中編

 洋芝に覆われた札幌競馬場のターフは目に染みるほどの緑だった。


 彼女と出会ってから二か月が経過した。

 続けてはならないと決めた彼女との関係は、未だに続いている。


 出会った翌週、僕は府中競馬場を訪れた。

 一週間、悩みに悩んだ挙句、気がついたら競馬場へ足が向いていたのだ。

 僕は心の中で、彼女が来ない事を願った。

 彼女との関係を自ら終わらせるのではなく、やむを得ず終わることを望んだのだ。


 僕は彼女が来ることを期待しつつ、来ない事を望んだ。

 しかし、彼女は現れた。

 少し遅れてやって来た彼女は、僕の人生史上、最も美しく、微笑ましい最高の笑顔を魅せてくれた。


 彼女への思いは、もはや頭ではどうにもならないほどに膨らんでいる。

 しかしその思いが募れば募るほど、僕の心に暗い影を落とす。

 彼女の笑顔は、幸福感と罪悪感を一度にもたらすのだ。

 彼女にとっての僕はカメラのインストラクターであり、競馬においては同士だった。そこに恋愛感情があるのかどうか、それは僕には分からない。


 結局、僕たちは東京開催が終わる6月末まで毎週土曜日に競馬場で会い、二人の距離は会う度に縮まっていった。

 並んで歩くとき、二人の間にあった隙間は肩が触れ合うほどに近づき、違う味のソフトクリームを途中で交換し、食事の時は向き合うのではなく並んで座るようになった。

 それは僕にとって好ましい事でもあり、好ましくない事でもあった。


 東京開催が終わると、競馬は地方へ移る。

 これにより彼女との距離は広がると思った。

 寂しい気持ちは勿論あったが、罪悪感から逃れる良い機会だと思った。

 しかし、彼女は夏の札幌開催へ行かないかという提案をしてきた。

 僕にそれを断る意思の強さはない。


 彼女が札幌競馬場を訪れたのは初めてだった。

 僕は数えきれないほど来ている。

 彼女は競走馬の写真を撮影し、僕は彼女が撮影した写真を見て感想を言う。

 彼女と会うようになって、馬券を買う機会はめっきりと減った。競馬新聞を読むよりも、彼女と会話する方が楽しいからだ。


 僕たちは、来年春の活躍が期待される若駒たちの活躍に目を細め、夏のローカル競馬を楽しんだ。

 昼間からビールで喉を潤し、二人並んで芝生の上に寝転び、どこまでも青く透き通る空を眺めた。

 彼女と一緒にいると、これまでに味わったことがないほど幸せな気分になれる。

 しかし、それは刹那的なものであり、未来がない事を僕は知っている。


 競馬場を後にして、札幌のビール園へ移動した。大学生活最後の夏休みを迎えていた彼女は、北海道の思い出を作りたいと言い、僕はその希望を叶えてあげたいと思った。

 天井の高い大きなホールで、工場直送の生ビールとジンギスカンを味わいながら、彼女は卒業後の進路を語り始めた。大学卒業後は日本を離れ、フランスの大学院へ留学すると彼女は言う。


 それは僕には想像がつかない世界の話で、全くピンと来なかったが、3月に別れの時を迎えるという事だけは理解した。

 僕とは違う世界に住んでいる彼女との別れ、それは安堵の気持ちと、大きな悲しみの両方を僕の胸にもたらした。


 ビール園のあとは、雪印パーラーへ行き、北海道で流行りのシメパフェというものを食べた。カラフルなフルーツと生クリームで奇麗に飾りつけられたパフェが、美味しいのかどうか僕には良く分からない。

