また明日、黄昏時に。

延暦寺

秘密基地

 あれは僕が小4の秋だった。


 僕は自分一人で裏山に作った秘密基地へ行った。それが雪の積もっていない季節の日課だった。秘密基地といっても、そこら辺に落ちている小枝を組み合わせて、風よけにしただけものである。しかし、当時の僕にとっては何とも特別なもののように思えていた。実際、そこは高い崖になっていて、街を見下ろせた。走る車、歩く人。みんなみんな小さく見えて、だから僕はそこがとても好きだった。


 あの日は、いつもの山道に人の足跡があった。昨日まではなかったものだったから、秘密基地が見つかって取られてしまうのではないかと思い、焦っていた覚えがある。


 急いで山道を登り切った僕は、一人のお姉さんが秘密基地に座っているのを見つけた。彼女は高校生だった。その頃の僕はそんなことは分からず、ただ年上のお姉さんだなとだけ認識した。緊張した。年上の女性と話す機会なんて殆どないし、初対面だからなおさらだ。


 お姉さんはこちらに気づいて、ちょっとばつの悪そうな笑い顔で言った。


「ごめんごめん、君の秘密基地を勝手に使ってしまって」


 僕はどぎまぎしてしまって、何にも言えなかった。


「ほら、紅葉が綺麗だったからさ。こっちの方まで登ってきたんだ」


 お姉さんは裏山と連なるもう一つの山の方を指差した。


 毎年見る眺めだけど、それはやっぱり息をのむような美しさだった。まだ紅葉は始まったばかりで、赤だけでなく緑やオレンジが点描画のように複雑に配色されている。



 僕は、ほぅ、と息を吐いて、お姉さんの横に座った。お姉さんはちょっとびっくりしたような顔をしたけど、何も言わなかった。


 それから僕らは黙って紅葉と、山に溶けていく夕日を眺めていた。まったく初めて会ったはずなのに、なぜだか心地よい時間が続いた。



 あたりがすっかり暗くなったころ、恥ずかしいことに僕のお腹が鳴った。お姉さんはもう帰ったら、と笑った。顔から火が出そうだった。

 ほんの軽くお姉さんにお辞儀をして、山を下りようとしたとき、お姉さんが声をかけてきた。


「明日も、ここに来ていい?」


 僕はコクリと頷いた。




 その日から、僕とお姉さんの交流が始まった。黄昏時に山の秘密基地で会って、黙って紅葉を眺め、陽が沈んだら僕は帰る。お姉さんがいつまでいるかは知らない。会話もほとんど交わさなくて、相手の事も全然知らなくて、でも日を重ねるごとに奇妙な信頼感が僕らの間には横たわっていた。



 1か月とさらに半月が過ぎた。その間、雨はなぜだか降らなかった。点のようだった山の赤は次第に滲んでゆき、絨毯のようになった。そのうち今度は葉が散ってゆき、茶色の方が勝るまでになった。燃え尽きた秋の残滓であった。


 そのころになると、僕はお姉さんに思慕のようなものを抱き始めていた。それはおそらく憧憬を見間違ったものであったのだが、あの時の僕は初めての感情に戸惑い、何だか分からないもやもやした気持ちを抱えていた。


 久々に、お姉さんが話しかけてきた。


「私さ、そろそろ、行かなくちゃならないんだ」

「どこに?」


 僕は尋ねた。


「さあ、どこかな。私にも分からないんだ」


 お姉さんは遠い目をした。それからふっと優しそうな顔をした。


「私と一緒に来ないかい?」

「何で?」

「だって君、友達がいないんでしょ」


 僕は不思議に思った。何で知っているんだろう。確かに、僕は友達がいない。できたことが無かった。


「分かっちゃうんだよなあ、大人だから」


 不思議そうな顔をしていたであろう僕に、お姉さんはふふんと笑って言った。どことなく寂しい笑顔だった。今の僕にはその気持ちがよく分かる。でもあの時の自分には分からなくて、だから納得するふりをしただけだった。


「それで、どうなの?一緒に来てくれる?」


 僕は頷こうとした。お姉さんとずっと一緒に居たかった。別れてしまうなんて嫌だった。でも、何かが僕を引き留めた。


 お母さんだった。お母さんの疲れ切った顔が、静かに僕を諭していた。お姉さんといれば独りぼっちになることはない。でも、お父さんのいない僕の家では、お母さんは身を粉にして働いて、いつも疲れ切っていた。そんなお母さんと離れてしまってよいものだろうか。


