第48話 新たな目標

 カリカリとペンの走る音、そして窓を叩く雨音が部屋に響く。


 空には暗い海が広がる奈落の底だが、時たま思い出したように雨が降る。雨の間は魔法の光源も明度を落とすようで、まだ昼過ぎなのに薄暗い。

 そう、こちらの空には光源と海しかない。雲一つないのに、どこからともなくシトシトと雨が降る――なんとも不思議な光景である。初め綾那は、まさか「表」の海水が漏れ出しているのではと不安に思ったものだ。しかし、どうやらこの雨もキューの魔法か天使の力で降る、ただの水らしい。


 動画の企画について説明した翌日、綾那は颯月の執務室を訪れていた。この部屋へ足を踏み入れるのは、奈落の底に落ちた初日以来である。

 あの時は幸成と和巳に相当詰められたが、今となっては良い思い出――という事にしておこう。


 幸成は撮影のための日程調整に追われ、和巳も書類仕事で忙しいようだ。副長の竜禅は、颯月の元を離れて幸成の調整を手伝っているとの事。護衛を務める旭も、綾那が颯月と共に居る間はお役御免だ。他の騎士と訓練に勤しんでいる。

 つまり、今日は颯月と二人きりだ。


 颯月曰く、これから奈落の底で使われる撮影魔具――カメラの使い方を教えてくれるらしい。しかし、急遽彼が決裁しなければならない書類が舞い込んだ。綾那は仕事が終わるまで待っているよう言われて、大きなソファに腰掛けじっとしている。


 目の前にある机の上には、カメラと二人分の茶器。そして、入室後すぐに外すよう言われた綾那のマスク。颯月はまだ執務机に座っているため、彼のカップは空っぽのままだ。綾那は自分のカップに入ったお茶を飲み干すと、ちらりと彼の様子を窺った。


 彼は今日もいつも通りに、漆黒の騎士服に身を包んでいる。髪はハーフアップに結われ、長めの前髪が顔に影を落とし――書類を見下ろしていると妖艶な垂れ目が伏せられて、その周りを長い睫毛が縁取っている。

 顔の右半分は黒革の眼帯で覆い隠されているが、左半分だけでも十分に魅力的だ。


(彫像かな……? 美術点5億兆ポイント――)


 綾那は、颯月にうっとりと熱視線を送る。今日も彼は宇宙一格好いい――と。

 こんな間近で神を眺めていて、ばちが当たらないだろうか。こんなに幸せな待ち時間がこの世に存在するなんて――などと幸福に浸っていたのだが、ふと素朴な疑問が浮かび上がった。


(颯月さんて、いつ休んでるんだろう?)


 綾那は、彼が騎士服を脱いだ姿を見た事がない。そもそも人員不足に喘ぐ騎士の休暇が、何日周期で回ってくるものなのかが想像つかない。しかし、休みなしで年がら年中働き続ける訳ではないだろう。そんな生活を続けていては死んでしまう。


 ただ、以前二週間ほど幸成に付きっきりで監視された事もあったが、果たしてあの時、彼に休暇と呼べるものが存在しただろうか。

 綾那の監視をしている間も、幸成は軍師として毎日騎士の指南をしていた。早朝から深夜までずっと働き詰めで、まともに眠る時間すらとれず――日が経つごとに彼の顔色とクマが酷くなっていったのは、記憶に新しい。


 部下の幸成でアレなのだ。トップ――騎士団長を務める颯月の休暇はあるのかと思うと、途端に心配になってくる。うっとりとした表情はすっかり鳴りを潜め、綾那は眉根にシワを寄せた。


「――悪いな、もうすぐ終わるから」


 書類を注視しているように見えて、どうも彼は視野が広いらしい。綾那の表情の変化に目敏めざとく気付いたらしい颯月は、この待ち時間を不服に思っていると捉えたようだ。

 綾那は「えっ」と声を上げた後、慌ててぶんぶんと首を振った。


「ごめんなさい、違うんです! 颯月さんって、お休みがあるのかなと思っていただけで――」

「休み? 疲れたら都度サボる事にしてる」


 書類から目を離さないまま、颯月は「前にソレで痛い目を見たがな」と口にした。恐らく、正妃に連行された日の事を言っているのだろう。あの日彼は「仕事をサボった罰が当たった」と嘆いていた。


