第4話 鬼神信仰

 祖母が死んでから既に一週間が経った。にもかかわらず、警察は事件解決のための目ぼしい手がかりをほとんど掴んでいないらしく、我が家に何の情報も下ろしていない。しかし、わたしは見つけた。犯人の動機と、その姿形を。


 前者は、ある日の夕食が終わったときに明らかになった。普段と変わらず、何の特徴もない、そのままにしていれば忘却の彼方に沈んでしまうような日の晩のことだった。わたしが部屋に戻ろうとすると、父がわたしを呼び止めた。父の意を決したような表情と、母がいたく心配しているような顔が、ただ事でない雰囲気を醸し出していた。


「伸ばし伸ばしになっていたおばあちゃんの葬式なんだがな、りん。葬式は、明後日、家族葬で行うことにした。親類縁者もできるだけ少なくする」


「どうして?」


 わたしは呆然と立ったまま訊いた。


「おばあちゃんはたくさん友だちもいたでしょ? 町内会の役員もやってたんだよね? それに、おじいちゃんの知り合いだって来たいはずだよ。それなのに、どうして普通のお葬式を開かないの?」


「凛、今まで隠していたが、気を確かにして聞いてほしい。おばあちゃんは――」


 重い沈黙が数秒続いた。

 祖母の死体を感じたときと同じ、嫌な悪寒が背筋に走った。


「おばあちゃんは――人身事故を、起こしたんだ」


 その発言の衝撃は、しかし、わたしの心の芯までは届かなかった。だから、間の抜けた返事しかできなかった。


「人身事故って、なに」


「おばあちゃんが、事故を起こしたことは知ってるよな。それは本当は人身事故で、おばあちゃんが運転する車が人をいてるんだ。それで、その人は亡くなってしまった」


「亡くなった……?」


「ああ。辛いだろうが、本当の話だ。父さんも、母さんだって辛い」


 わたしは何も言えなかった。

 頭が真っ白になった。


「おばあちゃん、高齢者なのに運転してただろう。それが悪かったんだ。本当なら俺が、運転なんてやめさせるべきだったんだ。おばあちゃん、事故のときの記憶がなかったんだよ。認知症になりはじめていたんだ。自分、そしてみんながけていると気づく前に事故が起きてしまった。――本当に、残念でならない」


 わたしは、ふと母の言葉を思い出した。


 単なる事故なんだから。おばあちゃんだって一日も早く忘れたいだろうし、そっとしておくのがいいの。それに、おばあちゃんには――


「単なる事故じゃなかったんだ」


 父は無言で、小さく頷いた。


「どうして、黙っていたの」


 わたしのそれは独白に近かった。頭で考える前に、心が言葉を吐いていた。


「お前はおばあちゃんのことを誰よりも慕っていた。だから、黙っていたんだ。ショックを受けることは分かっていたから、言えなかった」


 信じられなかった。あんなに聡明で壮健だった祖母が、実は認知症だったことが。しかも、人をひとり殺しているという事実など、決して信じたくなかった。


「嘘でしょ……?」


「本当のことだ」


 わたしのかすかな希望を打ち砕くかのように、父は言い切った。


 わたしはその場にへなへなとへたりこんだ。まるで、祖母の遺体を見つけたときのように、全身から力が抜けていくのが分かった。尊敬する人間の負の部分を見るのは何より辛い。それが血縁者のことなら尚更だった。頭に浮かぶ祖母の微笑みに、陰鬱とした影がさした。


 どれくらい打ちひしがれていたのか覚えていない。

 いや、今もそうであり続けているのだと思う。


 祖母の事故の真実を知ったあの日から、わたしの中の何かが決定的に壊れてしまった。それは、もう誰かを心の底から信じることは決してないという絶望が、わたしにとって唯一信じられる信仰になった瞬間だった。かろうじてわたしが精神を保てたのは、あるひとつの考えがふと去来したからだ。


 祖母に訪れた死。

 その直前に起きた死。


 そのふたつが、蛇のように絡まって醜悪な二重螺旋を描いてゆく。


「じゃあ、おばあちゃんを殺したのは――」


 わたしは独りごちた。


 祖母が殺した人の、関係者。

 動機は、復讐。


 わたしは最初から間違えていたのだ。「祖母は人から恨みを買うような人ではなかった」だって? 祖母は人間だった。わたしが考えている以上に人間だった。譫妄せんもう状態で車に乗って、そのまま人を轢き殺すくらいには人間だったのだ。


