番外編 パンの注文(2)

 マーガリンおじさんには恩がある。


 いつも注文ついでにパンの耳をタダでもらっていた。現在の収入が雀の涙のアーガリーはそれで糊口を凌いでいたのだ。


 しかし、パンを注文できないとアーガリーが隊のみんなから怒られる。彼には戦うことしかできなかった。


 剣を持つ手が力み、肩に力が入った。


「メエエエエ!」


 そのとき、アーガリーの背後から朝方聞いた奇声が聞こえてきた。振り向くと、そこにはヤギ村田がいた。


 アーガリーは目を丸くして息を飲んだ。


 そして、ヤギ村田は泣いていた。目を赤くし、白い体毛を涙で湿らせていたのだ。


「おじさん」


 か細い声が漏れた。マーガリンおじさんにもその涙は伝達した。おじさんは感極まった様子で鼻水をすする。


「ヤギ村田」


 突然、正面のマーガリンおじさんと背後のヤギ村田が駆け寄ってきた。慌ててアーガリーが身をかわすと、二人は力強い涙の抱擁を交わした。


「メエエエエ……。俺が間違ってたよ。ワルキュリア・カンパニーが、もう……もう来なくっていいって……あいつらが……」


「いいんだ。いいんだ。注文書なんてまた書いてもらえばいい。また二人でパンを焼こう」


「おじさん!」


「ヤギ村田!」


 むせび泣く二人をみながら、アーガリーは静かに剣を収めた。


 こうして、いつものように、焼き上がったパンは昼時に配達してもらうことになった。アーガリーはタダでもらったパンの耳をかじりながらウィーナの屋敷へ戻った。


 それから数日後、不思議なことが起こった。


 注文したパンが届かないのだ。アーガリーが同僚から指摘を受け、慌ててパン工房に確認しに行くと、マーガリンおじさんは「もう届けた」と言い張った。


 誰にパンを渡したのか尋ねても『なんか変な人』に渡したと言い張り、要領を得なかった。


 あまり問い詰めると、顔を真っ赤にして激昂し、凄まじい悪臭を放つ脂汗を流された。「この汗パンにつけて食わせるぞ」と恫喝され、アーガリーは慌てて話を切り上げて屋敷へ戻った。