 それとも、僕がいない方がお母さんは楽なんだろうか。


 悩んだ僕は、それでもお姉さんに結論を告げた。


「ごめんなさい」


 お姉さんはあっさり引き下がった。


「そっか、まあご両親にも迷惑を掛けちゃうからね」


 安心した様子でもあった。しばらく沈黙が続いた。斜陽が僕たちを照らしていた。



 別れ際、僕はどうしてもお願いしておきたいことがあった。


「また、会いに来てくれる?」


 お姉さんはむう、と難しい顔をした。

 しばらく考えていたお姉さんは、やがて躊躇うようにゆっくりと首肯した。


「じゃあ、約束しよう。私たちが最初に会った日から、7年後の同じ日に、この場所に来ることにするよ」


 そこで言葉を切って、もう少し続けた。


「その代わり、私のことを誰にも言わないんで欲しいんだ。お母さんにも、お父さんにも。誰に聞かれても、答えちゃだめだよ」


 約束をした。

 やっと安心した僕は、じゃあね、と手を振って山を駆け下りた。後ろは、振り返らなかった。


 次の日、お姉さんは秘密基地に来なかった。代わりに初雪が降った。ずんずん積もった雪は、やがて山肌をすっぽり覆ってしまった。お姉さんと会って、ちょうど50日が経っていた。


 ******


 それが、ちょうど7年前に僕が体験したことの全てである。


 以来、僕がここに来る頻度は減り、中学に入ってからは一度も来ていなかった。


 そう、今日は約束の日であった。僕は高校2年生になっていた。すっかり背が伸びて、色々なことを知って、でも本質は変わらなかった。



 ずっと、いじめられてきた。小3の時からだ。弱虫で友達のいない僕は格好の獲物だった。先生に言いつけるのは怖くてできなかった。疲れてきっている親に言いつけることも、できなかった。

 最初はつらくて、だからこうして秘密基地を作って逃げ込んでいた。ここにいる間だけは、少しは自分が強い人間な気が出来ていた。そんなことをしてもむしろ無様だということは見ないふりをした。

 いじめはどんどんヒートアップした。最初は悪口だけだったのが、暴力になり、凌辱となり、やがて陰湿になった。

 心が麻痺した。笑っているのに面白くなかった。嬉しくなかった。泣いているのに悲しくなかった。寂しくなかった。


 僕は何も感じないのに、さも平常であるかのように生きるようになった。それはもはや人間としての僕の我の死を意味していた。


 そんな僕にも、あの約束だけは残されていた。それだけが僕にとって大事なことで、あとは全て些末なことだった。だから、死してなお命をつないできた。


 この時のために僕は生きていた。今日ここで死ぬために、僕は生きていた。




「来ちゃったか」


 再会するなりお姉さんはそう言った。


「怖気づいて、来ないでくれると嬉しかったんだけど」

「約束ですから」


 僕は笑った。自然にこぼれた笑みだった。


「大きくなったね、あの頃はまだ私の肩くらいしかなかったのに。ほら、今はもう私が見上げるくらいだ」


 お姉さんの声が懐かしかった。どうしようもなく泣きたくなった。


「私のこと、もう知っているんでしょう?」

「ええ。ニュースで見ました」


 7年前、僕たちが出会ったその日に、お姉さんは行方不明となっていた。警察が捜索を行い、でも見つからなかった。


 お姉さんは、あの秘密基地のある崖から飛び降りていた。お姉さんもいじめを受けていたのだ。そのことを知った僕は、それほど驚かなかった。思い当たることはいろいろあった。



 僕たちはやっぱり、黙って夕日を眺めることにした。今年は紅葉が早くて、絨毯までもう一歩といったところだ。


 山が太陽を食べ終わって、暗くなった。お姉さんはもう、隣にいなかった。


 最後に僕は、秘密基地を振り返った。ボロボロになってしまったそれは、もう僕には小さすぎて。


 前を見た。ためらいはなかった。僕はまっすぐ、飛んだ。空気は澄んでいた。

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また明日、黄昏時に。 延暦寺 @ennryakuzi

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