第33話 泣き落とし

 初日に四重奏の動画を見てからというもの、綾那には、ずっと深く考えないようにしていた事がある。奈落の底での暮らしが長くなれば長くなるほど強くなるそれは、「そもそも本当に、皆は生きているのか」という不安だ。


 三週間――もう、三週間経つのだ。だと言うのに、彼女らを探しに行ったキューは、一向に姿を現してくれない。

 誰かを見つけたと伝えにくる事すらできない状態なのか、それとも誰も見つからないのか。誰も見つからないのだとしたら、その理由はなんなのか。


 どうか生きていて欲しい。でも、もしかしたらもう、手遅れかも知れない。だけど、どうしても会いたい。綾那一人では生きていけないのだから。彼女らの事を考えると、頭の中がぐちゃぐちゃになる。


 眠りについたまま家ごと転移させられた渚は、きっと己が置かれた状況を何ひとつ把握できていないままだ。

 ふと目が覚めた時、彼女の傍には誰も居ない。自分の身に何が起きたのかも分からずに、ある日突然見知った人間が一人も居ない、「表」とは全く違う世界に放り出されて――どれほど心細い思いをしているだろうか。


 彼女の神経は基本的に図太いが、しかし幼い頃から気難しい性格をしている。他人を上手く信じられない渚が、運よく親切な現地人と出会えたところで、素直に世話になるとは考えられない。

 今も彼女は、誰の手も借りずに生きているのだろうか――奈落の底に落ちて三週間、ずっと一人で。


 ヴェゼルと綾那に引っ張られて、散々痛めつけられて、恐ろしい思いをしながら一人奈落の底へ落ちて行ったアリス。

 きっと、体中を痛めているに違いない。涙ながらに「一人にしないで」と言った顔――あの怯えた声色は、今でも鮮明に思い出せる。毎晩夢に出てくるほどだ。


 きっと「偶像アイドル」のせいで、人間の男だけでなく、ありとあらゆる生物の雄が彼女に群がっているはずだ。悪魔さえ釣り上げてしまう強力なギフトだから、眷属も魔物も関係なしに彼女を襲うだろう。

 戦う術を何ひとつもたない彼女は、奈落の底で一体どうやって生き残るのだろうか?


 いつもふざけているが、いざと言う時には誰よりも頼りになるリーダーの陽香。

 彼女は底抜けに明るいし、生来の人たらしであるから、きっと親切な現地人に出会えればなんの問題もないだろう。ただ彼女は表裏がなさ過ぎて、腹芸に向いていない節がある。

 綾那が心配するのも烏滸おこがましいが、悪い人間に手を出されたり、あふれる正義感からタチの悪い相手に喧嘩を売ったりしていないだろうか。

 運悪く悪魔と遭遇して、真正面からぶつかり怪我を負ってはいないだろうか?


(会いたい――今すぐ会いたいのに……皆、どこに居るの)


 彼女らの居ない現実に目を向ければ、あっという間に気分が落ち込んでいく。綾那はまるで、見知らぬ土地で親とはぐれた幼子のように、ひどく心許ない表情を浮かべた。


 四人は、今まで互いの欠点を補いながら生きてきたのだ。それなのに綾那一人が生き残ってどうするのか――四人揃っていないとダメなのに。

 二度と「表」に戻れなくても構わない。皆が揃うなら、生活の場が奈落の底になったって構わない。

 スターオブスターの殿堂入りなんて、心の底からどうでもいい。この地でまた、四人でスターダムチューブの続きをやればいい――それができれば、どれほど幸せだろうか。


 けれどそれは、もう二度と叶わぬ願いなのかも知れなくて。


「ッ、ぅ――っ」

「綾?」


 まず綾那の異変に気付いたのは、彼女を腕に抱く颯月だった。俯いて苦しげな声を漏らす綾那を呼びかけるが、顔を上げる気配はない。しかし小刻みに体を震わせる様子から、ついに綾那が『とっておきの魔法』を使うと察したのだろう。

 颯月はそっと綾那から腕を放して――そして、固まった。


 蠱惑的と評される垂れ目いっぱいに溜まった涙。それは瞬きをする度に、綾那の頬を伝ってぽろぽろと落ちていく。長い睫毛もしっとりと濡れた。外はすっかり夜も更けて、涙は月代わりの光源を反射して、キラキラと輝いた。


