第88話 稀有な存在

 遠くで、パチパチと木片の弾ける音がする。ただでさえ高かった外気温は、右京の放った魔法の残滓ざんしによって更に上昇したらしい。盛大に燃やされた事で空気はカラリと乾燥しているので、蒸したサウナのようとは言わないが――。


 綾那は首筋を伝う汗を手の甲で拭うと、どうしたものかと思案する。流れる汗の原因は気温の上昇だけではないのだ。

 フードを被り直した右京は、こちらに背を向けたまま一言も話そうとしない。普段ならはしゃぎ回ること間違いなしの陽香も――よほど彼の姿に衝撃を受けたのか、いまだ微動だにしない。


(意外だなぁ。陽香、絶対に好きそうなのに……大人しくなっちゃうんだ)


 暑いのに、薄ら寒い。誰でも良いから、どうにかこの空気を変えてくれないだろうか。隣に立つ颯月を見上げれば、やはり彼はこの暑さの中でも汗一つかかずに、涼しげな顔をしている。

 爆風に煽られて乱れたらしい髪を撫でつけていたかと思えば、ふと綾那の視線に気付いて目元を緩めた。


「ああ、熱かったな――かわいそうに」

「颯月さん、違います。そうではなくて」


 一体、綾那に何を求められていると勘違いしたのだろうか。颯月は綾那の頬を流れる汗を指先で拭うと、「いたむと大変だ、後で肌を冷やしてやるからな」と言って、慈しむような眼差しを向けてくる。綾那は「うぐっ」と小さく呻いたものの、しかし気を強くもとうと頭を振った。


 熱風と熱波で焼けた気がする肌も、とめどなく流れる汗も、今は問題ではないのだ。そんな事よりも、あれだけ「見せたくない」と嫌悪する姿を晒すハメになってしまった、右京のフォローをして欲しい。


(嘘偽りなく化け物なんかじゃないと思うけど……でも、長年容姿を理由に虐げられてきた右京さんが、そう簡単に人の言葉を信じられるはずがないよね――)


 出会って間もない綾那がフォローしたところで、何やら薄っぺらい。どんな言葉も焼け石に水のように思えて、結局何も言葉に出来ずにいる。


 そうして綾那が悩んでいると、掴んだままだった陽香の腕がぴくりと動いた。やんわりと腕の拘束を解こうとする動きに逆らわず、綾那は彼女の腕を解放した。

 陽香は放心したような表情で、一歩また一歩と、背を向けた右京に近付いていく。


「うーたん……右京、――右京?」


 陽香の呼びかけには答えずに、言葉を発する事も、振り向く事もしない右京。彼女はそのすぐ背後まで辿り着くと、一体何を思ったのか、いきなり外套の裾を掴んでガバリと捲り上げた。

 あれだけ『異形』を人目から隠したいと願う相手に、なんたる暴挙だろうか。大きな黄金色の尻尾が外套から姿を現すと、右京は堪らず「ちょっと――!」と声を荒らげる。

 しかし陽香は、エメラルドグリーンの猫目をパァアと輝かせると、目の前に躍り出た右京の尻尾を胸にかき抱いた。


 突然の事に、右京は太い尻尾の毛をぼわりと膨らませて、ぴんと真上に向けている。


「――右京! スゲー! ふわっふわなんだけど! 何これ、触っても良ーい!?」

「も、もう触ってるけど……ッ!?」

「お前、何が化け物だよ? 超可愛いじゃん!!」

「かわっ……!?」


 大きな尻尾に頬擦りし始めた陽香の言葉に、右京は絶句している。ぱくぱくと何か言葉を紡ごうと開閉する唇は、やがてグッとへの字に曲げられた。


(あ――だよね? こんな、ふわふわモフモフの人……好きの陽香が嫌うはずないもの)


 綾那は、やや失礼な感想を抱きつつ――颯月と並んで、彼らのやりとりを見守る事にした。


 酷く困惑した様子の右京は、体を半身はんみ捻ると、いまだ尻尾に抱きついたままの陽香を引きはがそうと、両腕を持ち上げた。しかし己の指先、鋭く尖った爪を一瞥すると、その手を宙に彷徨わせる。


 もしかすると、下手に触れれば彼女を傷付けてしまう――と危惧しているのかも知れない。そんな彼の思いやりを知ってか知らずか、陽香は尻尾を手放して彼の両手の平をギュッと掴むと、己の顔の近くへ引き寄せた。


「バ、やめ……ッ!」

「爪も凄い! 目も、牙も、耳も! めちゃくちゃ本格的だなあ――本物だから当然か!」

「あ、危ないから、あまり触らないでよ……!」

「うん? ああ確かに、ちょっとケア不足だな。引っかからないように、あたしがお手入れしてやろうか? 動画で見た事あるから知識だけはあるぞ、ブラッシングも任せとけ!」

「い、や、そもそもこの姿で過ごす事ないから、別に要らない――」


 右京の言葉に、陽香は途端にハッと思い出したような顔つきになる。


「ああ、悪い! 右京、うーたんに戻らなくていいのか?」

「別にあの姿が『うーたん』って訳じゃあないんだけど……さっきの魔法と移動に使った「空中浮揚レビテーション」で、僕も魔力がゼロに近いんだ。もう少しマナを吸収してからじゃないと、「時間逆行クロノス」は無理」


 陽香に両手を掴まれたまま身動きがとれず、右京は眉根を寄せた。無理に手を引けば――本人にそのつもりはなくとも――あの鋭い爪で引っ搔いてしまうからだろう。

 彼が「お願いだから手、放して」と言えば、陽香は素直に手を放した。しかし、またしても両手で尻尾を捕まえると、まるで毛並みを整えるように、手櫛で丹念に梳き始める。


「でっかい尻尾。ゴールデンレトリーバー抱き締めてるみたいで、サイコーだわ!!」


 もふんと尻尾に顔を埋めた陽香を、右京はしばらく胡乱な目つきで眺めていた。しかしハッと目を見開くと、「ねえ君、動物アレルギーは!?」と言って、彼女に異変が起きていないか確認する。悪魔の擬態した猫がダメなのだから、きっと半獣の悪魔憑きもダメだろう。


 思い出したように「あ」と小さく声を漏らした陽香は、綾那を手招いた。綾那は苦笑いしつつ二人の元へ歩み寄ると、尻尾を手放そうとしない陽香の首筋に素手で触れる。「解毒デトックス」は他人のアレルギー症状も緩和できるものの、肌に直接触れていないと効果が発動しないのだ。


「――よし! これであたしは右京を好きなだけモフれるし、アレルギー物質は溜まる傍からアーニャが消してくれる! オイオイ、とんでもねえ永久機関が出来上がっちまったぞ――右京お前、ずっとこの姿で居りゃあいいのに」

「……絶っっっ対に、嫌だ」

「ケチなヤツめ。いやあ、それにしてもスゲー魔法だったな! 巻き込まれて死ぬって話も、嘘じゃねえなって思ったよ、アレは」

「だから最初に、上級魔法は上手く制御できないって言ったんだよ」


 右京は不貞腐れたように呟いた。そんなやりとりを間近で聞きながら、綾那は首を傾げる。


(「解毒」が発動しない――?)


 これはまずい。まさか右京が獣ではなく、獣が混じった悪魔憑きのだから発動しないのか。けれど、悪魔憑きアレルギーらしき謎の症状に苦しむ静真の「解毒」はできたのだ。相手が何であろうが、発生する有害物質を取り除けるはずなのに――。


「って事は、もしかして……アレルギー自体、出てない――?」

「へ? 何が?」


 綾那の呟きを拾った陽香は、キョトンと目を丸めた。彼女は今も変わらず右京の尻尾を手櫛で梳かしているが、やはり「解毒」は発動しない。これは恐らく、陽香の中に取り除くべき有害物質がないからだ。


「陽香、なんでか分からないど……右京さんの事は、触っても平気みたい」

「――えっ」


 綾那は言いながら、陽香の首筋から手を離した。陽香は大きな瞳をまん丸くして、ぽかんと口を開く。そしてギギギと、まるで油の切れたロボットのような動きで右京の顔を見上げると、やや間を開けてからバッと勢いよく綾那を振り返った。


「――おおぉお母さん、あたしコレ、飼いたいんだが!?!?」

「飼い――」

「ええと……まず私はお母さんじゃないし、コレは失礼だし、さすがに人は飼えないよ?」


「あと、圧がすごい」とひとしきりツッコミを入れた綾那に、陽香はフンスと鼻息荒く右京を指差す。


「だって、お前! アレルギー反応ないんだろ!? そ、そんなん、夢のようなじゃねえか!! 絶対「表」に連れて帰る!!!」

「陽香――陽香、落ち着いて? さっきから失礼な事しか言ってない……!」


 好き放題言われて言葉を失ったのか、石像のように硬直してしまった右京。綾那は、どうして良いものか分からなくなる。


(こ、これは――化け物と言われて恐れられるのと、果たしてどっちがストレスなんだろう?)


「もうダメだ、これは絶対に連れて帰る!」と興奮する陽香に、最早心情が読み取れない右京。綾那一人がオロオロしていると、いつの間にか傍まで来ていたらしい颯月が、後ろで「フハッ」と小さな笑い声を漏らした。

 パッと振り向けば、彼は口元を片手で覆って体を震わせている。


(ああ、颯月さんまでゲラのスイッチが入っちゃったし――)


 綾那は遠い目をして、空に広がる真っ暗な超深海を見上げた。

 さて、どうしたものか。綾那はまた悩んだが、解決策を叩き出す前にハッと我に返ったらしい右京が動いた。


「――わっ、笑うな、見るな! 僕は見世物じゃないんだぞ!」

「い、いや、だってアンタ、ペットって――良かったじゃねえか、これで将来安泰だな」

「一つも良くない! 安泰どころか不安しかないし!?」


 右京は、まるでフシャー! と威嚇する猫のように、尻尾と耳の毛を逆立てて颯月を睨み付けた。

 陽香はおもむろに彼に抱きつくと、ぽんぽんと背中を叩きながら「よーしよしよし。良い子だから落ち着けー、右京は良い子だなー」と機嫌良さそうになだめにかかる。


 ますます顔を顰める右京に、声を上げて大笑いする颯月。これはどうも、落ち着くまでもう少しかかりそうだ。綾那はただ苦笑いを浮かべて、彼らが会話できる状態になるまで待つ事にしたのであった。

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