 そんなわたしの考えに気づいたのか、ずっと椅子に座っていた父が言った。


「警察は何も教えてくれなかった。俺たちは加害者の血縁だから、死んだ人のことは知らされなかった。もし被害者の遺族が、怨恨えんこんでおばあちゃんを殺したんだとしても、それは現状、あくまで可能性のひとつとして考えられるというレベルだ。逮捕されるまで、それが本当なのかどうかを知るすべはない。実際、警察は何も手がかりをつかんでいないんだ」


「そんな……!」


「唯一分かっているのは、おばあちゃんを殺した犯人が普通じゃないってことくらいだ」


「普通じゃない?」


「これもお前には黙っていようと思ったんだが――」


「正司さん、それは」

 と母は止めたが、


「話して、お願い」

 わたしは懇願した。


「おばあちゃんの死因は扼殺やくさつ――つまり、頭に血液がいかなくなって死んだんじゃないんだ。首の骨を砕かれて死んだんだ。人間の力とは思えないほど強い力で。それだけしか、この事件に特徴らしい特徴はない。部屋に忍び込んだところを目撃された犯人が、口封じに家人を殺したとしか警察は考えていない。ただ、死因だけが異常な、中身は陳腐な事件だと。だが、目的が恨みによる復讐じゃないなら、そんなに首を強く締めない、と俺は思っている」


 父は慙愧ざんきとも憎しみとも取れるような、複雑そうな顔をしながら言った。


 金目のものが何もなくなっていなかったから、事件がただの物盗りでないことは明らかだった。だが、祖母が殺した人に関係する人が加害者である可能性を口にするのは禁忌であるように父も母も思っていたと思う。つまり、わたしたちは被害者の遺族であると同時に加害者の遺族だったのであり、罪に対して怒りと後悔を同時に持つ者たちだった。


 ただ、わたしは、心に疑念が生じたという点で、父や母と少し違っていた。


 たしかに、祖母は罪を犯して罰せられた。だが、その祖母を殺した罪は何によって罰せられるのか? わたしは祖母を愛していた。残酷な現実を突きつけられた今さえ愛している。同じように、殺人者も、被害者を愛していたに違いないだろう。しかし、彼、または彼女は祖母を殺して充足感を得ている。そうでなければ、今ごろとっくに自首しているはずだからだ。


 罪を犯した祖母が死に、罪を犯した犯人は生きている。

 その無慈悲な非対称性は、わたしにある考えを思い浮かべさせた。


 もし、犯人に後悔の念があるならそれでいい。だが、もし、そうでないのなら。平穏な毎日をのうのうと暮らしているとしたら――。


 わたしは、祖母の家から持ち出してきた、一振りの真剣のことを思い出す。

 脳裡のうりに、最悪の考えが再び花開いた。


 しかし、その選択のためには残された謎を解かなければならない。つまり、祖母を殺した人間が具体的に「誰」なのかを知ることが必要だった。それを考えるためには、やはり異様、異常としかいえない殺人現場の状況を精査しなければならない。家屋の倒壊、小火ぼや、異臭、そして変死体……。これらをまとめあげるには、一般的な常識から出なければならないだろう。


 ならば、この犯人が、本当に人間なのかということから疑うべきだ。人間の首の骨は、砕こうと思って砕けるほどやわではない。まして、祖母の首に残った手は女子供のものだった。さらに、一介の人の身で建物を打ち壊すことも不可能。そんなことができるとしたら――それは鬼の所業だ。すべてが化物の仕業だとするなら、筋は通る。人外とて、もし大切な存在が轢殺れきさつされたとなれば殺意を抱くだろう。例えば人を殺した獣を、人間が憎み処分するのと同じように。


 もし、わたしがこの地域に生まれなかったなら、こんな推理はごくつまらない妄想だと捨て置いただろう。


 しかし、実際、わたしが住む木附根きふね周辺の町には、今でも鬼神おにがみ信仰が根強くあった。節分のときには「福は内、鬼も内」と言うし、の輪くぐりの祭事は鬼神須佐之男スサノオによる厄落としであるとされている。於爾おに神社という名前の神社があり、この地方の屋根には鬼瓦おにがわらという装飾瓦があつらえられている。さらに、中秋の名月の日には炎を焚き鬼を称える「鬼神炎祭」というものまで行われる。言うなれば、鬼とともにある町なのだ。


