1-4

 廊下の端にある自習室は他の部屋よりも設備が古く、埃臭い。まるで物置のような雰囲気がある。だからだろうか、誰も人がいなかった。迷わずそこへ入ると、扉を閉めて彼女は真に向き直った。

「で、私のお母さんとあんたのお父さんが何だって?」

 思ったよりも強気な声音だ。

「あー。単刀直入に言うと、多分、浮気してると思うんだよね。昨日ふたりがその……」ラブホ、という言葉を飲み込んだ。相手は女子だ。「一緒にいるところを、見ちゃって」

「へえ、そう」

 まるでどうでも良さそうな返事だった。顔色一つ変えない。真は心底驚いた。

「いや、そんだけ? もっとあるだろなんか、こう、びっくりするとかさぁ。ていうか自分で言っててなんだけど、疑ったりとかしないわけ? いきなり知らねえ奴に親が浮気したとか言われてさ」

「別にお母さんが不倫してんのは何となく知ってたし。その相手があんたのお父さんだったっていうのも、へえー世の中狭いなぁーくらいのものよ。まさか不倫相手の息子に声をかけられるとは思わなかったけど、それ以外は別に驚くことじゃない」

「うわマジかー……女子って怖いのな……」

「用件はそれだけ? それなら私もう帰る――」

「あー待って待って! 俺さ、不倫の証拠集めをしようと思ってるんだ。だからもしよかったら、君も協力してくんない――」

「絶対、無理っ!」

 食い気味に声を上げ、彼女は目尻をつり上げた。何かを迷うように一呼吸置いた後、一歩こちらに踏み込んで高い声でまくし立てる。

「あのねぇ、世の中下手に首を突っ込まない方が良い問題もあるわけよ。不倫なんかが特にそれ。絶対面倒なことになるに決まってる。大体、何よ証拠って? 私たちみたいな子どもが、そんな難しいことできるわけないじゃん」

「そ、そんなのやってみなきゃ分かんねえだろ」

「じゃああんた一人でやってよ。私は絶対無理。やだ。めんどくさいから見て見ぬふりしておきたいの。あんたはどうか知らないけど、不倫がバレて親が離婚でもしたら、一人っ子の私にとっては大ダメージよ。もう欲しいものがあっても買ってもらえなくなるかも。どーせ親が不倫なんかしたって私たちには関係ないんだから、勝手にやらせておけばいーの。わかった?」

 遮る間も間もなくそう告げられ、真に反論の余地も与えずセーラー服の襟が背中を向けた。まずい、帰られてしまう。まさか断られるとは。何か言わなきゃ――半ば混乱ぎみになって、真は反射的に口を開いた。

「ねえ、名前はっ?」

「ああもう、――佐生理緒っ!」

 ぴしゃり! 扉が閉められた。


 ***


「来たぞ! チャラ男のお出ましだ!」

「よっ、スケコマシ!」

 登校すれば原木と長沼を筆頭に、数名の男子がやって来て真をからかう。教室に入るとすぐに囲まれ、机に座ると包囲された。噂というのはサッカーボールよりも足が速い。

「塾で初対面の女子ナンパしたんだろ? どうだったんだよサギオー」

「どうもこうもナンパじゃねえし……」

 ぼやきながら鞄から教科書を出す。昨日のやり取りを思いだし、真は「でもまあ」と言葉を継ぐ。キッと吊り上がった目元に、鋭い口調。

「……フラれた、って感じかな……」

 ざまあみろ! 男子一同が沸く。

 彼女――佐生理緒という女子は、極めてクールな性格の人物だったと思う。真は親の不倫現場を目にしてはしゃぎ倒したというのに、彼女は動じず、敢えて見て見ぬふりを貫くスタンスだと語った。確かに理緒の言うことにも納得はできる。親の離婚や夫婦喧嘩は怖い。もしも両親が離婚をすれば、自分はおそらく文乃について行くのだと思う。多分、実も。それが現実になったら、今の家を引っ越すのかもしれない。苗字が変わって、転校したりして。鷺岡ではなくなるのなら、自分は「サギオ」と呼ばれなくなるのかもしれない。

 不倫を暴くとはこういうことなのだ、と真は思い知らされた。やはり理緒の言う通り、関わるべきではないのかもしれない。

「――そりゃあ初対面なんだから、警戒されて当然よ」

 男子の声に割って入ってきた女子の声に注目が集まる。隣の席の吉良だった。派手な髪型と服装で、男子の間ではギャル系だとよく言われている。ギャルなら女子の気持ちにも詳しいのだろう。

