1-7

 小さなふくふくした妹の手が、ぎゅっと着ていたワンピースの裾を掴む。

「お母さんに怒られた後ね、お父さんに連絡帳とかプリントとか見なさいって言われたと思うんだけど、それを思い出そうとすると、何でか、ほんとかな? やっぱりお父さん違うこと言ってなかったかな? って思っちゃったの。よく考えたらミノ、お父さんのことよく知らないよねって考えたら、頭がぐるぐるしだして。それで今度はお母さんが話してたことまで頭から飛んでいっちゃって。二人の言ってたこと思い出そうとしたけど、思い出した言葉がほんとにそれで合ってたかわかんなくて、もう一回聞くのもなんか怖くて、気づいたら忘れ物が、多くなって……」

 頭を殴られたような、余計なものが全部取り払われたような心地がした。そうだ、と真は思う。実の言う通りだ。真は信治に不信感を抱いている。彼が不倫をして、彼の妻や自分達子どもを裏切っているのだと知ったときから、真は信治の言動を信じられなくなってしまった。そしてさらに恐ろしいのが、信治の間違いを、おそらく文乃が許してしまうだろうということ。文乃にだけは、信治の間違いを許してほしくないと真は思うのに。

 真の目にはすでに、信治と文乃は夫婦として破綻していて、つまり父母として何かが欠けた存在になりつつあった。手本として目指す存在が目の前から消えてしまった。きっとそれは実の目にも、似た光景として映っているのだろう。彼らから言われたことを、自信をもって思い出せないくらいには。

 親が正しくないことをしているとき、子どもはそれが目に見えなくたって、心で静かに感じ取っているものなのだ。

 気づいたときには、真の瞳からも実のと同じ滴がこぼれ落ちていた。

「……え、え!? うそ、ごめんねマコちゃん、大丈夫っ?」

「え、は……?」

 実が焦りだして初めて、真は自分が泣いていることを知った。

「ごめんね、ミノ別にグレたわけじゃないよ? お父さんの言うこと聞けなくなったのは、ミノも自分でもよくわかんないけど、でも不良になったとかじゃないからね! ミノ悪いことしようとか考えてないから、だからマコちゃんお願い泣かないで……」

「ちが……うるせ……」

 ずずっと鼻をすする。すっかり泣き止んだ実の肩を掴んでくるりと背を向けさせた。

「もういーからさっさと行けよ。帽子は絶対返せよな。――後、今お前が話したことと俺が泣いたこと、絶っ対に誰にも言うんじゃねーぞ!」



 終業式の日は給食がない。だから家で文乃の作った昼食を食べるのだが、実が真を心配しておかずをたくさん分けてくれたものだから、腹が少し苦しい。だから塾へは走って向かった。

 授業が始まる時間まで一時間もある。勉強嫌いな真が早めに塾の自習室を訪れたのは、そこで佐生理緒がすでに参考書を開いていると確信していたからだ。思った通り、廊下の一番端の自習室に黒い長髪がぽつんと座っていた。

「よう」

 声をかけると、分かってましたと言わんばかりの顔で理緒が鼻を鳴らした。

「協力はしないし勉強だって見てあげない。ほっといて」

 教室に他の生徒がいないからか、理緒は明け透けに吐き捨てた。しかし今日ばかりは、真にも引けない理由がある。他ならない佐生理緒に、必ず伝えたいことがあるのだ。

「もう証拠を集めるとか、その協力をしろとか言わない。今日はちょっと、お願いじゃなくて、どうしても佐生に聞いて貰いたいことがあって来たんだ。……今、時間大丈夫?」

 理緒は面倒そうに真の顔を見て、それから目を丸くした後、気まずそうに視線を逸らした。

「……今から十分以内で済ませて」

「ありがと。――まず、この前は酷いこと言ってごめん」

「え?」

「この前俺、卑怯者とかってお前に言ったろ。佐生のことよく知りもしないのに、酷いこと言ってごめん」

 やっと胸のモヤモヤが一つ晴れた。理緒に酷いことを言われて、酷い言葉で返したあの日から、真は自分のことが好きになれずに困っていたのだ。

「あー……別に気にしてないし。私だって似たようなこと言ったわけだし……」

 真への暴言は絶対に「似たようなこと」のレベルを越えていた気がするが、真はぐっと飲み込んで話を進めた。 

「本題なんだけど。……最近、俺の妹がよく忘れ物するんだ」

 隣の机に後ろ手をつき、立ったままで真は話す。

「どうしてかと思ってたら、あいつ親から言われたことに自信が持てないって言い出したんだ。びっくりだよな、妹は親父が不倫してることなんて知らないのに。でも知らなくても、親父が俺たち家族に対して何か嘘をついてるから、何か言われても鵜呑みにできないってことを、あいつは感じ取ってるんだと俺は思う。それで妹は、忘れ物が多くなって……ええとそれで……俺は……」

