孤独《ひと》りの鬼たち

橘楓

第1話 殺人鬼の記憶

これは二条の后の、いとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひていでたりけるを、御兄せうと、堀川の大臣おとど、太郎国経の大納言、まだ下﨟げろうにて、内裏うちへ参りたまふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、とどめてとりかへしたまうてけり。それをかく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて、后のただにおはしける時とかや。


――『伊勢物語』 紀貫之


 *


 あれ以外に、彼には、過去の記憶というものがほとんど無かった。寂寞せきばくとした意識の砂漠には、ぽつり、ぽつりと、枯死しかけた思い出がかろうじて点在しているのみ。

 その穴だらけの記憶は、精神的あるいは器質的外傷によって生まれた異常ではなかった。彼はただ、自分が登場する物語に興味を持てなかっただけで、しかも、えて持とうともしなかった。こうなってしまった理由は、きっと心が成長する時期に、誰も自分に大きな関心を示さなかったことが一因なのだろうと、彼はまれに思案する。とはいえ、SNSの発達により自己顕示欲を的容易に発散できる現代に、ここまでおのれに執着しないのは珍しいのかもしれないとも思う。だが、そんな「自分」という要素を含む分析は、いつも、すぐに小さな泡沫うたかたとなって弾け、消えてしまう。


 自らに頓着とんちゃくがない一方で、本の内容や映画の筋など、己が関係しない記憶については、一度見聞きしたものならほぼ忘れることは無かった。観察した世界を標本にし、記憶のはこに閉じ込めて眺めるのは楽しい。それも当然だ、と彼は確信する。ほんの数十リットルの体積しかない人体よりも、それ以外の世界の方がずっと広い。しかも、意識や心という内なる空間は、一見どこまでも深いようでいて、実際には偏見バイアスのせいで観察できる範囲はごく限られる。おまけに、それらは主観でしか語れず、原理的に他者と共有もできない。そんな自己に何の意味があるのだろう。


 かつて一度、君は自分の中身を全く話さないね、と指摘されたこともある。それじゃあ、他人の信頼は勝ち取れないよ、と。しかし、それは仕方がない――彼は己の瑕疵かしについてひとり納得していた。いわゆる主観的な体験に対してよりも、客観的な事実を記憶する方向に、自分の海馬は資源リソースを割いているのだ。自分を排したところでも成立する事実は、一種厳然とした美しさがある。そして、それには誰でも触れられるから、人間ひとのあいだで共有できる。その麗しさと重要性を軽んじている人々の何と多いことか。


 だから、眼前の女が自身の体験を悲喜こもごも滔々とうとうと話すのを、彼は感心と物珍しさとをぜにしてじっと見ていた。自分について、よくもここまで語れるものだ。己には存在しない感性に好奇心を掻き立てられつつも、彼は冷静に彼女の話に傾聴して、適度に相槌を打ち、要所で感嘆し、形だけの共感を示すことを忘れない――「時」が来るまでその場を取りつくろうために。小一時間ほどそうしていると、アルコールの力も手伝い、女は大分馴れ馴れしくなって、個人的な話に直截ちょくせつ切りこんできた。


「関口さんは恋人とかいるんですか?」


 いいえ、いませんよ、と微笑み返す関口の脳裡のうりに、ふと小綱奈々美こづなななみの姿がよぎった。烏の濡羽ぬれば色の髪を華奢きゃしゃな腰まで垂らし、その端正な顔に燃えるような灼眼しゃくがんを秘めた女性。この周辺の町を支配している小綱家の娘。あれほど鋭く、かつ婀娜あだな美しさを持つ妖女を知らない。世が世なら傾国の美女と畏怖されるのは間違いなく、不可思議な因果でそんな女性と関係を持つことになった自分の運命を関口はいぶかしんだ。


「そっかぁ、でも、関口さんなら言い寄ってくる女の人も多いんじゃないですか? 私、彼女に立候補しちゃおうかな!」


 赤ら顔でそう言った女の瞳の奥に、情念の火を看て取った関口は、テーブルに置かれた女の手を、嫌味にならないようにそっと握った。マニキュアでけばけばしく飾られていても触れた手は温かく、生者の熱を感じさせる。これから、この温度を奪うのだという想像をして、関口の心がどくんと跳ねる。その興奮を隠そうともせず、関口は女の瞳をまっすぐに見つめた。一方は情欲を、もう一方は情動を含んだ視線が交錯した。


「うちでみ直しませんか? 友人がくれたいいシャンパンがあるんです」


 関口が駄目押しに決り文句を口にする。


「そうですね、ええ、是非」


 女が微笑み返す。これから自分の身に、想像とはかけ離れた惨劇が起こることを知らない、無垢な、だがけがれた笑み。小綱奈々美なら絶対に見せることのない顔。そう思いやって一瞬しぼみかけた欲望は、女の首が目に入った刹那、再びたぎりだした。柔らかそうな、細い首。指を絡めて締めたならどんな感触がするだろうか――。


