1-2


「おいおいサギオくぅん、お前はゴミ箱も知らねえのかぁ? これだからコンビニ初心者はよぉ……」

 にゅっと出てきた原木が、ぼうっと突っ立ったままの真の手から缶とカップを奪い取り、「ここに捨てるんだぜ」とゴミ箱に放り込んだ。その隣の喫煙スペースに立つ男がちろりと原木を一瞥して、またタバコを咥える。――タバコ。脳裏によぎる、一人ベランダでタバコを吸う信治の背中……。

「サーギオっ! おい!」

 長沼に肩を叩かれ、真ははっとして視線を目の前に戻した。長沼が心配そうにこちらを覗き込んでいる。目が合うと申し訳なさそうに長沼は言った。

「ごめんなぁ、サギオ」

「え……何が」

「だって俺が余計なこと教えたから。お前、混乱しちゃったんだよな、急にエロい知識を与えられてさ。まさかサギオも純情くんだったとは……」

 勝手な勘違いをして長沼が落ち込んでいる。別にラブホの存在に衝撃を受けたわけではない。保健の授業と少年漫画で少しは知っている。エロい知識くらい、自分にだってそこそこある――そう言いかけて、真は口をつぐんだ。向かいのラブホテルを横目で見ると、ホテルの入り口はすでに信号待ちの車の列に塞がれて見えなかった。見えないことにどこかホッとしたのも束の間、車が動き出し、車の合間から一組の男女の姿が覗く。背格好も鞄も靴も、どうみたってやはり鷺岡信治だった。夢ではなかった。これを長沼には、言えないと思った。

「……ああ、うん。ちょっとびびった。まさかそんな場所があるなんてな……」

 思ってもいないことを言うのは慣れない。けれどその不慣れな口調を動揺と受け取ったらしい長沼は、「俺はサギオのジョーソー教育になんて悪影響を」と頭を抱えていた。

「なんだよさっきから二人でコソコトとよー」

 ゴミ箱から戻ってきた原木に長沼が飛び付く。

「原木ぃ! お前はお前のペースで大人になれよな!」

「え何急に。サギオ、なんか長沼キモくね?」

「そうだな、長沼キモいな……」

 適当に返事をしながらコンビニを後にし、真は車道側をキープして歩き出した。右側に二人の友だちが騒ぐのが心地よい反面、左側に気まずさと落ち着きのなさを感じていた。車道を挟んだ少し向こう側で、父親が、今、浮気をしている――。この事実に胸がざわつく理由が、真にはいまいち分からなかった。整理がつかないのだ。悲しみとはちょっと違う気がするし、怒りというのも少し違う気がする。父親が浮気。どうでも良い気はするけれど、決して無関心にもなりきれない。

「原木もサギオも、また明日学校でなー!」

 バス停一つ分を歩いて長沼が別れ、原木が塾の宿題が多いと騒ぐのを聞きながら一緒にマンションまで歩いた。

「じゃあなサギオ、おやすみー」

 二階で降りた原木に手を振り、一人きりのエレベーターでいよいよ真は頭を抱えた。これから自分は家に帰る。きっと夕飯を準備している文乃と、もう風呂を済ませただろう実がいる。信治は――車で帰宅するはずだから、きっともう帰っているはずだ。そこへ入るとき、どうやって「ただいま」と言えば良い? 今まで自分がどんな顔をして家に帰っていたか、真は急に思い出せなくなってしまった。父親が浮気をしていると、知ってしまったから。

 エレベーターが止まる。見上げたディスプレイは五階を示している。自宅は五〇三号室。エレベーターを出て真はそっと廊下から顔だけ乗り出し、下の駐車場に信治の車が止まっているのを確認して声にならない叫びを上げた。

 ――だって、ドラマで見たから分かる。結婚した男が浮気をするのは、ただの浮気じゃなくて不倫だ。いけないことなのだ。自分はそれを知ってしまった。真が知ってしまったのを、文乃も信治もまだ知らない。家族における重要な秘密を、まだ小学五年生の自分などが知ってしまっても良いものだろうか。

「……ただいまー」

 不自然にならないように気を付けながら玄関を開くと、ダイニングから「おかえり」と文乃の声がした。信治の靴から離れた場所にスニーカーを脱いで、真はダイニングへ入る。すでに実はテーブルで席についていた。

