第3話 二つの館
日曜日の朝、僕はあくびをしながら朝食ができるのを待っていた。
お母さんがフライパンでベーコンをジュージューと焼きはじめた時、チャイムが鳴った。
時計を見るとまだ七時過ぎだ。こんな時間に誰だろう?
「ちょっと出てくれる。手が離せないから」
僕は返事のかわりにウーとうなった。
重い足どりで歩いて行きドアを開けると、ブランドでがっちりとした男が疲れた顔で立っていた。
「お父さん!」
僕はいっきに目が覚めた。
お父さんは嬉しそうに、ただいまと僕に笑いかけた。とても疲れ、顔色は黒ずんで傷だらけだ。服は引き裂かれて猛獣と格闘でもしたかのようなひどいありさまだ。
「どうしたのその格好」
お父さんを上から下まで見て言った。
お父さんは自分の服を触りながら苦笑いした。
「まあ‥‥いろいろあって」
もごもごと言葉をにごらせた。
お父さんは動物病院で働いている。二十四時間体制の病院だ。
獣医師がひとりとナースが五人の二交代制だが、今のところ獣医師は父ひとりしかいないため、病院に寝泊まりしている。
帰ってくるたび目の下に濃いくまができている。忙しくて家にいる時のほうが少ない。
「お帰り。疲れてるみたいだね」
「いつものことだから慣れてるよ」
お父さんがキッチンまで行くと、お母さんはふたつの皿にベーコンを分けていたところ、お父さんの姿に僕とまったく同じ反応をした。
「どうしたの、その格好!」
お母さんは顔をしかめた。
「その格好で歩いてきたの?」
「まあ、そうだな……すまない」
お母さんは
「気をつけておかないと、人の目というものがあるのよ」
お父さんの体はひどい悪臭を放っていたので、バスルームへと直行させられた。
僕たちは久しぶりに家族三人で朝食を取った。どんなに疲れていても、お父さんは僕の学校でのことを聞きたがった。
ところがお母さんはお父さんとふたりだけで話すことがあると言った。久しぶりだというのに、追いはらわれた僕は不機嫌になった。
昼過ぎになると、お母さんは急用ができたと僕に告げた。不機嫌な僕を残してふたりは慌ただしく出かけて行った。
ひとりとり残された僕は漫画やゲームをして過ごした。お腹が減るとお母さんが作ってくれたサンドイッチを食べた。
漫画を読み終えるとやることがなくなった。漫画をベッドの棚に直していると、なにかがコツンと足にあたった。
屈んでベッドの下に手を入れると、サラッとした布が指先に触れた。なんだろう? 引っ張るとゴトンと音がした。
手にとった物は青い布……あれ、これって。足元を見ると白い剣が。メイのだ。
こんなに大事な剣を忘れていくなんて。やれやれと首を振った。
白い剣をもつと水晶のところが昨日と同じように水色に変わった。しばらく眺めて青い布に包んだ。
早くメイに届けに行ったほうがよさそうだな。おじさんに見つかったら大変だ。
僕はすぐに着替えて、白い剣を引っ掴むとメイの家へと走った。白い剣を届けるのはついでで、ほんとうの目的はメイと遊ぶことだ。
いつも通り近道を通っていると、どこからか新鮮で爽やかな風が吹いてきた。僕は立ち止まって辺りを見回した。
あきらかに空気が違う……。
空気の流れを追ってみると細く狭い道が目に止まった。
「あれ、こんな道あったっけ?」
いつも通ってたのになぜ気づかなかったんだろう。
細い道はくねくねと曲がっていて、人がふたりしか通れないくらいの幅だ。ずっと向こうまで続いて両側の
風がうなりをあげながら僕の髪を逆なでた。その空気は美しく汚れがなく、ひんやりと冷たい。僕は身震いした。
通り過ぎようと思ったけれど、好奇心に突き動かされて細い道のほうへ向かった。
メイのことも白い剣のことも忘れて、細い道に足を踏み入れた。風が吹き新鮮な空気を吸い込むたびに、身体中の血が騒いでいるような感じがした。
あるていど進むと、くねくね曲がっていた道は真っ直ぐになり開けてきた。両側の塀は高く、左の塀の向こう側に屋根が並んでいた。
よく見ると並んでいる屋根はかなり見覚えがある。そうだ、あの屋根はロバーツさん……その隣はパキンさん。
知っている家々の裏側にこんな道があったなんて。右側の塀からはなにも見えない。
早歩きでひたすら進んで行った。どこまでも続く道は景色を変えることなく、見える物は真っ直ぐな道だけ。
それでも僕は期待に胸を