 ――いや、それはそれとして、綾那は彼の回答に顔を青くした。疲れたらサボるとはつまり、まともな休暇をとっていないという事である。


「お休み、取れないんですか?」

「いや、別に取れん訳ではないが――取ったところで、何すりゃ良いのかが分からん。だったら仕事してる方が楽だろう」


 颯月の言葉に、綾那は「やだ、本物の社畜? やばい――」と震え声で呟いた。彼はまだ二十三歳と若い。若いはずなのに、これは一体どういう事だ。

 一体いつからそんな生活を続けているのかは知らないが、企業のトップがこれでは、下の者も休むに休めないのではないだろうか。颯月自身が、アイドクレース騎士団のブラックさに拍車をかけてどうするのだ。


 正直綾那もスタチューバーという職業柄、この七年間休みという休みは取っていない。好き放題生活している様を動画にして切り売りしていたため、ある意味毎日が休みであるとも言えるが――逆を言えば、動画について考えない日はなかった。面白いものを見れば「動画にしたい」、面白い事が起きれば「動画で話したい」と思う毎日だった。


 しかし、大好きな絢葵あやきに会うため、ライブやインストアイベントがある日は絶対に撮影しなかったし、イベントの依頼も受けなかった。曲がりなりにも、公私のオンオフはしっかりつけていたのだ。

 ――だが颯月には、公しかない。ただでさえ職務の多い騎士で、そこへ人手不足も相まって忙しいのは分かる。それは分かるが、些かやり過ぎである。


「ねえ颯月さん、やっぱり今日はカメラのお話やめにしません?」

「……なんで」


 綾那の言葉に、颯月は手を止めて顔を上げた。その表情はやや不満そうである。


「いや、あの、働き過ぎだと思います。今日は私、部屋に戻りますから――颯月さんも手が空いているなら、お休みしたらいかがですか?」

「ダメだ、戻るな。折角アンタとゆっくり話せると思ったのに……なんで俺の楽しみを奪うんだよ」


 綾那は、両手で顔を覆ってぐうと呻いた。ここで折れては彼のためにならないと思うのだが、しかしそんな事を言われては、戻れるはずもない。しばらく顔を覆ったまま呻いていた綾那だったが、やがて観念してソファの背もたれに身を沈めると、天井を仰いだ。


「このままでは、颯月さんに惑い殺される――」

「なんだ、惑い殺すって」


 くつくつと喉を鳴らして笑う颯月に、綾那は身を起こして彼を見やると、深いため息を吐いた。


「……誘惑しないで欲しいという気持ちでいっぱいです」

「してない――誘惑ってのは、人の心を迷わせてへ誘い込む事だろう」


 言いながら颯月は数枚の書類を重ねて、机の上でトントンと音を立てて揃える。その紙束を机の端へ追いやると、上に重しをのせてペンを置いた。

 彼の言わんとしている事が分からず、綾那は目を瞬かせる。颯月は綾那に視線を送ると、その左目を蠱惑的に細めた。


「俺のコレは、口説いてるだけだ」

「――颯様のファンサ (※ファンサービスの略)がえぐくて、私、死んじゃう……っ!」

「生きろ、生きろ」


 ぼすんと音を立ててソファに沈み込んだ綾那を見て、颯月は噴き出した。そうして笑いながら立ち上がると、綾那の正面のソファへ移動して腰を下ろす。


「さてと――待たせたな、魔具の使い方を教えてやる」

「……平常心を取り戻すまで、ちょっと待ってください」


 ソファから僅かに顔を上げた綾那に、颯月は小首を傾げる。


「うん? ――どうした綾、顔が赤いな」

「誰のせいですか……!」

「ああ、俺のせいか。そうかそうか」


 満足げに笑う颯月を、綾那は恨めしい気持ちで見やった。しかし、すぐにソファから起き上がって姿勢を正すと――まだ頬に熱を残したまま――こほんと咳払いする。


「すみません、取り乱しました」

「アンタ、肌白いから赤くなるとスゲー目立つ……いちいち可愛いんだな」

「も゛う゛勘弁じてください゛よぉ゛……ッ!!」


 綾那がワッと机に突っ伏せば、ついに颯月は声を上げて笑い出した。


(――悪魔だ。やっぱり颯月さんは悪魔だったんだ、このままじゃあ幸せの供給過多で殺される……! どうしてこの人、こんなにサービス精神が旺盛なの!? 自分を安売りしないで、値崩れが起きるでしょうが……!!)