 戻ったアーガリーに待ち受けていたのは、中核従者ツモとロンによる非難だった。


 この二人はレンチョーの腰巾着で、いつもレンチョーと行動を共にし、彼に迎合している。


 ツモはモヒカン頭で所々に鎖をあしらった皮ジャンを羽織った大男だ。身の丈ほどもある巨大なハンマーを背負い、常に威圧的な雰囲気を出している。


 ロンは対照的に線の細い優男風で、真っ赤な肌に緑色の髪。頭からは二本の触覚が生えている。洒落た鎧とマントに身を包んだ剣士めいた格好をしている。


 容姿は対照的な二人だが、レンチョーの機嫌をうかがって媚びへつらい、レンチョーに同調して下の人間に威張り散らす様はどちらも一緒であった。


「テメー、俺に昼飯抜きにしろっつーのか? あぁ?」


 ツモは拳をボキボキと鳴らしながらアーガリーを威圧する。


「申し訳ありません……」


 どうにもできずアーガリーは謝った。


「そんで言いくるめられてノコノコ帰ってきたのか。馬鹿かお前? あのオッサンがパンを届けたって本気で思ってんの?」


 ロンも冷めた目でアーガリーを非難した。


「申し訳ありません……」


「テメーさっきからそればっかじゃねーかよ! 舐めてんのかコラ! あぁ? 今すぐパン寄こせよオラ! 寄こせよ!」


 ツモが顔を歪ませて激怒する。


「いや、そ、それは……」


 そのパンが所在不明なのだ。そう言われてもどうしようもなかった。


「今からすぐパン工房行ってパンもらってこい!」


 ツモが怒鳴った。


「いや、おじさんも届けたと言い張ってて……。まず今日誰がパンを受け取ったのかを」


「知らねえよ。すぐ行ってこい! 絶対パン持ってこい! もし手ぶらで帰ってきたら職務放棄としてレンチョー殿に報告するからな」


 ツモが更に大声で怒鳴り散らした。しかし、パン工房に行ったとして、マーガリンおじさんが素直にパンを作り直すとは到底思えない。


 アーガリーは板挟みになった。


 すると、ツモの横に立つロンが、呆れた表情で深いため息をついた。


「……やれやれ。まるでガキの使いだな。おいツモ。こんな使えねえ奴もういいよ。話すだけ時間の無駄だ」


 ロンがツモを横目で見ながら言い放った。アーガリーはどうしようもなく情けない気分になった。


「だがなあ!」


「いいって。こんなパンの注文一つ満足にできない奴なんてほっとけよ。それよりソヴァでも食いに行こうぜ。安売り中らしいから」


「安売り中? そいつはいいや」


 ツモは下卑た笑いを浮かべて、ロンと共にその場を去った。


「フォッフォッフォ。雑用もできないようじゃ真面目にいても意味ないズラね。さっさと辞表を出した方がいいっちゃ!」


 派遣従者のデス・キラーも一部始終を観察していたらしく、アーガリーを罵ってきた。


 そして、届くはずのパンにありつけなかった大勢の同僚からも白眼視された。もはやアーガリーの居場所はこの部隊にはなかった。


 ひとまず、アーガリーにとって地獄のような時間は終わった。


 しかし、今日届くはずのパンは一体どうなったのだろうか? 謎は謎のままであった。


 だが、こんな苦痛に耐えるのもあと僅かの時間のはずだ。ウィーナ様が他の隊に移してくれる。きっとあのお方は何もかも分かっていて助けてくれるに違いない。


 アーガリーは自分に都合よく考えを巡らせていた。


 次の日、またしてもパンは届かなかった。


 前日の件を踏まえ、ロンがパンの届く時間帯に、ちゃんとマーガリンおじさんが配達に来るかどうか監視していたのだ。


 そして、アーガリーはロンから呼び出しを食らった。


 事務所裏に呼び出されたアーガリーを、ロンは不機嫌極まりなさそうな表情で迎えた。


「おい今日も届いてねーぞ」


 不機嫌そうな顔から不機嫌そうな声が出てきた。アーガリーにも不快な感情が蓄積されていく。


「すいません」


 どうにもできず、とりあえず謝る。


「レンチョー殿やツモの野郎がギャーギャー騒ぐ前にさっさと確かめてこい。そんで本当に届けてんのか、届けたとしたら誰に渡してんのかマーガリンおじさんに確認してこい」


「わ、分かりました」


「もうお前がレンチョー殿やツモにこき下ろされんの、マジで見苦しくって嫌なんだよ。そんで一度始まると長げーんだよ! グジグジグジグジネチネチネチネチ、何が楽しいんだか知らねーけどよ、俺はそんなのどっちでもいいし、さっさとやることやって帰りてーんだわ」


