第3話 独りの女性の死

 ――ここは、どこだ。


 関口は暗がりで目を醒ました。体は地面に伏したままで、たった今生まれ出たかのように手足が重い。頭がどんよりとして、意識がぼうっとしている。虚ろな目で辺りを見渡すと、そこはまったく見覚えのない部屋だった。十畳くらいのフローリングで、影になった家具がいくつか置いてある。窓のカーテンは閉まっていて、隙間からわずかにほのかな光が漏れていた。


 次第に頭がはっきりしてくると、関口は自分が全裸であることに気づいた。周囲に服は見当たらない。まさか裸のまま部屋を訪れたわけでもないだろうが、記憶の糸をたどってみても、こうなった経緯どころか、満月のあの日、あの女を誘ったところから、今までの出来事のいっさいを思い出すことができなかった。それに、自分にとって何か大切な記憶さえ失っている気さえする。自分という存在が根底から揺らぐような感覚に強い不安を覚えた関口は、そこでふと、部屋に不自然に充満するむせかえるような匂いに気づいた。


 これは……お香か?


 仏壇にあるような、香の匂いがする。


 未だ混乱の渦中にありながらも、その場に似つかわしくない臭気の発生源を探そうと、関口は鉛のように重い体をなんとか持ち上げた。薄暗い室内に明かりをつけるために、照明のスイッチを目を凝らして探す。幸いにもすぐ近くにあったそれを押すと、すぐには見つかった。


 関口が倒れていた部屋の隣、バスルームから人の手がはみ出している。中を覗いてみると、そこには女の無残な死体が転がっていた。脚があらぬ方向に曲がっていて、顔の半分が叩き潰されている。乱れた髪が残った半分を隠しているが、その間からは苦痛に満ちた表情がにじみ出ていた。生気のない青白い肌を晒す裸にバスローブ姿、床にはペットボトルが転がっていて、まっすぐな方の脚の足元でその中身が流れ出している。死んでからまだ時間が経っていないのか、それとも香の匂いに紛れているのか、死臭は感じられない。


 どういうことだ。


 深い疑念が関口の胸をえぐる。


 ぼくが、殺したのか?


 しかし、眼前の被害者の容貌に覚えはない。それに、首にあとがついていないことからして、死因は窒息ではないことが分かる。関口がこだわったのは絞殺というやり方で、体を痛めつけるような方法は取らなかった。だから、損壊された死体など見たのは初めてで、関口は軽い嘔吐感おうとかんすら覚える始末だった。殺人のあとに感じる、あの高揚感とはまったく別物の厭忌えんきの念。とても、己の所業とは思えない――。だが、一方で、実際に目の前に死体があり、この部屋には自分とこの女しかいないという事実も厳然げんぜんとしてある。


 いったい、自分に何が起きたのか。


 真実を知りたいと関口は思った。数え切れないくらいの命をさらってきた彼が、今さら、人ひとり殺したかどうかを確かめるのは馬鹿馬鹿しいとも言えたが、関口には血を流さずに殺人を犯すという、一種の矜持きょうじに似たものがあった。もし、その規律が崩れてしまったら、もう自分を信じることはできない。そして、自分を信じることができなければ、それはもう死んでいるも同然だ。


 真相を確かめなければ。

 自分自身を保つために、関口はそう決意した。


 それには、まず、この女がいったい誰なのかを知らなくてはならない。関口は改めてリビングを見回すと、机の上にハンドバッグが置いてあるのを見つけた。中身をあらためると、財布の中から運転免許証が出てきた。顔の半分が潰されているため確認はしづらかったが、間違いない、この女だ。


 名前は、穂積紀香ほずみのりか。年齢は二十歳、住所はM県S市八瀬二八二の三八ベェルヴェル五〇三号室。


 やはり、写真の女に覚えはなかった。自分の知らない誰かだ。他に彼女に通じる情報はないか、再びハンドバッグを漁る。スマートフォン、 小さなタオルハンカチ、キーホルダー、目薬、ハンドクリームとコスメがいくつか、コンパクトミラー、手帳にペン、何種類かの錠剤と、生理用品。一見して平凡な鞄の中身で、特に気になるようなところはない。


 しかし、ヒントは見つけた。指紋認証型のスマートフォン。これを死体の指に押し付ければ、中の個人情報が分かるはずだ。関口はバスルームから放り出された手の親指に、指紋認証ボタンを当てる。思ったとおり、ホーム画面が開く。そこに映っていたカレンダーの日付を見て、関口は驚愕した。最後に記憶のある日から一週間もの時間が経過していたのだ。そんなに長い間記憶を失って、自分は何をしていたのだろうか? 半ば放心した気持ちで、その場で立ちすくむ。


