第89話 問題の解決に向けて

(ああ、涼しくて気持ちいい――)


 颯月が魔法で造った氷の柱に囲まれて涼みながら、綾那は緩み切った息を吐き出した。やはり外気温が高いため、氷はあっという間に溶けて体積を小さく縮めていく。しかし、先ほどまでのうだるような暑さと比べれば、遥かに快適だ。


 颯月は、陽香のペット発言にひとしきり大笑いしたのち、魔法で一行の体を着衣状態のまま洗って乾かした。陽香がひと月もの間着替えを必要としなかったらしい、噂の魔法だ。そうして汗と土埃を流し終わった後、氷の柱をいくつか立ててくれた。右京の魔法による余波が原因なのか、綾那と陽香に向かって「肌が赤くなってるから冷やせ」――と。


 もちろん柱に直接触れると、溶けた氷で濡れてしまう。だからあまり近付く事はできないが、それでも氷の冷気はしっかりと肌を冷やしてくれる。うだるような暑さと氷の冷気で、自律神経がおかしくなりそうな予感もするが――まあ、良いだろう。


 ちらりと氷柱の隙間から陽香を見やれば、彼女はいまだに右京の尻尾を手櫛でブラッシングしている。氷で肌を冷やす事よりも、彼をモフる事を優先したのだ。

 右京は最早抗議する気力もないのか、地べたに座り込んでムスッとした表情をしている。大変不服そうだが、陽香に抗議する事も、嫌がって暴れる事もなく、ただじっと大人しく耐えているようだ。


 彼が抵抗しないのを良い事に、陽香は大きなキツネ耳を指先でくすぐった。右京はぷるる、と耳を小刻みに震わせるように動かすと、困ったような顔をして両耳を伏せる。ぺったりと耳を伏せたその姿は、まるで何かに怯えているようにも見えて――どうにも庇護欲をそそられてしまう。

 そっと抱き締めて、「怖くないよ、イイコだね」なんて言い聞かせてあげたくなる姿だ。


(いや、仮にも年上の男性相手にこんな事を考えるなんて、失礼だよね)


 綾那は「いけない、いけない」と頭を軽く振ると、両手で氷柱に触れて手の平を冷やしてから、自身の両頬を挟み込んだ。僅かに熱をもった肌は、ほんの少しぴりついている。

 元来白肌で、しかも焼けにくい体質の綾那。例え真夏に海水浴を楽しんだとしても、肌が真っ赤に焼けるだけで色素が黒くなる事はない。日焼けというか、文字通り火傷やけどである。


 だから今回も黒くはならないだろうが、それでも薄皮の一枚や二枚は剥けてしまうかも知れない。

 しかし、まるで核爆発を彷彿ほうふつさせる魔法が、僅か一キロしか離れていない地点で使われたのだ。薄皮で済んで良かったと思うべきだろう。


 綾那は改めて安堵の息を吐き出すと、口元に手を当てて欠伸をかみ殺した。思い返せば、昨夜は一睡もしていない。身の安全と仲間の無事が確認できた今、睡魔に襲われて当然である。欠伸のせいでじわりと張った涙の膜に、颯月が怪訝けげんな表情を浮かべた。


「……綾? 平気か?」

「安心したらちょっと、眠たくなってしまって」

「ああ、そうか。そうだよな、夜も寝ずに陽香達の帰りを待ってたんだから、当然だ。宿のチェックアウトを延ばせるか、確認しねえと――」


 納得したように頷いて呟く颯月に、陽香にされるがままだった右京が目を眇める。


「ねえ、もう全部終わった気でいるみたいだけど、問題は何一つ解決してないって事を忘れてない?」

「あ……とりあえずキラービーの脅威を退けたっていうだけで、領主さんの事も、騎士団の事も――ヴェゼルさんの事だって、何も解決していませんでしたね」


 一行は、ただヴェゼルのゲームをクリアしただけだ。クリアと呼ぶにはあまりに力技続きだったような気もするが、クリアはクリアなのだ。


 恐らく右京は、領主とヴェゼルの利害の一致によって、魔法封じの檻に捕らえられていた。領主は彼が、自身を殺すためにアデュレリア領へ戻って来たと思い込んでいるらしいし――もちろん、右京にそんなつもりはないのだが――とにかく領主の誤解をとかねば、話は始まらないだろう。


 どうもこのオブシディアンで、領主の権限は絶対らしいのだ。何せ、本来誇り高く清廉なはずの騎士が、家族諸共領から追い出されたいのかと脅迫されて、領主の悪事に加担しているくらいなのだから――。

 このままでは、右京がアデュレリア騎士団を退団するどころの話ではない。


「ところで……あの物見櫓はあんな事になってしまって、平気なんですか? 戦時中のものだからアレですけど、歴史的価値のある遺産なのでは……?」

「うん? まあ、キラービーがグチャグチャにしていたし、仕方ないんじゃないの。そもそも使われてないもので、取り壊すにもお金や人手がかかるから、放置されていただけだしね」

「そ、そういうものですか――」


 櫓が建っていた場所には、現在何も残されていない。それどころか、隕石が落ちたのかと疑うほど地面が大きく抉れているように見えるのは、気のせいではないだろう。


(なんか、問題を解決するどころか……逆に増やしているような)


 檻を壊すわ、屋敷の壁は壊すわ、その上なんの説明もする事なく脱走して、ここまでやって来た。

 右京に関しては領主の誤解が原因だから、今すぐにアデュレリア領から出て行くと伝えられれば、まだ助かる余地はありそうだ。しかし、器物損壊を働いた綾那については、冗談抜きで訴えられてしまうかも知れない。


(外壁を囲んでいる騎士さんは、キラービーの動きが見えていたはずだし……少なくともあの人達は、右京さんの魔法で街が助かったって分かっているはず――だよね?)


