重箱の客人

濱口 佳和

重箱の客人

 へえ。へえ、そのお重でよろしゅうございますね。

 ああ、こちらへ、こちらへ、そおっとそおっとお渡しくださいまし。


 ……ああ、左様で。はい。へえ。確かに。

 この塗り、山中塗などと申しますこの塗りの、うっすら木目が透けて、薄いこはく色をしておりまして……、こはく、でございますか。こはく、とはなにかとのお尋ねでございますね。


 こはくとは大むかしの松脂が固まったものとかで。へえ、大むかしとはどれほどか、でございますか。


 はて、残念ながら手前も存じ上げないのでございますが、そうでございますねぇ。たとえばこはくのなかには、ときおり、虫、がおりまして、まるで生きたまま封じ込められたように、なんだかわからぬきれいな虫が閉じ込められていることがございます。そこいらを飛んでいる虫のような、違うような、摩訶不思議な……、はい、左様で。そのような大昔にございます。


 ああ、このお重の出処でございましたね。

 このお重、お目を止められたこの四段重は、以前、この東京が江戸と呼ばれておりました頃、手前が手代として勤めておりましたおたなの若旦那さんが、どごぞよりお求めになったものでございました。お手にしておられる右の、そう、その二段目、そうそう、そこでございます。その縁が少々欠けておりまして、反対の三段目の裏。はい、そこにも二寸ばかりの傷がございます。


 しかしながら、おわかりのように、その形、塗りの美しさは比類がございません。百年以上手から手へ渡っても損なわれることなく、逆に年月を重ねて使い込まれただけ、美しさが増したようでございます。


 お重を使い込みはしないのではないか──はい、へえ。もっともとでございますが、それがこのお重の味と申しますか、他とは異なる可愛げとでも云いましょうか、実は手前も魅入られたひとりでございます。


 へえ。その若旦那さんでございますね。

 手前どもの若旦那は、これをどこぞから買い求めてからというものの、可愛いがるあまりに、とうとうそのお重と箱枕とを並べて共寝するようになったのでございます。


 ああ、やはり。やっぱり、お笑いになりましたね。手前も当初はそうでございました。常軌を逸した振る舞いと、使用人の仲間うちで囁き合い、気のいい若旦那でございましたから、呆れるというよりは、皆親しみをこめて「若旦那の重箱さま」などと申していたのでございます。


 そんなある日でございました。

 春先のこんな一日でございます。朝からお天道さまがぽかぽかと降り注ぎ、小鳥がぴーよろと鳴く川沿いでは桜がちらほら綻んで香りたち、なんとはなしに気持ちの浮き立つような朝でございました。


 実は、その若旦那がいなくなったのでございます。

 消えた、と申し上げた方がよろしいかもしれません。

 朝、女中が障子越しに声をかけると、どうも気配がない。朝早くから散歩へお出かけになることもありましたので、しばらくそのままにしておりましたが、いくら経っても帰ってこない。旦那さまに云われて念のため「ごめんください」と声をかけ、お部屋の障子を開けると誰もいない。布団もゆうべのまま、綺麗にかれて寝んだ気配もない。


 店は大騒ぎになりました。

 旦那さまはすぐさま人を走らせ、方々を探し回り、気まぐれなやつだからと、思いつく限りの処へ尋ねに遣らせました。


 へえ。左様でごさいます。吉原なかの馴染みの茶屋や見世はもちろん、仲のよい向かいの大黒屋さんの若旦那からも聞き出して、あらゆる、はい、思いつくかぎりお探ししたのでございますが、すうっと煙が消えたように姿を消していなくなり、二度とお戻りにならなかったのでございます。


 それとこのお重と、どのような関わりがあるのか、でございますか。


 でございます。


 手前も当初、関わりがあるなどとは思えず、枕元にちんまり置かれたこの重箱を、ただのがらくたと思っておりました。


 古いものでございます。傷も、欠けも、塗りが剥がれたところもございます。こうして蓋を乗せても、少し、ほんの少し重なりが甘く、とくに二段目と三段目の間には隙間ができて、ひょうひょうと気が漏れるようでございました。無理に重ねようとすると、かたかたと逆らうように音を立て、結局は重ならない。わずかにこの彫りの紋様がずれて、なんとも収まりが悪い。しかし、それがまた、よいのでございます。蓋にすうと指の腹を滑らせると吸いつくようで、夜に行燈の下でほんのり光る様子は、夜明けまで見ていても飽きることはございませんでした。