 わたし自身、昔から鬼の実在を聞かされて育った。たしかに、現代では、それは自然科学で真っ向から否定される類のものだろう。しかし、科学はいつの時代でも万能で絶対ではない。だからこそ、祖母の認知症を見抜けず、その後の事故も防げなかったのだ。わたしたち人間は、現実という大地に、科学という脆弱なはかりを持ち込んだに過ぎない。


 無論、馬鹿々々しい考えだという思いはある。

 ただ、わたしの中の何かが、獰悪どうあくな何かが、鬼の実在をくらい声でささやく。それが、いる、と。そして、それを殺さねばならない、と。


 わたしは、両親が寝静まってから、父が持っていたサックスのバッグを押し入れから出し、隠していた祖母の刀をそこに入れた。犯人が人間でないなら、必ずこれが必要になる。


 次の日、わたしは学校を休んで、唯一手がかりになりそうな場所に向かった。


 於爾おに神社。全国でも珍しい、鬼を御神体としてまつる神社。何かを得られる確信があったわけではない。ただ、鬼に関する情報や知識を得られるとしたら、そこしか考えられなかった。於爾神社は木附根町の真西にある。家からは遠かったが、バスを乗り継いで四十分、何とかたどり着くことができた。


 神社は平凡な住宅街の中の林に鎮座していた。いかにも古そうな灰色の鳥居をくぐりぬけて参道に進み、二匹の凶悪な顔をした狛犬こまいぬの隣を抜ける。そこから拝殿はいでん入ると、扁額へんがくに「於爾神社」とあり、さらに鬼が描かれた木札が見えた。その下には大きな棍棒も飾られている。


 境内けいだいにはふたりの人がいた。神官の常装を着た中年の男性と、眼鏡をかけて大きな鞄を抱えた若い女性だ。男の方は外見からして神主かんぬしだろうが、一方の女の方は参拝客には見えない。丸い眼鏡の奥で理知的なおもむきをたたえている瞳には真剣な色があり、手帳に何かメモをしながら会話をしている。わたしは意を決してふたりに話しかけた。


「こんにちは。あの……」


「こんにちは。ご参拝の方かな?」


「いえ、わたし、ここの神社のことを調べてるんです。もっと正確に言うと、鬼神おにがみ伝説のことを。その、学校の宿題で」


「あら、そうなんだ」

 と女性の方が意外そうに言う。


「実は私もなの。大学のフィールドワークでね。この辺り一帯の地方文化を研究してるのよ。鬼神信仰――珍しいわよね」


 自分の運の良さ、そして、一種の宿命的なものを感じて、自分の頬が釣り上がりそうになるのをわたしは必死にこらえる。


「はい、そうらしいですね」


「今、神主さんにこの神社の歴史を聞き終わったところ」


「そうなんですか。すみません、もし良かったら――」


「うん?」


「教えてほしいんです。鬼のことを」


「鬼のこと?」


「はい。あまり手がかりがなくて……」


「そう、いいわよ。私に分かることでよければ、教えてあげるわ」


 女性はふたつ返事で柔和な笑みを返してきた。偶然出くわしたその笑顔は、まさにわたしにとって僥倖だった。と、同時に、それが悪魔のいざないでもあって欲しいと、わたしは心のどこかで望んでいた。「鬼」を殺すための道標みちしるべを教授する、残虐な蛇の冷笑であって欲しい、と。


「ありがとうございます!」


 自分の声が期待のあまり過剰に溌剌はつらつとしていたことに、発声してから気づいた。落ち着かなければと思うも、その意味もないだろうと考える。客観的に見れば、勉強熱心な中学生が地域の習俗を調べようとしているとだけ映る筈だ。ならば、このままの方が都合がいい。


「あ、自己紹介がまだだったわね。改めて、こんにちは。私は柏木由美子かしわぎゆみこ。東京の大学で比較文化学科に在籍してます」


悠木凛ゆうきりんです。木附根中学の三年生です」


「中学生なんだ! そうは見えないけど、今の中学生は大人びてるのねぇ。私の時とは大違い。そうだ、立ち話もなんだから、どこか休めるところで話さない? って言っても、この辺りに喫茶店とかあるのかな」


