第92話 束の間の休息
「ええと――それで、もう話は落ち着いたという事で良いだろうか?」
苦く笑う隼人に問いかけられた一行は、気まずげに頷いた。仮にも敵地のド真ん中――しかも隼人の前だというのに、あまりにも内輪ではしゃぎ過ぎてしまった。
「話の腰を折りまくって悪かったよ、ハヤヤ。オイ、颯様! まだアーニャとの仲を認めた訳じゃないんだから、むやみにベタベタしない!」
いまだ綾那を抱き寄せたままの颯月を、陽香がキッと睨みつけた。颯月は「チッ」と、割と大きな舌打ちをしてから――もちろん陽香は、「アイツ、舌打ちしやがった!」と反応した――綾那の名を呼びかける。しかし返事のない綾那に首を傾げると、そっと顔を覗き込んだ。
すると、ついに睡魔に負けたのか、それとも颯月の腕の中がよほど居心地良かったのか。綾那は安心しきった表情で、スースーと微かな寝息を立てている。颯月は途端にハッとして「天使――?」なんて呟いたかと思えば、寝顔が周りに見られぬよう角度を変えて綾那を抱え直した。
「無理だ、これは手放せん。起こしたくない」
どこまでも真剣な眼差しで綾那を見下ろす颯月。そんな彼を、陽香は音量を抑えた声で諫めた。
「いや、そんなもんソファに寝かせとけば良いだけの話で……!」
「動かして起こしたら元も子もないだろう。催眠毒入りの茶で昏倒していたアンタ達と違って、綾は一睡もしてないんだ。そもそも綾の寝顔なんて初めて見たんだから、少しくらい堪能させてくれたって良いだろうが――話はこのままでも聞ける」
「オネーサン、もう諦めたら? これ以上無駄話に時間を
右京に宥められた陽香は、「うぐぐ……っ」と悔しげに顔を歪めた。しかし、やがて大きなため息を吐き出すと、勢いよくソファに座り込んだ。
ちなみに、昨夜から一睡もしていないのは颯月も同じなのだが、もう陽香も右京も彼の活動時間の長さに慣れてしまったのだろうか。最早ツッコむ事すらしない。
「それで、なんの話だっけ? ゼルの兄貴の悪魔、ヴィレオール――もう長いから、レオで良いか。そいつが悪さしてるって話か」
「ああ、あくまでも私の体感の話だがな」
「参考までに聞くけど、おかしくなったのは領主一家だけなのか? 他の被害は?」
続けて陽香に問われると、隼人は腕組みをした。そうして、自身の記憶を
「領地全体に悪政が敷かれるようになって久しい今、まるで領主様の人が変わったようだと思う者は多いだろうが……しかし、私が早い段階で異変の
「ああ、「転移」のギフトもち?」
「彼らは、ふた月ほど前に流れてきた者だから、そもそも元の人柄が分からないのだが――ただ、領主様と近しい場所で過ごすようになってから、日に日に攻撃的になっていったように思う。もしかすると彼らも、何かしらの影響を受けたのかも知れないな」
「アーニャに聞いた話じゃあ結構、こっちで
悪魔による洗脳なのか、単に「表」とは違う世界にやって来て、理性のタガが外れているだけなのか。しかし実際、彼らが悪魔と接点を持っている事は間違いないのだ。精神に悪影響を受けているというのも、全くあり得ない話ではない。
「――
「む?」
「団長は今も昔も、領主一家の傍につく事が多いでしょう。それで、平気なんですか?」
「ああ……まあ、そうだな。そうなるよな」
悪魔に近付くと精神に悪影響を受ける可能性があるならば、そもそも領主と接点の多い隼人に影響はないのか――。右京の疑問は、浮かんで当然のものであった。
すると隼人は微かに笑って、胸元から首飾りを取り出した。その飾りを見た颯月が感心した様子で呟く。
「『光」の陣が組み込まれた魔除け――か?」
「ああ。私の娘は、昔からアクセサリーに陣を込めるのが得意でな。元は無病息災を祈って持たされたものだが……もしかすると、悪魔に対抗する力があるのかも知れない」
「へえ、スゲーな! 光魔法を使った、特別なお守りって感じ? やっぱ魔法には、魔法で対抗するしかない訳だ。悪魔っていうからには、たぶん闇魔法が得意なんだろう?」
「ほとんど文献が残されてないから、なんとも言えんが――悪魔憑きが全員闇魔法を使えるようになる事を考えれば、その可能性が高いな。正直、眷属を作り出す存在だって事ぐらいしか判明していないんだ」
「そういうもんなのか? でも、「転移」のヤツらまで毒されてるって事は、あたしらも悪魔に近付き過ぎると危ないんだな」
「オネーサン達は注意が必要かもね。ただ、悪魔憑きの僕や紫電一閃には関係ないと思う。精神に作用する魔法はほとんどが闇魔法で、僕らはそういう類の効果を一切受け付けないから」
「ほお、便利。じゃあ今後悪魔が出てきたら、うーたん達に任せるって事で! あたしもアーニャも魔法なんて使えんし――で、この後領主に会ったとして、どうなる感じ?」
