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火曜日の午後二時過ぎ。真は結局「遊びに行ってくる」とだけ伝えて家を出た。納期に追われているらしい文乃は特に何も詮索しなかった。同じ塾の友達と会うことは、「遊びに行く」にカテゴライズされるものか真には分からない。
不倫調査は遊びとは違う。もしも自分が文乃に嘘をついて家を出たのだとしたら、自分は信治と同じ生き物になってしまうのかもしれない――。本末、転倒ではなかろうか。
モヤモヤとした気分で小走りに塾へ向かうと、やはり埃っぽい方の自習室に理緒がいた。虫の息同然のエアコンと強風の扇風機しかない教室は少し蒸し暑いのだが、きっと理緒は快適さよりも人の少なさを優先して好むタイプなのだろう。その気持ちが真にはいまいち分からない。
「お、来たね。じゃあ行こっか」
夏休みだというのに理緒は制服姿のままだった。もしかして私立の子はみんなこうなのだろうか。やっぱり真にはよく分からない。
二人で並んで塾を出る。まずラブホ前のコンビニを案内すると、理緒が感心した様子で
「本当にこんなとこにコンビニあったんだね。盲点だった」
この前は夜だったから気づかなかったが、昼間のラブホはネオンも点灯しておらず、周りのビルや建物に同化してしまっている。よく見ると入口が少しおかしな形状になっているが、意識しなければそんな用途の建物だとは分からないだろう。ホテルとコンビニの間を挟む車道も大きい。今まで気づきにくかった分、車道の向こうから見張る分にも気づかれにくいはずだ。
敢えて車道は渡らず、ラブホを正面にして通りをぐるりと歩き、そのすぐ近くにあった店を張り込み場所の候補に決めた。コンビニの隣の雑貨屋、その隣にあるビルの、一階にある古本屋と二階にあるドーナツショップ。雑貨屋は明らかに女子が好きそうなので、原木や長沼はまず寄ってこないはずだ。古本屋とドーナツショップは中に居座ることもできる。雑貨屋とコンビニの間には植え込みの大きな木とベンチが並んでいた。木陰に隠れてベンチで張り込みすることも可能かもしれないと真が提案したら、理緒が予備案として採用した。
試しに雑貨屋に入ってみる。キラキラしたトルソーの隙間から、ちょうど窓越しにラブホテルが見えた。通りには若くて派手な男女ばかりが歩いている。理緒がガラス棚から商品のボールペンを物色しながら呟いた。
「あんた今日、塾ないんだよね。お母さんには何て言って出て来たの?」
「ふつーに遊びに行くって言ってきた。俺んちわりと放任主義ってやつでさ。母さんには帰る時間さえ教えとけばいいの」
「なるほどねぇ、うちもわりと放任主義だよ。特にお父さんなんか放任まっしぐら。私にもお母さんにもあまり興味ないみたいで。だから不倫されちゃったんだよーあははー」
明け透けな物言いに思わず黙ってしまった。理緒がこういうことを言う奴だとは思わなかったし、親の不倫を明け透けに言い合えることが、こうも爽やかな気分になることだとは知らなかったからだ。笑っていた理緒が真を見てハッと固まった。
「……本当にごめんデリカシーなくて。こういう話、今まで誰ともできなかったから。つい嬉しくて……」
「いや大丈夫、俺もそういう話できる奴がいるのってなんか嬉しいし。……なあ、佐生は手紙に、お父さんがお母さんの不倫を見てて黙ってるって書いてたよな」
「うん。お父さんエリートってやつでさ、議員の息子の銀行員。だからフショージっていうか、面倒ごとが嫌いなの。明らかにお母さんの不倫に勘づいてるっぽいのに、何も言わないで黙ってるのは、それが原因なんじゃないかと私は思ってる。……ううん。不倫だけじゃない、面倒なことには全部見て見ぬふり。なんだか胸くそ悪い人だよ」
「胸くそ……」その口の悪さに少し驚いて、「でもまあ、言われてみたら、うちの母さんも似たような感じかもしれない。不倫に気づいてるかどうかは分かんねえけど、気づいてたとしても多分何も言わないんだろうなとは思うよ」
自分で言っておきながら、真は首を傾げた。
「……なんでだろ。母さんは別にエリートでもないし、わりとハッキリ言うタイプなのに。不倫されて怒んねえのかな」
「好きだから認めたくないとか? それか逆に、興味なさすぎて怒る気力もわいてこない」
「あーそれなら後者かなぁ? 多分あれ、倦怠期ってやつだぜ」
「うちもうちも」
――あははは。ひとしきり笑ってから、二人揃って乾いた溜め息を吐いた。親の不倫について話し合えるのは嬉しいが、同時にむなしさをまざまざと見せつけられて、なんだか気の抜ける思いだ。理緒がうんざりした顔で続けた。
「……ねえ、手がかりかどうかは分かんないんだけどさ」
「何?」
「お母さんが"チャファニー"で買い物してきたみたいなんだよね、昨日。帰ってきたとき紙袋持ってて」
「チャファ……ええと、アクセサリー屋さんの名前だっけ?」
「ブランドの名前だけどね、まあ、それでもいいや。お母さんが新しいアクセサリー買うときってさ、パーティーとか、式典のときとか、出掛けるときとかの前が多くて。だからその……タイミング的に都合良すぎかもなんだけど……」
「もしかしてデート? うちのお……と一緒に」
「そう。本当もしかしたら、だけど」
「よっしゃ、探り入れてみるよ」言ってすぐに真は頭を抱えた。「でも何て言うかなぁ? 俺あんま親父と話さないんだよなー最近。出掛ける予定ある? とか? あー不自然になりそう」
「男親子のことに上手いアドバイスはできないけどさ……でも絶対、怪しまれたりしないでよね。不倫調査は疑ってることがばれたらおしまいなんだから」
「分かってるけどー。だって俺佐生みたいにクールにできねえもん」
パッと顔を上げて理緒が意外そうに目を丸くした。
「……ほんと? 私、クール?」
「おう。その辺の女子に比べたらクールだと思うぜ? 普通の小学生は親の不倫ネタとかギャーギャー騒いで飛び付きそうなのに、佐生ときたら興味ないですってすました顔してたじゃん。どうやったらそんなクールにできんの?」
「えー、私クールかぁー。そっかぁー」
理緒は上ずった声で顔をそらし、持ったままのボールペンを何度も無意味にノックした。もしかしたらクールと言われたのが嬉しいのかもしれない。その気持ちは真にもよく分かる。次にこちらを向いたとき、理緒は少し得意気な顔をしてこう告げた。
「……アドバイスになるかは分かんないけどさ、誰かになりきってみるといいと思うよ。鷺岡君がこうなりたいって思う人を思い浮かべて、憑依って言うか、コスプレみたいな気持ちでさ」
なるほど、憑依は良いアイデアだ……。理緒の授業の時間が迫っているので、雑貨屋を出て塾へ戻った。とりあえず張り込み場所についてはまた明日、塾で会議をすることにした。今日は塾がないから真も張り込みはやめておいた。怪しまれるのが一番困る。
雑貨屋、古本屋、ドーナツショップ、ベンチ――。張り込みに適しているのはどこだろうか。家に帰るまでの間ずっと真は考え込んでいた。夕飯前に少し学校の宿題を進めようと、机の引き出しを開けてアイデアが突如ひらめいた。スパイ映画の受け売りだが、なかなか使える手だろう。
名札の予備に用意していた安全ピンを二つと、いつか妹から貰った使いどころのないビーズケースを取り出した。
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