ロンシャンで逢いましょう
T.KANEKO
前編
「そのまま! そのまま! あぁ……よせっ……ダメだぁ……くそーっ!」
僕は握り締めていた馬券を引き裂き、空中に放り投げた。
これで、朝から5レース、全て外れている。
尻のポケットから財布を抜き取って中身を調べると、家を出たときに入っていた3人の福沢諭吉は全て消え、残っていたのは野口英世5人だけだった。
今月のアルバイト代が入るまであと10日……
これで暮らしていけるのか? 僕は頭の中で算盤を弾いた。
6月中旬の土曜日、府中競馬場はのんびりとした雰囲気が漂っている。
2週間前のダービー、先週の安田記念が終わり、春のビッグレースに一区切りがついたからだろうか……
今年の春競馬は、散々だった。
思い起こせば、桜花賞で本命を打った馬が最後の直線で落鉄し、馬群に沈んでいったところから不幸が始まり、皐月賞では本命馬が優勝したにも関わらず、レース番号を間違えて購入していて、投入した資金は水の泡。
それ以降のレースは、負け分を取り返そうと穴馬ばかりを狙い、箸にも棒にも掛からなかった。
「あー、もう最悪だ!」
月曜日になると競馬なんて世の中から消えてしまえ…… と思うのに、金曜日になると競馬新聞を買ってしまう。
どうにもならない自分に、いい加減、嫌気が差した。
「今日はもう帰ろう…… 帰って頭を冷やして、残り10日間をどう生きるか考えなければ……」
僕はゴール前から西門へ向かって歩き出した。
その時、空から天使が舞い降りた……
「あぁー」
頭上から透き通った声が降り注いできた、と思った次の瞬間、白い羽衣が僕に覆い被さる。
僕は咄嗟に受け止めた。
しかし、それは羽衣なんかではなく、容易に受け止める事が出来ない重量感を持った人間だった。
僕は、そのまま仰向けに倒れる……
羽衣の正体は若い女性。
いや羽衣に見えたのは、肩に羽織っていたショールだった。
僕は、その女性を抱き抱える形で受け止め、重さに耐え切れなくて仰向けに倒れた。
「ご、ごめんなさい……」
僕の上で空を見上げている彼女が、振り返ろうとした。
爽やかな、いい匂いが漂った。
そして、彼女の唇が、僕の顔に接近する。
何かを期待して、思わず目を瞑った。
「……」
沈黙が漂う。
「あの、大丈夫ですか?」
期待していたハプニングなど起こる筈もなく、目を開けてみると、僕は彼女に上から見下ろされていた。
妙な期待をしてしまった事を見透かされているような気がした僕は、慌てて身体を起こし、彼女と向き合い、膝を突き合わせて座った。
「怪我はないですか?」
「お陰さまで、大丈夫です」
「あなたは?」
「僕も大丈夫です。頭は悪いけど、身体は頑丈なので……」
笑いを誘うようにおどけると、彼女はクスクスと笑った。
その笑顔は衝撃的に可愛らしく、僕の胸に懐かしい痛みが走った。
いわゆる一目惚れというやつだろうか……
「君は何をしていたの?」
「馬の写真を撮っていたんです…… そうしたらバランスを崩してしまって……」
僕は、脚立から誤って落下した彼女を受け止めた。
どうやら、そういう事らしい。
彼女が発した、写真、という言葉が一瞬、僕の心に暗い影を落とした。
僕は専門学校を卒業して、カメラマンの道を志していた。
しかし専門学校を卒業したからと言って、簡単にカメラマンへの道が開ける筈はなく、有名なカメラマンの助手として、来る日も来る日も撮影の手伝いをしてきた。
「ひろし、もたもたするんじゃねぇ!」
僕が師事しているカメラマンの厳しさは業界でも有名で、毎日、怒鳴られてばかりだった。まともな休みなど貰えず、労働時間は長いのに、収入なんて雀の涙ほどで、明らかにブラックな環境だった。
それでもカメラマンとしての腕を磨いて、いつかはプロになる!