 震えながら体を起こした綾那は、こちらの反応がツボに入ったのか、正面のソファで大笑いしている颯月を見やった。

 広報として成功し、給金が発生した暁には、彼にサービス料を支払わねばならない。以前、正妃の命令で右頬を撫でさせてもらった分の料金だって、綾那の中ではツケの状態である。彼の過剰なサービスに見合うだけの金額とは、一体いくらになるのだろうか。

 綾那は真剣に計算し始めたが、しかし目の前の颯月がフーと長い息を吐き、目尻に浮かぶ涙を指先で拭ったのを見て、改めて姿勢を正した。


(颯月さんって、意外とゲラなのかな。いつも笑い出すと長いような――かわいい人だなあ……普段は宇宙一格好いいのに笑うとかわいい、ギャップ萌え……素敵。ああ、スマホの待ち受けにしたい)


 幸成から「隙あらば口説くな」と注意されたため、綾那は脳内で颯月を賞賛した。けれど颯月が目元を緩めて「俺に穴が開くぞ」と口にしたので、綾那はハッと我に返り頭を振った。


「えっと、魔具……魔具の使い方、教えてください」

「ああ――魔石は?」


 綾那は鞄の中から、青色に輝く魔石を取り出した。つい先日竜禅に魔力の充填を頼んだばかりなので、まるでサファイアの原石のように濃い青色をしている。


「なんだ、空になってたら俺がそそごうと思ったのに。この色は禅だな」

「あ、もしかしてこれ、注いだ人の魔力の色なんですか? 瞳の色と同じような?」


 綾那の問いかけに、颯月は頷いた。ふと思い返せば確かに、竜禅に頼んだ場合は――目の色を見た事はないが――濃い青色。和巳の場合は緑がかった青色で、幸成だと金色になった。恐らく颯月に頼めば、紫色に染まるのだろう。


 やはり魔法は面白い。綾那が魔石を眺めて感心していると、不意に颯月が「まあ、禅の魔力ならか」と呟いた。何がアリなのかと小首を傾げた綾那に、颯月は柔らかく微笑む。


「魔具を使う前の準備があるんだ、俺の後に続いて詠唱してみろ」

「え! 詠唱が必要なんですか? 私にできるでしょうか……生活魔法以外は発動できないんじゃないかって、竜禅さんが――」

「平気だ、魔力ゼロ体質の人間が発動した前例ならある。ただ、注意が必要だ。一度詠唱を始めたら、必ず最後まで唱え切る事。禅の魔力は悪魔憑きの俺から見てもなかなかヤバイ、暴発すると大惨事だからな」


 それは、責任重大である。何としても唱え切らなければ。ごくりと喉を鳴らして恐る恐る頷く綾那を見て、颯月は笑みを深めた。そしておもむろに立ち上がると、また執務机へ戻ってその引き出しを開ける。


 手元で何かをごそごそとやりながら、彼は「良いか、行くぞ?」と声を上げる。綾那が「はい」と答えれば、颯月は詠唱を始めた。


「光は豊穣を」

「……光は豊穣を」

「闇は安穏たる休息を」

「闇は安穏たる、きゅ――えっ、アレ!? 颯月さん、……ッ!」


 ――明らかに聞いた事があるヤツだ。しかも既に一度痛い目を見た、かなりまずい魔法である。

 ハッと気付いた綾那が慌てて颯月を見やるが、ここまで唱えてしまえばもう遅いだろう。案の定彼は、静かに首を横に振った。


「綾、ダメだ、続けろ。暴発する」

「きっ――休息、を……!」


 眉根を寄せながらもなんとか詠唱を続ける綾那に、颯月は「ああ、いい子だな」と目元を甘く緩ませた。


「――じゃあ次、全なる創造主よ」

「…………全なる、創造主よ」

「我らを慈しみ、光と闇の祝福を授けたまえ」


 言いながらソファへ戻って来た颯月の左手薬指には、いつの間にかシルバーのリングが嵌められていた。彼が元々嵌めていた指輪は今、綾那の指にある。それ以来彼は婚約指輪を外したままだったが、新しく購入したのだろうか。


(そういえば前、街で宝飾屋さんに行っていたけど……! いや、そりゃあ桃ちゃんの他にもお預かりしている娘さん達が居る訳だから、婚約指輪がないと困るんだろうけどさ! でもだからって颯月さんまで、わざわざ「契約エンゲージメント」する必要はないのでは……!?)