 どれほどの間そうしていたのか、突然隣部屋から聞こえてきた物音で、関口ははっとなった。ここから逃げなければという恐慌きょうこうと、手がかりを探さなければという理性が交錯する。結果として、わずかに後者がまさった。関口はいつの間にか待機状態になっていたスマートフォンを再び立ち上げる。電話アプリを起動し、通話履歴を素早く確認すると、何度も電話している番号がいくつか散見できた。この中の誰かがこの死体――穂積紀香という人物を知っているに違いない。再びスリープモードにならないようにビデオアプリを立ち上げた関口は、これらの連絡先から情報を得ようと考える。


 だが、それは今ではない。それよりも、一刻も早く事件現場から立ち去る必要がある。関口は部屋の隅々に付着した自分の指紋をタオルハンカチで消しにかかった。大量に痕跡が残ったハンドバックとその中身は持って帰ることにする。


 残された問題のひとつは自分が裸だったことだが、それはベッドに敷いてあったシーツを体に巻き付け「服」にすることで急場しのぎにした。何も着ていないよりは幾分ましだろう。昼間なら見咎められるだろうが、時計は午前二時を指している。夜の闇にまぎれれば変質者として通報される危険は少ないはずだ。


 位置情報アプリの情報から、ここが免許証に記載のあるとおり、八瀬二八二の三八、マンションの五階であることは判明した。自分の住む白河町までは一駅分の距離。時間的にも二十分程度で帰ることのできる道のりだが、この暗闇の中でうまく家までたどり着けるかどうか。アプリの目的地を自宅に設定し、関口は意を決してドアノブに手をかけた。そして、あることに気づく。


 鍵がかかっている……?


 ドアは内側からロックされていた。キーホルダーはハンドバックの中だ。チェーンこそかかっていなかったが、部屋が半ば密室であったことに関口の肌はあわ立った。犯人はやはり自分なのか? いや、合鍵を持つ人間、つまり恋人か親族、親しい知り合いが殺害者である可能性もある。


 湧き上がる自分への不審感を振り払い、今は誰にも発見されずにマンションを出ることが先決だと思い直す。ハンカチで直に手を触れないようにして、関口はゆっくりと鍵を開けた。カチャンという軽い金属音がやけに耳に響く。続けてドアノブを回すと、そっと外を覗いた。廊下には誰もおらず、淡い照明だけが頼りなく闇に抵抗している。人気がないことを十分に確認してから、関口は素早く外に出た。


 マンションの出口を抜けると、大きな駐車場に出た。すぐ近くの古びた道路が、大通りに繋がっているのが見える。関口はスマートフォンと周囲の風景を照らし合わせながら、街灯が点在する宵闇の中に裸足で踏みこんだ。ひやりとした地面の感触が生々しい。まだ薄ら寒い夜の冷気が、シーツ一枚だけを羽織った体の温度を容赦なく奪ってゆく。今夜起きたことに心まで冷やされる思いで、関口は、足早に殺人現場から去っていった。


 *


 すぐに電車の線路を見つけられたのは不幸中の幸いという他ない。家まで最短距離で歩いていけたし、加えて誰ともすれ違うことなく関口は無事帰宅することもできた。寒空の中、半ば裸で道を進むのはこたえたが、安堵の思いはそれを打ち消して余りあった。体を芯まで温めるために熱いシャワーを浴びると、緊張もほぐれ、頭もクリアになっていく。しかし、それでも、記憶の欠乏が埋められることはなかった。


 自分はどうしてしまったんだ。


 今宵、何度も反芻はんすうした疑問が再び関口の頭に浮かぶ。頭を砕いて殺す――しかも足まで折るなど、やはり自分のしたこととは思えなかった。仮に譫妄せんもう状態にあったとしても、日常から離れたこと、つまり普段やろうとは思わないことを実行するのだろうか。無意識とは見えない欲求だ。それが噴出したとするなら、自分は絞殺だけには飽き足らなくなっているという意味になる。


 だが、それは――


 やはり信じられない、と関口はかぶりを振った。千差万別ではあるが、人には自分を自分と規定するためのルールがある。世間から唾棄されるべき悪しき者である自分のような人殺しでも、それは同じことだ。むしろ、自然法から逸脱しているからこそ、かえって己をいましめる原理原則が無意識下でも必要になる。それすらなくなってしまったら、自己はその形を保てず、ばらばらになってしまうだろう。そうなれば人はただ腹を満たせればいいけものと同じだ。