そんな夢を持って頑張ってきたつもりだ。しかし、何年たっても助手と言う立場は変わらなかった。
ある時、後輩だった助手が一本立ちしてプロのカメラマンになった。
生意気で、僕の言う事なんて一切聞かない嫌な奴だった。
彼はカメラマンになった事を得意げに語った。わざわざ僕を呼び出して……
その瞬間、心に張りつめていた糸がぷつんと音を立てて切れた。
そして僕はカメラマンになると言う夢を捨てる。
それからは、クズのような生活をしてきた。
バイト先を転々として生活費を稼ぐ一方で、その大半を競馬につぎ込み、貧乏生活を強いられる。
写真という言葉を聞くと、暗い過去を思い出してしまう。
僕にとってはそれは禁句だった。
ふと我に返ると、彼女が少し照れくさそうに微笑んでいた。
「あの、もし良かったらランチでもしませんか?」
彼女の思いがけない言葉に、僕の心はときめいた。
「僕なんかで良ければ……」
一目惚れした女性に誘われて、断れる者などいる筈がない。
僕と彼女は、4コーナーの近くにある日吉が丘公園へ向かって歩き出した。
芝生の上に腰を下ろした僕たちは青々としたコースを見下ろしながら、評判になっているカツサンドを食べた。
お互い競馬が好きだという事で、初めて会ったばかりなのに不思議なほど会話が嚙み合った。
白い清楚な服装で、笑顔を浮かべて明るく話す彼女は、本当に天使のようだった。
僕は競馬場へ来ている事など忘れて、夢中で彼女との会話を楽しんだ。
「私の名前は、白川かなえ。大学の四年生です……」
彼女は都内の大学に通っているようで、その大学は誰でも知っている超一流の有名校だった。誰も知らないような専門学校を卒業したカメラマン崩れのフリーターとしては、気後れする。
それでも競馬の話をしていれば、立場なんて関係なかった。
彼女のサラブレッドへの思いは熱く、その事を話すときの瞳は澄んでいた。
これまでの思い出を楽しそうに話す姿に、僕の気持ちは益々引きつけられていった。
彼女は子供の頃、父親に連れて行かれた競馬場で、ディープインパクトという名馬に巡り合い、それが切掛けで、競馬にのめりこんだのだそうだ。
思い起こせば、僕も同じような境遇だ。父は動物園へ連れていくと偽って、僕を競馬場へ連れて行った。僕は競馬場と動物園を間違って教えられた。
何年か経って本物の動物園に連れて行かれた僕は、失望した。
それは父が競馬場を動物園だと嘘をついた事に失望したのではなく、檻の中に閉じ込められている動物たちが可哀そうに思えたからだ。
ターフを叩く蹄の音、荒々しい呼吸、轟くような歓声、目の前を疾風の如く走り抜けていくサラブレッドは、少年の心をときめかせた。
それに比べ、動物園は退屈すぎる。檻の中の動物には躍動感の欠片もなく、可哀想で仕方なかった。
多少の違いこそあれ、彼女も、僕も、父親に競馬を教えられ、虜になった者同士だった。
彼女が、カメラを手元に引き寄せた。
僕は、どんな写真を撮っているのかが気になり、画像を見せてもらった。
彼女の写真は少し特徴的で、サラブレッドの全身を捉えるのではなく、顔を中心に撮影している。
鬣をたなびかせて走る馬、舌を出している馬、目を充血させている馬や、前の馬に嚙みつきそうなほど闘志をむき出しにしている馬など様々だった。
ピントや露出があっていないものや、ブレているものなど若干の甘さはあるが、何を伝えようとしているのかが、ハッキリと分かる良い写真だった。
僕は、彼女に写真撮影のコツを教えた。そこを修正できれば、もっと良い写真が撮れると思ったからだ。彼女は僕のアドバイスを熱心に聞いて実践し、効果が現れると目を輝かせて喜んだ。僕を見つめる目が、それまでとは明らかに変わってきた気がする。
彼女は、臆するような視線で、「もしかして、プロのカメラマンさんですか?」、と言った。
一瞬戸惑った。しかし、首を縦に振ってしまう。
僕は嘘をついた……
成り行き上の小さな嘘をついただけなのに、ものすごく悪い事をしたような気分になった。その先は、雪面を転がる雪玉のように嘘を重ねていく羽目になる。
過去に助手として関わってきた現場を、まるで自分が撮影してきたかのように話し、有名タレントやスポーツ選手を知人であるかのように得意げに語った。
小さな嘘をつけば、それを隠すために、少し大きな嘘をつかねばならず、その繰り返しで取り返しがつかないほど大きな嘘になる。
立場的に気後れしていた僕はいつの間にか、優位に立っていた。
午後のレースが始まり、彼女が撮影を再開すると、その都度、僕はアドバイスをした。それはカメラ助手でも知っている程度の知識だったが、恐らく彼女は、それをプロカメラマンの指導だと受け止めている。
最終レースが始まる前に、彼女はお手本を見せて欲しいと言った。
僕は躊躇った。それは、彼女に流石だと思われるような写真を撮る自信が無かったからだ。それでも彼女がどうしても、と言うので、僕は彼女にピントを合わせてシャッターを切った。躍動するサラブレッドを彼女の背景にして……
僕が撮影した写真を彼女が確認する。
僕は彼女の反応を見つめた。
「撮影してほしいのは私じゃなくて、馬ですよ……」
彼女が笑いながら言うと思った。
しかし、実際は違った……
写真をじっと見つめていた彼女は、瞳を潤ませて、「ありがとう」、と言ったのだ。それは予想外の反応だった。彼女は僕の事をプロのカメラマンだと信じている。もはや引くに引けない状況に陥った。
僕は出会ったばかりの彼女に恋をしている。
しかしこの関係を続けて行く事はできない。
純粋な心を持った女性を騙してしまったのだから……
彼女は僕がこれまでに付き合ってきた女性とは明らかに違う。
嘘をついて交際に発展させることなど、あってはならない。
僕は、二度と彼女に会わないようにしようと、心に誓った。
全レースが終了し、僕らは競馬場を後にした。
僕は京王線で帰る彼女を正門まで見送り、府中本町の駅へ向かって歩き出した。
大きな後悔と、自己嫌悪に苛まれ、足取りはひどく重かった。
ここで僕のロマンスは終わる……
そう思った瞬間、透き通った声が背後から届いてきた。
「あの……」
それは彼女の声だった。
僕は反射的に振り返った。彼女はこっちを向いて直立している。
「来週も日吉が丘公園で会いませんか? お昼休みに……」
西日を浴びて輝いている彼女に、僕の心は沸き上がった。
しかし、次の瞬間には鉛を腹の中に埋め込まれたような苦しさに見舞われた。
僕は返事をすること無く、彼女に向って小さく手を挙げた。
***
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