第二章 幽霊、不気味、デートスポット
2-1
「信っじらんない、どーいうつもり? 協力しろって散々言ってきたのはそっちなのに、何も音沙汰なしとかありえないでしょ!」
夏休みに入って最初の月曜日。授業が始まるより九十分以上も前に塾へ向かったというのに、自習室の中で理緒はかんかんに怒っていた。心当たりがないわけではないから、真は苦笑いで言い訳する。
「仕方ねえじゃん、俺スマホ持ってないんだからラインのIDなんて教えられても連絡できねえよ。せめて電話番号とかだったらさあ」
「……っ! ……っっ!!」
言い返せないで理緒が地団駄を踏む。意外と感情的な奴だ。
――理緒が真の不倫調査に協力する旨を記したルーズリーフには、理緒のラインIDも一緒に記載されていた。しかしスマホを持っていない真には、チャットアプリのIDなど残念ながら意味をなさないアプローチだ。つまり木曜日に連絡先をくれた理緒は、次に真が塾に来る月曜日まで、音信不通の心細さを味わっていたというわけだ。不可抗力ではあるが確かに申し訳ない。
「ええと金曜日に塾に来ることも考えたんだけどさ、授業がない日に塾行くのってなんか変だし、てか俺金曜日はばあちゃん家に行ってたし、それで結局月曜に会えばいっかって……ほんとごめん! でも連絡先教えてくれたのは嬉しかったよ。ありがとう」
「あんたがスマホ持ってないんじゃ意味なかったじゃん! いーよいーよ、どうせ私が無計画だったってことですよ……」
はあ、と大きくため息をつき、理緒は荷物を鞄にまとめて席を立った。
「ほら、もう良いから行くよ」
「行くって?」
「作戦会議!」
理緒が鼻息荒く真を連行したのは、塾から七分ほど歩いたビル街の中にある、職業案内所のそばに位置する公共図書館だった。真はそこが和式トイレしかない古い建物だった頃にしか利用したことがなく、改装工事を経て天井の高さと清潔感を得た内装を初めて見た。手すりの意匠に見とれる真を引っ張って階段を上り、理緒は迷わず二階のPC利用エリアへ向かう。衝立で個室のようになっている隣のブースから椅子を一つ持ってきて真を座らせ、理緒はその隣に座る。二人で一つのブース内に身を寄せ合い、デスクトップPCのブラウザー画面を立ち上げた。
「パソコンで何すんの?」
「調べるんだよ。どういう証拠が必要だとか、調査のために気を付けることは何かとか、お互いに守るべきルールは何かとか。無計画には進めらんないでしょ」
「佐生はてっきりそういうの、スマホとかで調べてるものかと」
「私のスマホ、子ども用の閲覧フィルターとか見守りアプリとかが入ってるからネットサーフィンはほぼ無理。できるのは履歴を見られても良い範囲のネットサーフィンと、子ども向けのゲームアプリを入れるくらい。やだよね親って、勝手に子どもを制限してさ……」
不機嫌そうにぼやきながらも、検索窓にワードを打ち込む理緒の手つきは軽快だ。真は今日会ってから今PCを利用するまでの理緒の姿を思い返し、ぽそりと呟く。
「……なんだ。佐生、思ったよりノリノリだな」
ッターン! 激しくエンターキーが押下され、ばつの悪そうな顔で理緒が液晶画面を指さした。
「べ別にノリノリじゃない。ほらそれより、これ確認しとこ。こういうのはルールや意識を共有するから良いチームワークが発揮されるの」
「なるほどね。どれどれ……」
表示されているのは探偵事務所の公式サイトにある、浮気調査についてまとめられたコラム記事だった。不倫を立証するのに必要な証拠は何か、証拠集めとしてどんな行動を取るべきか、素人に出来る範囲とはどこまでか……。確かに実績豊富な事務所による、経歴豊かな専門家による記事だったが、真はしばらくそれを見つめて肩を落とした。
「……いやこれ、ほとんど事務所の宣伝じゃん。調査費用とか、出張料金とかばっかり」
「あーそれは……とにかく役に立つとこだけメモしていこ」
リュックサックから取りだしたノートに理緒がさらさらと書き写していく。《カメラで密会現場を撮影する》《隠しカメラや録音データで証拠を掴む》《尾行して現場を直接押さえる》《決して浮気調査をしていることがバレてはいけない。警戒されないよう振る舞う》……箇条書きで記されていく不倫調査の方法は、真が以前ネットで調べた内容とほぼ似ていた。どのページにも似た情報ばかりあるのがネットの罠だと改めて思う。
「やっぱラブホに入る写真撮るのが一番手っ取り早いんじゃねーの? しばらくホテルの前で張り込みしてりゃそのうち来るだろ」
「……ねえ」
理緒がペンを止め、気まずそうに真を見た。
「あんたラブホって、何するところか分かってる?」
ラブホテルが、何をするために利用される場所であるか。――大人がエロいことするために――長沼の声が頭に響く。真は座ったまま飛び上がった。
「わわっ、分かってっし! 何でそんなこと聞くんだよ佐生のスケベっ」
「スケっ――違う!」理緒も飛び上がった。「そうじゃなくて私が言いたいのは、そう何回もやつらが同じラブホに通うかってこと。だって不倫っていろいろリスクあるし警戒するだろうし、簡単に何回も尻尾を掴ませるとは思えないんだよ」
「あー……なるほど。それは確かに一理あるな。…………スケベって言ってごめん……」