 手前も実は……はい、について、でございますね。


 若旦那が行方知れずとなって、三月ほどが経った初夏のことでございました。今度は旦那さまが、ふうと蝋燭を吹き消すようにお亡くなりになったのでございます。


 旦那さまには若旦那のほかに子もおられず、御新造さんはとうに去んでおられました。それでご親戚が集まり額を寄せて、結局はおたなを畳むこととなったのでございます。

 そうして手前ども使用人は、これまでの給金と過分な心附をいただき、それぞれの里へと戻ったのでございました。


 へえ。手前でごさいますか。

 手前はそのまま、東京で商いを始めました。それがこの道具屋「家紋」でございます。頂いた給金とをもとに、谷中あたりで小さな店を開き、幸いにもお客様にも恵まれて、ここ愛宕下へと移って参りました。こうして古道具の商いも繁盛し、まずまずの暮らしでございます。


 へえ。はい。左様で。本当に運よく過ごしてまいりました。すべては「若旦那の重箱さま」のお陰でございます。

 実はお店を去るとき、もう要らないからと割られて火に焚べられる寸前でございました。それを貰い受け、こうして大事に、大切に世話をして参ったのでございます。すべてはこのお重のお陰と、密かに思ってまいりました。


 それをなぜ手放すのか、と。

 はい、左様でございますな。至極最もでございます。


 大事だからこそ、手前のように気に入ってくださった御方へお譲りしたいのでございます。そうすれば手前のように心底可愛がってくださる。世話をしてくださる。たとえこの親爺がおっんだ後も、変わらず育ててくださる。そう思うと、ようやく安堵して極楽浄土とやらへまいれそうなのでございますよ。だから、このようにお代を頂くのがもったいなく、むしろ手前が御礼すべきではないかと思えるほどで。


 いえ、そうではございません。ぜひ、お持ちくださいませ。これは年寄りの戯言と、どうぞお聞き流しくださいまし。

 修繕も承っておりますので、もし今度、こちらをお持ちくださった際には、他の話もお聞かせいたしましょう。


 本当に、お客様はよい買い物をなさいました。こうして包んで、箱に入れてお渡しいたしますから、なるべく揺らさないようにしてお待ちください。傷がついては価値が下がってしまいます。


 ただ、お客様。

 はじめにお話ししたように、明日になるまで、けっして見てはなりません。箱に入れたまま、床の間にでも据えておいてくださいまし。

 迷信だと思われても結構でございます。

 ただ、確かにあの時、手前は見たのでございますよ。若旦那さんが行方知れずになった、その前の晩のことでございます。


 まずは、白い小さな手でございました。まっ白い小さな手がひょこり。指先の桃色の小さな爪までが御所人形のようでございました。そのあとからむくりと身を乗り出したその頭は、鋭い歯の口ばかりでございました。カチカチと歯を鳴らす音が聞こえそうな、奇妙な生き物のような虫のような、それがわらわらと蜘蛛の子のように湧き出し、あっと云う間に座敷を埋め尽くしたのでございます。床を埋め尽くし、はっと息を呑んだ手前に気づいたのか、一斉にこちらを振り向き、そうして──あとは覚えておりません。気付くと井戸のきわに立って、身を乗り出すように水面を、暗い水底を覗いておりました。


 だから、このまま、明日まで開けずに床の間へ置いておくがよろしゅうございます。


 はい。無論、お客様にお任せいたします。信じるも信じないも、お客様次第でございます。ただ明日、お天道さまの下で、よおくよおく、これをご覧になってくださいまし。こはく色の塗りの下、そこに何が埋まっているのか目を凝らしてお見届けいただきたいのでございます。


 へえ。どうぞ。お気をつけてお帰りくださいまし。どうぞ、しっかりお気をつけて。





(了)







 

 


 

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重箱の客人 濱口 佳和 @hamakawa

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