 ただ、仮に理解を得られていたとしても、領主に恩情を求めてくれるとは思っていない。この辺りはただでさえ悪魔憑きに対して冷たいし、絶対的な権力をもつ領主から右京が嫌われていたら、どうにもできないだろう。


(そもそも、私が捕まったのは右京さんと別件だって言っていたっけ。桃ちゃんが誘拐されるところを、二度も邪魔しちゃったから)


 そうだとすれば、どうあっても綾那だけは許されない。権力者の屋敷に監視カメラが設置されていないはずがないし、悪魔ヴェゼルがアレコレと告げ口していたら終わりなのだから。


「ええと……もしかして私、もうオブシディアンには戻らない方が――?」


 すっかり溶けて、綾那の腰の高さまで縮んだ氷柱。その間からするりと抜け出して、綾那は窺うように首を傾げた。


「それが賢明かも知れないね。ただし、僕らを幽閉していた部屋や、その道中に監視カメラがなければ――の話だけど」

「そもそも、なんでアーニャと颯様まで捕まってたんだっけ? 右京の仲間っぽいから、探しに来られても面倒だし捕まえとけ~って感じか?」


 陽香の問いかけに、綾那はきょとんと目を丸めた。しかしすぐさま、実行犯の騎士が誘拐の理由を述べている間、彼女はアナフィラキシーショックでそれどころではなかったのだと思い至る。


伊織いおり……僕の弟のせいだよ。あの幸成とかいう騎士の、恋人――」

「あ、そっかそっか、もかぴの件な! なるほど、右京の弟が噂の領主の息子になる訳だ。小さい頃もかぴに惚れて、それ以来一度も会ってないくせに、誘拐したいぐらい好きだって言う――右京お前、完全に弟の教育間違ってんぞ」

「僕は家を追い出されてたんだから、伊織の教育には一切関わってないよ!」


 呆れ顔の陽香に、右京は頭痛を堪えるような表情で額を押さえた。


「つまり、もかぴ誘拐大作戦を邪魔したのはアーニャだって事が、領主サイドに伝わってんだな? 颯様はアーニャと一緒に居たから、ついでに確保したと? それを領主や騎士へ進言したのはゼルなのか?」

「たぶん、「転移」の人達じゃないかな……ヴェゼルさんとは初日以来、一度も会っていないから」

「ハーン、そうか、「転移」な。転移――転移、か」


 陽香は細く息を吐き出すと、もふんと右京の尻尾に顔を埋めた。彼女にしては珍しく参った様子で、どこか憔悴しているようにも見える。

 大きな尻尾にグリグリと顔を押し付けながら、陽香は篭った声色で続けた。


「そいつらの目的については、アーニャから聞いたけど……でも、それはあくまでも一端だろ? 皆が皆アリス目当てだった訳じゃねえはずだ」

「そうだね。幹事の目的は、私達を解散させる事だったって言うくらいだし……本当に色んな目的の人が居たんじゃないかな。それに最初あの人達、私がこっちへ「転移」させられている事を把握していなかった。私まで来ているなんて、って――」


 絨毯屋の大倉庫で初めて彼らと出会った際、あの軽薄そうな男は「なんで綾那までここに来てんだ? 話違くねえか?」と言ったのだ。つまり犯行グループの目的は、あの日家に残っていたアリスと渚の二人を「奈落の底」へ飛ばす事だった。

 当時不在だった綾那と陽香までこちらへ飛んでいる事は、全くの想定外だったのだろう。


「あたしとアーニャだけは、「表」に残すつもりだった――のは、なんで? あたしはともかく、目的なら、男ファンの多いアーニャが外される訳がないだろ」

「うーん……いや、自分でも言うのもなんだけど、たぶん私は――」

「あー、ゴリラだからか。襲おうもんなら、片手で返り討ちだもんな……リスクがでかすぎる」

「違うけど、違わない……」


 むぐ、と下唇を噛みしめた綾那を尻目に、陽香は尻尾から顔を上げて唸る。


「シアはあたしが、誰かに恨まれてるって言ってただろ? もしかすると、そもそも全部あたしのせいだったんじゃねえのかな――とか」

「それは、「黒幕」の目的が?」

「まあ、よく分かんねえけど。少なくとも、恨まれてるのは確かなんだろうし……とにかく、ここで悩んでても仕方ねえ。右京が「時間逆行クロノス」を使えるようになったら、街へ戻ってみるか」


 早々に思考を切り上げた陽香に、一行は揃って頷いた。

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