腐乱の経過
時雨逅太郎
腐乱の経過
死体を片付ける。鼻の穴はなぜ閉じることが出来ないのかと恨む俺を笑うように、鼻孔を通って悪臭は喉の奥を押し込み、吐き気を誘ってくる。この時ばかり、死体を片付けるこの時ばかりはいつも辞めたいと思うのだが、いつもその機を逃す。一度捕まえたものを離したくないのは誰しも同じことなのだ。
この職業は特殊清掃業と呼ばれている。孤独死した人間の部屋の清掃、と言えば誰にでも分かりやすい話だが、この通りに話せば人は皆「大変なお仕事だね」と薄っぺらい気遣いを投げてくる。結局それだけで、触れたがる人間はいない。それもそうだろう。たまに猟奇趣味を拗らせた人間が事細かに清掃の内容を聞いてくることはあるが、人の死体の後片づけなど、ぞっとする話だろう。その「ぞっ」という部分を深く想像しないまま、自分は傷つかないように、しかし心配する素振りを見せてきているのだ。そう考えると腹立たしいものがあるが、仕方ない。得てして、そういうものだ。
他の人間がどうかは知らないが、俺はこの仕事に誇りを持っているわけではない。金払いが良くて楽な仕事を探していた――ただそれだけのことなのだ。しかし、というかやはり現実はそう甘くはなく、さして高給取りにはなれなかった。でもそれで辞めるのはなんとなく人間性が咎める気がして、機を延々と逃している。
そんなどうしようもなく頭の悪い背景もあり、俺はただこの仕事を機械的にこなしているだけだった。なんでこの人は死んでしまったんだろう、なんてことを考え始めたら、きっと人間一人の大脳じゃ耐え切れない狂気の渦がそこにはあるだろう。幸いにして、この仕事のせいで気が違ってしまった、という人間の話は聞かないが、俺の考える誠実さをもしこの腐乱して顔も分からぬ彼に見せてしまえば、飲み込まれてしまうだろう。
「にしてもひどいっすね」
気を逸らすように呟いた言葉に、先輩が答える。
「ああ。これはだいぶかかるな」
彼はやれやれと言った具合だ。
これは汚れである。
人ではない。
「さっさと終わらせましょう。これじゃあ鼻が幾つあっても足りない」
「そうだな」
汚れは俺たちの経験や資格の知識の元、だんだんと消え去っていく。
なにがあっても、それは汚れである。
汚れ。
汚れ――。
「おい」
「ああ、先輩。どうしたんですか」
「お前、最近変だぞ。少しは休暇の一つでも取ったらどうだ」
「変って――いつも通りっすよ」
「よくそんなことが言える。自覚してないならなおさらそうしておけ」
先輩が俺の洗う手を指さした。
「清掃から帰ってきて、何回手を洗ってるんだ」
「あ――」
気づいて、水を止めた。言われなければ全く気づかなかった。平静を装いながら手を拭いていると、先輩が言い出しづらそうにしていた口を開く。
「今日の、お前の友人だったそうだな」
「――昔の、ですよ」
そう。孤独死して腐乱していたアレは――俺の大学時代の友人だった。彼と最後に連絡を取ったのはもう三年前になる。だから現場について、その顔を見るまで俺は全く気づかなかったわけだ。
別に嫌いだったわけでもない――むしろ仲が良かった方だった。明日には連絡を取ろうと思えるような仲だったはず。しかし、気づけば彼との再会は三年越しの清掃という形まで堕ちきってしまったのだった。
「まあ、昔のだろうな。それでも知り合いがああなってる姿はきつい。いいか、しっかり休んでおけ」
「いやあ、でも――現場の人手足ります?」
「しばらくは俺一人でも回せるさ。それにまた新しく人が入ってきたからな、労働力としては十分足りている」
「はあ。――まあ有給溜まってましたし、消化がてら休んでおきます。なんかやばそうなら携帯に連絡ください。多分出れますんで」
「おう」
正直なところ、別に休みを取らなくても問題はないと思っていた。確かにショックは受けた――が、彼と話していたのは随分と前の話だ。例えばこの三年越しに生きて彼と顔を合わせたとして、それが一体なにになったのだろう? もう俺たちの関係はすでに維持できるレベルではなかっただろうから、他人も同然だ。だから精神に然したる問題などない。
家に帰った俺は、久しぶりに自炊でもしようと思い、冷蔵庫を開けた。が、すぐに閉じる。なんというか、ああいう清掃のあと、何か料理をする気にはなれなかった。冷蔵庫の中の食材の匂いは少しでもすると、あの腐乱死体の臭いを蘇らせる。克明に、鮮明に。どちらも同じ死体なのだから、確かに同じような臭いがするだろうが。
「それにしたってなあ」
命を頂く、といった綺麗なフレーズは俺の中にはもうない。誤魔化しようもない。俺たちは死体を食っているのだ。それもなにか特別な訳じゃない。放っておいたらあのように腐る死体と同様の死体を食っている。それを命へ繋げている。そう思うと、さしずめ冷蔵庫というのは死体安置所と言い換えることができるのだろう。嫌な話だが、事実だ。
なんにせよ今日は料理をする気にはならない。俺は家近くの牛丼屋で適当に飯を済まして眠りについた。
翌朝、起きてもまだ彼のことを考えていた。彼はなぜあのように腐って見つからなければならなかったのか、などと本当にどうしようもないことを考えていた。
「はあ」
思考をやめたいのに、なんの義理があるのか俺の脳はあの死体にご執心らしかった。それでも昨日までの酷い臭いはだいぶ忘れることが出来た気がして俺は冷蔵庫を開いた。
冷蔵庫からベーコンを取り出してみると、すっかり腐っていた。
微かな腐臭が鼻を突き、それだけで詳細な死臭が思い出せた。
「ああ、クソ」
買ったのは結構前だったかもしれない。それにしたってこんな早くダメになるものだとは思っていなかった。保存方法が悪かったのかは分からないが、特に罪もないそれを捨てるのは少々心が痛む――というよりはもったいなさの気持ちが勝った。
その後も、次々と冷蔵庫を漁ったが、ほとんど片付けに近い状態であった。
出し過ぎた醤油――使う間もなく酸味を帯びた。
使いかけの牛肉――すっかり変色している。
パックのもやし――排水溝のような臭いがする。
どうしようもなく、死体塗れだった。
俺は全部をゴミとして廃棄し、リビングで一息ついた。
「なんで腐らせると分かってナマモノを買ってしまうかな」
ふと、また友人のことが思い浮かんだ。彼だけではない。連絡を取っていないような友人は、他にも何人かいる。そう考えると交友関係は広いのだが、俺はどうやらずっと仲良くすごせるほど人柄が良くないようだった。どいつもこいつもここ数年は連絡を取っていない。
「まあ、今度仕事の状況くらい聞いておくか」
久方ぶりの友人にはなんて送ればいいだろうか。久しぶり、だろうか。それとも、元気か? とかかな。元は友人と言えど今は他人のような関係性。そうなると距離の取り方が面倒なものだ。でもやはり久しぶりが有力――
腐乱の経過 時雨逅太郎 @sigurejikusi
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