 綾那の顔を見た絨毯屋は、先ほどまでの熱量が嘘だったかのように、ぴたりと動きを止めている。

 やがて綾那の眉はグッと歪み、言葉を発そうとした唇は戦慄くだけで、水っぽい吐息を漏らした。カタカタと震える肩に、周囲の人間の目が綾那に縫い留められる。


「――ッふ……、ぅう、ひっく、うぁあ……ッ」


 息を詰まらせて、悲しみを抑え切れずにすすり泣く声は、あまりに頼りない。次から次へと止め処なく流れる涙を両手で必死に拭うが間に合わず、溢れた涙は綾那の腕を伝って地面を濡らした。


 ――目論見通り、本気で泣けている。泣けているのだが、しかし綾那は焦りを覚えた。


(や――やばい、コレ、泣き過ぎ、どうしよう……止められない、このままじゃあマスカラも落ちそうだし、えっと、早く何か話さなきゃ――な、なんだっけ……!?)


 気付けば絨毯屋のオーナーどころか、この場に居る全員が黙り込んで綾那の様子を窺っている。師の言う通り、やはり本当に「隠しギフト」なのだろうか。まあ、天使や悪魔だって居るのだから、未知のギフトが存在したっておかしくないだろう。


 ――いや、そんな事は今いいのだ。


 絨毯屋が毒気を抜かれている今こそ、「綾那は本物の婚約者であり、雇われた人間ではない。こんな事になってしまって、この通り本気で悲しんでいる」と信じ込ませなければならない。


 ただ、頭では分かっているのだが、メンバーの事を考え始めてからというもの、頭の回転が著しく鈍くなっている。いまだ涙は止め処なく溢れてくるし、何を話すべきなのか、ひとつも思いつかない。

 いっそ颯月が上手くフォローしてくれないだろうか? 隣に立つ彼を見上げたが、目が合った瞬間びくりと肩を揺らして、後ずさってしまった。


(あ、あれ、まさか颯月様までてられた? どうしよう、何か言わなきゃ、何か――)


 綾那は、働かない頭で必死に考える。そしてろくに考えがまとまらないまま、口を開いた。


「ぃ、生きて、いけない――」


 彼女の口をついた言葉は、なぜかこれだった。言ったそばから、脳内で「いや、婚約者から外されると生きていけないってなんだ? ヤンデレの脅迫か? あまりにも痛々しいのでは?」とセルフ突っ込みをしたものの、一度走り出してしまったからにはもう、完走するしかない。


「一人じゃ、ダメ、生きていけない……ったすけて――」


 本当に誰か、この状況から助け出して欲しい。唯一絶対神よ、早くどうにかしてくれないか――。

 そんな思いを込めて颯月を見やった時、綾那は、ふと絨毯屋の娘さん達は彼の事を愛称で呼んでいたっけなと思い出した。ここで呼べば、痛い婚約者らしさが増して良いのではないかと。


「颯さま――颯様、助けて、私を一人にしないでくださ……」

「グゥッ!? そ――颯月様! 早急に共感覚を切ってください!!」


 珍しく声を荒らげた竜禅は、途端に腰を折ると前屈みになった。彼の言葉にハッと我に返った颯月は、即座に指をパチンと鳴らす。それが共感覚のスイッチになっているのか、竜禅はフーと長い息を吐きながら姿勢を戻した。その頬には、冷や汗が一筋垂れている。


(えっ、な、なんだろう、竜禅さんがあんな苦しそうな声を出すほど、颯月様の気分が悪くなっちゃったって事……!?)