隼人は口元に手を当てて、思案顔になる。
自身を殺しに戻って来たのではないか――と誤解されている右京に、領主の息子伊織から桃華の誘拐を邪魔したと逆恨みされている綾那。そして、いまだ桃華の婚約者だと思われている颯月。恐らくその勘違い全てが、悪魔に欲望を増幅して歪められた結果なのだろう。
「まともな対話はできないと思っていた方が良い。彼らは異常な精神状態に置かれている、右京の退団話だって全く信じないはずだ」
「うーん……まあとにかく、僕は通行証を突き返して出て行く事にしますよ。彼らとはこれ以上、関わり合いたくないですし」
なんでもない事のように言い切る右京に、隼人は「何やら見ない内に、色々と吹っ切れたらしいな」と感心する。
右京は元々両親の事を好いていなかったようだが、しかし弟の事だけは気にかけていた。しかしそれも、見切りを付けてしまったらしい。
「もかぴの件は?」
「桃華の本命は成だから、王族の親族に準じる者だって事を教え込むしかないだろうな。これ以上手出しするようなら、
「ああ……そうか、彼あれで王弟殿下の息子なんだっけ? 彼女を害する者には、個人の裁量で罰則を与えられる訳だ」
リベリアスには独特な法律がいくつもあるが、そのうちのひとつに王族のみに適用されるものがある。親族、またはそれに準ずる者を害された場合、国王の判断を仰がずに個人の裁量で罰してよい――という法律だ。
親族に準ずる者とは、婚姻予定の者も含まれる。正に桃華がその項目に該当するのである。
「ただ、綾を逆恨みしている件については……困ったな。俺が勘当されていなけりゃあ、話は早かったんだが」
「水色のお姉さんは、
「んー、よし! それじゃあ、いい加減腹くくって魔窟へ向かいますか!」
仮にも幼少期を過ごした実家を魔窟呼ばわりされる右京としては、堪ったものではないだろうが――しかし何も反論しないあたり、彼自身も同じ思いなのだろうか。
隼人はあまり気乗りしない様子で重々しく頷くと、執務室の扉を開けて、廊下で待機している騎士に何事かを囁いた。それから椅子に座り直すと、一行の行く先を憂うように小さく息を吐いた。
「いっそこのまま、話し合いなんてせずに他領へ逃げて欲しい所なんだが――」
「そしたら、あたしらを逃がしたハヤヤが責任問われるんじゃねえの? 娘さんが居るなら、わざわざ脅迫材料を渡す事ねえって」
陽香は屈託なく笑って、右京は肩を竦めた。そうして、申し訳なさそうに頭を低くする隼人を励まそうと考えたのか、颯月もまた笑みを漏らした。
「陽香の言う通り、家族が居るなら慎重に動くべきだ。家族の命だけでなく自分自身の命も大事にしてやれ、娘が居るなんて羨ましい」
しかし颯月の言葉に、空気が和らぐどころか隼人は顔を強張らせた。彼が一生悪魔憑きであるという事は、周知の事実だからだろう。
「その、すまない――貴殿の前で、軽率だっただろうか」
「うん? ああ、いや、悪い。別に責めてる訳じゃねえし、嫌味でもない。純粋に羨ましいと思っただけだ、気にしないでくれ」
「あー、颯様、子供好きっぽいもんな。アイドクレースの教会のちびっ子、皆懐いてたもん――だからと言って、アーニャに変な事するのは許さないけどな? いきなり「子供ができました」なんて報告、ファンにできんぞ……!」
言いながら頭を抱える陽香に、颯月は口元だけの笑みを浮かべた。二人のやりとりに、右京がため息を吐き出す。
「彼は一生悪魔憑きだから、その心配はないよ」
「……なんで? まさか悪魔憑きって
「はあ? ちょっと、失礼な事言わないでよ、オネーサン」
「全くだ。俺は、いつでも綾を抱く用意ができている」
「だから、ふざけろ颯様! 友人の設定ぶん投げんじゃねえ!!」
キリリと無駄に凛々しい顔をする颯月に、陽香は思い切り噴き出してから眦を吊り上げた。
「不能じゃねえが、種がないんでな。俺に子供は、一生無理だ」
「えっ……マジかよ」
絶句した陽香に頷き返すと、颯月は眠る綾那を抱く腕に力を込めた。そして、やれやれと言いたげな表情で、小さく肩を竦めて見せる。
「そうでなけりゃあ――俺は、綾がアンタと再会するまでに既成事実を作って、力ずくで結婚していただろうよ。全く、本当に悔やまれる」
「何言っちゃってんのお前!?」
「一度でも腕に抱いたら、手放したくなくなるに決まってんだろ?」
今度は口元だけでなく目元まで緩めて低く笑った颯月に、陽香は面白くなさそうな表情になる。しかし、きつく言い募る事はしなかった。彼が場の空気を和らげるために、わざと軽口を叩いているのだと察したのだろう。
「既成事実が無理だからって、アーニャに何しても良い訳じゃないからな? 友人として、節度を守って付き合うように」