 わたしはすぐにスマホで周囲の店を調べた。再び幸いにして、すぐ近くに喫茶店があるのを見つける。


「じゃあ、そこで話そっか」


「はい!」


「それじゃあ神主、ありがとうございました」


「また何かあったら来なさい。私の答えられる範囲なら何でも答えてあげるよ」


 柏木さんは神主にお辞儀をした。

 わたしもそれに続く。


 神社の鳥居を抜けると、柏木さんはよっこいしょと言って、巨大なバッグを担ぎ直した。


「重いのよ、これ」


 再びわたしに笑いかける。それを見て、全く曇りがないとわたしは思った。人の心のかげにこうも敏感になっているのは、わたしがやましい考えを抱いているからだろうか。


「悠木さん――だったわよね。ここの生まれなの?」


「ええ、この町生まれ、この町育ちです。柏木さんはどちらご出身なんですか?」


「由美子でいいわ。私の生まれは北海道! 死ぬほど寒いわよ」


「じゃあ、わたしも凛って呼んでください。北海道から東京の大学に行ったんですか?」


 そうやって、わたしたちふたりは、初対面の人間が必ずするような話をしながら、喫茶店までの道のりを歩いた。目的の店に着くと、由美子さんはバッグを下ろし、ぐったりと席に座った。


「何が入ってるんですか?」


「研究書類がたくさん。私、整理整頓が苦手なんだけど、それは持ち物にも現れるのねぇ」


 冗談めかして嘆息たんそくする由美子さんの表情は、やはり柔らかい。初対面の人間にも優しく接してくれる雰囲気を十分にかもし出している。見かけと同じく、その内実も話しやすそうな――会話を引き出せそうな――人だと感じる。


「さて、じゃあ席にも着いたし講義を始めましょうか」


「はい、ぜひ」


 わたしはサックスのバッグの中にしまい込んでいたノートとペンをそっと取り出した。何か書き留めるものがあるときのためにと思って持ってきたものだったが、こんな形で使うとは想像しなかった。


「あ、その前に何か飲む?」


「そうですね、じゃあ、温かい紅茶を……」


「私もそうしようっと」


 注文をすると品はすぐ運ばれてきて、今度こそ由美子さんの「講義」が始まった。


「ええと、どこから話そうかな。まず、『追儺ついな』――つまり、鬼を追い払うって言葉があるくらい、鬼は忌み嫌われるのが普通ね。悪魔祓いって言うと通りがいいかな。『ケガレの鬼』として、自然の驚異、天変地異、四百四病しひゃくしびょう権化ごんげとして、人智を超えたものとして畏怖される存在。それが鬼よ。


 一方で、『春来る鬼』として、人々に豊穣をもたらすものでもある。三重県の正月堂観菩提寺なんかでは、厄除けによって豊年を運んできてくれるとする考えがあるわ。追われる鬼と、祝福を与える鬼。この二面性を分かつものが何なのか、興味深い所ではあるわね。


 さて、歴史をたどってみると、『ナリ』と言ってね、もともとは中国の『』を日本語の音『おに』に当てたのが『鬼』の始まり。ただ、中国のが『死霊』を意味するのに比べると、日本のおにはまた別個の性質を付与されているの。なぜなら、中国製の漢字が当てられたずっと前から、『おに』の概念自体は存在したから。かつては『かみ』と同一視されていたという見解もあるわ」


「鬼なのに、神ですか?」


「『不順国神まつろわぬくにつかみ』って知ってる? 『おに』は、その『不順神まつろわぬかみ』のうちの一柱だったと言われてるの。『不順神』っていうのは、その土地に古くからあった土着神のこと。山の神、水の神、境界線の神、嵐の神、それから、マレビトっていって旅の者さえ神としたわ。八百万やおよろずの神々ね。それらはときに、超自然的な力の表象として『おに』と呼称された。


 でも、これは天津神あまつかみという中央集権国家の神様と敵対したの。天津神は支配国の神々だから、その信仰を自分たちの土地に押し付けた。八世紀に『日本書紀』や『古事記』が編纂へんさんされてからのことよ。聞いたことあるかな? 『日本書紀』とか『古事記』とか」