僕は来た道を振り返ってため息をついた。誰ひとり見かけないし歩き疲れてきた。けれど、澄んだ空気が濃くなってきたのは確かだ。
さらに歩き進めていた時、右手に赤い屋根とその隣に青い屋根が目に飛び込んできた。遠目でもかなり大きな家だとわかる。
僕は急に元気になって、赤い屋根の家まで走った。三百メートルほどの距離に近づくと巨大な木戸を発見。
巨大な木戸までいっきに駆けて行った。
僕は誰もいないか周りを確認して、巨大な木戸を見あげた。分厚い木戸は両開きの扉で、長い年月雨風に
人が住んでいる気配はなさそうだ。少しためらったけれど僕は思いきって木戸を押してみた。
予想はしていたけど開かない。城の門のように分厚くて頑丈な木戸だしな。と思いつつ今度は渾身の力で押した。
「ああー、やっぱりだめだ」
木戸はビクともしない。僕はすぐにあきらめて隣の青い屋根の家のほうへ向かった。
幸運なことに青い屋根のほうは柵の門だった。柵から中をのぞいた瞬間、僕はあんぐりと口を開けた。
そこには見たこともないような大きな家……いや、館があった。箱型のどっしりとした館で、
玄関横のサンルームはとても素敵だが、残念なことに白いシートで目隠しされていた。
広い敷地内の真ん中に見事な噴水があり(水は噴き出していない)彫刻のイヌ達が
手入れされていない伸び放題の
僕は気のすむまで敷地内のすみずみを見物した。
ここから赤い屋根のほうの館が見渡せた。すると、赤い屋根の館とこちらの館はまったく同じ造りをしていた。
ふたつの館をよく見ようと柵を掴んだ。ところがーーギイィーー鍵がかかっていない。
思いがけなく柵が開いて僕は転びそうになったが、柵にしがみついた。
柵を掴んだまま「入れた」とつぶやいた。
僕は館に入らずに柵を閉めた。
思ったとおり館には誰も住んでいないようだ。白い
今更ながらじわっと興奮が押し寄せてきた。館のことを早くメイ達に教えたくてウズウズした。秘密基地にするならこんなに最高なところはないだろう。
今日はこれくらいで帰るか。明日三人を連れて侵入しよう。来た道を戻りながらニヤニヤと笑いが止まらない。
赤い屋根の館には隣の敷地から簡単に侵入できそうだった。ふたつの館を隔てる低い塀しかないのを確認しておいた。
ギギギイィ。
扉が軋む音で、僕はビクッとして立ち止まった。木の扉が開いている! まさか人が住んでいる?
また軋みながら扉が開き、押し開けている手と褐色の髪が見えた。
気になった僕はゆっくり通り過ぎながら、誰かが出てくるのを待った。
扉からするりと男が出てきた。
僕はギョッとして声を立ててしまうところだった。
男はこの館にはふさわしくなく、ジャングルの王者のようだったからだ。腰布だけを巻いて、
日焼けした肌は黒くて汚らしい。この薄汚れた男が館の主とは思えない。
汚らしい男は僕に気づくと、驚いて歩きかけて止まった。つられて僕も立ち止まった。
男はしばらく僕を見つめて口を開いた。
「おおぅ。今日はなんて幸運なんだ」
男はもみ手をしながら笑顔を浮かべた。
「ネコ一族の子だな。こんなところで会えるなんてな。名前は?」
「ネコ一族?」
僕はオウム返しに言った。
「そうだ。で、名前はなんていうんだ?」
「ジョンソンです」
「ジョンソン? ジョンソンねぇ……」
男はつぶやきながら首をかしげた。
「おかしいな、ネコ一族にはジョンソンなんてヤツはいないはずなんだが」
僕はブツブツ言っている男の顔を見つめながらたずねた。
「あの、人違いではないでしょうか」
と僕が言うと、男は不思議そうな表情を浮かべた。
「いや……まだきみが誰の子か知らないけど、知り合いの子供のはずだ」
いっときの間僕は黙っていた。
「お、そうだ。俺の名前を教えてなかったな」
男は笑いながら言い、僕はウッと鼻にシワを寄せた。
男は体がとても臭い。何日も体を洗っていないような汗と汚れの臭いがする。
「俺はハッフィルだ。ハッフィル・クロー」
と男は黒く汚れた手を差し出してきた。
僕はその汚れた手を見つめた。うう‥…触りたくないな。しかし覚悟を決めて、ハッフィルと名乗った男の手をにぎった。僕の腕に鳥肌がゾワーと立った。
ハッフィルはにぎった手を振りながら口を開こうとした時、突然鼻をヒクヒクさせた。
「ん? 小僧……なんだか懐かしい匂いがするな」
「えっ、匂い?」