 でも、彼女が、目を細め、生クリームを美味しそうに頬張り、笑顔を振りまいてくれるだけで幸せだった。


 お店を後にして、ホテルへ向かって歩いていたら、彼女の手が僕の手に触れた。

 お互いの目が合う。彼女は照れくさそうに目を伏せた。

 そして僕は彼女の手を握った。


 その晩、僕たちは同じホテルに泊まり、別々の部屋で過ごした。

 それ以上の関係を求めていた本能を、僕は理性でかろうじて封じ込めた。

 翌日はレンタカーを借りて、新千歳空港の近くにある牧場をいくつか巡った。放牧されている馬たちを見つめる彼女の瞳は透き通っていて途轍もなく美しい。

 牧場を吹き抜ける爽やかな風を浴びて彼女の髪がほつれた。それを、しなやか指先で耳に掛ける。その仕草を見て僕の心に痛みが走った。

 僕は彼女の思い出の一コマになれるのだろうか……

 終わりが見えている僕の恋は、彼女にとっての美しい思い出になる事がベストだと悟った。




 暮れの中山競馬場はどんよりと曇り、ちらちらと小雪が舞っていた。

 秋になり、冬を迎えても、僕たちは競馬場でのデートを繰り返していた。

 デートの待ち合わせは中山競馬場から、府中競馬場へと移り、再び中山競馬場へ戻った。この頃になると、彼女のカメラ知識は相当なものになり、僕が知っている事をほぼ全て吸収していた。だからもう僕が教えることなど何もなかった。

 クリスマスイブは、鮮やかなイルミネーションに彩られた競馬場で待ち合わせた。 暮れのグランプリレース、有馬記念を観る為だ。

 彼女と付き合い始め、馬券を買う事に興味が薄れ始めていた僕だったが、この日ばかりは違った。少し大目の額をつぎ込み、もしも的中する事が出来たなら、彼女に何かプレゼントをしようと密かに企んでいたのだ。

 最後の直線、買っていた葦毛の馬が先頭でゴール板を駆け抜けたとき、絶叫しそうになるほど興奮したが、僕はぐっと気持ちを押さえ込みニヤリと笑うだけに留めた。勝った馬は、本当は強い馬なのにここ数レース成績が振るわなかった為に人気が下がっていた馬だった。落ち目になった馬の潜在能力を信じて馬券を買い、それが的中するなんて、これほどうれしい事は無い。でも彼女の前ではクールで居たかった。だからガッツポーズは心の中だけにしておいた。

 有馬記念の馬券を的中させた僕は、彼女に蹄の形をした金のネックレスをプレゼントした。それでも配当金はたっぷりと余っていたので、船橋駅のイタリアンレストランで食事もした。彼女は僕に仕事の事は一切聞かないので、僕自身が心に蓋さえできれば雰囲気を壊す事はない。でも彼女の弾けるような笑顔を見る度に、僕の心はざわめきたった。このままで良いのだろうかと……

 有馬記念が終わって年を越すと、留学へ向けた準備が慌しくなり、僕たちが会う機会は減った。でも、会えないのは悪い事ではなかった。彼女への思いが強くなればなるほど、罪悪感も大きくなる。このまま静かにフェードアウトしていくのが、最も良い別れ方なのではないかと思い始めていた。

 しかし孤独な部屋で彼女との思い出を振り返ると、目に涙が浮かんでくる。

 なぜ僕は、こんなに苦しい思いをしているのだろう……

 これまでだって嘘をついて女性を騙し、ゆきずりの恋をした事は何度もあった。でも、そこに罪の意識など持った事はなかったし、恋愛なんて所詮、そんなものだろうと思っていた。

 でも今回ばかりは違う。

 僕は彼女の前では誠実でありたかった。それなのに……


 この数か月間で、変わったことが1つある。

 それは、カメラマンの助手を再開したことだ。

 僕は自らがついた嘘を小さくしようとした。

 今、プロのカメラマンではないとしても、その道を志しているのだ、と言えば嘘の質が変わるのではないかと思った。

 でもそれだけではない。

 彼女が夢へ向かってひたむきに頑張っている姿を見て、もう一度カメラマンの道を目指そうという意欲が湧き始めたのも事実だ。

 クズのような生き方をしていた僕を、彼女は変えた。

 僕は、以前の様に毎日、怒鳴られ、夜遅くまで働いた。一度逃げ出した僕は一番下っ端になり、雑用ばかり命じられている。それでも、働いていれば、僕の心に根突いている深い葛藤を忘れる事が出来た。それに夢に向かって進んでいるという気持ちを持つことで、幾分か罪の意識が和らぐ気がしていた。

 忙しい日々はあっという間に過ぎていった。

 彼女とはメッセージのやり取りで連絡を取り合っているが、1ヶ月以上会っていない。2月の終わりに近づいた頃、僕は、彼女との恋の終わらせ方を真剣に考え始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る