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ネットの海は広く深い。油断したら情報の波に飲まれて窒息だ。《離婚》《離婚 不倫》《離婚 子ども》《離婚 慰謝料》――膨大なサジェストワードに翻弄され、真は唸った。
「マコちゃん何見てるのー?」
「お前にはまだ早い」
実がデスクを覗きこんでくる寸前で素早くブラウザーを閉じた。後で履歴を消しておかないと。実に見せたくない内容だし、文乃には勘付かれたくない。真は文乃の、夫の浮気に怒る姿よりも、夫の浮気に無反応な姿を見る方が、なんとなくこわかった。
「なんだー、ユーチューブかと思ったのに」
「違ぇよ。何、もう一時間経つ?」
母のPCを使うときは一時間で一度切り上げる、というのが鷺岡家の子どもに課せられたルールである。
「ううん。ミノにも貸して欲しいから、パソコン終わっても電源切らないでねって言いに来たの」
「ユーチューブ見るの?」
「ふふー、マコちゃんにはまだ早い!」
真の言い回しが気に入ったらしい。自分で言って自分できゃっきゃとはしゃぐ実を見て、真はそう言えばと時計を確認した。今日は塾がない金曜日。そして今は夕方の六時三十五分。
「ロケモン今日じゃなかった?」
「ああーっ! 忘れてたー!」
実は走ってソファに飛び乗りテレビをつけた。観たがっていたアニメがすでに始まっていて、残念そうな声を上げる。「うっかりしてたよー」言いながらうつ伏せに倒れ、そのまま頬杖をついてテレビにかじりつく。――ロケットモンスター、縮めてロケモン。実はロケモンのゲームもアニメも大好きだ。五年生にもロケモンが好きな奴はたくさんいるが、真はもう卒業した。
実がテレビに夢中になっているのを確認して、真は再びブラウザを立ち上げる。検索履歴と閲覧履歴を念入りに削除した。《離婚 子ども》履歴の文字を見たとき、真は少しだけ手を止めた。不倫がばれて離婚した場合、不倫した側の親は慰謝料を払ったり、子どもの親権を失って養育費を払ったりするらしい。真の家のケースに当てはめてみれば、信治が家からいなくなることになる。慰謝料は百万円から三百万円ほど、ケースによっては上下することも……。
――そこまでする必要があるだろうか、と真は思った。確かに浮気はいけないことだと思う。まず妻である文乃に対して失礼だし、ルール違反だし、父親が母親以外の女とイチャイチャしているのは、息子である真としてもなんだかちょっと不気味な思いがする。
しかし離婚しろ、父親をやめろとまでは思わない。お金を巻き上げるつもりもない。真としてはただ、信治にちょっと嫌がらせをしたいだけなのだ。「先生に言ってやる」そう言ってからかうのは好きだけど、実際にチクリ魔になるつもりはない。それと一緒。
検索履歴を完ぺきに削除して、ブラウザを閉じた。
「ミノー。パソコンどうするー?」
「消しといて―」
テレビには知らないキャラクターが映っている。真が観ていた頃のロケモンのアニメにはいなかったキャラクターだ。絵柄も変わった。まるで別作品のようだが、知らないキャラクターが出たとしても、真の知らない姿をしているのだとしても、実や他のファンはそれをロケモンだと認めている。信治もそうなのだろうか。不倫相手の――佐生理緒の母親の前では、鷺岡真の父親の姿をしてはいないのだろうか。
自分の父親が、父親ではなくなる瞬間があるのなら。真はそのとき息子ではなく、どの場所に立って信治と繋っているのだろうか――。
PCの電源を落として実の隣でテレビを観た。エンディングまで観たが、やっぱり真にはそれがロケモンだと思えなかった。
***
嫌な夢を見た。真は夢の中でまだ少年サッカーのチームにいて、とても居心地悪そうにグラウンドに立っていた。監督が何か言っていた。声が聞こえなかったけれど、真にはそれが自分を良く思っていないセリフだと分かった。
監督とケンカした、と真は原木や長沼に言ったが、正確にはそうじゃない。ケンカしたと真が思いこみたかっただけ。
本当はケンカすらせず、真は監督に嫌われたのだ。六年生の後藤が二年生の伊豆を、いじめに近いからかい方をしていたから、真は後藤に意見した。伊豆は声も気も小さい奴だったが、実のクラスメイトで悪い奴ではないと知っていたから。真の行動に後藤が気分を害し、監督が「余計なことをするな」と真を注意した。後藤はエースだったから、監督が彼の機嫌を取りたがっていたのを、真は後から知った。
監督は真に素っ気なく接するようになった。後藤の機嫌を取る態度とは真逆。存在を無視せず、世話も指導もするが、温度がなく名誉を与えない。義務的な最低限の対応だ。父が――信治が真にそうする態度と似ていた。
真はサッカーチームに居づらくなって、徐々に顔を出すのを嫌がり始めた。「もう行きたくない」と吐き出したとき文乃は何も詮索しなかったが、代わりに塾を勧めてきた。その距離感が冷たさではなく、引き算の優しさだと真は知っていた。