「そう、そうだ。でも誰だったか……」
ハッフィルはウームとうなって、必死に思いだそうと鼻をヒクヒクさせた。
この人変なヤツだ。僕は後ずさりして警戒した。
男は僕の態度を気にすることもなく、ぶしつけに僕の身体の匂いを
記憶の糸をたぐり寄せながら、ハッフィルは目をつぶって頭を抱え込んでいたかと思うと、ポンと手を叩いて僕を指差した。
「思い出した! そうだ、マリザだ」
マリザ? その名前を聞いて僕は後ずさるのをやめた。マリザは僕のお母さんだ。
「僕のお母さんと知り合いなんですね」
僕はいくらかホッとした。
ハッフィルは嬉しそうな顔をした。
「おお。おまえマリザの子供なのか」
「はい」
「なあ、マリザは今どこにいるんだ? 話したいことがあるんだが」
「お母さんは少し前に出かけました。行き先を聞いていないのでわかりません」
ハッフィルは口を
「そうか残念だな。仕方ない。それじゃあ悪いが俺をネコの隠れ家まで連れて行ってくれないか」
「ネコの隠れ家って?」
僕がたずねるとハッフィルは「は?」と目をまるくした。
「だからおまえの隠れ家のことだよ」
とハッフィルは赤い屋根の館を指差した。
僕はポカンとしながら首を振った。
「すみません。なにを言ってるのかわからないんですけど。ここは僕の家じゃありません。もし、そういう意味で聞いているならですけど」
今度はハッフィルがポカンとする番だった。
「……そんじゃあ、ええっと、一族については知っているよな、もちろん」
僕が知りませんと首を振るとハッフィルの顔が
「なにも知らないんだな。いったいどういうつもりだマリザのやつ」
ため息をついてハッフィルは頭をボリボリとかいた。
「なあ小僧。まさかとは思うがあっちのほうに住んでるのか?」
ハッフィルは僕が来た方向を指した。
僕がうなずくと、ハッフィルはショックを受けたようだった。
「そうか……なあ、よかったら今から館の中で話せないか?」
僕は冗談じゃないと思った。お母さんの知り合いとはいえ、得体の知れない男と館にふたりっきりになるつもりはない。なにをされるかわからない。
そこですばやく言いわけを考えた。
「もう帰らないと。祖母が心配するので」
ハッフィルは残念そうに肩を落とした。
「それじゃあお母さんに俺の言ったことを伝えてくれないか」
「わかりました」
「話したいことがあるからすぐに俺に会いに来てくれ。俺はずっとここにいるから三日以内に来てほしい、と伝えてくれ」
「はい。伝えておきます」
よかった、とハッフィルはうなずいた。
去って行こうとした僕にハッフィルが言った
「おまえは
「え? あ、うん。知りません」
やっぱりなとハッフィルは眉をあげた。
「だろうな。じゃあ最近身体に
その時に学校で起きたことが浮かんだ。でも僕はそのことを言わずにいた。
「身体の変化って?」
「そうだな。個人差はあるが、例えば目がおかしくなったり、吐き気がしたり、気を失ったり、そんなところだ」
目がおかしい! この言葉には正直ドキッとした。確かにハッフィルの言っていることに思いあたることはある。
僕が考え込んでいるとハッフィルが続けた。
「年齢からするとそろそろじゃないかと。変化体質が始まってるはずだ。それから、この街で長くは暮らせないだろうからな」
「どういうことですか?」
気になって聞くとハッフィルは口の片方をあげてニヤッとした。
「母親に聞けばいいだろ」
それだけ言うと木の扉へ戻ろうとした。
「あ、待って」
ハッフィルは木の扉に手をかけたまま振り向いた。
「長く暮らせないって、なぜですか?」
僕はハッフィルの言ったことが気になった。なんとなく聞いておいたほうがいいと感じたからだ。
「話しは戻るが、どうしても聞きたいなら」と館を
ハッフィルは腰に手をあてて僕の返事を待った。
「それは……」
「それがだめならマリザを呼んでくれ。待っているから」
僕の言葉を遮ってハッフィルはぴしゃりと言った。
「じゃあな。三日以内だぞ。それ以上は待たないぞ」
ハッフィルはさっさと木の扉の中に入って耳障りな音を立てて閉めた。
あとに残された僕は木の扉を前に立ちつくしていた。
グレイシャス 〜 二つの館 〜 つちのこ @sweetcosmos
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