第76話 手形の石畳

「おお、良いじゃん! 手先器用だなあ、左官職人になれるんじゃねえの?」


 陽香が褒めちぎっているのは、楓馬だ。彼は「ケーキにクリーム塗る時に似てるから――」と言って、はにかむように笑った。


 教会の扉へ続く石畳。その割れた石のタイルの上から、お手製のモルタルを塗り込んでいく。結局クリンカーづくりに挑戦するまでもなく、科学のない「奈落の底」にもセメントは存在したようだ。思えば街を囲む外壁も、宿舎の建物だって見るからにコンクリート製であった。


 配合については陽香の勘に任せた結果、セメントと水と砂を合わせて、なんちゃってモルタルが出来上がった。元々はヒビ割れを修復するだけという話だったが、どうせならタイルの色を合わせるために、上から全部塗ってしまう方が仕上がりも良い。


 仕上げにコテをつかって、塗り込んだモルタルをたいらにならしていく。あとは放置して、水和反応が起こればセメントが固まって完成である。

 子供達の中でも、楓馬は特に手先が器用らしい。幸輝はコテを使っても表面がデコボコで、朔に至ってはモルタルがタイルから大きくはみ出している。しかしどれも、味があって良い。


「あとは、固まるまで待つだけだな。上から保湿シートでも張って――あ、折角だから手形とるか? 手作りの醍醐味だろ」

「手形?」

「そう。ほらサブレ、手ぇギューって押し付けてみろよ」

「ええ~!? 頑張って平にしたのに――うわあ、気持ち悪い、グニュグニュで変なの! あ、でも面白ーい! 僕の手だあ!」


 陽香に言われた通りに手を差し出した朔は、彼女に誘導されてモルタルの上に手を付いた。ググッと手が深く沈み込んでいく感触に、最初はワーワーと騒いでいたが――しかし綺麗にとれた自分の手形を見ると、途端に大喜びだ。

 まだ七歳ぐらいで、体だけでなく手まで小さな朔。その手形は紅葉の葉っぱのようで可愛らしい。


「今はまだ小さいけど、朔もすぐに大きくなっちゃうんだろうねえ」


 綾那がしみじみと呟けば、朔は綾那の手を引いて「はい! 隣にアーニャの手もつけて!」と指示する。言われた通りに手形を付ければ、朔はいつの間にか颯月の腕を引いて、彼にも手形を付けるよう懇願している。


「――え、何? お前ら三人並んでると、まるで親子みてえだな……? ヤバヤバのヤバなんじゃねえの……?」

「ゥグッ! ちょ、ちょっと、恐れ多い事を言わないで!?」


 胡乱な目を向けてくる陽香に、綾那は思い切り噎せた。子を成せない体の颯月が子を持つには、娶った妻が他所で子種を拾ってくるか、養子をとるしか方法がない。

 だから例えばの話、彼が親の居ない朔を養子にしたって、おかしくはないのだが――。


(いやいや、それは良いよ! それはとても良い事だけど、でも、私が颯月さんのお嫁さんになるのは、どうしたって恐れ多――いやぶっちゃけ、何も考えずにお嫁さんになれれば、他には何も望まないけどね!?)


 つい欲望のままにそんな事を考えてしまうが、しかし綾那は、雑念をかき消すように軽く頭を振った。それから、朔に手を引かれるまま地面にしゃがみ込む颯月の、その広い背中を眺める。


(ただでさえ、宇宙一格好いいのに――こんな子供のお遊びにも付き合ってくれる男の人、好きになるなっていう方がおかしい)


 ギュッと眉根を寄せた綾那に、楓馬が「汚れた手、これで洗えばいいよ」と、水を張った大きなバケツを差し出した。綾那は礼を言ってからバケツを受け取ると、それを地面に置いて、冷たい水に手を浸ける。


(そもそも、颯月さんと仲良くなるなって忠告してくる立場の陽香が、煽るような事を言わないで欲しい――)


 いや、きっと煽っている訳ではなく、これも忠告の内なのだろう。それは分かるが、あんまりだ。

 水に手を浸けたままため息を吐いた綾那に、フッと影がかかる。おやと顔を上げれば、手形を付け終わった颯月もまた、バケツの水を求めて来たらしい。


 綾那は、自分が手を洗った後で若干申し訳なく思ったが、早々にバケツを譲ってしまおうと手を抜きかける。しかし、それよりも先に彼は水に手を浸けて、あまつさえ水中で綾那の手を捕まえた。


「そ――っ!」


 びくりと体を揺らして「颯月さん」と言いかけた綾那に、颯月は汚れていない方の人差し指を口元に立てて、「シー」と小さく囁いた。

 無闇に彼と触れ合っているところを陽香に見られたら、また正座と肩パンチを食らうハメになる――と辺りを見回したが、どうやら彼女は「俺らも手形つけるぞー! 右京はこっち、陽香はそっちな!」とはしゃぐ、幸輝の相手で忙しいらしい。


