第112話 恐怖症?

 バシャーン! と、高い水飛沫を上げた綾那と旭。海を泳ぐ深海魚は突然の音と振動、そして人影に驚いたのか、一様に身をひるがえし水中奥深くへ逃げて行った。


 碧く澄んだ海は、水中にも魔法の光源を通していて明るい。視界良好、深海魚は姿を消して、付近に魔物らしき危険生物も見当たらない。水面はすぐそこで、なんら慌てる事はない。手足を動かして、水面に顔を出して、呼吸する。ただそれだけで良い。


 ――それなのに、と同じごぼごぼと籠った水音を耳にした綾那は、酷い恐怖感に襲われた。一度は死を覚悟した時の音、生を諦めた時の音。もったりと体にしがみつく水は異様に重く、手足どころか指先ひとつ動かせない。

 焦りと恐怖で、段々と思考が曇る。すぐ傍の水面を見上げれば何も怖くないと理解できるはずなのに、綾那の目は光の届かない水底へ縫い付けられて、離れなかった。


 まるで、見えない手に引きずられるみたいだ。硬直した体がゆっくりと沈んでいく。

 今日この時まで水中に潜る事がなかったため、綾那自身全く気付いていなかった。どうやら初めて「奈落の底」に転移させられた時の経験が、想像以上に大きなトラウマを作り出しているらしい。


 綾那はあの日、ヴェゼルによって歪められた転移陣をくぐった。歪んだ転移陣の座標が大きくずれた結果、送られた先は「奈落の底」ではない。水深350メートル付近の、「表」の深海――海中だったのだ。

 外界の光を一切通さない、墨を零したような漆黒に包まれた世界で一人きり。何も見えず、聞こえず、呼吸する事すら叶わない。体はずっしりと重く、酸素を求めてもがいたつもりが、暗闇では己の体がどう動いているのか知覚できなかった。

 綾那は訳も分からないままに、溺死する所だったのだ。


(水――、水、やだ、怖い、死ぬ……!)


 体を隙間なく包む、水の圧力。いくら沖合といっても水面近くなら圧力も弱いだろうに、どうにも息苦しくなって、心臓が爆発しそうなほど早鐘を打ち始める。今すぐ逃げ出したい。しかし、まるで石化したように硬直して動かない手足に、ますます混乱する。


 は結局、ルシフェリアに救われて事なきを得た。だから、まさかこんなにも深い恐怖が巣くっているとは、綾那自身思いもしなかったのだ。


 口元から泡が立ち昇り、ゴボゴボと無駄に酸素が失われていく音が聞こえて、もうダメだと絶望する。しかし、すぐ近くでもっと大きな音が聞こえた。ドボンと上から何かが飛び込んで、ただ沈むだけだった綾那の体が横に押し流される。

 そして誰かに強く腕を引かれたかと思えば、綾那はいとも簡単に水面へ顔を出した。


「うッ――げほっ、ごほッ……! 死ぬ、やだ、助けて……!」


 腕を引かれてようよう水面に顔を出した綾那は、激しく咳込みながら、腕を引く存在に縋りついた。腕を絡めてしがみついて、死にたくない、助けてという気持ちと同じ分だけ力を込める。「怪力ストレングス」を使ったらさすがにまずい――という意識と理性が残されていて良かった。

 綾那は救助者の首を絞めたい訳でも、肋骨を全てへし折りたい訳でもないのだから。


 誰だか知らないが――いや、まず一緒に落ちた旭に違いないだろうが――しかし、今の綾那の精神状態は尋常ではないため、どうか大目に見て欲しい。そしてあわよくば助けて欲しい。そんな事を思いながらカタカタと震える綾那に、救助者が声を掛けた。


「綾、綾――落ち着け、もう平気だから」


 間近で響いた低い声に、綾那は硬く閉じていた目を開く。綾那が縋りついた相手は旭ではなく、つい先ほどまで砂浜に居たはずの颯月だった。


 綾那と同じく全身濡れ鼠になった颯月は、まさに水も滴るなんとやらだ。しっとりと濡れた金混じりの黒髪は、彼のフェイスラインに添うように貼りついて、ぽたぽたと海水を垂らしている。「どうしてここに」「いつの間に」とは思ったものの、しかし彼の顔を見た綾那は、安堵からじわりと涙を滲ませた。


 どうも綾那の泣き顔が苦手らしい颯月は、グッと息を呑むと綾那を抱き締めて、その背を宥めるように叩いた。


「本当に悪かった。綾が泳げないと分かっていれば、こんなバカな真似はしなかったのに――旭が綾に手を出した上に、アンタはそれを受け入れたように見えて……動揺したんだ。俺のせいで怖い思いをさせたな、どうか嫌いにならないでくれ」

「――は!? お、お待ちください、騎士団長!? 自分はただ、綾那様をお救いしただけだなのですが……!?」


 抱き合う綾那と颯月の横で立ち泳ぎしていたらしい旭が、青い顔でブンブンと首を振っている。

 しかし颯月は彼の釈明に一切応えずに、ただただ綾那を宥める事だけに心を砕いている。ついには堪え切れなくなって嗚咽を漏らす綾那に、颯月はますます腕に力を込めた。


 綾那は僅かに身じろで、嗚咽混じりに弁解する。


「ご、ごめんなさい、私、泳げない訳じゃ――ただ、こっちに連れてこられた時、私、海の中で……死ぬところだった事を、思い出したら、体が動かなく、なって――」

「ああ、そうか……そう話していたな。それはトラウマになって当然だ、俺の配慮が足りなかった。さっさと浜辺へ戻ろう」


 綾那が何度もコクコクと頷けば、颯月は片腕に綾那を抱えたまま、右腕一本で浜へ向かって泳ぎ始めた。そして、その後ろを「団長! 冤罪です! 自分は、間違った事は何一つしていません!」と主張しながら、旭がついて来る。


