第2話 修羅を孕む時

 祖母の家にお見舞いに行きたいと言ったわたしの言葉を聞いて、母は戸惑ったような表情になった。その瞳にかすかに不安の色が浮かぶ。


「わざわざ行かなくてもいいわ。大した怪我もしてないし。今、外は大雨だし、止んでからでも……」


「大した雨じゃないよ。それに、病は気からっていうでしょ。お見舞いに来てくれれば嬉しいだろうし、傷の治りだって早くなるかもしれない」


「単なる事故なんだから。おばあちゃんだって一日も早く忘れたいだろうし、そっとしておくのがいいの。それに、おばあちゃんには――」


 そこまで言って、母ははっとした様子で言葉を切った。


 祖母に対する母の態度にわたしは違和感を覚えた。嫁姑との関係は決して良好だとは言えなかったが、だとしても様子が不自然すぎる。何かを敢えて忌避しているかのような素振りを隠しきれていない――隠匿いんとくの重みに圧殺されかけた表情が痛々しくさえ感じる。わたしは事故に単なるもなにもない、おばあちゃんと会って元気づけてあげるべきだと反論したかったが、言葉を飲み込んだ。


 わたしの不満を見透かしたのか、母は、本当に止めておきなさい、と念を押して、逃げるように奥に引っ込んでしまった。


 そんな母を見て、わたしは逆に使命感にかられた。母があんな風な態度を取っているということは、祖母は何か難しい状況に置かれているに違いない。もしそれで辛い思いをしているなら、わたしがおばあちゃんを慰めてあげなければ。そうだ、だから、やっぱりお見舞いに行こう。行くべきなのだ。わたしひとりだけでも。そう決めたわたしは、なにか喜ぶものを持参していった方がいいだろうと、冷蔵庫の扉を開けて中を漁る。たしか、父が買ってきた八つ橋があったはずだ。おばあちゃんは甘いものが好きだったから、きっと少しは気持ちが上向くはず。


 りんちゃん、よく来てくれたねえ。そう言って微笑む祖母の姿をひとり想像する。いつも、わたしのことを温かく見守ってくれている祖母。けっして怒らず、わたしが幼いときに障子に穴を開けたり、居間の壁に落書きをしたりして遊んでいたのを発見しても、柔らかにいさめるだけだった。たおやかで上品で、血縁者以外に対しても実直で真摯しんしな振る舞いを崩しはしない。


 頭脳も明晰で、昭和という時代に青春を過ごしながら彼女は旧帝大のひとつを出ている。当時としては非常に珍しく、女性でありながら法学を修めており、祖父との結婚がなければ学者としての道を歩んだかもしれない、というのが本人の弁だった。孫であるわたしにその学力が受け継がれなかったのは頭の痛いところだが、ともかく、祖母という理想像があったから、わたしはいつか年老いることに嫌悪感を覚えてはいなかった。


 しかし一方で、母は違った。そうした人としての隙の無さ、自然と人望を集める魅力を、欠点だらけのわたしの母は妬んでいた。自嘲的で、かと思えば他罰にふける不安定な女。彼女はいつでも、自分のことしか頭にない。それだけならまだいい。もっと悪いのは、それがありありと透けて見えることだ。母は、わたしに対してもその自閉的な態度を貫いた。だから、およそ道徳や教育というものを、わたしは母から受けたことが無い。


 わたしは八ツ橋を丁寧に包んでビニール袋に入れると、外出する支度をした。外は、雷を伴う酷い嵐が吹きすさんでいる。想像以上の悪天候だった。しかし、平日は時間がないから、今日を逃すと週末の土曜日まで待たなければならなくなる。わたしは一日でも早く祖母に会いたかった。会って、元気な姿を確かめたい。ただの事故だとは言われたが、事故である以上相応のショックを受けているはずだし、そもそもあの母の様子からしてただの事故であるかも怪しい。


 わたしは傘を持ち、玄関の扉を開くと、意を決して暴風雨の中に足を踏み入れた。この天候の中を孫がわざわざやって来たということそのものも、祖母を喜ばせるはずだという計算も勘定に入れて。


 祖母の家は、わたしの家から歩いておよそ三十分のところにある。木造建て平屋の、昔ながらの古家。祖父が死んでからは、祖母がひとりで住んでいた。そこにたどり着くには、長く急な上り坂を歩いていかなければならない分不便なのだが、高台にある家からの景色はよく、町をほとんど一望できるほどだった。それゆえに、夕暮れ時になると、数多の家々という地平線に太陽が静かに沈んでいくノスタルジックな光景が眼前に広がる。わたしはそれを眺めるのが好きだった。母からは日が暮れる前に帰宅しなさいと小言を言われたものだが、それは原理的に無理な話だった。とはいえ、年端もいかない女子がひとり薄暮はくぼを歩くわけにはいかない。だから、わたしはいつも祖母と家路に就いた。


