第113話 暗雲

 浜へ到着して、あっという間に綾那と自身――ついでに旭の服まで乾かし終えた颯月。彼は、まるで何事もなかったかのように、しれっとした顔で魔力暴走の危険性について説いた。


「――良いか? この通り悪魔憑きは、精神的に不安定になっただけで魔力の制御が甘くなる。午後からは一層、気を引き締めてかかるようにな」

「はーい!」

「いや、どの口が言ってんだよ?」


 元気よく返事する子供達と違って、颯月を胡乱な眼差しで見やる陽香。彼女は「何が、ガキの時分から魔力を暴発させた事がない――だよ。説得力皆無じゃねえか、ふざけんな」と独りごちた。しかし、ふと切り替えるように綾那を見やると、珍しく心配そうに眉尻を下げた。


「アーニャ、平気か? 初っ端に深海に投げ出されたって聞いてたのに、迂闊だったわ……もうちょっと気にするべきだったよ、ごめんな」

「そんな、いいの――というか私自身、今日初めて気付いたから……あれがトラウマになってた事。でもまさか、泳げなくなっているとはね」


 苦笑いする綾那の頭に手を伸ばすと、陽香はポンポンと軽く叩くように撫でた。


「それにしても、魔具を持って行かなくて良かったよ。颯様のせいで危うく水没させるところだった」

「そもそも俺のせいじゃなく、旭のせいだろう?」


 またしてもあらぬ嫌疑をかけられた旭は、「違います」と言って手と首を横にぶんぶんと振っている。


(本当に、迷惑かけちゃったな――)


 綾那は、人知れず息を吐いた。そもそもの原因を省りみれば、それは間違いなく氷の上で足を滑らせた綾那である。旭は危うく海に落ちかけた綾那を助けただけで、彼には一切下心がないのだから。


 ただ、それを見た颯月が我慢できなくなった結果、彼の魔法によってつくられた氷が砕け散り、海ポチャするハメになっただけ。

 今でこそなんでもない雰囲気で立っているが、共感覚で彼と繋がっているらしい竜禅も、一時は胸焼けでもしたのかと心配になるほど苦しげに胸を押さえていた。


 颯月本人が「旭が手を出して、綾が受け入れたから動揺した」と言うのだから、綾那の自惚れでもなんでもなく、彼は嫉妬した――という事だろう。


 綾那は両手で頬を押さえると、今にも緩みそうになる口元を必死に引き締めた。

 婚約者なんて単なる肩書に過ぎない、颯月とは上司と部下、適切な距離感で接する――などと考えていた時期もあったような気がするが、やはり相手は綾那が神と仰ぐ男。それも、好きで好きで仕方がない男が嫉妬してくれるなど、喜ぶなという方が無理な話だ。


(軽率に喜んでいたら、ダメなのに……でも嬉しい、それに――)


 水に浸かったお陰で、颯月の身体にまで刺青が入っている事を知れた。結局、腕に入っているものの一端をちらりと覗くだけに終わったが――いつかは、じっくりと全貌を見せて欲しいものである。


 両頬を押さえたまま颯月を盗み見れば、ちょうど彼も綾那を見ていたのか、ぱちりと目が合った。ただそれだけの事で、じわじわと胸が温かくなって、幸せで――綾那は思わず目元をとろりと緩ませて、微笑んだ。言葉にしなくたって、『好き』が伝わってしまうくらいに。


 颯月は幾度か瞳を瞬かせると、甘ったるい笑みを浮かべ返してくれた。しかしそれも一瞬の事で、サッと表情を引き締めると子供達を連れて、特訓を再開した。


「お前らって、ホント――なんつーか、もうアリス探すのやめとくか?」

「な、何言ってるの、探すよ!」


 どうも陽香は、綾那と颯月が微笑み合っているのを見ていたらしい。その問題発言に瞠目すれば、彼女は唇を尖らせた。


「でも、「偶像アイドル」で颯様とられるんだぞ? 最近の颯様とアーニャ見てると、段々可哀相になってきたっつーか……関係を許す許さないは別として、少なくとも颯様はクズじゃねえみたいだから。さっきだって、そもそもアーニャを海に落としたのは颯様だけど、いの一番に助けに行った事は素直に評価できる」


 ぼやく陽香に、綾那は笑みを漏らした。


「陽香が、颯月さんの事を分かってくれて嬉しい。それだけで十分だよ」


 それだけで嬉しくなって笑う綾那に、陽香は深々と長いため息を吐いた。そして、おもむろに魔具を構えると、「祭りも近くなって特訓も佳境だし、そろそろ撮影変わるわ」と呟く。

 手持無沙汰になった綾那は砂浜に腰を下ろすと、ひたむきに頑張り続ける子供達と、それを監督する颯月をじっと眺めた。



 ◆



 監督役の颯月が思い切り魔力制御を誤った事で、子供達のモチベーションが下がるのではないかと危惧したものの――彼らは、逆にあの颯月でも気を抜けば大変な事になるのだから、自分達は相当に努力しなければ、このままだと冗談抜きでまずいのではないか、と危機感を覚えたらしい。