――夢見が悪くて今朝は五時起き。寝不足だ。おまけに外は炎天下。今日ばかりは走る気になれず、原木と一緒にバスで塾へ向かった。途中で乗ってきた長沼に手を振る。
「木曜から夏休みだよなー」
「全然嬉しくねぇー。行く場所が学校から塾に変わるだけじゃん」
バスの一番後ろの席で、原木と長沼が愚痴るのを聞く。「ほんとにな」真もうなずいた。サッカーは今月いっぱいでやめることになった。だから夏休みは週に三回は塾へ通うことが決まったのだ。面倒だと思う反面、今は他に集中すべきことができてホッとする気持ちもあった。
バスを降りる。正面から歩いてくるセーラー服の女子のグループに理緒を見つけて、真は開きかけた口を閉じた。――「正義ぶって人のこと根掘り葉掘り詮索したがる偽善者」理緒の言葉を思い出す。夢見の悪さにその言葉が深く突き刺さる。ハッキリ言って図星だった。もしも後藤が伊豆に意地悪するのを黙って見ていたら、真は今頃サッカーボールを追いかけていたのかもしれない。正しいことをしたと、そう思ったのは自分だけだったとしたら――それはひどく恐ろしいことだ。
「……余計なこと、言わなきゃ良かったな……」
声に出てしまったらしい。原木と長沼がギョッとした顔でこちらを見て、ずいと顔を寄せてきた。
「らしくねえこと言ってんなよサギオ。一回フラれたくらいで何だ、何度でもアタックしてやりゃいいだろーがよー!」原木が拳を握る。
「ナンパから上手くいったカップルは多いんだ。余計な言葉なんてない。口説き続けてりゃきっと彼女も振り向いてくれるさ!」長沼が力説する。
畑違いの励ましだが、今の真には嬉しいものだった。つい笑ってしまう。少しだけ前向きになって、「よっ!」真は理緒に向けて手を挙げてみた。するとこちらでは男子が、あちらでは女子が声を上げた。
「うそー、理緒ってば男友達いたわけー?」
「やばっ、チャラそうじゃん!」
ミーハーそうな女子たちが騒ぐ。理緒が目に見えて苦い顔をした。その隣にポニーテールの美少女もいて、原木が呻きながら真の肩をバシバシと叩いた。
今日は真の方が授業を終えるのが早い上に、原木は授業を入れていない。つまり原木とも長沼とも一緒には帰らないから、一人で調査をするのには絶好のチャンスというわけだ。真は授業を終えると塾の裏側にあるコンビニへ向かった。目的はもちろん、コンビニではなくてその向かい側にあるラブホテルだ。
コンビニへ入り、スポーツドリンクを買ってイートインで待つこと三十分。ホテルの前に父の姿は現れなかった。残念に思う気持ちと、そりゃそうか、という気持ちが半々。もう帰らないとさすがに怪しまれる時間だ。それに長沼はマイペースな奴だから一人でだって塾帰りの嗜みに来てしまうかもしれない。
コンビニを出てすぐのバス停に立っていると、派手な格好をした若い男女がラブホテルから出てくるのが見えた。体を密着させながらホテルを出て、少し歩いたところで立ち止まり、洋画のような熱烈なキスをする。原木ならこれを見て騒ぐんだろうな、と思ったのは、自分が冷めた気持ちでそれを見ていたからだった。男女の顔を信治と理緒の母親に置き換えて想像しかけて、バスが来たのでやめた。
「これで三回目。さすがにまずいってこと分かるよね?」
帰宅して一番に文乃の尖った声が聞こえた。「ただいま」真は小声でリビングへ入る。キッチンでは実が文乃に絞られていた。
「一回目は何だった?」
「お箸……」
「二回目は?」
「宿題……」
「じゃあ三回目。今日は何忘れたの?」
「……プリント……お母さんに、名前書いてもらったやつ……」
どうやら忘れ物を咎められているらしい。文乃の説教はねちっこくて子どもの心をグサグサやるやつだ。実を可哀想に思ったが、最近の妹の忘れっぽさは真も知っていたから、自業自得かなとも思う。
一度自室にリュックを置き、洗面所で手を洗ってからリビングへ戻った。
「……寝る前に明日の持ち物の準備するって、約束したよね? それはできてたの?」
まだやっている。とても食事の雰囲気ではない。
「先に風呂入ってきたら?」
いつの間にか帰宅していた信治が背後から言った。信治に悪気がないのは分かっていたのに、そのどこか他人行儀な言い方に腹が立ってしまって、真は唸るように「ふん」と発して風呂場へ飛び込んだ。偉そうに、と思った。浮気男が、息子に偉そうにするんじゃない。
風呂を出て、涙目の実の隣で夕食を食べた。大皿の唐揚げに箸を伸ばさず白米ばかりを食べていたので、さすがに不憫に思って真は自分の唐揚げを妹の茶碗に乗せた。妹に優しくしたところで、父親に悪態をついた罪悪感は晴れなかった。
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