「うぅ……颯月さん、どうやってここまで……?」

「氷が砕けるのを見た途端、さすがにまずいと頭が冷えた。それで、慌てて「空中浮揚レビテーション」で飛んで来た――これ以上旭に何かされたら、堪ったモンじゃねえと思って」

「団長、本当に誤解ですって!?」

「陽香は……?」

「陽香はギリギリ間に合ったから、心配しなくて良い。あいつ足速いな」


 綾那も足を動かせれば良かったのだが、不思議な事に、どうすれば水中で体が動くのかすら分からなくなっている。ただ、颯月の首にしがみつく腕がほどけないよう注意して、震える事しかできない。


 綾那は涙の乾き切らない瞳で、ぼんやりと颯月の右手を眺めた。水の抵抗で捲れ上がった服の裾から、白く逞しい腕が覗く。すると、その腕に黒い刺青のようなものが見えた気がして、綾那は「ひえ……!?」と高い悲鳴を上げた。


 突然声を上げた綾那に、颯月は目を瞬かせる。


「どうした? 正直、禅の魔法で浜まで運ぶ方が早いんだが――あれはどうしても飛沫が上がるし、顔に水がかかるのはよくないだろうと思って……」

「そ、颯月さん……っ! お顔だけじゃなく、体にも刺青があるのですか……ッ!?」

「…………うん? ――ああ……、まあ……」


 颯月は、綾那の言葉で初めて袖が捲れている事に気付いたのか、気まずげな表情で裾を戻した。続けて、刺青が隠された事に「あぁ……っ」と切ない声を上げた綾那に、「妙な声を出すな」と目を眇める。


「あの、その、それは! どっ、どこまで入っていらっしゃるんです?」

「どこまで――いや、右半身は全部なんだが……」

「どうしてっ!? どうして、今まで教えて下さらなかったんですか! 颯月さんのそんな格好いい姿を知らないままに、好きで居たなんて……私、ファンとして情けないです――!!」


 すっかり涙を引っ込めて、クッと下唇を噛みしめた綾那。その様子に、颯月は「ああそうか。心配せずとも綾は、が好きなんだったな――」と、安堵したように小さく息を吐き出した。


 冷静になって考えてみれば、颯月は母である輝夜に守られて、眷属の呪いが『半分』なのだ。であれば顔だけでなく、体の半身にも刺青が入っているのは至極当然の事である。

 綾那は、先ほどまでとは全く違う理由で瞳を潤ませると、間近にある颯月の顔を見つめた。「表」で写真集の撮影をする際、陽香とアリスから散々「あざとエロい」と揶揄された上目遣いも忘れない。


「颯月さん――お願いがあるのですけれど、聞いてくれませんか……?」

「………………聞くだけ、聞こうか」

「水に濡れてしまった事ですし、あの、服を全て脱いで頂けると、私とっても嬉しいのですが――」


 綾那の『お願い』が予想通りだったのか、颯月は呆れたような表情を浮かべると、無言で首を横に振った。しかし綾那は諦めない。


「いや、不特定多数に刺青を見られるのがお嫌でしたら、どこか人目につかない場所で! 私と二人きりの時に脱いでくれれば、それで――!」


 その言葉に、二人の後ろを泳ぐ旭がゴホッゴホッと激しく噎せる。颯月は泳ぐのをぴたりとやめると、左目を細めて真っ直ぐに綾那を見下ろした。


「尚悪い。アンタの貞操観念はどうなってる? 人目のつかん場所でいい歳した野郎の服ひん剥いて、それでどうして無事に帰してもらえると思ってるんだ」

「えっ、いえ、そんな! ち、違います、いかがわしい事を考えている訳では――それは確かに、転がり込んだ機会は逃せないと思いますけれど! 颯月さんの意思を無視して強引にに及ぶなんて、そんな……!」

「なんでアンタがいかがわしい事を側なんだ。いくら腕っぷしが強かろうが、悪魔憑きの俺をそう容易くビアデッドタートルできると思わん方が良い。道徳的観点からだけで、やろうと思えば綾を拘束する術くらい、いくらでもあるんだからな」

「ビアデッドタートルできるとは、どういう――」


 眉尻を下げた綾那に、颯月は何を思ったのか、後ろに居る旭に向かって「先に行け」と命じた。

 旭は誤解がとけていない事に不安そうな表情のまま、渋々といった様子で浜辺へ向かう。そうして綾那をじっと見下ろした颯月は、改めて深いため息を吐き出した後に、浜へ向けて泳ぎ始めた。


「それだけ元気なら、もう一人で平気か?」

「いえ、死にます。でも……さっきは必死でしがみついたから平気だったんですけど、冷静になった今、ちょっと色んな事が限界になっているのもまた事実です。離れたら溺死しますし、このまま密着していたら心臓がもちません」

「俺も色々とアレなんだが……まあ良い。浜へついたら風魔法で乾かすから、このままじっとしてろ」

「暑いし、自然乾燥でも構いませんよ? 私は魔法よりも、颯月さんの刺青が見――」


 首を傾げる綾那に、颯月は参ったように片手で額を押さえた。そして、濡れて額に貼りついた髪の毛を鬱陶しそうに後ろへ撫でつける。


「――薄ければ薄いほど良いと思っていたが、次からは下心に振り回される事なく、もう少し布地の厚い服を贈ろう」


 綾那は、すぐさまハッとして自身の姿を確認した。水に濡れ、服の上から肌が透けて見えている。肌が透けているという事は、下着もまた然りだ。綾那は途端にばつが悪くなって、「お手数おかけして、すみません――」と項垂れた。

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