孤独《ひと》りの鬼たち
橘楓
第1話 殺人鬼の記憶
これは二条の后の、いとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひていでたりけるを、
――『伊勢物語』 紀貫之
*
あれ以外に、彼には、過去の記憶というものがほとんど無かった。
その穴だらけの記憶は、精神的あるいは器質的外傷によって生まれた異常ではなかった。彼はただ、自分が登場する物語に興味を持てなかっただけで、しかも、
自らに
かつて一度、君は自分の中身を全く話さないね、と指摘されたこともある。それじゃあ、他人の信頼は勝ち取れないよ、と。しかし、それは仕方がない――彼は己の
だから、眼前の女が自身の体験を悲喜こもごも
「関口さんは恋人とかいるんですか?」
いいえ、いませんよ、と微笑み返す関口の
「そっかぁ、でも、関口さんなら言い寄ってくる女の人も多いんじゃないですか? 私、彼女に立候補しちゃおうかな!」
赤ら顔でそう言った女の瞳の奥に、情念の火を看て取った関口は、テーブルに置かれた女の手を、嫌味にならないようにそっと握った。マニキュアでけばけばしく飾られていても触れた手は温かく、生者の熱を感じさせる。これから、この温度を奪うのだという想像をして、関口の心がどくんと跳ねる。その興奮を隠そうともせず、関口は女の瞳をまっすぐに見つめた。一方は情欲を、もう一方は情動を含んだ視線が交錯した。
「うちで
関口が駄目押しに決り文句を口にする。
「そうですね、ええ、是非」
女が微笑み返す。これから自分の身に、想像とはかけ離れた惨劇が起こることを知らない、無垢な、だが
「関口さん? どうしたんですか?」
かすかに
少しふらつく女に手を貸し、関口は席を立った。二人分の会計を済ませると、はやる気持ちを抑えて店の外に出て、携帯電話でタクシーの迎車を手配する。今まで何度もやった手順なのに、どくどくと血流が勢いよく流れ、興奮の高まりを感じる。まだ、早い。その熱を冷ますために小さく深呼吸したとき、大きな丸い月が
満月。月の満ち欠けによって、犯罪が増減するという話を関口は聞いたことがあった。新月や満月は、人の獰猛な欲求を
「今日は満月かあ。知ってます? 満月の夜には出産が多いらしいですよ」
空に視線を遣っていた関口に気づいて、女が言った。
「へえ、そうなんですか」
関口がゆっくりと視線を女に戻す。
「月の引力が関係あるらしいです。お腹の羊水って実は海水と同じ成分で、潮の満ち引きが月の影響を受けるように、やっぱりお産も月が関係あるんです。亀なんかも満月だったか、新月に卵を生みますよね」
「不思議ですね。……ぼくは、月って好きですよ。なんというか、魅力があって」
ただ話を合わせただけではなかった。女の話が真実だとすれば、月は生命の誕生を促す揺籃 《ようらん》であると同時に、重犯罪を引き起こして人を死に追いやる死神でもあるということだ。しかも、一見両極にあるその二面性――命を生み出す行為と奪う行為――は、ヒトの本能に強く根ざしているという点で一致している。その奇妙な調和に彩られて、今夜の月はいつもよりも妖しく輝いて見えた。
不意に、女が関口に寄りかかってきた。やや濃い、オリエンタルな香水の匂いが鼻腔をくすぐる。関口はどきりとして女の方を見遣った。そして、目に映ったのは、細い、人形のような首。
その刹那、突然、高いブレーキの音を立てて、車が目の前に停止した。たまたま通りを走っていたタクシーを、女が停めたのだ。関口は、はっと我に返ると、女の
「止めてくれて、ありがとうございます」
「待ってるよりもこっちの方が早いと思って」
相槌を打ち、関口は何事もなかったかのようにタクシーの後部座席に座る。そして、目的地である自宅の住所を運転手に告げ、次いで迎車をキャンセルした。自分は制御不能になりつつあるのかもしれない、と心の中で深い溜息をついて、それでも他にどうしようもない自身の業の深さに関口は身じろぎした。
*
関口
衝撃を受けた石膏像はばらばらに砕け、殴られた少女は仰向け倒れこんだ。すぐに、その額から一筋の血が伝って顔を縦断する。かっと見開かれた目は虚空をさまよっていたが、その体はまだ床で動いていた。何が起きたのか分からないという風に、ばらばらに手足を移ろわせて。それを見て関口は焦った。このままでは今にも彼女がここからいなくなってしまう。
動かないようにしなければ。
しかし、明確な殺意はなかった。ただあったのは、少女に対する罪悪感と、それでもここに自分といてほしいという稚拙で自分勝手な考えだけだった。その衝動に突き動かされ、関口は馬乗りになって、少女の首を締めた。柔らかな首の手応えが、手のひらいっぱいに広がる。少女は苦しさからか、手をばたばたと動かした。
その光景は、強烈な興奮を関口に与えた。ひとつの
少し手の力を強めれば、相手はさらに苦しそうな表情をして、体がこわばる。それは、月並みな人間関係なんかより、よほど分かりやすいコミュニケーションだと関口は思った。自分を一顧だにしない同級生や教師、両親とのそれに比べれば、雲泥の差だ。たしかに彼女は、文字通り懸命に
それは時間にすれば、ほんの五分程度の短い出来事だった。だが、それは関口を
もしも、と関口は思う。もしも、あの日、あの時、少女が糸の切れた人形のように動きを止めてしまわなければ、延々と
しかし、実際に起きたのは、彼にとっても彼女にとっても残酷な結末だった。
少女は
関口は、死という究極のディスコミュニケーションから逃避するように、慌てて両手を少女の首から離した。少女と意思疎通をすることはもう永遠になくなってしまったという実感が、改めてぞわりと体を震わせる。首に食い込んでいた指に、肌の温かさを残したままよろよろと立ち上がると、彼女の全身が目に入った。その顔はうっ血していて、舌が口からはみ出ている。四肢は力なく投げ出され、床には失禁した跡が残っていた。
関口にとって運がよかったのは、絞殺したはずのその少女がのちに蘇生したことだった。首を絞めつづける時間が不十分だったのだろう、関口がその場から逃げ出してから、少女は数分で自発呼吸を取り戻した。頭を数針縫っただけで後遺症も残らず、関口が形だけの反省の意を見せたことから、事件は単なる傷害という形で終結した。ひとりの殺人鬼を生み出したという事実を見過ごしたまま。
一方で、その事件を通して、新たに奇妙な関係が始まったことを知る者はわずかしかいない。事の重大さを認識した関口幸志郎が、加賀山という名の山の奥まで逃げて、そして小綱奈々美に出会った偶然。心に闇を灯した少年と
関口は殺人を繰り返した。初めは通り魔的に女性を襲っていたが、やがて獲物との何気ない会話が興奮を増大させることに気づいた。彼女の人となりを知ることで、相手を肉を持つ人間と認識できる。ただの人形を壊すのではない、丹精込めて作られた砂の城を自らの手で崩す暴力に、彼は
そんな彼の猟奇的な生活が
今はまだ、それらを予見した満月だけが、不気味な笑みを漆黒の宵闇に浮かべている。
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