「いいよ……」
クールタイムを挟んでどちらからともなく深呼吸。新たに《ラブホ前で張り込み》と書かれたノートには、まだまだスペースが余っていた。理緒が唸りながらシャーペンをくるくる回すので、今度は真がキーボードに手を伸ばした。
「不倫する人って、ラブホ以外で何するんだろ」
検索窓に一本指でワードを打ち込む。《不倫 何をする》理緒がそれを見て「あ」と声を上げ、横から手を伸ばしてきた。
「待って、違う違う。あの人たちの場合はこう」
新たに打ち込まれる三文字。《ダブル不倫 何をする》真は首を傾げた。
「ダブル?」
「片方だけが結婚してて、もう片方が未婚ならただの不倫。でも両方が結婚してる場合ならダブル不倫って言うんだって」
「へえー。ダブル不倫と普通の不倫ってどう違うんだろ」
「見て。このページに全部まとめられてる……」
新たに開いたページで、理緒がカーソルでなぞる文章にはこう書かれていた。――“ダブル不倫はただの不倫と違い、両者が家族を持っているため同じだけのリスクを共有することになります。そのため、不倫に及ぶ際は両者共に慎重に行動し、簡単に証拠を掴ませることはありません”。他にも慰謝料の額の決め方や、請求できる相手のことなどもケース別に解説されている。難しくて読めない熟語もいくつかあった。
「じゃあ、あのとき俺がラブホで二人を見かけたのって、かなり運が良かったのか」
「だね。もしかしたら、もう二度と見かけられないかも」
「なら尚更、他の証拠を見つけなきゃだよな」スクロールした部分を真は目で追う。「ラブホの他にやることは――デート、食事、ふてー行為……」
「……ねえ一応聞くけど、不貞行為の意味は」
「分かってっし……」
「ごめん……」
――“もしダブル不倫の証拠を掴みたいなら、二人の共通点や出会いのきっかけがヒントとなるでしょう。”マウスでなぞった文字に真は唸った。
「あの二人、どこで出会ったんだろ。同窓生とか?」
「うちのお母さん三十二歳。そっちは?」
「親父はええと……三十、八だっけ? 七だっけ?」
「それだけ歳が離れてるなら同窓生の線は薄いね。じゃあお父さん職場は?」
「G……何とかデータサービス。貝架町の、情報系の会社」
「もしかしなくてもGERデータサービス?」
「そうそう。多分そこ」
少し焦った素振りで理緒が再び検索エンジンを開く。《GERデータサービス》で検索して《貝架町六丁目三ー八》の住所が表示されたのを確認し、彼女はいよいよ鼻で笑った。
「ビンゴだ。――私のお母さん、そこの派遣社員」
理緒との協力を開始した初日は、図書館での作戦会議に終わった。理緒がノートにまとめたルールや目標を自分のメモ帳に書き写す真の姿は、周りから見て勉強を教えてもらう小学生にしか見えなかったことだろう。
「俺思ったんだけど、張り込み場所はいくつか考えておいた方が良いかもしれない。前に現場を見たのは確かにコンビニだったんだけど、そこは俺の友達もよく使うみたいなんだ」
図書館から塾へ戻りながら真が言うと、理緒は「確かにそうだね」と頷いた。
「いくら友だちだからって、可能な限り周りには知られない方がいい。……じゃあとりあえず明日は今日と同じくらいに、授業が始まる前に塾で待ち合わせて、それから一緒に張り込み場所を探そう。鷺岡君は勘違いしてるみたいだけどさ、別に塾は授業のない日でも、通ってる生徒は自習室を使っていいんだよ。私もよく使わせてもらってる。だから塾を私たちの拠点にしよう。あそこなら誰にも怪しまれない」
授業のない日にも塾へ行けるのは嬉しい情報だが、同時に少し不安も覚えた。これまで真は、お世辞にも勉強熱心とは言えない生き方をしてきた。その自分が積極的に塾へ通うとして、文乃はそれを怪しまないだろうか。
不安が顔に出ていたらしい。
「大丈夫。焦らずじっくり追い詰めよう」
物騒な笑顔で理緒がそう慰めてくれたのを思い出しながら、真は帰宅して自室でこっそりメモ帳を開いた。今日二人でまとめた作戦や決めごとについて書かれている。
やることその一……親の様子を探り、行き先や手がかりになりそうなヒントを探す。
やることそのニ……結果を報告し合いながら、暇があればラブホ前で張り込みする。
ルール……両親や家族、友だち、ご近所さん、誰にもこの不倫調査を知られてはいけない。
不倫を探っていることを悟られてはならない、というのはどのサイトにも書かれていたことだ。実際、勘づかれるだけでかなり調査はやりづらくなるだろう。信治や理緒の母親はもちろん、不倫をしていない方の親にだって、このことを知られれば面倒ごとになるはずだ。だから真と理緒は直接会ったときにのみコンタクトを取ることに決めた。スマホを持っていない真では、自宅の電話や文乃のPCを使わないと理緒にコンタクトが取れない。理緒も同様、スマホで連絡を取るにしても、そのスマホには親が管理できるフィルターアプリが入っている。発着信履歴や閲覧履歴でバレるなんて事態は絶対に避けなければならないのだ。
スパイというよりは、警察に追われる犯罪者のような気分に近かった。
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