「関口さん? どうしたんですか?」


 かすかにほうけた表情を見逃さずに、女が言った。虚を突かれた関口が、いいえ、そろそろ出ようかと思ってと慌ててつくろう。意外に視線に敏感な人間なのかもしれない、と関口は女への認識を改めた。ならば、外見にそぐわず、警戒心が高い可能性もある。万が一ということもあるから、何も悟られないようにしなければ。


 少しふらつく女に手を貸し、関口は席を立った。二人分の会計を済ませると、はやる気持ちを抑えて店の外に出て、携帯電話でタクシーの迎車を手配する。今まで何度もやった手順なのに、どくどくと血流が勢いよく流れ、興奮の高まりを感じる。まだ、早い。その熱を冷ますために小さく深呼吸したとき、大きな丸い月が煌々こうこうと照っているのが目に入った。

 満月。月の満ち欠けによって、犯罪が増減するという話を関口は聞いたことがあった。新月や満月は、人の獰猛な欲求を惹起じゃっきするらしく、その夜には重犯罪も増える。月光の強さが、理性というものを抑制するのだ。だとしたら、自分が今日という日を選んだのも、けっして偶然ではないのかもしれない。


「今日は満月かあ。知ってます? 満月の夜には出産が多いらしいですよ」


 空に視線を遣っていた関口に気づいて、女が言った。


「へえ、そうなんですか」


 関口がゆっくりと視線を女に戻す。


「月の引力が関係あるらしいです。お腹の羊水って実は海水と同じ成分で、潮の満ち引きが月の影響を受けるように、やっぱりお産も月が関係あるんです。亀なんかも満月だったか、新月に卵を生みますよね」


「不思議ですね。……ぼくは、月って好きですよ。なんというか、魅力があって」


 ただ話を合わせただけではなかった。女の話が真実だとすれば、月は生命の誕生を促す揺籃 《ようらん》であると同時に、重犯罪を引き起こして人を死に追いやる死神でもあるということだ。しかも、一見両極にあるその二面性――命を生み出す行為と奪う行為――は、ヒトの本能に強く根ざしているという点で一致している。その奇妙な調和に彩られて、今夜の月はいつもよりも妖しく輝いて見えた。


 不意に、女が関口に寄りかかってきた。やや濃い、オリエンタルな香水の匂いが鼻腔をくすぐる。関口はどきりとして女の方を見遣った。そして、目に映ったのは、細い、人形のような首。今宵こよい最高のごちそう。関口はそのなまめかしさに息を呑んだ。飛びつきたい衝動を必死でこらようとするその側から、その自制心が自然とほつれてゆく。


 その刹那、突然、高いブレーキの音を立てて、車が目の前に停止した。たまたま通りを走っていたタクシーを、女が停めたのだ。関口は、はっと我に返ると、女の頸部けいぶに手をのばす代わりに、ぎゅっと自分の手のひらを握りしめた。


、ありがとうございます」


「待ってるよりもこっちの方が早いと思って」


 相槌を打ち、関口は何事もなかったかのようにタクシーの後部座席に座る。そして、目的地である自宅の住所を運転手に告げ、次いで迎車をキャンセルした。自分は制御不能になりつつあるのかもしれない、と心の中で深い溜息をついて、それでも他にどうしようもない自身の業の深さに関口は身じろぎした。


 *


 関口幸志郎こうしろうが初めて人の首を締めたのは、十四歳のときだった。まだ中学生だった頃、同級生の少女と放課後の美術室で話していたときに、関口はその少女の頭を、棚に置いてあった石膏像で思い切り殴った。動機は、「ただ一緒にいたかったから」。帰宅しようとする大好きな彼女を引き止めたかっただけだった。そのために、言葉ではなく先に手が動いた。動いてしまった。傷つけようという意思はなかったのに。


 衝撃を受けた石膏像はばらばらに砕け、殴られた少女は仰向け倒れこんだ。すぐに、その額から一筋の血が伝って顔を縦断する。かっと見開かれた目は虚空をさまよっていたが、その体はまだ床で動いていた。何が起きたのか分からないという風に、ばらばらに手足を移ろわせて。それを見て関口は焦った。このままでは今にも彼女がここからいなくなってしまう。


 動かないようにしなければ。


 しかし、明確な殺意はなかった。ただあったのは、少女に対する罪悪感と、それでもここに自分といてほしいという稚拙で自分勝手な考えだけだった。その衝動に突き動かされ、関口は馬乗りになって、少女の首を締めた。柔らかな首の手応えが、手のひらいっぱいに広がる。少女は苦しさからか、手をばたばたと動かした。

