第19話 「…お前たち夫婦も、大変だったんだな」
イヌの警告は、勇ましかった。
「そうだろう、アリマよ。あの男マツダのしたことは、俺たち犬のためには大きな功があったのかも知れんが、妻、つまりはお前のかわいい妹、そして社会にたいしては、無慈悲なことをしただろう」
「無慈悲なこと、ねえ…」
「それは、許せないことのはずだ。加減のわからぬマツダ世代のおかげで、危うく、食品ロスになるところだったパンの運命を、あいつは、何だと思っていたんだ!許せん。絶対に、許せん!」
「…」
「どうだ?」
「…」
アリマは、縛られたように、動けなくなっていた。イヌを前にして硬直した人間の生き様が、もどかしかった。
「どうした、アリマ!マツダは、縦型扇風機を盾にして…、あれ、良くわからなくなってきたな。えっと…縦型扇風機を憎悪に変えて…、おっ、これで良い」
「良いのか?」
「縦型扇風機に、憎悪の風を宿らせ…。おっ、もっと、格好良くなったぞ。縦型扇風機に憎悪の風を宿らせ、お前の命を狙っているはずだ」
「…」
「良いか、アリマ?返り討ちに、してやるんだ!あの扇風機を奪われてしまうくらいなら、マツダを、殺せ!そうして、社会を守るんだ!万歳!」
ここでアリマの心が、激しく動いた。
「返り討ち?返り討ちって、何を、言っているんだ?マツダはまだ、何もしていないじゃないか!」
しかしイヌも、負けなかった。
「うるさい!このイヌの命令が、聞けないのか!俺たちはこれまで、どんな思いで、お前たち人間を、先祖の代から何千年も何万年も守ってきてやったと思っているんだ!イヌへの感謝が、足りないんだワン!」
「ちぇっ」
「お前は、妹を救いたくはないのか?」
何が何だか、わからなくなってきていた。
「…わかったよ」
アリマの声は、か細かった。
とりあえず、契約が成立した。
「良し、良し…。マツダを何とかしてやる契約を、成立させたワン。これを、旧約と呼ぶべきか。新約が、待ち遠しいワン」
そんなイヌの言葉は、どうでも良く聞こえてきた。イヌとわかれることが、うれしくてならなかった。
翌日、アリマは、妹マユに、携帯電話で連絡をとってみた。
「…マユか?」
「何?」
「お前さあ、兄である俺と夫であるマツダと、どちらが大事なんだ?」
いきなりそう言われてしまった彼女は、聞かれた意味がわからなかった。
「どういう意味?まあ、良くわからないけれど、私が大事にしているのは、アリマ兄さんのほうよ?マツダさんは、単純で良いという意味で、かわいいというだけ。結局は、オンリーワン主義で、わがまま男。自分中心思考でしか生きられない、虫。哀れな、グレゴール・ザムザ」
「…お前は、自分の夫を、よくもまあ、そこまで言うんだな」
「仕方が、ないじゃないの」
「マツダは、そんな男だったのか?」
「当たり前じゃないの!だって、私たちの扇風機を、狙っているのよ?」
「そ、そうだったな」
「あの人に、新しい風なんか、当てたくないわ。せっかくの扇風機が、無残よ。努力もしないあの世代の男に、どんな風を当てろって、言うの?」
「お前は、良く、しゃべるなあ」
「マツダさんは、あの、新卒一括採用世代でもあるのよ?」
「何?そうだったか?」
「だって、年齢から考えれば…」
「ああ。そういえば、そうだったなあ」
「私には、やっぱり、兄貴のほうが大事なのよ?あの人なんて、私たちに比べては努力もしないで、他人の気持ちもわかろうとしなくて、だから私の気持ちもわからなくなって、待っていれば誰かが代わりにやってくれるものだと思っているのよ?それに、コースに乗って、楽々就社なのよ?もう、最悪。去年退職したシゲルおじさんと、同じレベルよ」
「良く、言うなあ」
「言うわよ」
「身内にたいしてまで、言うのか」
「ええ。言います!」
「おい、マユ?夫婦で、大事件でもあったのか?」
「うん」
「何が、あったんだ?」
「もう、意味不明。マツダさんと一緒に外食したら、最悪。店員さん、僕は海鮮アレルギーなので、タコを使わないタコ焼きを焼いてください、だって…。それじゃあ、基本、タコ焼きって言わないんだよ、ボケ!」
夫から解放されて、気持ちが落ち着けたのか?良くもまあ、ペラペラとしゃべっていた。
兄アリマは、妹の訴えをなだめようと、必死だった。
「そうか。何となくだが、わかったよ」
兄は、折れた。
「良かったわ」
妹は、さぞや、心地良かったことだろう。
「俺は、もっと、良かったよ」
兄の感激が、深まった。
こうして、マツダを何とか懲らしめるかのような契約が、再確認された。
「これが、新約だワン」
あのイヌなら、そう言っただろうか。
「そうよねえ…。マツダさんのように、若くて苦労しない世代の人には、痛い目にあってもらわなければならないわよね」
「言うなあ」
「本来は、若いからこそ、苦労すべきなんじゃないの?」
「そうだな。社会は、変わったよな」
「それなのにあの人ったら、苦労なしのオンリーワンで育っちゃったから…」
「わかった。わかったよ」
「いろいろと思い出したら、なんだあ、腹が立ってきちゃった。皆、皆、リア充なのよね!」
「…お前たち夫婦も、大変だったんだな」
アリマは、ため息をついていた。
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