第90話 アデュレリアの団長
あれから三十分ほど経過しただろうか。右京は、体内魔力をいくらか蓄えた状態で「
もちろん陽香は、モフモフの毛並みが堪能できなくなる事を大層悲しんでいた。
しかし、悪魔憑きはマナを際限なく吸収してしまうため、過剰に吸えば苦痛を感じてしまうのだ。それも、右京はマナの吸収を阻害する魔具を一切持ち合わせていないので、魔力が溜まるそばから「時間逆行」へ注ぎ込まなければならない。
一通り説明を聞いた陽香は、彼の身を想って渋々了承するしかなかった。ちなみに、颯月もある程度魔力を回復できたようで、既に眼帯を付け直している。
一行がオブシディアンへ帰還すると、アデュレリア騎士団の面々が出迎えてくれた。彼らは戸惑いながらも、しかし右京に向かって「お陰で、街には被害がありませんでした」と頭を下げる。
その中には、元々右京が会う予定だった男――騎士団長の姿もあった。
「右京、どうしてお前はそう頭が堅いというか、真面目すぎるというか……何故わざわざ戻って来るんだ? 折角、どさくさに紛れて逃がしてしまおうと思っていたのに――」
そのため息交じりの言葉に、右京は団長を胡乱な目つきで見上げた。
アデュレリアの騎士団長は、四十代くらいの壮年の男性である。名は
彼は颯月以上に身長が高く、体躯はがっしりとしていて筋骨隆々だ。騎士服の下から布を押し上げるように隆起した筋肉は、圧巻の一言である。
「やはり、旭らが受けた処分について把握していらしたんですね。その上で僕を領から出したんですか」
「当然だ。このままオブシディアンに残っていては、お前まで何をされるか分かったものではない」
「だから、諸国を回って部下を探せと? しかもそのまま、アデュレリアへ帰らずに逃げ出せとは――あまりにも無茶ではありませんか。それなら初めから、部下を失った責任を取って今すぐに辞めろと言ってくれれば良かったものを……そうすれば、こんな面倒事に巻き込まれずに済んだのに」
ぼやく右京に、隼人は苦笑いを浮かべて息を吐いた。
「とにかく、中へ入れ。領主様の所へ
隼人に水を向けられて、颯月は肩を竦めた。そして何を思ったのか、おもむろに綾那の腰を抱き寄せる。
「俺の婚約者が休める部屋なら、招待されてもいい。お陰様で、昨夜は一睡もできなかったんでな」
「そ、颯月さん。私まだ平気ですよ、今は寝ている場合じゃありませんし――」
「……婚約者?」
言いながら隼人は、目線を下げて颯月と綾那の左手をそれぞれ確認した。そして、ハッと瞠目する。
「エッ、「
「それは、周囲が勝手に流した噂だろう? 俺の天使は今もこれからも、綾一人だけだ」
「そッ、て――やめ……ッふぐぅう……っ!」
「おい、アーニャの
「責任はとるから心配はいらん。何せ俺は、綾に
綾那は両手で顔を覆い悶えて、そのすぐ横から陽香がじっとりとした目つきで眺めている。
全て任されている――とは、恐らくいつか竜禅に「颯月に
(いや、言質とか権限とかよく分からないけれど、このままだと幸せ
そんな一行のやりとりをぽかんと見つめていた隼人は、右京に「団長?」と呼び掛けられて、ようやくハッと我に返った。
「では、幼馴染の女性は――いや、とにかく中で話そう。領主様へ伝言を頼む。私が事情を聞き終わり次第、早急にお屋敷までお連れすると」
「承知しました!」
隼人の指示に一人の騎士が応えると、彼は機敏な動きで背を向けて駆け出した。その後ろ姿を見送った隼人から「こちらへ」と促されて、一行は再びアデュレリア騎士団の本部へと招き入れられた。
◆
「第四分隊の部下が、家族を含め全員生きていた――?」
執務室で右京の報告を聞いた隼人は、信じられない様子で目を丸めた。通行証を取り上げられて領から追い出された時点で、彼らの生存率は限りなく低いと思っていたらしい。
実際、旭らが誰一人として欠ける事なく生き残れたのは、相当に運が良かった結果だ。彼らが元騎士で、魔物との闘いに長けていた事。第四分隊という、領主の無茶ぶりが日常茶飯事の隊に所属していたお陰で遠征が多く、他領の地形について詳しかった事。
必然的に、魔物が多く生息する危険地域を避けて通れるほど、知識が豊富だった事。
そして、幸か不幸か「転移」もちの男達に目を付けられて、アイドクレース騎士団に拾われた事。これらのどれかひとつでも欠けていれば、きっと全員無事とはいかなかっただろう。
「……颯月殿のお陰だな」
「もっと感謝してくれていいぞ、うーたん」
「礼ならもう言ったでしょ。あと、うーたんはやめてってば」
愛らしい顔を苦々しく歪めた右京は、報告で話し疲れたのかテーブルの上のカップを手に取ると、口元へ運んだ。しかし口を付ける瞬間にぴたりと動きを止めて、中に注がれた茶に広がる波紋を眺めたかと思えば、ちらりと隼人を見やる。
隼人は苦笑いを浮かべて、首を横に振った。
「茶の他には何も入っていない、最早信じられないだろうがな」
「そうですか」
「それでお前は、アデュレリア騎士団を抜けるつもりで挨拶をしに戻って来た――と?」
こくりと茶を飲み下した右京は、「社会人として、退職願を出すのは当然の事でしょう」と目を眇める。隼人は「退職願ならいっそ、他所から書面で送れば――いや、お前はそういうタイプではないよな」と独りごちた。
隼人は恐らく他の騎士同様、身内を人質にされている。そのせいで領主の命令に
確かに彼は右京の言う通り、よい人間らしい。少なくとも隼人は右京の身を案じて、このままでは危険だからと、領主の手の届かない場所へ追いやろうとしたのだから。
ただ、安全の為に二度とアデュレリア領には戻らぬ方が良いと思っていた割に、早々に退職を迫らなかったのは悪手だ。右京が真面目で厳格であるという気質を考慮していなかったのか、それとも、彼とこれっきりにしたくなかったのか。
「領主様がいつ頃からおかしくなられたか、覚えているか?」
神妙な顔つきで口を開いた隼人に、右京はやれやれと言った様子で小さな肩を竦めた。
「あの人達は、初めからおかしかったでしょう」
「それは違う。少なくとも以前は街を、アデュレリア領を豊かにしようと尽力する良い人間だった――
右京は言葉に詰まると、顔を俯かせた。
震える声で「それって、つまり――」と呟いたが、横に座っていた陽香が突然、彼をギュッと抱きすくめる。そして大きな猫目を細めると、隼人を睨みつけた。
「おい、ハヤヤ! 領主がおかしくなったのは、うーたんのせいだって言いたいのかよ!?」
「陽香、ハヤヤは力が抜けるからやめてくれと――いや、違う、そうじゃない。私が言いたいのは、そういう事じゃないんだ」
「なんだよ、そもそも悪魔憑きってのは、なりたくてなるモンじゃないんだろ!? 眷属とかいうヤツに襲われてなるって聞いたぞ、こっちは被害者だろ! まさかお前、いじめられる方にも原因があるとか言うタイプか? 見損なったぜハヤヤ!!」
まるでガルル、と威嚇する猛犬のように敵意剥き出しの陽香に、隼人は「違う、落ち着いてくれ」と言って困ったように眉尻を下げた。彼女の腕の中では、意気消沈した様子の右京が小さくなっている。
「よ、陽香、一旦落ち着いて。怒るのは、ちゃんと話を聞いてからにしよう?」
「アーニャはそもそも怒る事がねえから分かんないだろうけど、こういうのって簡単に我慢できるモンじゃねえから!」
「いや、えっと……私もこっちに来て随分と怒りっぽくなっちゃったみたいだから、気持ちは分かるよ?」
「へ? アーニャが? 嘘だろ、ありえねえ――も、もうゴリラって言うの、やめた方が良いか? じゃあ、あたしいつかカッとなったアーニャに、殴り殺されるかもって事?」
途端に怯えた表情になった陽香に、綾那は「その反応は、あまりに酷いのではないか」と目を眇める。しかし、結果として陽香をトーンダウンさせる事には成功したので、ちらと隼人に目配せして続きを促す。
「私が言いたいのは、右京が悪いという事ではなくて――ただちょうどあの頃から、領主様の周りをうろつく不審者が姿を現すようになった。毎度人が変わるから、初めの頃は大して気にしていなかったのだが……あの不審者は今も変わらず、領主様の傍についている」
「……どういう意味だ? 人が変わるって事は、複数人居るんだろう。その言い方じゃあ、相手は個人――同一人物だと言っているように取れるが?」
颯月が腕組みしながら問いかければ、隼人は「ああ、言い方が悪かったな」と頷いた。
「そう、その通り相手は個人だ。変わるのは人ではなく、姿――アレは悪魔だからな」
「えっ、でも、右京さんが悪魔憑きになったのって十歳の頃だから……ええと、約十五年前? そんなに昔から、オブシディアンに悪魔が棲みついていると?」
「そんな――だって、領主の周りに見慣れない男が居ると噂され始めたのは、ここ数か月の事ではないですか!」
「いや、怪しい人物なら昔から見かけていた。ただ単に最近姿を変えなくなって、多くの者が存在を認知できるようになった――というだけだろう」
深いため息を吐き出した隼人、領主と悪魔についてぽつりぽつりと語り始めた。
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