来るまで映画館に隠れてずっと人間観察だなんて、こんな退屈な夏休みの過ごし方があるだろうか。しかもそれでは、映画館を訪れたときの二人しか見られない。デート現場を押さえられないのだ。自分達が大人なら、彼らが車に乗る瞬間から後をつけて尾行できると言うのに。

 真がうなっている間に、理緒が筆記用具をペンケースにまとめてリュックに突っ込み、席を立った。

「……あのさ、観る映画が決まってるんなら、上映時間調べたら二人がモールにやって来る大体のあたりはつけられるんじゃない?」

 真は小さく手を叩いた。やっぱり理緒に協力をお願いして正解だった!

「それだ! 名案! さすが佐生!」

「ふふーん、鷺岡君にできないことを平然とやってのけるッ! そこにしびれるあこ――」

「え? 何?」

「ななななんでもない忘れて忘れろ。授業までまだ時間あるし、さっさと図書館行こ!」

 真っ赤な顔をした理緒に力強く図書館へと連行され、またPCを借りる。三原井にあるショッピングモールのサイトを閲覧し、映画の上映スケジュールを確認した。信治の見たがっていた映画は十一時からと十六時からと二十時からの上映予定だ。ひとまず十一時までに映画館へ向かうことに決めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る