1-3
学校の授業を終えて一度帰宅し、真はデジタルカメラを探した。在宅でライターをやっている文乃は、取材や商品のレビューでよくデジカメを使うのだ。
「何か探してる?」
息子が作業デスクの周りをうろちょろするのを流石にスルー出来ず、文乃がノートPCから顔を上げた。つい気圧される。
「えーっとー、あのねそのぉ……」
「何よナヨナヨした言い方して」
「あー……すぐ返すのでデジカメ貸してください」
「何で?」
あなたの夫の浮気現場を押さえるためです、とは言えない。文乃に信治の浮気のことを告げ口したとして、彼女が怒ったり取り乱したりする反応は想像できなかった。むしろ「だと思った」とでも言いそうだ。しかし誰にも内緒で浮気調査をするからロマンがあるのだ。それにもしも修羅場になったら……ちょっと怖い。
即興で口から出まかせを言う。
「せっかくだから……ほら、原木と長沼と、塾で記念撮影したいなーって」
「塾で? だめ」
即答された。「塾でデジカメなんて、カンニングとか疑われそうじゃん。それに高価な物をやんちゃ坊主に預けるのは怖い」なるほど、言い返せない。
「うーん……」
「写真なら原木くんに頼みな。子ども用のスマホ持たせてるって、原木くんのお母さん言ってたよ」
同じマンションに住まう同学年の子どもを持つ母親同士は、何故かよく話す。「俺もスマホ欲しい」ぼやきながら真は再び家を出た。スマホがあればスキャンダルを激写できるのに。
塾へはバスで向かうように言われていたが、昨日原木や長沼と通った道を行くことにした。最近は運動不足の自覚があったから、軽く走りながら細い路地や地下道を通る。汗だくだしバスよりも十分程度遅れたが、遅刻には至らなかった。
「お、サギオじゃーん」
「やっほサギオー」
塾前のバス停で原木と長沼が待っていた。「お前バスにいねえから、さっそくサボったのかと思ったぜ」長沼が笑う。
「サボるかよ。軽く走ってきたんだ。やっぱサッカーやめたら体に違和感あってさ」
「ひゃあーこれだからスポーツ少年サギオくんはよぉ。――よし、写真撮るぞ」
写真? 聞き返すと原木が真と肩を組んでスマホをかざした。真の隣に長沼が顔を寄せる。
「お前が俺らと写真撮りたがってるってお前の母さんから俺の母さんにラインが来て、そのスクショが俺のスマホにさっき送られてきたのさ」
文乃は原木の母親と仲が良い。下手な嘘を言うんじゃなかった――。長沼が見切れたので三回撮り直してから塾校舎へ向かった。
昨日は気づかなかったが、塾にはどうやら小学生だけではなく中学生も通っているようだった。「すげー、制服がいる」水色のセーラー服を着た女子グループを見ていると長沼が答えた。
「騙されんなよ、あれは小学生だぜ。駅の近くにある私立校の奴ら。……ブルジョワのお嬢様お坊ちゃまが、高い制服着て通ってんのよ」
長沼の言い方はなんとなく嫌味だ。
「でもさでもさ、制服って可愛いよな。俺のクラスにも制服の女子いるんだけど、マジ俺のタイプ! 美少女って奴だぜ!」
原木の言い方はなんとなく馬鹿だ。
そよそよと談笑するセーラー服を眺めていたら、「あ、あの子だ!」と原木が叫び、真と長沼の腕を引っ張って校舎に飛び込んだ。
「何で隠れるんだよ」訊ねると原木が「だって恥ずかしいじゃんよー」と足踏みする。
三人で廊下の窓からそっと駐車場を覗くと、「ほら、あのポニーテールの子」と原木がはしゃいだ。その指差す先に、波打つポニーテールとくりっとした瞳。「確かに可愛い」長沼がうなずく。確かに、と呟きながら、真はもう一台止まった車に視線を移した。そこから出てきたのも、水色のセーラー服を着た長沼いわく私立小学校のお嬢様。黒くて長い髪を背中に流す、涼やかな目元が特徴的な、可愛いというより美人系の女子だった。大人っぽい――。今まで見たことのない雰囲気を纏った同年代の女子に、真は視線を奪われた。