 唱え切らねば魔力が暴発すると脅されたが、いっそ暴発させるべきではないか? そうでなければ、綾那と颯月の関係性がいよいよ分からなくなってしまう。

 まず、四重奏のメンバーにどう言い訳をすればいいのだ――いや、綾那と颯月は友人のはずだ。正直言って颯月の事は好きだが、一夫多妻など絶対に耐えられない。


 そもそも、いつか「表」に帰る綾那が婚約を結ぶなど、無責任にも程があるではないか。次から次へと浮かんでくる思考に、綾那はグッと眉根を寄せて口を噤んだ。

 恐らく竜禅よりも、悪魔憑きの颯月の方が魔力が強い。だから彼は綾那と違って、「契約」を解除しようと思えば自分の力でできるのだろう。

 ――とは言え、やはりこの先へ進むのはまずい。暴発を選ぶしかない。きっと颯月ならば、魔力の暴発すら何とかしてくれるはずだ。


「そう、か――俺は本気で共にりたいと思うが、綾はそうじゃあないんだよな……」

「………………はい?」


 詠唱の途中で口を噤んだ綾那に向かって、颯月は手元に目線を落としながら切なげに左目を伏せた。


「いや、良い。無理強いしたようで悪かった」

「……颯月さん?」

「素顔を見て尚、俺を好ましく思ってくれる女なんてアンタが初めてだったから……ついはしゃいじまった。こんな俺でも好いてくれるんじゃないかって期待して――なんとも思ってない男から一方的に言い寄られるなんて、さぞかし気持ち悪かっただろうな」


 自重気味に笑う颯月に、綾那は頭を抱えた。意味が分からない、どうしていつもこうなるのだ。

 颯月は宇宙一格好いいくせに、どうも悪魔憑きとして呪われた半身に多大なコンプレックスをもっている。過去、女性関係でよほど辛い事があったのかどうか、綾那には分からないが――とにかく、眉目秀麗にもかかわらず容姿に対して卑屈になり過ぎるきらいがある。


 綾那が唯一絶対神に向かって「気持ちが悪い」なんて思うはずがないのに。「なんとも思っていない男」というのだって語弊がある。

 ――いや、そもそも神にこんな顔をさせて許されるはずがない。こうなればもう、しかないではないか。


 綾那は、脳内でひとしきりメンバーに向かって謝罪した。想像上のメンバーから受けた返答は「お前、マジでぶっ飛ばすぞ」だったが、仕方ない――仕方がないのだ。覚悟を決めて大きく息を吸い込むと、震え声で詠唱の続きを口にする。


「わ――我らを、慈しみ……」

「綾?」

「光と闇の祝福を、授けたまえ……!」

「綾、無理しなくていいんだぞ」

「――こ、これ、「契約エンゲージメント」ってヤツでしょうが! 「契約」ったら「契約」ォ!」


 やけくそになりながら魔法を唱えれば、颯月の左手薬指に嵌められた指輪がカッと白く光った。途切れ途切れだった上に私語まで挟んだ詠唱だったが、どうやら魔法は無事に発動したようだ。

 ふと綾那が手元に目線を落とせば、濃い青色だったはずの魔石が透明になっている。どうも今ので、充填されていた魔力全てを使い果たしてしまったらしい。


(へえ、「契約」って結構、魔力を消耗するんだ。生活魔法を使う分には、一週間ぐらい充填しなくても困らなかったのに)


 透明になった魔石をまじまじと見た後、綾那は正面に座る颯月へ視線を上げた。つい先ほどまで切なげに顔を歪ませていた彼は、途端にパアと表情を明るくさせて嬉しそうに指輪を眺めている。

 綾那はソファにもたれかかると、スンと虚ろな表情で天井を仰いだ。


(良い。良いのよ、コレで……こんな事で神が喜ぶなら悔いなし。一片いっぺんもなしだよ? ……ああぁあホント、マジでぶっ飛ばされるかも――)


 悔いなしと言いながらも、綾那はメンバーと再会するのが大変恐ろしくなった。何やら胃がキリキリと痛むような気さえする。まず、婚約魔法なんてものの存在をひた隠しにしなければ。そして、颯月とはあくまでも友人であると主張して、それから「好き」と言ってもラブではなくライクだと伝えて――それから、それから。


 一体どう言い訳したものかと考えていると、不意に颯月から「綾」と呼び掛けられたため顔を向ける。


「見ろ、綾の瞳の色だ。桃色の瞳なんて他で見た事がないから、こんな婚約指輪はこの世に一つだけかも知れん――禅の魔力を使ったから青に染まると思ったのに、嬉しい誤算だ」