 ほっと息を吐いたのも束の間、水の中で握られた手に颯月の指が這わされて、「ひぇっ」と小さく悲鳴を漏らす。くつくつと低く喉を鳴らして笑う颯月に、綾那は眉尻を下げた。


「颯月さん――」

「どうした? 俺は手を洗っているだけだ」

「ええと……私はもう、洗い終わったのですけど」


 颯月の指が絡んで肌がこすれ合うたびに、彼の手についたモルタルが水に溶けていく。硬く、節くれだった指だ。あんな大剣を片手で振り回すのだから当然だが、至る所に剣ダコがあって、皮も厚い。短く切り揃えた爪で引っ掻くように弄ばれると、小さく震えてしまう。

 これがから来る震えなら、「怪力ストレングス」で簡単に振り払えたが――残念な事に一つも不快感がないため、綾那は颯月に成されるがままだ。


 いや、思わず手を握り返しそうになるほど頭がぼんやりして来て、白昼堂々おかしな気持ちにさせられる。


「子供は好きだし、養子もいいが――」


 汚れを落とし終わったらしく、颯月は綾那の手を握ったままバケツの水から引き上げた。そして背に纏う外套で綾那の手を丁寧に拭いたかと思えば、ツイと紫色の瞳がうわ向く。


「少なくとも三年は、夫婦水入らずで過ごすのが理想だ。妻を独占する時間が欲しいんでな」

「そ……そう、ですか。それは、素敵な考えですね」

「――ただ、綾がすぐにでも子育てしたいって言うなら、考えを改めても良い」

「………………死んじゃうぅ……!」

「死ぬなよ」


 蕩けるような笑みを浮かべながら髪を撫でられて、綾那は堅く両目を閉じて天を仰いだ。颯月の低い笑い声が耳朶じだをくすぐり、「ウゥ」と小さく唸ってから目を開く。


 彼は本当に、悪魔のような男だ。悪魔というか、綾那にとってはこれ以上ない魔性の男である。この魔性に、一体どう抗えばいいのか。

 綾那は真剣に悩み始めたが、そんな二人のやりとりを知ってか知らずか――不意に陽香が「颯様ー!」と呼び掛けたため、慌てて立ち上がり姿勢を正す。


「なんだ?」

「悪いけど、土魔法ってヤツで保湿シート固定してくんない? 杭で打ち付けるよりも見た目が良いし、足引っかける心配もない気がする!」


 陽香は、モルタルを塗ったばかりの石畳の上にシートを被せているらしい。このまま丸一日放置すれば、「それなりに固まるはず! ちなみに希望的観測!」との事だ。しかしシートを固定するなんて、端を杭で地面に固定、または重しを載せれば十分なのに――恐らく彼女は、ただ単に魔法が見たいだけだろう。


「静真はともかくとして、土魔法ならアンタらも使えるのにか? 人を顎で使いやがって」

「仕方ないじゃないか。この子達はまだ、魔力の制御に不安があるんだ。折角綺麗に作ったのに、やり過ぎてはタイルが壊れてしまう――どころか、庭がモグラに荒らされたように穴だらけになる」


 頼むと続けた静真に、颯月は「そうやってアンタが甘やかすから、いつまで経っても制御できねえんだろ」と目を眇めた。何も反論しないあたり、静真にも思い当たる節があるのだろうか。

 やがて颯月は小さく息を吐き出すと、詠唱を口ずさみ始めた。


「――母なる大地よ」

「えっ」


 颯月が詠唱し始めた途端に、右京が目を見開いた。その隣では、陽香が目を輝かせている。「奈落の底」に落とされてからずっと、悪魔憑きの右京と共に過ごしていたのだ――これが、彼女にとって初めて聞く詠唱に違いない。


「やっぱ魔法と言えば詠唱、要るよなあ!」と感心している様子から察するに、右京はいつも無詠唱なのだろう。詠唱せずとも発動するのだから、普通、無駄な工程は省くに決まっている。


あだなすものに枷を嵌めろ――「泥蔓マッドウィップ」」


 颯月が詠唱を終えると同時に、石畳の真横の土がずるりと動いた。それはまるで、草花がつるを伸ばすように蠢くと、保湿シートの端を捕まえて地中へ潜り込んだ。お陰で、わざわざ杭を打たずとも、重しを使わずとも、土を掘り返さなくとも。シートの四つ角は地面に埋まり、しっかりと固定されている。