車窓から顔を出した母親らしき女性が、うっとりとしたような瞳を向けてその子に何かを言う。その母親はどこかで見たことがある気がした。真は目を凝らす。耳下で黒髪を一つにまとめているシュシュや、幼い雰囲気と大人の気品が混在するような姿……。
「なあ、あの子――」
――の母親、お前ら知らねえ? 言いかけて真は口をつぐんだ。思い出した。信治と一緒にラブホテルから出てきた女だ。あの黒い髪と、まどろむようなたれ目は間違いない。背筋がひやりと凍りつく。
「サギオはあの子がタイプ?」
「サギオも原木も面食いだなぁ」
仲の良い友だちの声は、もう真を日常へ引き戻す力を失っていた。世界の狭さと出来すぎた偶然に、自分が幸運よりもプレッシャーを感じていることに気づく。
昨夜が一番楽しかった。スパイ映画の主人公になる妄想は、所詮妄想でしかないのだと、今朝目を覚まして冷静になった頭で苦笑したばかりだった。だから文乃がデジカメを貸してくれないと言ったとき、正直に言えばホッとしていたのだ。難しすぎるゲームに挑戦しようとして、自分ではレベルが足らないことに気づき、ゲームオーバーの表示を見て「やっぱり仕方ない」と諦めた――そんなつもりでいたのだ。
真は小学五年生。まだ無力な子どもだから、浮気調査なんてできないと諦めかけたのに、抜け道が現れた。不倫相手の娘という隠しコマンド。子どもだからできることがある。コンティニューしろ、昨夜の自分がそう叫んで今の真の背中を殴る。
――行ってきます、と黒髪の少女が口を動かすところが見える。
昨夜の興奮が胸のどこか隅っこで、ちりりと火種を燻らせている。すでに見て見ぬふりをするという選択肢は真の中になかった。不倫を暴いて、あの退屈な父親を屈服させて、こちらを向かせて、真は思う存分ふんぞり返って――。そんな恍惚の未来が手招きしているのだから。
午後七時三十分を過ぎて、やっと算数の授業を終えて真が教室を出ると、隣のクラスからちょうど原木が出てくるところだった。個人指導の長沼はこの時間にはもう授業を終えて、先に自習室で待っているそうだ。原木が真の顔を見て駆け寄ってくるその後ろに、とぼとぼと廊下を歩く例の黒髪の背中を見つけた。
「今日の宿題多すぎんよー。昨日やったばっかだけど今日もタシナミやろうぜサギオ!」
「悪りぃ、今日は遠慮しとく」
「どした? 小遣いない?」
「いやちょっと……話したいやつがいてさ……」
長沼によろしく、と残して真は原木を通り越した。駐車場で見かけただけの全く知らない女子生徒だったが、真は物怖じせずに声をかける。
「なあ、ちょっといい?」
できるだけ明るい声を出して、セーラー服の肩をちょんと指でつつく。目に見えてびっくりしたその女子は、立ち止まり真を振り返って信じられないとでも言うように首を傾げた。
「……え、え? 私?」
「そう、君。えーとはじめまして、俺は鷺岡真。隣のクラスに通ってる、府渡小の五年生。急に悪いんだけど時間あるならちょっと話せねえかな? 君の……」真は小声になってささやく。「君の母さんとさ、俺の親父のことなんだけど――」
「――ちょっとこっちっ」
最後まで聞かずに彼女は逃げるように廊下をずんずん進んでいった。慌ててついていく途中、さっき追い越した原木と合流したばかりの長沼が口を開けてこちらを見ていた。「じゃあな」二人に手を振って女子の後をついていくと、背後で二人が騒いでいた。
「嘘だろサギオ! 初対面でもうナンパかよ!」
「真面目そうな顔してチャラいことしやがって! どこまでもサギオだなあいつは!」
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