「やっぱナンパとか引く?」

 原木が訊ねた。ナンパではないが真は黙っていた。吉良の答えが気になるからだ。

「うーんどーだろ。あたしは引かないよ、社交的だって思う。でも女子には人見知りな子もいるからさ、ながーい時間をかけて、ゆっくり近づいて、心のカギを開けさせるのが大切なんじゃない?」

 心のカギをどうたら……という歌詞の歌が流行っている。ウインク混じりの吉良のセリフは明らかに受け売りではあったが、真の心にストンと来るものがあった。時間をかけてゆっくり。これはサッカーの練習でも大切なことだった。少なくとも、たった一度のチャレンジで諦めるのは早計だ。

「そーだよな。やっぱ諦めずに何回か、声をかけてみるべきだよな」

 真の呟きに、男子がさらに盛り上がった。「それでこそサギオだぜ!」「俺ら応援してるからな!」他人事のスキャンダルほど面白いものはないだろう。何となくその気持ちが真には分かる。だって自分も今、親の不倫を探るのを面白がっているのだから。


 ***


「おはよ、佐生」

「うわ」

 待ち伏せしようと思って早めに塾へ向かったら、埃っぽい方の自習室で参考書とにらめっこしている理緒を運よく発見した。室内には理緒しかいない。

「あんたタフだね。ていうか図太い。昨日の今日でよく話しかけられるよ」

「メンタル強いってやつ? 妹にもよく言われる。それよりさ、昨日の話の続きなんだけど」

 理緒が参考書を閉じた。「待って待って」真は急いで理緒の隣の席に座る。

「佐生に言われて考えたんだ。確かに佐生の言う通り、俺のやろうとしてることは危ないことなのかもしれない。リスクが大きいし、軽い気持ちでしない方が良いってことは、よく分かったんだ」

 浮かしかけていた腰を下ろし、理緒はうなずいた。

「じゃあ、諦めた?」

「いいやその逆。覚悟が決まった。俺はやっぱり証拠を探すよ。だって証拠を探すだけなら問題ないだろ? それ自体は悪いことじゃないし、むしろ悪いことしてるのはあっちなんだから。悪いことを悪いって言うのは正しいはずだ。そうだろ?」

「そりゃまあ、そうなんだろうけどさ……」

「なら一緒に」

「でも証拠を探すことに何の意味があるわけ? 親を離婚させたいんじゃなきゃ、証拠なんて探す意味ないでしょ。良い悪いにこだわる道徳の話ならやめてよね、ウザイから」

「ちっげえよロマンだよ!」真は両手を広げて語る。「考えて見ろよ、証拠探しなんて刑事みたいで面白そうだと思わない? スリル満点でさ、悪と戦ってるっぽさがあって。それに親っていつもすごく偉そうだろ? だから不倫の証拠みたいな、知られたくない秘密を握ってギャフンと言わせてやりたいってのもある。もしも上手くいったら証拠をネタに脅して、欲しいゲームとか買って貰ったり――」

「はいはいあーそう、一人でやって」

 理緒はいよいよ席を立った。見下すように鼻で笑って、

「悪いけどあんたに協力する気なんてないし、欲しかったゲームならもう持ってる。どうせあんたってあれでしょ? 誰彼構わず声かけて馴れ馴れしくして噂が好きで、正義ぶって人のこと根掘り葉掘り詮索したがるギゼンシャ。そーいうのほんと、反吐が出るのよね」

 一瞬、時間が凍る。まるで雷に撃たれたようだった。ショックを受けて真は暫し呆然とし、理緒がテキスト類をリュックに詰めて背中を向けたところで、ようやく自分が酷い暴言を浴びせられたのだと気づいた。こんな酷い言葉は生まれて初めて言われた。反吐? 偽善者?「なぁんだよそれ」上手く呂律が回らなかったが、残った気力を振り絞って一矢報いるべく口を開いた。

「んな、そこまで言われる筋合いないだろ! 大体お前こそなんなんだよ、人のことろくに知りもしないで、偉そうに上から目線。お前みたいなやつを、ひ、卑怯者って言うんだ。悪いことから目を背けて、多分いじめとかも見て見ぬふり!」

 引き扉のレールをまたいだ状態で、理緒が勢い良くこちらを振り返った。驚いたような顔が、泣き出すか笑い出すか読めない表情へと歪んで、すぐにパッと背けられる。翻った黒髪が、彼女の吐き出す言葉と対比するようにきらめいて綺麗だった。

「じゃあ勝手にやってバレて怒られろ、やじ馬アホ野郎!」

 ぴしゃり! 扉が閉められた。


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