 そんな記憶を思い出しながら、わたしは悪天候の中を懸命に進んだ。祖母がわたしのために歩いてくれたように、わたしも祖母のために歩こう、と。雨がばらばらと傘を立たき、風が傘のスポークを激しく揺らし、半身がびしょ濡れになっても構わなかった。空ではしきりに雷が轟き、蛍光灯のように暗雲を輝かせている。酷い風雨のせいで歩みが遅くなったため、結局四十分以上かかったものの、わたしが祖母の家の近くまで来たときには、嵐はほとんど止んでいた。闇々あんあんとした雲間からはかすかに晴れ間が覗いていたが、辺りはまだ昼間とは思えないくらい暗い。


最後の上り坂を登って、ようやく祖母の家にたどり着いたわたしは、しかし眼前の光景に慄然りつぜんとした。ショックで傘をその場に落としたため、嵐の忘れ形見であるぱらぱらとした小雨が肌に当たる。


 門扉があらぬ方向にひしゃげ、玄関の引き戸はめちゃくちゃに壊されていた。壁に面した窓ガラスも粉々になり、あちこちに飛び散っている。屋根の瓦も多くが剥げ、割れた瓦が地面に突き刺さっていた。地面に伸びたアスファルトは、ところどころめくれ上がって、いびつな凹凸を作り上げている。かろうじて家の形をたもってはいるが、それはまるで廃墟のように打ち壊されていた。たしかに、さっきの嵐は、台風と見まがうほどに強いものだったが、こんなにも家屋を破壊する威力があったとは思えない。まるでこの家にだけ巨大竜巻が激突したような有様だった。


 家のあまりの損壊ぶりに圧倒されていたわたしの頭に、強い不安がよぎった。


 ――おばあちゃんは無事なんだろうか?


 わたしはその場にお土産を放り投げて家に向かって走った。ぼろぼろになった玄関口をくぐり抜け、土足のまま上がり込む。


「おばあちゃん!」


 呼びかけても、応えはない。屋内に入ると、生臭く焦げ臭いプールのような異臭が鼻についた。ところどころに火がついて、小さな炎が不気味にゆらゆらと燃えている。廊下へと目をやると、泥のついた足跡が奥まで点々と付着しているのが見えた。


 悪い予感が背筋をぞくぞくと駆け抜ける。


 わたしはその足跡を追いかけ、いつも祖母が寝ている座敷部屋にたどり着くと、吹き飛んでいるドアを手でどけて中に乱入した。そして目に入ってきた光景に愕然とする。これは夢――悪い夢なのではないか? 眼下の無惨むざんな現実が思考を激烈に逃避させる。何分間そこに棒立ちしていただろうか。がらりという何かの崩れる音に驚いて正気を取り戻したわたしは、ようやく我に返った。


 そこには、変わり果てた祖母の姿があった。


 まるで、拷問がずっと続いているかのような苦悶の表情を浮かべたまま、祖母は仰向けになって床に倒れていた。眼球はむき出しになり、口からは舌がはみ出している。普段着の着物は乱れ、か細い手足が四方に投げ出されていた。それらはすべて静止していて、まるで生気を感じさせない。服から除く肌や顔は、まぶたの奥にある普段の風采ふうさいに比べて、ずっとしおれて見えた。


「おばあちゃん!」


 わたしはすぐさま祖母に駆け寄ると、その体を抱き起こそうとした。だが、全身が弛緩しかんしていて、うまく体勢を整えられない。思い切って力を入れた刹那、首が。


 首がぐにゃりと大きく後ろに傾いて、ありえない方向に曲がった。


 瞳孔が収縮し、呼吸が荒くなる。腹に黒ずんだ衝撃があって、それを吐き出すようにわたしは絶叫した。首はまだ、ぐらぐらと左右に小さく動いている。グロテスクな光景を目のあたりにしたわたしは混乱し、祖母の体を放り出してしまう。支えを失ったその体は、再び床の上にばたりと倒れた。首をあらぬ方向に曲げたまま。


 しかし、すぐさまわたしは動かなくなった祖母の体をゆすり、いきなり手を離した非礼をわびた。曲がりきった首も元に戻した。だが、祖母は目を覚まさない。


 おばあちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい。起きて、ねえ、起きて。


 わたしはずっとそうして謝りつづけた。目から涙がこぼし嗚咽しながら、まるで、自分がこの状態の原因であるかのように謝罪を繰り返した。今までの平凡な、いつも笑いかけてくれた祖母が生きている日常を取り戻すために。


 それが無意味であると気づくまでに、どれくらい経ったか分からない。涙を枯らすほどに泣き、いくら叫んでも祖母は意識を取り戻すことはなかった。力を一切感じさせない手をぎゅっと握りしめたまま、わたしは、祖母はもう返らないという事実をかすかに受け止め始めた。その手のひらのから少しずつ温かさがなくなっていくことに気づいてしまったから。


 それでも、自分が何をすればいいのかも分からず、その場に呆然と座りつづける。警察に電話するという考えを思いついたのは、それからさらに時間が経過してのことだった。濡れないように上着のポケットに入れておいた携帯電話を取り出し、一〇一の番号を押す。電話は、すぐに繋がった。