 しょうが焼きの乗った皿をテーブルに並べながら文乃が訊ねる。

「塾どうだった?」

「うーん……、やっぱ面倒くさい。授業早いし。でも原木と長沼がいたからちょっと安心かも……」

「へえ、原木くんいたの。そりゃ安心ねぇ」

 精一杯努めた甲斐あって、思いの外自然な会話ができた。真は我ながら自分を褒めてやりたくなった。今のはポーカーフェイス、というやつかもしれない。なんだかそれって、かっこいい。

「塾の先生ってやっぱこわい?」

 肩からかけたタオルで湿った髪を拭きながら、実がこちらを見る。

「言うほどこわくねえよ。むしろうるさいっつーか、黙ってるときがないみたいな感じ」

「へえー、そーなんだ」

 またもや自然な返しができて、真は内心跳び跳ねる。今のところ百点花丸な返しができているのではなかろうか。自分の意外な才能に驚く。

「……塾? 行ってんの? そういやサッカーは?」

 外したネクタイを椅子に掛けて信治が、真の正面に座って面白くなさそうに呟いた。紫色のネクタイを見て、「まあ」真は上ずった声を出してしまった。まずい。不自然だ。仕切り直す。

「あー、まあ……サッカーやめるなら勉強しようかな、ってさ。ほら、サッカーは監督とケンカしてさ……ええと、言ってなかったっけ」

 恐る恐る見上げると、信治はこちらを見てもいなかった。「そう」距離のある返事を聞いて、真は胸の内がすっと冷えていくのを感じた。そうだった、真の父親は、真や実の話にあまり関心を示さない。文乃や実ならいざ知らず、信治相手に声を上ずらせたからといって、何も怪しまれることはないだろう。馬鹿な心配をした。

 文乃がコンソメスープを並べて夕食が始まり、真が塾のシステムや授業のことを話しているうちに信治は一番に食事を終えて浴室へ立った。空になった実のグラスに麦茶を注ぎながら、真はそっと訊ねる。

「塾のこと、父さんに言ってなかったの?」

「ああ、うん」平らげた空の食器をまだ片づけず、文乃は真と実を頬杖をついて見つめていた。「あの人には相談する暇なかったし。あんたがサッカー通い出したときも、そういや事後報告だったし、じゃあ塾のことも暇ができたら話そうかなって思って」

 文乃が信治と話しているところを最近は見ない。信治が不倫をしていることを話したら、文乃は何と言うだろうかとぼんやり考えた。怒るだろうか。悲しむだろうか。

 実がようやく食べ終え手を合わせる。

「お父さんいつも忙しそうだもんね。――ごちそうさまでした」


 結局、風呂に入って子ども部屋へ戻るまで、真は父の浮気について一言も話さなかった。信治も文乃も実も、誰も真が秘密を抱えていることなど気づいていないようだったから、真さえ黙っていれば何も日常に変化はないのだと気づかされた。無理に隠そうとする方がかえって怪しまれそうだと学んだ頃には、帰宅直後の緊張は忘れていた。

「おやすみー」

 一応声をかけたが、二段ベッドの上の実からは寝息しか返ってこない。電気を消してベッドに入り、タオルケットを被って――その中で真は声にならない叫びを上げた。

 ――高揚感! 真は今、激しい興奮で胸が弾けそうだった!

 大事件だ。父の浮気現場を見てしまった。日常を大きく覆す非日常の光景。穏やかな家族の生活が、自分の一言で大きく揺るがされるのだという状況。事件やトラブルの匂い。――これはなかなか味わえないスリルだ。まるで敵地に一人、正義を抱えて潜む主人公。スパイ映画や刑事ドラマのようではないか! 

 眼が冴えて眠れない。真は考えた。父の不倫に対してどう動くか――。悩むフリをしてはみたが、答えはすでに決まっていた。母に告げ口はしない。妹にだって言わない。まずは家族に黙って真だけで、証拠を押さえよう。

 ドラマで見たように現場で張り込みをして、信治をそっと観察して、そして再び浮気現場を見つけたら、すかさずカメラでパシャリだ。まるで探偵、刑事、スパイ。冒険じゃないか。さて、抑えた証拠はどうしよう? 文乃に言うのは何だかこわいから、信治本人に突き付けてみよう。驚くだろうな。あのクールぶった無愛想な表情が崩れるのはさぞ面白かろう。さして気にもかけていない息子から、不意打ちで弱味を握られるのだから。ついでにそれで信治を強請って、欲しかった新型ゲーム機でも買ってもらおうか。うんうん、我ながら名案だ……。

 脳内作戦会議をしよう。そう決めて集中するべく目を閉じたら、次に目を開けたときは朝だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る