「はい……」


「頼むからこれ以上波風立てんな。ツモが何か言ってきたら俺が適当にごまかしとくから」


「分かりました!」


 アーガリーはそれこそ必死で回れ右して疾走した。


「待て!」


 突如ロンに呼びとめられた。


「はい」


「今日ツモ頼んでるんだよな?」


 ツモが今日パンを注文していなければそれほどまずい事態ではないということだろう。しかし、現実は非情であった。


「頼んでます」


「分かった! もういい! 行け!」


 ロンに促され、アーガリーは急いでマーガリンおじさんのパン工房へと走った。


「パンは間違いなく届けた。ブチ殺すぞ」


 アーガリーの問いに対して、マーガリンおじさんは怒りの表情で答えた。


「いつ頃届けたの?」


「さっき。午前中だ」


「午前!? 時間は?」


「十一の刻限。ブチ殺すぞ」


「今日は昼過ぎに届けることになってるのに! おかしいでしょ! 何で早くなってんの?」


「パン係なる男に早くしろと頼まれた。だからわざわざ早めに作って届けてやったのだ。ブチ殺すぞ」


「パン係は俺だ」


「そんなの貴様らの内部の問題であろうが! 知ったことではない! 知ったことではない!」


「そのパン係ってのはどんな奴だった?」


「だから昨日から何度も言っておろう! なんか変な奴で、そいつに渡した! くどいぞ貴様! これ以上言いがかりをつけるなら貴様らのところだけ料金五倍請求するぞ!」


「そいつ何か外見的特徴ないの?」


「スキンヘッドで、頭に『死』の文字が刻まれていた」


 デス・キラーだ。


 アーガリーは衝撃の事実に驚愕した。


 アーガリーはデス・キラーを問い詰めるべくウィーナの屋敷へと急いで戻った。あの派遣従者がパンを勝手に食べたに違いない。


「マッ! マッ! マ~ガリリリリ~ン♪」


 なぜかマーガリンおじさんもついてきた。変な歌を歌いながらついてきた。


 デス・キラーに会うために事務所へ戻ると、そこにはとんでもない光景が広がっていた。


 なんと、あのスキンヘッドでサングラスのデス・キラーが、恐ろしい程の筋骨隆々の肉体に変貌していたのだ。体色は明るい紫になっていた。


「ヒャーッハッハッハア! 上半身から下半身まで力がみなぎるずおおおおおっ! 俺は神になっとぅわんどぅわああああっ! どぅわああああああああああ!」


「これは一体」


 アーガリーが戸惑っていると、マーガリンおじさんがしたり顔で説明した。


「筋肉増強剤入りのパンが効いたようだのう」


「ええっ!? 何でそんなの入れちゃったの?」


 アーガリーはそんなパンなど注文していない。


「サービスだ。パンの耳のようなものだ」


「そんな馬鹿な……」


 アーガリーは絶句した。筋骨隆々となったデス・キラーは既に全身の黒いスーツがビリビリに破けていた。


「ウウオオオオオオッ!」


 野太い掛け声を上げて、デス・キラーはやたらめったらに事務所の破壊を始めた。


 あまりの勢いに、アーガリーも含めた周囲の戦闘員達はその様子を遠巻きに傍観するしかなかった。


「貴様あ! 何をしている!」


 騒ぎを聞きつけ、幹部従者レンチョーがツモとロンを引き連れてやってきた。


「ツモ! ロン! 奴を止めろ!」


「何やってんだコラア!」


 レンチョーの命令に従い、ツモが敵へ躍りかかり、巨大なハンマーを振り下ろした。


 しかし、デス・キラーは神速のパンチで巨大な鋼鉄のハンマーを粉々に打ち砕いた。


「な……?」


 ツモには驚愕している暇すらなかった。次の一瞬では腹部に凄まじいパンチを食らい、吹っ飛んで事務所の壁をぶち破った。


 壁を壊し屋敷の中庭に放り出されたツモは、情けなくピクピクと痙攣していた。


「おのれ!」


 今度はロンが腰の鞘から剣を抜き、切っ先をデス・キラーに向ける。


 そして、その瞬間に剣の先端から雷撃魔法が放出され、デス・キラーを襲った。


「ウウオオオオオオオッ!」


 デス・キラーはそんな攻撃をものともせず、アッパーでロンを殴り飛ばした。


 ロンは事務所の天井をぶち破り、天空へと姿を消した。


「貴様あああ!」


 取り巻きをやられて、ついにレンチョー自らが向かっていった。


 しかし、デス・キラーに顔をつかまれ、後頭部を床に叩きつけられた。


「がふ!」


 血の混じった、かなりまずい悲鳴が上がった。


 そして、デス・キラーは床に叩きつけられ、ぐったりと倒れるレンチョーに無数の連続パンチを浴びせた。


「ハーッハッハッハッハ! ハーッハッハッハッハア!」


 マーガリンおじさんが高らかに笑った。


 周囲にレンチョーの部下は大勢いたが、誰も彼を助けようとはしなかった。


「ハーッハッハッハッハ! ハーッハッハッハッハア!」


 マーガリンおじさんはまだ笑っていた。


 レンチョーは後に救助されたが、ほとんど死にかけていた。


「ハーッハッハッハッハ! ハーッハッハッハッハア! ハーッハッハッハッハア!」


 アーガリーが別の部隊への配転となったのは翌日のことであった。


 もうパンの注文はしない。パンの耳も必要なくなった。



<終>

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やるせなき脱力神番外編 パンの注文 伊達サクット @datesakutto

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