 関口はシャワーを止めた。そして、疑念を晴らすためには、自分自身でことの真相を見つ出すしかないと考える。他に誰も頼れる者はいない。今一度おのれの直感を信じ、事実を確かめる。明日は平日だったが、のどかに仕事に行っている場合ではなかった。何もかもがはっきりするまで、調査を止めるつもりはない――そう決意すると、腹が鳴った。記憶にない自分はいつからものを食べていないのか、酷く空腹であることに、関口はそのとき初めて気がついた。


 翌日、充分な睡眠と食事とをとると、時計の時刻は十時を指していた。関口は、さっそく、通話履歴にあった連絡先に電話をしてみることにした。自宅を発信源にすると足がつく危険があるから、わざと家から遠いところにあるコンビニエンスストアの公衆電話を利用する算段をつけて。服を脱がされたときに奪われたのか、財布はなくなっていたため、金庫から数万円を抜いて収める。そして、充電しておいた彼女のスマートフォンをズボンのポケットにしまいこむと、引き戸になっている玄関を開けた。太陽の強い日差しが関口のまぶたを照らす。


 途中何件かの店で適当なものを買い十分な小銭を手に入れると、関口は目的のコンビニに赴いた。隅にぽつりと置かれた公衆電話で、スマートフォンを確認しながら電話をかける。


 一件目は、十回も連絡をした形跡があった佐木透さきとおる法律事務所という弁護士事務所だった。当然、知らない名前だ。ネットで検索をすると、「交通事故に強い」といううたい文句が出た。穂積紀香は交通事故の示談でもしていたのだろうか? だとすれば、事務所の人間が相談者の情報を簡単に漏らすとは考えにくい。少し思案して、親族だと嘘をつくことにした。安直だが、事故の心配をして電話をかけたとでも言えば、彼女のことが少しは掴めるかもしれない。意を決して、受話器を耳に当てプッシュボタンを押すと、着信音とほぼ同時に電話が繋がった。


「お電話ありがとうございます。佐木透法律事務所、事務員の江夏えなつです」


 明るい、はきはきした女の声だ。


「すみません、そちらにお世話になっている穂積紀香の親族の者ですが」


「穂積……ですか?」


 少しの沈黙をおいて、電話口の江夏という女はいぶかしげに応える。


 名字を呼び捨てにした?


 関口は、はっとして次の言葉を紡いだ。


「はい、穂積紀香は、いますか?」


「ええと……彼女は既に退所しておりまして……」


 やはりだ。この事務員は、「穂積」と彼女のことを呼び捨てにした。他人を呼び捨てにするのは、身内しかいない。穂積紀香は、事故を起こした相談者ではなく、この事務所の身内――事務員だったのだ。


「退所? 辞めたってことですか? いやあ、まいったなあ」


 白々しく話を繋げる。


「どうかされたんですか?」


「実は、ぼくは彼女のいとこなのですが、さっき車にぶつけられて怪我をしてしまいましてね。それで、前から事務所の話を聞いていたので、こうして電話をした次第で」


「なるほど、そうだったんですか。お体の具合はいかがでしょうか? もう病院にはいらっしゃいましたか?」


「ええ、幸い軽症だったんですが、慰謝料は高い方がいいでしょう?」


「なるほど」


 声に微笑が混じる。


「それで、紀香はいつ退所を? 彼女に担当してもらいたかったんですが」


「一週間ほど前でしょうか。今でしたら、私の方で担当をさせて頂きます」


「一週間前?」


 自分が記憶を失ったのもちょうど一週間前だ。思いがけない符号に、関口は一瞬戦慄し固まったが、すぐさま自分をふるい立たせる。


「どうして辞めちゃったのかなあ……」


「はあ、なんでも新しい就職先が見つかったとかで……。ご存じないのですか?」


 その声に疑念が混じった。


「彼女、辞める前に何か変なところはありませんでしたか?」


「え、ええと、どうでしょうか……。ところで、お客様、いつご来所になりますか?」


「ああ、すみません、ちょっと急ぎの用事を思い出しました。また、かけます」


 ただの事務員からこれ以上情報を引き出すのは難しいだろう。そう言い終えると、関口は電話を切った。


 穂積紀香は法律事務所の事務員だったが、一週間ほど前に辞め、今はおそらく別の職場に属している。そして、自分の記憶を喪失したのも一週間前……。にわかには受け入れがたい整合だった。それでも決め手にはならないと考え、関口は自分という存在を切り離して、新しく発見した事実をもとに彼女の死を捉えてみる。穂積紀香の近況には最近、変化があった。それが彼女を死に至らしめた可能性は十分ある。だが、詳細を知るにはまた別のアプローチが必要だ。