 より一層、真摯しんしに打ち込んだ子供達は、気付けばこの日、見事沖合まで氷を渡れるレベルまで達したのである。特訓を始めて三日目。颯月曰く底辺を超えてマイナスからのスタートだった子供達が、目覚ましい成長ぶりだ。

 しかし、すっかり辺りが薄暗くなってきたため、本日の特訓は終了する事になった。竜禅が操る馬車の中、特訓明けで疲労困憊の子供達は、一様に横になって眠っている。


「あと二日、か。まさか子供達が、誰一人として折れずにここまで頑張るなんて――」


 眠る子供達の頭を撫でながら、彼らを慈しむような表情で呟く静真。特訓を開始してからというもの、しばらくの間リタイアを促し続けていた彼の事だ。子供達の頑張りがここまで続くとは、本当にまさかと信じられない思いなのだろう。

 静真は続けて颯月を見やると、顔色を窺うように口を開いた。


「その――合成魔法まで、こぎつけると思うか?」

「さあ、どうだろうな。かなり安定してきているようだが、不足の事態が起きると集中力が散漫になるだろう? 海のド真ん中で「火炎弾ファイアボール」を爆発させる分には人に被害は出ないが、いざ街中でやるとなると――な」

「そうだよな……」

「せめて打ち上げの間、事故に備えて俺や右京が傍に着いて居られれば……ただ当日は忙しいから、そうも言っていられん」

「うん? 右京くんはそんなに魔力が高いのか? 意外だな、あんなに幼いのに」

「――ああ、まあ、『火』に関しては」


 静真もまた右京を普通の人間だと思い込んでいるのを、すっかり失念していたのだろうか。颯月は、適当に言葉を濁して誤魔化した。「それは凄い」と感心する静真に曖昧な笑みを返すと、「あとは、ガキ共のやる気次第だろうな」と告げる。


「合成魔法に参加できると、一番良いんですけどね。街の人の悪魔憑きに対するイメージも、多少は変わるでしょうし――」

「そうですね……そうなれば、どれだけ良いか。この子達も過ごしやすくなるでしょうね」

「ズーマさん、結局出店の準備すんの? 最悪キッズとお菓子売りするかもって言ってたけど……人手が要るなら、手伝おうか?」


 陽香の問いかけに、静真は熟考するように黙り込んだ。そしてやや間を空けてから、「止めておきます」と言って笑みを浮かべた。


「ここまで来たら、最後まで子供達の事を信じてみようと思います。どうせ出来ないだろうと決めつけて救済策を用意していたなど、子供達が知ればヘソを曲げるでしょうから」

「ははっ、確かに! 言えてるかもな!」


 特訓の日々に意識が変わったのは、子供達だけでない。静真もまたその一人のようだ。ただドロドロに甘やかすだけではなく、時には厳しく突き放すように、手出しする事なく黙って見守るのも大事だ。

 一時は陽香のノリありきの提案で、大変な心労と迷惑をかけたものだが――もしかすると今回の事は、静真にとってもよい経験になっているのかも知れない。


「そんじゃあ、まあ――明日、明後日と特訓を見守って、その後の話はその時に考える、だな! 明日も同じ時間に海へ行くのか?」

「あ、いえ、確か明日は雨の予報でしたから、氷の上を渡るのは無理だと思いますよ」


 即座に否定した旭に、陽香の顔が曇る。ただでさえ時間がないのに、それを天候のせいで断念せざるを得ないなど、まるで天――神にそっぽを向かれているようだ。


(そう言えばルシフェリアさん、なかなか帰って来ない。海を越えた先がセレスティンって言ってたけど、もしかして結構距離がある? 渚の事も気になるし、そろそろ陽香に祝福をかけ直してもらわないと、『呪い』も気になるんだけど――)


 あくまでも推測に過ぎないが、どうも陽香は実の弟に強く想われ過ぎているせいで、それがまるで執念のような『呪い』となって作用しているらしい。呪いは「奈落の底」のを呼び寄せる効果があるらしく、しかも時間の経過と共に、それは強くなる。

 そろそろ呪いの効果を打ち消すために、天使の祝福を授かりたい所だが――。


 もう綾那は、魔獣の核をひとつも持っていない。もしまたルシフェリアの力が極限まで弱まっていた場合、一体どうすればいいのだろうか。その際ルシフェリアの姿はもちろん、声を聞く事さえ出来ないのだから困りものである。


 うーんと一人考え込む綾那を他所に、陽香が明日の予定を確認する。


「じゃあ、明日は特訓ナシなのか?」

「いや、今は少しも時間を無駄にできんからな――まあ、何かしら別の方法を考えてみるさ」


 颯月の言葉に、静真は「面倒をかけてすまないな」と申し訳なさそうに眉尻を下げた。


 ふと荷台のほろの隙間から空を見上げれば――明日の天気が悪いと聞いたせいか――心なしか、いつもより空の光源が暗くなるのが早く感じる。

 綾那は天に向かって「どうか皆が、お祭りに参加できますように」と静かに祈った。この世界の神がルシフェリアである以上、一筋縄ではいきそうもない――と思いながら。

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