「一応、名前だけは学校で習いました」


「天皇を神の子とするそれらの書物が、日本各地で進行されていた多くの『おに』を、天津神に対抗する悪しき存在として規定したの。その頃の日本は奈良を中心にした律令国家ができあがっていた。朝廷は、地方である蝦夷えみし――今の関東、東北、北海道地方――に侵攻したけど、ことごとく抵抗されていたわ。


 そして、蝦夷の人々は国家に対する逆賊、『不順者まつろわぬもの』と呼ばれた。『粛慎みしはせ』とか『土蜘蛛つちぐも』とかいう名前でね。面白いのは、ここで言う『粛慎』も『土蜘蛛』も『おに』の別称なのよ。当時の奈良の人から見たら、私たちはさしづめ、邪神を崇める蛮族か、邪神そのものってところかしら。そういう意味では、「おに」はとても広い範疇をカバーする概念と言えるわね」


 由美子さんはそこで一旦紅茶に口をつけ、再び話を戻した。


「少し話が逸れたかな。この一帯で信仰されているのは、形而上的な力を顕現させるものとしての『おに』よ。『もの』とも『かみ』とも呼ばれ、古くには八百万の神々の一柱だった。言語を絶する凄まじい力をもって、ときに人間に恵みを、ときに災厄をもたらした。山という境界線の向こう側に鎮座して、まれに人界に姿を表してね」


「この町の辺りでは、そんな恐ろしいものを信仰しているんですか?」


「天津神の支配に抵抗し、仏教伝来の威力に刃向かい、明治維新以降の近代化にも屈しずに、ね。だから、ずいぶん年季が入ってるのよ、ここの信仰は。そこが面白いところ。今は須佐之男スサノオと習合している面もあるようだけど、本質的には土着神と考えるのが良さそうね」


 嬉々として由美子さんは語る。本当に歴史が好きなんだろう。


「この地方に伝わる伝承は知ってる? 鬼についての」


「たしか、鬼が町を救ったとか何とか……」


「伝承ではね、こう紡がれているわ。――その年は強い日照りがあって、このままで食物が枯れてしまうと男が嘆いていた。そこに、鬼が現れ、雨を降らせる代わりに嫁を寄こせと云う。誰も自ら進んでにえになろうとはしなかったが、ひとりだけ、神社の巫女が自ら犠牲になると進言した。鬼は娘をさらうと、たちまち空に黒雲が現れ、大粒の雨が降り出した」


「人を……攫う、ですか……」


「しかもね、この鬼は、翌年の干ばつにも現れ、雨を降らすの。ただ、要求は違ったわ。この土地を永劫繁栄させてやる代わりに、生贄いけにえを寄こしつづけろ、そうでなければ残らずをこの土地に住む民を滅ぼしてやる、とった。つまり、ここでは、『穢の鬼』と『春来る鬼』の両面性を持っているわね。


 この土地の人はそれを信じた。神社の巫女から贄を選ぶと、大きな炎で目印を作って鬼にそれを伝えた。鬼はその炎を頼りに人里に下りると、再び、女を攫ってどこかに消えた。それが毎年続いて、いつしかこの地は『生贄の里』と呼ばれた。木附根は本来、『鬼府嶺』――鬼の住む山という意味よ」


「いけ……にえ……」


「知ってる? 今の、角があって虎のふんどしを締めている鬼の姿は、実は江戸時代になってから成立したの。それ以前は、それこそ『百鬼夜行絵巻』がそうであるように、不定形な姿で描かれていた。だから、本当はその地域ごとに鬼の容貌は違うのよ。


 どうしてそんな話をするのかって?


 ここの伝承では、鬼は片目に片足なの。一つ目小僧のような見た目ね。なんとこれは、柳田國男が提唱している『神が零落した姿』と一致するの! 面白いでしょう? おそらく、鬼はもともと名も無き山の神だったんでしょうね。それが、『おに』という名前を得て、人里に下りてきた。


 あるいは、片目で足を引きずったマレビト――つまり、来訪神らいほうしんのことだったのかもしれない。これは折口信夫の『マレビト論』に通じるわ。いずれにせよ、鬼が片目片足であったから、それに相応ふさわしいように、と生贄の片目片足も潰されたらしいという話よ」