 初めて見る竜禅の姿に焦っていると、綾那は突然、颯月に腕を引かれた。そして頭と背中、全てを抱えこむように両腕で囲われて、視界いっぱいに颯月の胸元が広がる。

 あまりの距離の近さに思わずウッと息を呑んだが、もう後は全て颯月に任せてしまおうと、大人しく彼の腕に抱かれた。


 ぽんぽんと後頭部を優しく叩かれて、綾那は何やら、メンバーの事を想い本気で泣いた己を、どさくさに紛れて颯月に慰めさせるという――申し訳ないようなありがたいような、なんとも複雑な気分だった。


「この姿を見ても、所詮は桃華のために金で雇われた女だと――アンタそれ、本気で言ってんのか?」

「はっ、い、いいえ……っ!!」


 優しい手つきとは裏腹に、綾那の頭上から降ってきた声は随分とドスが利いていて、恐ろしい。思わず颯月を見上げかけたが、しかしギュッと頭を固定されているため、全く動かせない。綾那にギリギリ聞こえる声で「動くな」と囁かれて、ひとまず待機を選んだ。


「も――申し訳、ありません! 彼女は間違いなく、颯月様の婚約者なのですね……!」

「だから、何度もそう言ってるだろうが? 俺の大事な女を謂れのない醜聞で汚して、一体どう償うつもりだ? 間違って攫いましたで済む話じゃあねえぞ」

「ヒッ……ば、罰なら受けます! 縄を……! 私を連行してください!」


 颯月の圧に負けたのか、絨毯屋はすんなり降参する。しかし、深々と頭を下げる絨毯屋に構わず、颯月は続けた。


「元々、桃華を狙ったのは間違いないんだな?」

「は、はい!」

「桃華を害して、俺の婚約者から降ろそう――あわよくば、別の領に追い出そうと思っていた。相違ないな?」

「はい、間違いありません! 本当に申し訳ありませんでした!! 誘拐罪でも未成年略取未遂でも償います! そ、それとも、そのお嬢さんの名誉を守るために、この件を一切口外するなと命じられますか? 私は颯月様の意に従います!」


 これで絨毯屋は、正しく罪を認めた事になる。後は連行して、裁判にかけるのみだ。

 ただ綾那が事前に聞いた話では、どうやら裁判までに煩雑はんざつな手続きがあるらしい。

 いくつか役所のようなものを経由して、その間に「本当に裁かれるべき罪なのか、刑罰の重さは適切か」など事細かく調査した上で、最終的な判決が下されるそうだ。


 そしてこの絨毯屋は、途中に経由する人間に金を掴ませて、偽の証書をつくる――または多大な罰金を支払って、刑罰を軽くする可能性が高い。

 例え莫大な費用がかかったとしても、アイドクレース全土の需要を賄う大商会であるから、その損失はすぐに取り戻せるのだろう。


(「表」でも、やれ上級国民とかやれ癒着とか、聞く事あるけど――奈落の底も同じなのかな。魔法の世界なのに、本当にロマンがないというか、夢がないというか)


 絨毯屋やその娘の罪が軽く済めば、正直、今後も桃華の身の安全に不安が残る。しかし、こればかりは仕方のない部分もあるのだろう。このような悪習、改善する術があるならばとっくにしているはずだからだ。


 ――とにかく、綾那のやるべき仕事は終わった。

 想定していた以上に号泣してしまった感はあるが、これまた想定外に颯月が慰めてくれたおかげで、すっかり涙は引っ込んだ。

 ただ、確実に睫毛のマスカラは取れてしまっている。馬車に乗るまでは気が抜けない。


 これからどうするべきか考えていると、不意に颯月の腕の力が緩んだ。彼はまた綾那の頭にフードを被せ直すと、己の背に庇うように立った。


「なあ、オーナー。最終的に国民を裁くのは陛下だが、ひとつだけ陛下に伺いを立てる前に、その場で裁ける法律があったよな?」


 颯月の言葉に、絨毯屋は目を瞬かせる。そしてやや間を空けてから戸惑いがちに頷いたものの、「何をおかしな事を」と言いたげな顔で颯月を見返した。


「勿論、存じておりますが――しかしそれは、王族のみに適用される法律ですよね。「親族、またはそれに準ずる者を害された場合、国王の判断を仰がず個人の裁量で罰してよい」という……恐れながら、颯月様は――」