 次に電話する先を決めようと通話履歴を眺めていると、関口はふと、そこに妙な点があることに気づいた。残っていた連絡先は八十件。直近で連絡を取っていたり、何度も電話をかけていたりした番号など、いくつか目立つものに注目していたが、よく観察すると、通話履歴の中には個人名がいっさいなかった。彼女は、親、きょうだい、友人、恋人らしき相手と会話をしていない。


 そこから浮かび上がってくる人間像を推察するに、穂積紀香は、孤独な、内に籠りがちな性格をしていたのだろう。おそらく、生まれ自体別の都道府県に違いない。そうでなければ、ここまで事務的な通話履歴にはならない。まるで、自分のようだと関口は思った。もっとも、彼の場合、自らの意思で煩わしい人間関係を絶ち、職場での付き合いも最小限にして己の趣味に傾倒していたという意図的な理由もある。しかし、一人っ子で両親が既に他界し、親戚とも疎遠な自分と、彼女の生活の間には、何となく繋がるところがあるような気がした。


 しかし、もし穂積紀香が孤独に生きた女性だとすれば、調査は難航する恐れもあった。殺人の動機やその犯人は、肉親やその縁者が圧倒的に多いからだ。マンションの部屋のドアに鍵がかかっていた事実も、それを傍証ぼうしょうしていた。しかし、現状、その見込みは限りなく少なくなったわけで、もし通り魔的な犯罪だったとしたら、当然通話履歴が役に立つことはない。仮にその道のプロである探偵を雇ったとしても、有益な情報が入手できるかどうかははなはだ疑問だった。


 だが、今はその可能性を排除することだ。できることはやっておかなければ、後悔することになりかねないと考えて、関口は受話器を再び持ち上げた。


 全ての連絡先に電話をするのは苦労の連続だった。ひとつひとつの通話で別の嘘をつく必要があったし、しかも、その嘘を柔軟に変化させて目的がバレないようにしなければならなかった。だが、その分のいくつかの収穫はあった。「かのえ医院」では、穂積紀香が精神病を患っていたことを知った。ハンドバッグの中に入っていた錠剤は向精神薬だったのだ。


「他人という恐怖に対する、不安性緊張障碍しょうがいでした」

 と医者は言った。


「それにしても信じられません、穂積さんが亡くなるなんて。あの人は、最近だいぶ安定していたんです。薬の量も減ってきていました」


「白川カウンセリングセンター」でも、カウンセラーが似たようなことを喋ったから、精神的に安定はしてきたものの、俯瞰ふかんしてみると情緒に問題があったというのは間違いない。これらは、彼女が孤独であったという推察と一致する。人間、独りきりでは、精神を病むことも多いと聞く。


 そして、「眞知村レディースクリニック」では、妊娠していた事実がないことを確認した。女性の人生を大きく変えるきっかけがあるとしたら、それは妊娠だからだ。その代わりに得た事実は、彼女が肉体的には健康であるという簡素な情報だけだった。


 番号だけで名前のない連絡先にもいくつか電話をかけてみたが、役所だったり、配送の運転手だったり、ネット回線のセールストークだったりと、数十件が無為な結末に終わった。念のため、着信音だけで連絡のつかなかった番号をいくつかネットで検索してみる。すると、一件だけ目を引く名前がヒットした。


 於爾おに神社。関口の住む辺りではそこそこ有名な、年中行事をもよおしている神社だった。


 穂積紀香は、なぜこんなところに電話をかけたのだろうか?


 於爾――鬼を御神体とする神社。たしかに、犯人の姿形をまったく思い描くことができないという意味では、鬼に取り殺されたと言えばそのようにも見えた。そんな烏滸おこなことを考えてしまうくらいに、殺人が成立するような人間関係は見い出せなかった。スマートフォンにある通話履歴にひととおり電話をして、得た情報を総括そうかつしても、親しくなろうとする意思すら拒否し、広い市井しせいの隅で、独り膝を抱えながらうずくまっている寂しい女性の姿だけが頭に描かれるだけだった。


 関口はひとまず於爾神社を勘定に入れて、先に、より合理的な思考に基づいた場所を訪ねることにした。隠微いんびな印象を放つ神社よりも、科学的根拠のある足がかりを優先する。それによって核心に至れればそれでいい。神社にむ幽鬼がひとりの女性を呪い殺したなどというせん無い想像が、事件の解決に繋がるとも思えなかった。関口は、ちょうど通りがかったタクシー――最後の記憶が残るあの満月の晩に乗った系列のタクシーだった――を捕まえると、運転手に、佐木透法律事務所までと告げた。

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