「……うん」

 今までに見聞きした言葉の中から、最適な表現を探しながら口に出す。

「……それで俺、分かったんだ。親が浮気するだけで、ものすごく気持ちがざわざわする。今までは親が全部正しい、親の言うことを聞いてりゃ良いって思ってたのが、一気に全部崩れる感じがする。不倫してる親父は間違ってるし、それを母さんが多分怒らないんだろうって考えたら、それも間違ってるし怖いと思う。だって親が嘘つきなら誰に正解を聞けば良いのかわかんねえんだから。それで俺も妹も、何を信じたら良いのか分からなくなって、不安になってるんだろなって気づいたんだ。――こういう親への不信感っていうか、無駄に余計なところまで疑っちゃう気持ちとか、前が見えないみたいな怖さとか……佐生にはないのかなって。俺、気になって……」

 ちろりと理緒の顔を見ると、呆気に取られたような、ぼんやりとした不思議そうな表情を浮かべていた。気まずくなって真は早口に続ける。

「ええとだからさ……佐生は一人っ子だって言ってたから、不倫してる親にありがちな困ったこととかあったとき、もし相談できる奴がいなかったら、俺なら、いつでも愚痴くらい聞くぜって、いう……」

 理緒は依然、ぼんやりとした顔で何も言わない。ああ、上手く伝えられなかった――。

「――ごめん変なこと言って。やっぱ今の忘れてっ!」

 真は自習室から逃げ出した。心の底から恥ずかしいと思う。何が話聞くぜ、だ。話を聞いて欲しかったのは真自身だ。親を信じたり甘えたりする方法が分からなくなって、家族の在り方が見えなくなって、その不安を妹にも友だちにも素直に吐き出せず、同じ境遇にいる理緒を頼りたかったのは真だ。真だけなのだ。

 理緒のポカンとした表情を思い出し、廊下で足を止めて大きく息を吐く。親への不信感だなんてものは、きっと真だけが感じている問題だろう。今までスパイだスキャンダルだと、下世話に茶化すことでしか親の不倫に向き合えなかった、真だけが感じる問題。きっと現実的でクールな彼女はこんなに取り乱したりはしなかったのだろう。親が嘘つきであっても、すっかり現実を受け入れて、すました表情で飲み込んだに違いない。

 授業が始まるまで時間があったから、一度外へ出て塾の周りを軽く走って、バスでやって来た原木や長沼と一緒に教室へ向かった。今日くらいは原木と長沼と一緒に帰ろうかな、と考えながら授業を受けた。


 そう――考えたばかりだったのに。教室を出ると原木よりも先に隣の教室から飛び出して来た理緒が、真の手に何かを押し付けて走り去った。手のひらを見る。丁寧に折り畳まれた一枚のルーズリーフ。それを見ていた原木が嬉しそうな声を上げた。

「すげえっ……とうとうやったんじゃんよサギオ! 長沼には俺から言っとくからさ、なんつーの、ええと、お幸せにな!」

 きゃー、と女子のような悲鳴を上げて原木が去る。今度は真が呆気に取られた顔をして、ぎこちない動作で古い方の自習室へ向かった。生徒がパラパラと座っているがそこに理緒の姿はない。適当な机に座り、ルーズリーフを丁寧に開いた。鼓動が早まる。

 綺麗というより、神経質そうな筆跡で綴られていた。


『さぎおか君へ

 私は直接顔を見て自分の本音を話すのが苦手だから、手紙にします。

 さっきのさぎおか君の話、多分私、図星です。今まではお母さんが不倫しててもどうでもいいと思っていたけど、本当はそう思い込もうとしてただけ。

 私もそうなの。お母さんが不倫をしてて、多分お父さんもそれを見て見ぬふりをしてるのが分かってるから、何が正しいのか分からなくなってた。まるでそれが常識みたいに、二人とも不倫のことを絶対に口に出さないで、いい夫婦みたいな顔をしてる。だから親の守ってるルールを私が破っちゃいけないと思ってたけど、やっぱりあなたの言う通り不倫は間違ったこと。間違いを間違いって言っちゃいけないなんておかしいよね。

 本当は親が不倫してるのをがまんして黙ってるのはつらかったし、こんな生活がずっと続くと思うと不安しかない。もちろん友達にだってはずかしくて言えない。だからさっき、話を聞くって言ってくれてうれしかったよ。安心した。ありがとう。


 もしもさぎおか君にまだその気があるなら、私は不倫の証拠をつかみたいって今なら思います。だってこのままじゃダメだと思う。私も、さぎおか君も、妹さんも、きっとおかしくなっちゃう気がします。

 不倫も離婚もケンカも勝手にさせればいい。とにかく私たちは証拠をつかんで、親が間違ってることとか、そのせいで私たちががまんしたり不安になったりする必要がないってことを、ガツンと言ってやろう。だってこれからの人生は長いんだから、私たちが安心して過ごすためには、あいつらの間違いを説教して謝らせる以外にないと思う。

 まだ小学生だけど、二人で本気を出せば絶対にやれるよ。私たちのダブルパンチで、偉そうな顔した親たちの間違いをわからせてやろう。』

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