 その光景は、強烈な興奮を関口に与えた。ひとつの生命いのちが、文字通り自分の手の中にある。生きるためにもがく、生物の内包する大きな大きな力。それを自由にできるという認識は、今まで感じたことのない、も言えない万能感と快感を関口にもたらした。


 少し手の力を強めれば、相手はさらに苦しそうな表情をして、体がこわばる。それは、月並みな人間関係なんかより、よほど分かりやすいコミュニケーションだと関口は思った。自分を一顧だにしない同級生や教師、両親とのそれに比べれば、雲泥の差だ。たしかに彼女は、文字通り懸命にうごめいて、応えてくれているのだから。


 それは時間にすれば、ほんの五分程度の短い出来事だった。だが、それは関口を扼頸やくけいとりこにするに十分な長さだった。不正確な言語を介さない、純粋な肉体どうしの関係。自分優位の意思疎通を強いり、ややもすれば生命の有無すらコントロールする絶対の王権。誰もが得ようとして得られない、圧倒的な支配者の感覚。言葉ではすり抜けてしまうような、本質的な情報の交換。そして、最期の最期まで足掻あが藻掻もがく生命の躍動と反応を、関口はそこ――絞死こうしのわずかに手前に見出したのだ。


 もしも、と関口は思う。もしも、あの日、あの時、少女が糸の切れた人形のように動きを止めてしまわなければ、延々とぬるい幸せの手触りを感じて、幸福の絶頂をずっと味わっていられただろうに。


 しかし、実際に起きたのは、彼にとっても彼女にとっても残酷な結末だった。


 少女は今際いまわきわに一瞬だけ強くあらがったが、すぐにその抵抗は絶無になった。その体がぴくりともしなくなったことを悟った瞬間、関口は身震いした。全人的に自分の制御下に置かれていたはずの少女が、もう動かない。いくら強く首を締めても、何も起きない。あらゆる反応を止めたのだ。その完全な無関心ネグレクトが、関口には怖ろしかった。と同時に、今まで体を満たしていた全能感がしぼんでしまうような、虚脱した気分になる。あれほどまでに脳をびりびりと焼いた充実が、深い喪失の念に変わっていった。快感は失望に取って代わられて、感じたこともないような悄然しょうぜんとした気持ちが体の末端にまで広がる。


 関口は、死という究極のディスコミュニケーションから逃避するように、慌てて両手を少女の首から離した。少女と意思疎通をすることはもう永遠になくなってしまったという実感が、改めてぞわりと体を震わせる。首に食い込んでいた指に、肌の温かさを残したままよろよろと立ち上がると、彼女の全身が目に入った。その顔はうっ血していて、舌が口からはみ出ている。四肢は力なく投げ出され、床には失禁した跡が残っていた。


 関口にとって運がよかったのは、絞殺したはずのその少女がのちに蘇生したことだった。首を絞めつづける時間が不十分だったのだろう、関口がその場から逃げ出してから、少女は数分で自発呼吸を取り戻した。頭を数針縫っただけで後遺症も残らず、関口が形だけの反省の意を見せたことから、事件は単なる傷害という形で終結した。ひとりの殺人鬼を生み出したという事実を見過ごしたまま。


 一方で、その事件を通して、新たに奇妙な関係が始まったことを知る者はわずかしかいない。事の重大さを認識した関口幸志郎が、加賀山という名の山の奥まで逃げて、そして小綱奈々美に出会った偶然。心に闇を灯した少年と隻眼隻脚せきがんせききゃくの少女との邂逅かいこうは、さらなる人的被害の呼び水となった。


 関口は殺人を繰り返した。初めは通り魔的に女性を襲っていたが、やがて獲物との何気ない会話が興奮を増大させることに気づいた。の人となりを知ることで、相手を肉を持つ人間と認識できる。ただの人形を壊すのではない、丹精込めて作られた砂の城を自らの手で崩す暴力に、彼は陶酔とうすいした。その意味で、彼は殺人鬼ではあっても獣ではなかった。恋人との情交が快感を高めるように、理性の働きかけが本能を刺激するのは、関口とて変わらない。ただ、それが彼にとっては絞殺という異常な形を取っていただけで。


 そんな彼の猟奇的な生活がとがめられたのは、関口が満月の晩に最後の被害者をタクシーに乗せたあとだった。その夜からすべてが一変することを、そのときのに彼は知る由もなかった。彼が起こしたのでない不可解で異様な殺人事件に巻きこまれることも、死が死を呼ぶ負の連鎖が始まることも、常識の範疇はんちゅうには存在しない殺人機構が稼働することも、すべては関口の慮外りょがいにあった。


 今はまだ、それらを予見した満月だけが、不気味な笑みを漆黒の宵闇に浮かべている。

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