「俺が誰から桃華を預かっていると思う? まさか、本気で俺の婚約者筆頭だと信じていたのか?」

「は……ッ!? そ、それは――いや、まさか……!」


 何かに気付いたらしい絨毯屋は、途端に顔面蒼白になった。そしてガタガタと体を震わせると、恐る恐るといった様子で己の右隣に立つ青年――幸成を見やる。

 彼は、随分と冷たい表情で絨毯屋を見返していた。


「親族に準ずる者とは、王族と婚姻する予定の者も含まれるよな。俺と桃華が婚約する際に作られた誓約書を見せてやろうか? 婚約期間は、成――『幸成が成人するまで』と定められているんだが」

「そ、そんな! 申し訳ありませんでした! まさか、幸成様の望まれる女性だったなどとは、露知らず!! ど、どうか、命だけは――!!」


 絨毯屋は勢いよく地面に平伏した。幸成の足元で額をこすりつける様を見せられて、綾那は困惑する。


(また、リベリアスの謎法律が――いや、そんな事よりも今、王族だって言わなかった? え、でも幸成様と颯月様、従兄弟いとこなんだよね? それってつまり、颯月様も――)


 己の前に立つ颯月。その背に触れると、彼は人の悪い笑みを浮かべながら綾那を振り返った。


「成の父上は、現国王の王弟殿下だ。アイツはあれでなんだよ」

「え――っ!? じゃ、じゃあ、颯月さ……!」

「ああ、俺は違う。色々あってな」


 小さく肩を竦める颯月に、綾那は複雑な気持ちになった。

 この三週間全く会えなかったのだから、颯月の事なんて何も分からなくて当然だ。しかし今日知っただけでも、彼はかなり特殊な環境に置かれているらしいと察してしまった。


 実は婚約など名ばかりの単なるボランティア活動で、実は『悪魔憑き』で、しかも王族の従弟をもつくせに、己はなぜか王族ではないという。

 まだ、この国の事すらイマイチ理解できていないのだ。颯月の抱える問題など、綾那には知る由もない。


(意外と、闇が深いのかな――)


 国どころかこの世界の部外者の綾那だが、一切のしがらみがないからこそ、少しでも彼の心休まる場所になれれば良いのにと思う。


(って、いやいや! 神相手に、何を厚かましい事を考えて――ってか、ダメでしょ! 皆に合わせる顔がなくなるって、アレだけ……あれ、でも――?)


 綾那は、己が颯月から離れようとしていた理由はなんだったかと思い返した。

 まず、彼の顔が絢葵あやきに似ているからだ。この顔に弱い綾那は、相手がどんな人間のクズでも受け入れてしまう。

 ゆえに四重奏のメンバーから散々「絢葵似の男に、まともなヤツは一人も居ない。クズ男ホイホイもダメ男製造機も大概にしろ。顔で好きになるな」と言われてきた。


 そんな顔さえ良ければ全てよしの綾那だが、どうしても受け入れられないのが、彼女もちや妻子もちとの浮気、不倫関係に陥る事だ。

 綾那は懐が深くなんでも受け入れて滅多に怒らないが、そのくせ独占欲だけは強く嫉妬深い。


 世間の目がどうとかスキャンダルがどうとかいう以前に、純粋に『二番目』にされる事が耐えられないのだ。例え綾那が『一番目』だとしても、その下に二番、三番の女は要らない。


 颯月から離れようと思った一番の問題は、彼が婚約者もちだからだ。けれど聞けばその婚約者達も――全員そうなのかは分からないが――のようなものらしい。


 であれば、彼を好きになってしまっても問題ないのでは?


 流れるようにそう思ってしまった綾那は、フードの上から頭を抱えた。問題ならある。なぜなら、四重奏のメンバーが彼の顔を見たら、「また顔からかよ!!」と怒るからだ。

 そう。きっと彼女らは生きているから、怒るに違いないのだ。綾那は、ようやく口元を緩めた。


(早く、怒りにきて欲しい)