「……わあ、本当だ」


 ぐっと机に身を乗り出して、左手ごと指輪を見せる颯月。元々ただのシルバーリングだった指輪には、まるでピンクダイヤモンドのような桃色の宝石が散りばめられている。男性が身に着けるには、やや甘い色合いの指輪になってしまったが――しかし色素が薄いため、近くで見なければ普通のダイヤにも見える。


 ちらと指輪から視線を上げれば、目元と口元を緩ませた颯月と目が合って苦笑した。


「また簡単に騙されたな? ホント素直で可愛い女。魔具を使うのに詠唱なんて必要ないし、詠唱を途中やめしたからって魔力が暴発する事もない。しかし、一度しか聞いてない「契約」の詠唱に途中で気付くとは、なかなか見どころがあるぞ」


 すっかり上機嫌になったらしい颯月は、左手を天井に向けて指輪の角度を変えながら言葉を紡ぐ。

 綾那はといえば、最早開き直りの境地である。済んでしまった事は仕方がない。颯月が楽しんでいるなら、もうなんでも良い。

 しかしそれはそれとして、文句の一つくらいは言うべきだろうか。ポットに入った茶を二人分のカップに注ぐと、綾那は小さく頬を膨らませた。


「どうして、そうやってすぐに意地悪するんですか」

「意地悪? ……意地悪か、いいな。男ってのは好いた女に意地悪したくなるものらしいじゃねえか、なるほどこの世の真理だ」

「それって小学生――じゃなくて、子供の話では?」

「男はいくつになっても子供と言うけどな」


 ――ああ言えばこう言う。颯月は口が達者だ、ただでさえ論争に弱い綾那では勝負にならない。


(というかホント、簡単に好きとか好みとか言わないで欲しい……惑い殺し反対)


 また綾那がため息を吐けば、颯月は顔色を窺うように首を傾げた。


「……悪い、怒ったか?」

「いいえ、自分の迂闊さを嘆いていただけです――でも、どうして颯月さんまで「契約」を?」

「俺も、人の色を纏ってみたくなったから」

「色……それって、この国の風習の?」


 相手へ好意を伝えるために、髪や瞳と同じ色の服やアクセサリーを身に纏うとか、逆に己の色が付いたものを相手に贈るとかいう、アレの事だろうか。綾那が首を傾げると、颯月は笑って頷いた。


「服は制服があるから無理だろう? 装飾品も邪魔になるし……ただ、指輪なら付け慣れている。どうせ指輪に色を付けるなら、「契約」で付けたかった――恐らく今後、一生する事がないだろうしな。経験できて良かった」

「え? いや、するでしょう――?」


 今は結婚について後ろ向きの颯月だが、いつかは結婚もするはずだ。まさか、子供がつくれないからと生涯独身を貫くつもりなのだろうか。それはさすがに神の無駄遣いである。

 綾那が心配になって颯月を見やると、彼は手を差し出して「魔石を貸せ」と告げた。言われた通りに手渡せば、透明の魔石は彼の手の平の上で、見る見るうちに紫紺色に染まっていく。

 初めて森で見た時にも思ったが、やはり彼の魔力の色は美しい。綾那が感嘆の息を漏らすと、颯月がおもむろに口を開いた。


「魔石……今後は俺が充填するから、他には頼むな」

「え? いや、でも、颯月さんお忙しいのでは――」

「これぐらいなら、居眠りしながらでも出来る。綾に会うための口実づくりだ、分かるだろう?」

「――ぅぐっ」

「綾が身に着けるものは、これからも俺が用意して良いか? そろそろ新しい服も買う頃合いだな、二、三日中に見繕って贈ろう」


 何やら結婚の話をはぐらかされたような気もする。しかし綾那は、そういえば颯月に確認しておかねばならない事があったと思い至る。


「颯月さん。以前贈ってくださった衣類は、全て颯月さんが選んでくださったんですか?」

「うん? ああ、全部よく似合うと思ってな」


 目元を緩ませる颯月を見て、綾那は半目になった。


「なるほど、――下着もですか?」


 颯月は綾那の問いかけに答えずに、無言のままカップを手に取ると茶をすすった。


「颯月さん、どうして私の――その、体のサイズが」

「――いやあ……今日はいい天気だなあ」

「めちゃくちゃに雨ですけどね!?」


 やけに爽やかな物言いをしながら視線を窓の外に向けた颯月に、すかさず綾那がツッコミを入れる。すると彼はカップを机に置いて、ふうと一つ息を吐いた。


「――「分析アナライズ」という魔法があってだな」

「それは……やはり、ものを鑑定するような魔法ですか?」

「ああ、キラービーの毒を調べる時にも使った魔法だ。異大陸から身一つで攫われて来て、着替えがないのは辛かろうと思って……誓って下心はない、善意の行動だった」


 善意の行動、それは確かにそうだろう。しかし、世の中にはやって良い事と悪い事があるのだ。妙齢の婦女子に無断でスリーサイズを盗み見るなど、成人男性がやって良い行いではない。