「
「……へいへい。正直アーニャは全く信用ならんし、颯様だけが頼りだぞ」
目を眇めた陽香に、颯月は「確かに綾は、隙だらけだ」と言って笑う。そうでなければ――いくら昨夜一睡もしていないからと言って――男の腕に抱かれたまま無防備に眠るはずがない。
陽香は綾那を見ながら忌々しそうに親指の爪を噛むと、「アリスさえ居れば、こんな面倒な事にはならなかったのによ……!」と独りごちる。
その言葉に、彼女の隣に座る右京が反応した。
「そういえばオネーサン、さっき興味深い事を言っていたよね? オネーサンの仲間を見た後も水色のお姉さんの事が好きなら、関係を認めるって……そのお仲間、水色のお姉さんよりも――なんて言うか、豊満……豊満はちょっと変な言い方か。色気があるとか? 似た感じの人なんだ?」
「アリスが? いや、アーニャとは似ても似つかん、真逆っぽい。まっ
「なんだ、オネーサンみたいな人なのか」
見るからにがっかりした様子の右京の後頭部を、「誰が厚化粧か! こちとらナチュラルボーンフェイスじゃ!!」と言って陽香がはたく。隼人は複雑な表情で「厚化粧以外は否定しないのか」と呟いたが、激昂した陽香の耳には届かなかったようだ。
「悪いが、綾の真逆なら俺の趣味じゃあねえぞ」
「趣味とか趣味じゃねえとか、そういう次元の話じゃねえんだよ。アリスのギフト――「
その言葉に、右京は顔を顰めた。それではまるで洗脳のようだ――とでも思ったのかも知れない。事実「偶像」の力はそれに近いものがある。他の女性に
「あのアーニャにこれでもかと尽くされて、良い気になっていたにも関わらず、それでも離れずに残った男は今まで一人も居ねえんだぞ? 颯様だって例に漏れず――ああ、うーたんもアリスに夢中になるって事か。そう思うと、なんかちょっと楽しみだな?」
「ちょっと、全然笑えない。勘弁してよ」
悪戯っぽく笑う陽香に、颯月は思案顔になる。そして眠る綾那を見下ろしたかと思えば、不思議そうに首を傾げた。
「まさか俺は、綾に信用されてないのか?」
「――信用って?」
「何があっても家族が関係を認めんから、俺に養われるのは無理だと断られていたんだが……本当の理由は、いずれ俺がその能力に屈して、手の平を返すだろうと不安に思っているからか?」
その問いかけに、陽香はなんとも言えない表情になる。そして、たっぷりと間を空けてから口を開いた。
「……まあ、信頼と実績の「偶像」様だからな。実際、アーニャが今までに何人の男を取り上げられてきたと思って――」
「ああ、待て。綾の昔の男の事はいい、聞きたくねえ。今までの話からして、どうしようもないクズばかりだったんだろう? そんな相手は付き合った内に入らん、ノーカンだ」
「その理屈はよく分からんけど……まあ確かにあんなもん、有名スタチューバーとして付き合った内にカウントして欲しくない気持ちはあるな」
「つまり、俺がその仲間に会った後も変わらず綾に惚れていれば――陽香だけでなく、綾も俺の事を認めるという訳だな?」
「んん? いや、そう――いや? どうだろうな……? まあ、少なくとも颯様を見る目は変わると思うけど――」
陽香は困惑した様子で首を傾げた。何せ過去、そんな男は存在しなかったのだ。前例のない男に出会った時、綾那がどうなってしまうのか全く読めない。
いくら信頼と実績のある「偶像」と言っても、陽香は「もしかして、「偶像」に耐えたら認めてやるなんて軽々しく言ったのは、大変まずい事なのでは?」と目を細める。
万が一にもそんな事はないだろうが、しかし、もしも本当に颯月が耐えてしまったら? 結果、颯月の事も綾那の事も止められなくなってしまったら、陽香はいよいよ渚に合わせる顔がなくなるのではないか――?
突然黙り込んだ陽香に、右京が「オネーサン?」と呼び掛けたが、彼女が答える前に執務室の扉が開かれた。領主に連絡を終えたらしい騎士が、屋敷へ案内すると伝えに来たのだ。
「――おっ、よし! この話は、保留にしよう!!」
陽香は勢いよくソファから立ち上がると、強引に話を切り上げようと試みた。一旦時間を置いて、もしもの時のために策を練り直すべきだと思ったのだろう。
しかし颯月は口の端を引き上げると、眠る綾那を横抱きにして立ち上がった。
「陽香。アンタ確か、一度口にした事は曲げない性分だと言っていたよな。撤回はなしだぞ、その仲間と合流する日が楽しみだ」
陽香はウグッと低く呻いてから、「あー、うん。そうだな、完全に早まった――」と観念したように呟いて、がっくりと項垂れたのであった。
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