 まるで頭のおかしい人間のようだが、心の底からそう思った。

 綾那は取り留めのない思考をかき消すように頭を振ると、いまだ平伏したままの絨毯屋と、それを見下ろす幸成を見やる。


「成、アンタはどうしたい?」


 颯月の問いかけに、幸成はゆるゆると首を振った。


「まあ、あくまでもだからなあ。狙われた事は腹が立つけど、結果として桃華は無事だったんだ――さすがに命まで取ろうとは思わないよ」

「ゆ、幸成様……っ!」


 先ほどまでの無表情から一転、口元に笑みさえ浮かべて明るく話す幸成。絨毯屋は感動した様子で顔を上げた。


「そうだなあ――今、この敷地内には誰も居ないよな? 使用人は避難して、残った人間も全員この場に集まっている――間違いないな?」

「え? は、はあ」

「よし、分かった。じゃあお前に科す罰は、『財産没収』に決めた」


 幸成はそう告げて屋敷――大倉庫に両手を翳すと、いきなり魔法の詠唱を始めた。


「紅蓮の臥竜よ、我が呼び声に応えろ」


 その瞬間、彼の体を囲うようにして真っ赤に燃えたぎる炎が現れた。絨毯屋に雇われた警備や賊の男らは、詠唱を耳にした途端に顔色を変える。そして、誰もがこの場から逃げ出そうと、敷地を囲う塀の外へ向かって一目散に走り出した。


 しかしただ一人、絨毯屋のオーナーだけは、炎に囲まれた幸成に向かって叫び声を上げている。


「ゆ、幸成様!? それだけは! どうか、それだけはお許しを! ここには売約済みの商品も数多く保管されていて、赤字どころか補償問題に――!!」


 綾那は、詠唱を聞いたところでどんな魔法が飛び出すのか分からない。ただ幸成の周りで踊る魔法の炎の美しさに目を奪われて、「わぁ」と感嘆の声を上げるだけだ。


(でも、オーナーさんや旭さん達の慌てぶりを見ると――なんか、尋常じゃない感じだったなあ)


 まあ、危険なら颯月が教えてくれるだろう。そう思ったのも束の間、彼が真剣な表情で振り返ったので首を傾げる。


「綾、今すぐにあのお嬢さんを連れて塀の外――いや、俺らが乗ってきた馬車まで走れ。成のヤツ、見た目以上に機嫌が悪いらしい。かなり大がかりなのを撃つぞ、下手したら巻き込まれる。急げ」

「え!? そ、それって、颯月様達はどうなるんですか?」

「問題ない。――おい禅! 成が燃やす上から水で囲うぞ、外に漏らすな!」

「承知しました」

「燃やすって……ま、まさかこの大倉庫、全部ですか!? もっ――お、お嬢さーん!! 走りますよー!!」


 綾那は、慌てて桃華の元まで走った。そして――離れた位置に立っていたため、状況が分かっていないのか――キョトンとしている桃華の腕を掴む。

 彼女と共に大急ぎで敷地から出ると、ここまで乗ってきた馬車に向かって走り出した。


 後ろでは絶えず絨毯屋の叫び声、そして三人の男が詠唱する声が木霊こだましている。これから何が起こるのか分からぬまま、綾那はなんとか辿り着いた馬車の荷台に桃華を乗せた。


「神聖なる原初のほむらをもちて、我が前に立ちはだかる愚者に終焉をもたらせ――「炎獄インフェルノ」!」

「――「波紋の守りウェイヴラト」!」


 幸成が詠唱を終えると同時に、颯月と竜禅もまた何かしらの魔法を発動させたらしい。広大な面積をもつ、絨毯屋の大倉庫――その建物は丸ごと、あっという間に水のドームに囲われた。

 水に閉じ込められた屋敷の様相は、まるで幻想的なスノードームのようだ。またしても呑気な感想を抱く綾那だったが、しかし次の瞬間、水の中で大爆発が起きて猫のように飛び上がる。


「えっ」


 水中だというのに、激しく燃え盛る大倉庫。一度でやまない爆発は、まるで打ち上げ花火のようにドカンドカンと繰り返し建物を破壊していった。

 爆発するたび、水のドームが衝撃を抑え込むようにして揺らいでいる。絨毯屋の悲鳴が聞こえたような気がしたが、しかし爆発の轟音によってすぐにかき消された。


(キューさん、やっぱり私は――)


 魔法なしにこの世界で生きていくのは、ハード過ぎる。

 尚も爆発し続けるスノードームを眺めながら、綾那は「一刻も早く、皆と「表」に帰りたい」と遠い目をしたのであった。

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