「その『鬼』って、どこにいるんでしょうか!?」


 愚直にメモを取りながら黙ってここまで聞いていたのは、ただこの質問をするためだった。語り手が知らないと言わないことをわたしは心から願った。


「……もちろん、鬼なんて架空の存在だからね。そんなのいるわけない――なんて、普通の人なら言うでしょうね」


 由美子さんは、今までで一番真剣なトーンになって、静かに言う。


「でも、馬鹿だと言われるかもしれないけど、私は鬼が本当にいると信じてる。そうじゃなきゃ、日本の激動の歴史を通り抜けることなんてできない。


 それにね、大震災のときも、他の地域が壊滅的な被害を受けたのに対して、この場所はほとんど被害がなかったの。同じ東北なのにね。おまけに、復興支援金もかなり国から出たらしくて、この自治体は今や大金持ちよ。まさに、『永劫の繁栄』ってわけ。


 そう、鬼はたしかに実在する。それは、片目片足の化物ではないのかもしれない。だけど、何か――鬼に変わる何か――が、この土地には確かにある」


「それは何なんですか!?」


 わたしは思わず身を乗り出していた。


「凛ちゃん、目が怖いわよ。まるで鬼が親の仇みたい」


「……」


「でもね、私も『それ』が何なのかは分からないの。ひとつ分かってるのは、山のことだけ」


「山?」


「鬼が棲むという山、鬼隠しの里よ」


「鬼隠し……!?」


「加賀山。町外れにある、深い森に覆われた山。伝承によれば、鬼が女を攫って向かった先よ。さっき、鬼のことを山の神かもしれないって言ったわよね? 口伝や記録から考えると、あの山がそうだとするのが妥当だわ。そこが、鬼隠しの里、鬼が棲む場所よ。まだまだ研究途中なんだけど、『鬼』と見なせるものが、あそこにあるんじゃないかって私は考えてるの」


「その他に、鬼について知っていることを話してください!」


 鬼気迫るわたしの態度は不自然すぎるものだっただろうが、由美子さんは気に留めない様子で冷静な応えを返した。


「他、か……。あるとしたら、他に残っているのは警告、ね」


「警告?」


 今まで意気揚々と自説を語っていた丸眼鏡の講師は、強いて句読点を打つように音もなくひとくち紅茶をすすり、そしてかちゃりとカップを置いた。


「さっきも言ったとおり、鬼神信仰は日本古来の信仰――この地に残った二千年のいのりであると同時に、巫女を取り殺してきた凄惨な呪詛じゅそなの。そんなものが安全であるわけがないわ。しかも、もし事実、『鬼とされた何か』があるとしたら、それはおそらく人さえも取り殺すかもしれない」


 由美子さんの焦げ茶色の双眸そうぼうがわたしを見据える。


「だから私も、深入りはしないの。できる限り……だけどね。私は、凛ちゃんにも、そうあって欲しいって思ってる」


「……」


 死んだっていい、とわたしは思った。この世界で唯一わたしを受容してくれた祖母の無為な死を、何事もなかったようにして生きていくなんて耐えられない。必ず復讐を遂げてみせる。どんな対価を支払ってでも。わたしの視線は自然とサックスケースに流れる。


「ちょっと話が横道に逸れちゃったけど、今日の講義はこれでおしまいかな。突っ込んだ話は、また今度ね」


 由美子さんはちらりと腕時計を見やって、そろそろ行かなきゃ、ゆっくりしていってと言って立ち上がる。そして、わたしに連絡先を教えると、そのまま別れを告げた。くれぐれも忠告は忘れないでと最後に念を押して。そして残されたわたしは、そのまま、彼女がいなくなったテーブルに身を置き、今しがた取ったメモをじっと眺め続ける。


 加賀山に「鬼」がいる。おばあちゃんを殺したであろう存在が。そこに思いが達したとき、腹の中にずんとした衝撃があった。自分でも驚くほどの壮絶な憎しみが再び内からこみ上げてきて、わたしは嘔吐おうと感すら覚えた。口を手で抑え、身をかがめる。体を焼く漆黒の熱が、心を焦がし尽くしてゆく。口から怨嗟えんさという名の吐瀉物としゃぶつを吐き散らしながら、わたしは声にならない声で叫んだ。


 ――必ず殺す。


 わたしはサックスケースの中で休眠する刀に体を預けて何とか立ち上がると、加賀山のある方角に決然とした眼を向けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る