第20話 ジャックナイフは、鬼を滅する刃になるのです
「これは…。兄貴の勘なんだが」
「何?」
アリマは、ついに、マツダの本性を伝えていた。
「やっぱり、注意すべきは、お前の夫なんだ。マツダなんだよ!あいつは、絶対に、あの扇風機の光を狙っているに違いない!」
彼女は、絶句していた。
「私、どうしたら、良いんだろう?」
彼女は、運の良い女性だった。
それを考えれば、来月に開かれる予定の町内会祭りでも、くじ引きで、何かを当てる可能性があった。
もしも、そこで…。
もしも彼女が、運良く、1等の商品になるであろうムー大陸周遊券(温泉旅行付き)などを当ててしまったら、どうなることか。
アリマは、声を荒らげた。
彼女に、結束を呼びかけたのだった。
「いいか、マユ!マツダを殺すんだ!」
「ちょっと、兄貴?何?」
「あのマツダがいなくなれば、お前と一緒に、天下に輝ける夢を見続けられるだろう。枕を高くして、リッチに、最新の縦置き型扇風機の風を、堪能できるんだぞ!」
「兄貴!」
「どうか、お前の愛すべきオンリーワン世代の夫を、殺してくれ。あの男は、努力がものをいう平和な社会のためには、存在しちゃあ、いけないんだ!」
その震えた言葉は、鬼を滅する刃にも、感じられただろう。
そしてアリマは、彼女に、ジャックナイフを手渡した。
「兄貴…。これ…」
「ジャックナイフだ」
「ジャックナイフ!」
「俺が香港で働いていたときのあだ名と、同じだな」
「はっ…!」
彼女は、自らの腰部分を探った。
無意識に、ナイフを収める場所を、確認しようとしていたのだろう。
だが、その手は、何もつかめなかった。
「丸腰!」
アリマはその様子を見て、彼女に、優しく言った。
「マユ?心配しなくても、良いんだ。このジャックナイフがあれば、やれる。あの扇風機を守り、社会を、平和に導けるだろう。お前の腰には、何も仕込むな。やめるんだ。上着に、しのばせろ。そうして、マツダが眠っているときに、使うんだ」
「うん…」
「良いか、マユ?心配するんじゃないぞ?マツダが眠っているときに、そのナイフを、服から出せ。そして、首を刺せ。殺すんだ」
兄の強い思いを知ると、何も、抵抗できそうになくなっていた。
「わかったわ…」
手をこまねいて何もできなくなっていた身体を、開こうとしていた。
「どうか、この刃が、希望の光となるように…!」
言われた通りに、上着の中に、ジャックナイフをしのばせたのだった。そうして、何事もなかったかのように装って、夫マツダの帰りを待ったのだった。
午後も、少しを回った。
彼女の顔色は、平静を保とうとすればするほどに、悪くなっていった。血のつながった者同士による鉄壁のミッションは、生暖かい実行の時間を引き寄せていった。しとどの感触を得て、時は満ちていった。
「あいむ、ほーむ。ゆとり、ほーむ」
夫のマツダが、帰宅した。
「おかえりなさい」
まずは、昼食をとってもらった。
「何だ?マユは、食べないのか?」
そうは言われても、食べられる雰囲気ではなかった。何だか、得体の知れない罪悪が喉にまとわりついてきたように感じられて、食欲が出なかったのだ。
「ああ、よく食べた。もう、寝るぞー!マジで、寝るからな。マジ、まんじゅう!」
「…私には、できないわ」
彼女は、自らの膝を差し出した。
「腰に何も仕込んでいなくて、良かった」
「マユ?何か、言ったか?」
「ううん。何でも、ない」
「そうか」
「あなた…。どうぞ、この膝を枕にして眠ってくださいな」
彼は、心地良さそうに、目を閉じた。
やるのなら、今だった。
が、彼女は、事をおこなわなかった。
いや、おこなえなかった。
彼女は、観念した。
「私ったら…。ダメね。兄貴との作戦を遂行する最良の時は、今だっていうのにね」
そう思うと、彼女の目に、涙が浮かんできた。
その涙は、ほほをつーっと流れ、床に落ちた。
雫のいきついた場は、彼の顔。目と鼻の間ほどの場所、だった。
「その場所は、人間では鍛えられない部分だ。だからこそそこは、急所と呼ばれる」
そんな言葉をどこかで聞いたことがあったのを思いだして、彼女は、より一層、悲しくなってきてしまった。
「今、私は、この人を殺そうとしているんだわ…」
そう思うとまた、雫が落ちた。
彼は、驚いて、目を覚ました。
彼女には、こんなことを言った。
「ああ、お前か。お前だよな。ははは…。今俺は、夢を見ていたよ。どこかのイヌに、おどされていたよ。いや、ネコだったかな?ピストルを、握っていたよ。良く覚えていないが、二足歩行だった気がするな。イヌだったかネコは、俺を殺しにかかっていたわけだな。参ったなあ。俺は、イヌに、嫌われていたんだな。やっぱり、俺が愛すべきは、イヌじゃなかったのかな?」
「…」
「愛すべきは、ネコでもないだろうな。きっと」
「…」
彼女には、何も言えなかった。
彼は、続けた。
「そのイヌには、仲間がいたみたいでさ」
「…」
「なあ、マユ?その仲間のイヌがやってきて、俺に、おしっこを引っかけてきたんだ。俺は、良く、おしっこを引っかけられるんだな。俺、本当は、イヌに好かれていたんじゃないのかな?それでそのおしっこが、滝となって、降ってきたんだよな。一体、どういう意味の夢だったんだろうなあ?」
これを聞いて、彼女は、観念した。
「ダメね…。この人には、何も通用しない気がするわ」
彼が、彼女の膝から顔を起こした。
ゆっくりと、あぐらをかいた。
彼が、彼女の顔を見つめていた。
彼女は、畏れ多くも床に手をついて、兄貴が考案の殺害作戦のことを白状していた。
「今…。あなたのほほに、水がかかったと思います」
「うん」
「それは、私の、血の涙でございました」
「何だって?」
彼女は、涙の正体を、知っていた。
知っていて隠し、それをできないとも知ってしまい、もだえていた。
血の涙であったとばかり、言い張った。
「私の心は、アンビバレントにまみれ、ダブルバインドに苛まれておりました」
「何、それ?」
言葉の意味が読み込めなかった彼には、心苦しい一方だった。
言葉を知っていたかどうなのか、他人の気持ちが推測できるのかどうなのかのレベルを超えた、遥かなる苦しさだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます