第21話 謝るしかないということも、あるわけで
「私は、罪深い妻です」
彼女は、床に手をついた。
「マユ?」
「ごめんなさい」
「…」
彼女の言葉を待つのが、怖くなっていた。
彼女の言葉は、ゆっくりと、紡がれた。
「私は、兄と共謀し、あなたの殺害を企てました」
「何だって?」
「あなたが、私たちの最新型縦置き扇風機を狙っていたことは、承知の上でございました。これからもあなたは、私の幸運を、妬むことでしょう」
「何てことを…」
夫婦のその話し合いが、新しい空気をよどませていた。
「来月には、町内会祭りが、開かれます」
「ああ」
「そこでも、くじ引きがおこなわれるそうです。私には、運がついています。私は、ムー大陸周遊券(温泉旅行付き)などを当ててしまうかも、知れません。そういうことにでもなれば、どうなることか」
「…」
「あなたが、私を恨むのも、わかります」
「…」
「今でこそ、白状いたしますが…」
よどんでいた空気が、刀に切られたようになってきた。
「実は私、昨年の冬、あなたの布団には羽毛を入れませんでした。羽毛入り布団を使ったのは、私。おかげで私は、ぽっかぽか」
「そうか…だから、寒かったのか!」
「他にも、白状いたします。あなたの紅茶は、ティーパック茶でしたが、私の紅茶は、高級茶葉で淹れたものでございました」
「…」
「あなたの靴に画鋲を仕込んだのも、私」
「…マジか!」
「すべては、私の運がもたらした災いでございました」
「…うそだあ」
「あなたは、運がなさすぎたのよ!」
「?」
彼女は、彼が見たという夢について、解説をはじめた。
彼女は、彼には言わず、こっそりと、フロイト夢診断の通信講座なるものを受けていたのだそうだった。そのためなのか、夢診断ができるようになったというのだった。
「あなたも、まあ運のない夢を、見たものね…」
「?」
「私の幸運を恨む気持ちも、わかるわ」
「?」
彼女は、膝の上の彼に確実に死が迫っていくのを、なまめかしく錯覚すればするほどに涙がこぼれ落ちていたことを、詫びた。
そして、その涙が、彼の見た夢の滝につながっていたのだろうと、推測をした。
「夢で、イヌを見た」
彼は、そうも言っていた。
イヌは、夢では、人に警告を発するような象徴物になると、知られていた。
口には出さなかったが、それはおそらく、ジャックナイフのことだったのだろうと、推測をした。
さらにそのイヌには、仲間がいたらしいとのことだった。
「仲間のイヌ、か」
その意味するところだけは、良くわからなかった。
「私は、どんな罪を償うことになるの?」
彼女は、ぶるぶると震えていた。
「マユよ…。どうしたんだ?これは、お前の罪なんかじゃあ、ないぞ?」
彼のこの言葉は、彼の殺害をおこなおうとしてしまった彼女には、思いも寄らない衝撃となった。その衝撃は、この言葉で、最高域にまで高められた。
「マユ?やられたら、やり返せ!」
彼の自信が、満ちてきた。
「マユ!アリマのカバンの中に、盗聴器を仕掛けるんだ!」
「盗聴器?」
「そうだ」
「…わかりました」
「しっかり、な」
「はい…。それで今回の件を許してくれるというのでしたら、喜んで、従いましょう」
「そうか、わかってくれたか、マユよ。ちょっと、そのジャックナイフを渡してくれ。お前が持っていると、危険だからな」
「うん」
彼女は、すぐに、携帯電話をとった。
「兄貴?」
「ああ」
「兄貴…」
「どうしたんだよ、その声は」
「…」
「どうだったんだ?」
「ごめん、兄貴。マツダ殺しは、失敗したわ」
「何だって?」
「今度は、私たちが狙われる番よ!」
「…くっそう」
「一緒に、逃げましょう!すぐに、迎えにきて!」
「わかった!」
アリマは、すぐに、乗ってきてくれた。
「それで…。あの男、マツダは、今、どこにいるんだ?」
「わからないわ。家を、飛び出していったのよ!きっと、私たちを追い詰めるために、仲間を呼びにいったんだわ!」
「わかった。すぐに、いく!」
通話は、そこで終了した。
彼女の背後には、彼が、ジャックナイフを握りしめて立っていた。そのナイフの刃は、彼女に向けられていた。
「マユ…」
「あなたは、妻にも、容赦しないわけ?」
「こういうときにだけ、妻になりきるんじゃない。ずるいだろ」
「ずるいのは、あなたよ…」
「あの扇風機は、今、どこにあるんだ?」
「扇風機?」
「そうだ」
「扇風機…」
「お前が引き当てた、最新型の、縦置き扇風機だ」
「兄貴が、持っているわ」
「うそじゃ、ないよな?もう1台は、お前が持っているわけだな?」
「…」
「ずるいんだな、お前は」
「…違うわ」
「お前には、あの扇風機より大切なものがあるのか?」
「あなたは、いつもそうよ」
「何だと?」
「いつもいつも、意味不明なことを言っているし。新卒一括採用世代のクセが、抜けないのね。どうしようもない世代、だわ」
「何だって?そんなこと…。あの扇風機に関するこの一連の出来事には、関係がないことじゃないか」
「…」
「ずるいよな、お前は」
「…ずるいのは、あなたじゃないの」
「さあ!商店街のガラガラくじで引き当てたあの扇風機を、渡すんだ!」
彼女は、蛇ににらまれた蛙だった。
「今…ここには、ないのよ」
「ふん、どうだか」
「…ないのよ」
「そうか。その言葉を、信用してやる。妹の言葉、だからな」
「こんなときに、肉親愛を引き合いに出すのね?」
「こんなときだからだ!」
彼女は、泣きそうだった。
「あの扇風機が、こんなにも人の心をかき乱すなんて、思わなかったわ。兄妹って、何なのかしら?うう…」
本当に、泣き出してしまった。
「私に、運があったばっかりに!こんなことなら、家電センターの扇風機じゃなくて、スポーツクラブのサッカーボールでも当てれば、良かったんだわ!」
「この期に及んで、一体何を、言っているんだ」
彼の言葉は、いばらの雨だった。
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