 しかも彼の手際の良さから察するに、恐らく常習犯である。将来を思うと心配でならない。果たしてどう注意したものかと眉尻を下げた綾那に、颯月は神妙な面持ちで続ける。


「ただ「分析」した結果、はからずしも綾の胸囲が一メートル近い事を知り――完全に下心を抱いてしまった事を今、ここに懺悔する」

「あ、あまりにも清々しい告白で、怒る気も起きませんね……!? でもあんまりです、どうしてそんな無体な事を」

「例えば金だけ握らせて好きなのを選んで来いと言って、あの時素直に受け取ったか?」


 綾那はグッと言葉に詰まった。受け取るはずがない。何故ならばあの時の綾那は、颯月に対するありがたみと申し訳なさで、いっぱいいっぱいだった。これ以上施しを受けたら、それこそ逃げ場がなくなるとさえ思っていたくらいだ。


「あとは、まあ――個人的な理由だ」

「個人的な?」

「だってそうだろう? 綾が毎日、俺の選んだモノを身に着けていると思うと……なあ?」

「なあ、じゃありません。セクハラのつもりなら、颯月さんの将来が気がかりなので全力で抗議しますよ」

「違う、履き違えるな、口説いてるんだ。綾は悪魔憑きをいとわんし、なんでも受け入れてくれるし……素直で、従順で、可愛い。俺が異形だとか立場ある人間だとか、全部忘れられる。だから綾が居ると、毎日楽しいんだ」


 噛み締めるように呟く颯月の姿に、綾那はまた言葉に詰まった。勝手に人の身体データを見た事はともかくとして――友愛にしろそうでないしにろ、神に好意を抱いてもらえるのは、とても喜ばしい事だ。


(でも、悪魔憑きの怖さが分からないとか、騎士の立場や階級が理解できないとか――それって全部、私が「表」の人間だからなんだよね)


 例えば、綾那でなくとも――颯月と出会ったのが四重奏の他のメンバーだったとしても、結果は変わらなかった。

 陽香はそもそも人たらしな性質をもち、スタチューバーらしく珍しいもの好きだ。颯月の容姿にしろ教会の子供達にしろ、見ても畏怖するどころか喜ぶだけである。

 アリスだって綾那と同じ面食いであるし、そもそも「偶像アイドル」の力がある時点で言わずもがなだ。いくら颯月と言えども、男性である以上は彼女のもつ魔性のギフトに抗えまい。

 渚は――いや、渚の場合は彼女自身の警戒心が強すぎるため、打ち解けるまでに相当な時間を要するだろう。しかし少なくとも『異形』については、偏見をもって接するような事はないはずだ。


 こう考えると何やら虚しいが、彼と出会ったのがたまたま綾那だった――ただそれだけだ。まるで孵化したばかりの雛鳥が、親鳥のあとをついて回る刷り込みに近いものがある。

 それに、桃華誘拐事件の発端になった絨毯屋のお嬢さん達や、街歩きをした時の領民の反応などを見る限り、「表」の人間でなくとも彼の美貌は正しく理解できているのだ。しかも元が付くとはいえ王族の直系で、栄えある騎士団長で――ただ「悪魔憑きだから」、遠巻きにされているだけ。


 騎士団の宣伝動画を配信し続けて、彼に――悪魔憑きに対する偏見を取り除けば。もしかすると今後、悪魔憑きかどうかなんてお構いなしに、彼に本気でアプローチし始める女性だって現れるのではないだろうか。


(なんかちょっと、インディーズで応援していたバンドが急にメジャーデビューして、方向性や音楽性がマイルドになっちゃった時に近い寂しさを感じるけど。でも、本人のためになるならそれが一番だよね)


 綾那はほんの少しだけ寂しくなったが、しかしすぐに屈託なく笑うと、「私も、颯月さんと居ると楽しいですよ」と答えた。

 嬉しそうに表情を緩める颯月を見て、綾那は騎士のイメージアップだけでなく、動画を通じて颯月について回る誤解と偏見も解いてしまおうと、新たな目標を打ち立てたのであった。

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