「事件ですか? 事故ですか?」


 やけに無機質な電話の声が耳朶じだを打った。


「……おばあちゃんが――祖母が死んでるんです」


 わたしは、声を絞り出すようにそう言った。


「今どこにいますか?」


「……木附根きふね町の……四四の九二です」


「お名前は」


「悠木……悠木凛ゆうきりんです」


 すぐに向かいます。救急車も呼んでください、という簡素な言葉を最後に、電話は切れてしまった。人が死んでいるというのに、あまりに呆気ない、事務的な会話だった。


 明らかに、祖母の息はない。小火ぼやは発生しているから消防を呼ぶのは分かるが、こんな状態で救急車がなんの役に立つのかは判然としなかった。とはいえ、わたしはとにかく一一九番に電話し、たどたどしく事情を説明した。


 それが終わると、わたしはへたり込んだまま改めて祖母を見つめた。そして、放り出された四肢を正しい位置に直し、乱れた着衣を改めると、むき出しになった両目をつむらせ、ぽっかり空いた口を閉じた。祖母の醜い姿は、誰にも見られたくなかった。わたしは最期まで、祖母には美しい姿でいてほしかった。


 まるで眠っているかのような祖母を見て、わたしは次第に、祖母が本当に眠っているだけなのではないかと思うようになっていった。生き返ったのかもしれない。あるいは、生きているんだ。今までのことは夢だったんだ。よかった。何もかもいつもと変わらない。


 そんな妄想からわたしを現実に引き戻した鉤爪は、祖母の首にくっきりとついた紫色の痣だった。ちょうど手の形をしたそれは、紛れもない殺人の痕跡だった。気づいた途端、再び呼吸が荒くなる。死。まぎれもない死。しかも、この祖母の死は、自然発生的に起きたのではなく、誰かによって引き起こされた人為のものなのだ。そう思い至ったとき、自分の中から、何か経験したことのない激情が凄烈せいれつに噴出した。


 殺してやる。


 自分の口から不意に漏れた言葉に、わたしは驚いた。殺してやる。もう一度、声が静かに、だが明瞭な意志をもって部屋に響く。誰を? 祖母をこんなむごい目に遭わせた奴を。顔も姿も分からない「誰か」に対する憤怒と憎悪が体の底から猛然と湧いてくる。わたしの最愛の祖母を殺した罪を、その命であがなわせてやる――悲しみから生まれたどす黒い意思が頭の中に渦巻き、その心地よさにわたしは自分自身を委ねた。


 凄まじい怒りが、わたしの芯を逆に冷やしてゆく。


 死因は絞殺で間違いない。頚椎けいついが折れているから、相当な力で締めたはずだ。犯人はおそらく男だろうが、この手の小ささは何だ? かなり体を鍛えた女の犯行か? 少なくとも、物取りの犯行ではない。部屋自体はぼろぼろに荒れているが、箪笥たんす抽斗ひきだしは閉まっているし、寝室に置いてある、いかにも高価そうな真剣二振にも見向きもしていない。いや、あるいは、盗みに入りはしたが、祖母に見つかって勢いで殺してしまい、そのまま恐れをなして逃げたか。


 それに、この足跡。部屋が薄暗かったのでしばらく気づかなかったが、わたしが家に入ってきたときにあった泥のついた足跡は、たしかに部屋の中にも点在していた。それをたどると、まっすぐ祖母の遺体に伸びている。しかも、足跡に戸惑いの色がない。


 そうか。人殺しに怖気づいたわけじゃない。犯人は、最初から殺すつもりだったんだ。でも、なぜ? 動機が分からない。祖母は人から恨みを買うような人ではなかった。まったくと言っていいほど、そうした負の感情からは縁遠かったと言っていい。動機のない殺人というのもありはするが、その場合でも、わざわざ嵐の昼に堂々とやってきて犯行を犯すとは思えない。


 分からないことは、まだある。中途半端に放火をしていることだ。証拠隠滅のために殺人後に火を放つのは分かるが、実際は炎の勢いは強くなく、目的は奏功そうこうしていない。うまく火がつかなかっただけなのだろうか? 最初から殺人は計画していたくせに、放火はその場しのぎでやったのだとしたら、犯人はかなり雑な性格をしているということになる。


 そして、直接殺人とは関係ないが、家がめちゃくちゃに壊されていたことも異様だ。近隣の家には目に見える被害はなかった。それなのに、この家だけが半壊状態にある。人の手でこんなことはできるとは到底思えない。


 いずれにせよ、今たったひとつはっきりと分かっているのは、わたしの中に漆黒の殺意が芽生え、そして未だ急激に育ちつつあるということだけだ。今まで喧嘩もしたことのないような臆病で大人しい人間が、ごく短時間にこうも変容してしまう事実におののきを覚える一方で、わたしはそれを静かに受容しつつあった。わたしは、生まれてはじめて、人を殺すという思考に真っ向から向き合っていた――それが何をもたらすのかと問う理性を破壊し粉砕したまま。

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