第5話 夫婦別姓の、近所物語

 マツダ夫妻は、困ったパートナー同士だった。

 マツダ夫妻、というよりも、アンリ夫妻というべきだった?

 名前さえ、まとまらなかった具合だ。

 「結婚したら、名前を、統一しようか」

 「同じ名前で、呼ばれてみたいね」

 夫婦の選択は、シビアだった。

 「でも、夫婦別姓の選択も、あったな」

 「どうするの?」

 「どっちでも、良いか?」

 「いや、だから、どっちよ?」

 「うるさいなあ」

 「うるさくない」

 夫婦ゲームは、ルールを逸脱していた。黙って話を聞くという、シナリオだったのに。どう転んでも、シナリオ上、寡黙は破られるしかなかったようだ。

 「どっちでも、良いよ」

 「ダメよ。大切な問題なんだから、真面目に、考えてよ!」

 パートナーの形は、酷な風だった。

 上手くまとめようとすればするほどに、なぜだか、いがみ合ってしまうのだった。

 名前1つとってみても、そうだった。

 「ねえ、マユ?名前にまつわる興味深いあの話、知ってる?」

 友人が、興味深い情報を、もってきた。

 「何?」

 携帯電話の電波が、潤い続けていた。

 たしかに、興味深い話だった。

 友人の近所に、チベット出身の女性が、日本人の夫を連れて引っ越してきたという。その人には、姓がないのだそうだった。

 「マユ、驚いた?」

 「え?ファーストネーム、名字がないってことなの?」

 「そういうこと」

 「そうなんだ」

 夫婦の名前で悩んでいた彼女にとっては、びっくり情報に、違いなかった。

 「でもね、マユ?」

 「何?」

 「同姓でも別姓でもないけれど、あやふやなことは何もなくって、幸せみたいよ?家族との絆を大切にして、生きがいある生活を送れているみたいなの」

 「そっか」

 マユは、思い出した。国によっては、名前そのものの概念を強調したがらない文化を、もっていたのだ。

 家族の絆、夫婦の絆は、名前を合わせるのか別にするのかの議論からだけでは、図りにくいケースもあったようだ。

 「マユ、それでさ?」

 「何?」

 「チベットでは、姓がないわけなんだけれど、不便を感じたことはないんだって」

 「そうなの?」

 疑問で、いっぱいだった。

 結婚などで姓を変えれば、自分が誰なのかがわからなくなっちゃうんじゃないのか、疑問だった。

 彼女にとっての新しい学問が、拓けてきたようだった。

 「へえ、そうなんだ」

 「うん。朝、ゴミ集積所であいさつしたときに、教えてくれたのよ?」

 「ゴミ集積所、か…」

 「マユ、驚いた?」

 「うん。ちょっと」

 「でしょう?」

 「夫婦間の名前の不統一は、アイデンティティの喪失にはならないってこと、か。統一しても、必ずしも、アイデンティティを獲得したことにはならないんだ」

 「マユは、難しいことを言うんだね」

 「あ、ごめん」

 「いいよ」

 名前や呼び方からしても、夫婦のR PGゲームは、ハイレベルだったようだ。

 「あ…私も」

 友人の話から、彼女は、パートで働きに出ていたときのことを、思い出していた。

 パート先の社内の給湯室で、年上のある女性社員から、こんなことを言われたことがあったのだ。

 「ねえ、あなた?あなたは今、茶を淹れていますよね?それは、良いことでしょう。でもあなたは、本当のところ、今のあなたをどう捉えているの?」

 意外な話が、降ってきた。

 「今、あなたが茶を飲みたくなって、そのついでだから皆にも茶を淹れてあげようと思っているのなら、良いと思います。でも、もしも、もしもですけれど、私は女性だから、おじさんたちの分の茶も淹れてあげなくっちゃならないといった急迫観念であなたがやっているのなら、辞めた方が良いわよ?」

 考えさせられたことを思い出して、また、考えさせられていた。

 夫マツダは、しばしば、妻マユと、衝突をした。

 「…さすがは、マユだ。口論には、勝てないなあ。まるで、俺が、虐待を受けているようじゃないか!」

 男にはつまらない意地があると、知った。

 「女性に服従をさせ、優位に立ちたい」

 「口論に勝てなかった腹いせを、したい」

そう思えるような男性は、哀れだった。

 そうして思いながら、意識を飛ばし、働き先でのことを、考えてもいたようだ。

 男性というのは、面白い生き物だった。

 「ホント、闇の部族だわ」

 男性という生き物は、社会に出れば、通常は、たくさんの敵に、囲まれていたものだ。友達感覚に、ゆるゆるで育てられた世代なら、どうだかわからなかったが…。

 男性は、その敵を、こんな言葉で説明しがちだった。

 「身分」

 このゲームのフラグには、最適なキーワードだった。

 男性は、縦社会の中で、たくさんのことにたいして、懸命に、我慢を強いられたきたそうだ。

 我慢ができたのは、身分を手に入れられる保証があったためだそうだ。

 「我慢して、やれ。やってくれれば、係長になれるだろう。我慢して、やれ。課長に、なりたくなのか?」

 男性は、服従の中で生活しなければ生きていけなくなっていたのだろうか?

 女性は、そんな男性を、優しい瞳で捉えようとしていた。

 男性が、女性に、優しい瞳で見られていたのは、必ずしも、その男性のことが好きだったからというわけではなかった。

 「私は、あなたのことが心配なんです。あなたは、服従関係を描いて、自らが上位に立つことでしか満足を得られないようなんですもの…。そんなあなたの精神が、哀れ。だから私は、あなたを見つめているのよ」

 男性は、女性に、そのくらい深い考察で見られていたことを、どれだけ、理解できていただろうか?

 「…バカな男ほど、かわいいのよね」

 究極的には、その言葉に、いきつくのだろうか?

 多くの男性には、パートナーの心の機微については、知る由もなかった。

 身分保障の我慢ゲームに没頭していれば、なおさらか。

 男性は、我慢を重ねた。

 その側で、女性は、たくさんの考察をしながら、たくさんの意見を、我慢なく、自由闊達にも伝えてきた。

 その女性の姿を見て、男性は、こう言いがちだった。

 「…女性は、わきまえていないよな」

 そのように嘆く男性は多いらしいが、理由は、様々だったろう。

 怖いものだった。

 「妻は、いつも、キレる。女性って、いきなり、キレるんだよな。俺は、いつも、無視される。とにかく、何をしても、怒られる。俺の服だけは、選択もしてくれない。ゴミ箱にたまに捨てられているのを見つけて、泣けてくる。俺は、どうして、こんな生活の身分お手に入れちゃったんだろうか?」

 こんなところに、落ち着いていくようだ。女性の気持ちは、どこへやら?

 男性の脳内には、反映された痕跡すらなかった。






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