「おお~! すげえ、土がひとりでに動いた!! やっぱ魔法って面白いなあ!」


 はしゃぐ陽香の横では、右京が不可解そうな顔をしている。


「ねえ……なんで、わざわざ詠唱なんか」

「趣味だ」

「はぁ? まさか呪いが半分だから、無詠唱じゃ発動できない――とか?」

「だから、趣味だ。悪魔憑きは楽でいいなんて、苦労知らずのヤツらに舐められるのは我慢ならんだろうが」

「訳が分かんないんだけど――」


 困惑しきりの右京に、颯月ではなく幸輝が「颯月は、全部の詠唱を覚えてるんだぜ!」と、得意げに胸を反らした。その説明に、右京はギョッとする。


「全部って――まさか、魔法、全部!?」

「えっ! 魔法って五百種類以上あるんですか!?」


 驚愕する右京の言葉に、綾那まで目を剥いた。

 悪魔憑きが使える魔法の属性が七つ。その全てに各十種類ずつ魔法があったとして、約七十種類もの詠唱を暗記している颯月は凄い――綾那はそう思っていたのに、しかし五百種類以上あるとなると、話は変わってくる。


「――へ、変態の領域じゃないか……気持ち悪」

「オイ。口には気をつけろよ、うーたん」

「誰がうーたんだ……!?」


 呆然自失といった様子で暴言を吐いた右京を、颯月は「うーたん」と呼んで諫める。さすがに彼からそのあだ名で呼ばれる事は耐え難かったのか、右京は瞬時に反論した。


(いや、私から見ても颯月さん、ちょっと領域の人だ! 凡人には理解できないタイプの……なんか、色々と紙一重の人なのかも知れない)


 無詠唱でも、魔法の名前を唱えれば発動できるのが悪魔憑きらしい。つまり、例えば詠唱を間違えたところで、魔法の名称さえ合っていれば問題なく発動するはずだ。

 しかし彼は、正確に暗記しているに違いない。何せ詠唱を覚えた理由が、周りの人間に舐められたくないからである。

 人前で誤った詠唱を披露して、「適当に詠唱しても魔法が発動するから、悪魔憑きは良いな」なんて――他人に揚げ足を取られる事など我慢できないだろう。


「うーたん、やっぱ魔法と言えばコレだぜ? 詠唱! ロマン! だいたい、無詠唱が格好いいなんて誰が言い出したんだよ? そんな使い方したら魔法感が減るだろ!」

「別に格好いいなんて思ってないけど、悪魔憑きの人は無詠唱で発動できるんだから……詠唱なんて、覚えても無駄でしょう。普通の人間に戻った時、どうせほとんど使えなくなるんだしさ――非効率だ」

「いやいやいや、分かってねえなあ! 無駄にはならんだろ、魔法使い同士でバトる時、詠唱を聞くだけで相手が何しようとしてるか即座に分かるんだぞ? 先読みだよ、先読み! 相手の手の内が分かれば、攻撃を無効化したりバリアー張ったり――防ぎようがねえなら、距離を取ろうってなるだろ。こんなもんバトル漫画の基本だぜ?」


 陽香は、やれやれと肩を竦めた。魔法を使う事すらできない、余所者の陽香に筋の通った見解を示されて、右京は眉根を寄せると「人同士が争う事なんて、そうそうないし」と不服そうな顔をする。


「陽香は、魔法に対する造詣が深いんだな」

「うん? まあ、ゲームや漫画だとそういうモンだからな!」

「ゲームも漫画も分からんが、それだけ正しく理解されると気分が良い。幸輝、やっぱアンタ騎士になるなら、詠唱の勉強は続けた方が良さそうだぞ」

「全部は無理だけど、俺ちゃんと頑張ってるよ~」


 幸輝は四つ角の埋まったシートを観察しながら、片手を上げて返事した。颯月はその返答を聞いて、満足げに頷いている。


「幸輝……騎士になるんだ。悪魔憑きなのに、普通の人間に輪に混ざって――変な目で見られたら、嫌だとは思わないの?」

「おお、まだ魔力制御が下手くそだから、入れそうにないけどな! それに、颯月が居るから平気、平気! 颯月がジジイになる前に入れると良いんだけどなー」

「急がねえと、俺はあっという間にジジイになるぞ」

「だよなあ!? あー、早く制御できるようにならねえと」


 深刻そうな表情で悩む幸輝を見て、颯月はおかしそうに笑っている。


「紫電一閃が居るから、平気――か。アイドクレースって、他所の領と比べると悪魔憑きに寛容だよね。皆、いい教会に拾われて良かったと思うよ」


 どこか複雑な笑みを浮かべた右京に、子供達は「確かに!」と言って明るく笑った。


「まあ、アイドクレースには公明正大な正妃サマがおわすからな。差別するにも命懸けだ。アンタもさっさと用事を済ませて、こっちへ移住してくると良い」

「右京、こっちに引っ越してくるんだ? そうしたらまた遊べるじゃん。早く来いよな」

「え? あ、ああ……うん……そうだね、たぶん――そうなるのかな」

「やったあ! うーたん、もう僕らの友達だもんねえ」

「右京って俺と同い年くらいだろ? 一緒に騎士になるのも良いかもな!」

「……うん、そうだね」


 元々はアデュレリア騎士団を解雇された後、どこで何をするか未定だと言っていた右京。しかし、さすがに子供達の期待は裏切れないのか――彼は曖昧ながらも、笑みを浮かべて頷いた。

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