やるせなき脱力神番外編 パンの注文

伊達サクット

番外編 パンの注文(1)

 ワルキュリア・カンパニー平従者、アーガリーはいつものようにウィーナの屋敷へ出勤した。


 彼の日課は、早朝のパン注文から始まる。


 部隊内の戦闘員から昼食に食べるパンの注文を書きとめ、マスラオブリブリ商会のパン工房へ出向くのだ。


「おい! パン」


 アーガリーは戦闘員の事務所で、周りの同僚達にパンの注文書を見せつけた。


「俺今日パン!」


「俺も今日パンだわ!」


 同僚達はわらわらとアーガリーに群がり、ペンと注文書を回し合い、注文を書きこむ。


 そんなことをしているうちに、アーガリー達の前に一人の人物が現れた。


 頭から二本の角を生やし、顔の半分が鱗に覆われた男。


 爬虫類の眼差しからは背筋が凍るような冷酷さが滲み出ている。


 彼らの上司、幹部従者レンチョーであった。黒一色の生地で編まれた戦闘服を纏った姿はまるで彼自身が闇そのものであるかのようだ。


「モーロ地方の悪霊を始末しに行く。そこと、そこの。来い」


 レンチョーは部下達を無表情で見まわし、適当に二人の部下を呼びつけた。


 アーガリーは内心不快な気分でその光景を見ていた。『そこと、そこの』とは何事か。自分の直属を物扱いである。


「はい!」「はい!」


 指名された連中は即座に反応し、機嫌を損ねないようにきびきびとレンチョーのもとに歩み寄る。


 アーガリーは、気後れしたものの、勇気を出してレンチョーに声をかけた。


「あ、あのー、レンチョー殿」


「何だ」


 レンチョーは声をかけられただけで極めて不機嫌そうな剣幕だ。もはや下っ端が呼びとめることすら重罪だとでもいうのか。


「パンとか……どうッスか?」


 低姿勢でオズオズとパンの注文書を差し出すアーガリー。


「何が?」


 レンチョーは視線を鋭くし、冷徹にアーガリーを見下した。


「いや、そ、その。今丁度注文受けてるときにここにいらしたんで、たまにはどう……」


 レンチョーはアーガリーが言い終らないうちに、顔色一つ動かさず、腰に提げた鎖の鞭を振りかざした。


 アーガリーは全く反応できなかった。気付いたら、手に持つ注文書が真っ二つに切断されていた。


 通り過ぎた鞭より大分遅れて去来する恐怖。


「ヒ、ヒィィ……」


 ようやく状況を飲み込めたアーガリーは、舞い落ちる発注書の断片と共に床へと情けなくへたり込んだ。


「嫌味のつもりか? お前舐めてるだろ」


 レンチョーはずいと一歩前に出て、座り込むアーガリーを見下ろした。その手の鞭がジャラジャラと音を鳴らす。


「申し訳ありませんでした!」


 アーガリーはすぐさま額を床にこすりつけて土下座した。


「価値のない頭、よく下げるねえ」


 彼の後頭部にレンチョーの足が降りる。


「なあ、アーガリー。俺はよーく覚えてるからな。ラダムマのことは。お前は俺に何をした? なあ?」


「も、申し訳ありません!」


 謝罪を繰り返すが、頭を踏みつける足の圧力は重力を増すばかり。


「貴様に殺されるところだったんだからなあ!」


「ぐげ!」


 レンチョーは激昂し、踏みつけるその足でアーガリーを蹴飛ばした。アーガリーは床を転がり、苦痛と屈辱に顔を歪めた。


 ラダムマのこと。


 以前、ラダムマ地方での悪霊退治の任務中、相手の予想以上の強さにレンチョーの隊はまさかの苦戦を強いられた。


 そして、レンチョーが悪霊につかまり締め上げられ、絶体絶命の危機となった。


 このとき、同行していた戦闘員はそのほとんどが殺されるか戦闘不能になるかしてしまい、動けるのはアーガリーだけだった。


 レンチョーはアーガリーに助けを求めた。だが、相手は圧倒的な強さを持つあのレンチョーですら敵わない悪霊だ。アーガリーは恐怖で足が動かず、自分の身を守ることを優先し、レンチョーを助けに行かなかったのだ。


 このままレンチョーが死んでくれたらよかったのだが、彼は機転を利かして悪霊を封じ込め、奇跡の勝利を遂げたのだ。


 しかし、レンチョーを見殺しにしようとしたと同義なアーガリーにとっては凶報でしかない。


 その日から、隊内でのレンチョーの標的はアーガリーになったのだ。


「うううう!」


 アーガリーは顔を押さえてうめき続ける。わざとオーバーアクションをして、周囲の同情を買うためだ。


 しかし、周囲の同僚達は、そんなアーガリーから気まずそうな表情で視線を外すばかりだった。


「レンチョー殿、出陣の準備整い申した」


 事務所に入ってきた一人の人物。スキンヘッドにサングラス、黒ずくめのスーツを着た威圧感溢れる男だ。


 額の中央には『死』と禍々しいペイントが掘られていた。人材派遣ギルドから派遣されてきた派遣戦闘員のDEATHデスKILLERキラーである。


「おう、行くぞ」


 レンチョーはデス・キラーの呼びかけに応じ、指名した平従者二名を引きつれて事務所を出ようとした。


「フォッフォッフォ……。惨めな醜態ですなあ。正規戦闘員とはいえ、所詮はこの体たらくどすか」


 デス・キラーは倒れるアーガリーに向かって侮蔑の言葉を吐き捨てた。


 それを聞いたレンチョーは鼻で笑った。


「我々を舐めてもらっては困る。ただこいつが戦闘不適格者だけだ。まあ、平従者なんておおよそこんなもんだがな」


 レンチョーの台詞に対し、彼の後ろに付き従う平従者達が一瞬だけ眉をひそめた。


「パン注文してるだけだったら辞めちゃったらどうでゴワスかあ? このデス・キラーいる限り貴公の仕事なぞありまへんがな!」


 デス・キラーが更にアーガリーを罵倒する。


「お、おお、お待ち下さいレンチョー殿!」


 アーガリーは顔を起こし、再びレンチョーにひざまずく。


「何だ」


 極めて酷薄な態度が返ってきた。


「どうか私を任務に同行させて下さい。今度こそレンチョー殿の助けになります!」


 アーガリーは必死に頭を下げた。ここの給料は、任務達成による歩合も反映される。ラダムマの一件以来、レンチョーに仕事を干された彼は、任務のシフトが一向に回ってこなかった。


 当然、手取りが減って生活もじわじわと困窮してくる。何とかレンチョーに許しを請い、任務に組み込んでもらわないといけなかったのだ。


「笑わせるな。この俺が貴様ごときの力なんて必要だと思うか? もう二度とその面俺に見せるな」


 そう言い放つと、レンチョーと部下達はずかずかと事務所を去っていった。


「フォッフォッフォ! パン注文とか超ウケるんですけどおおお!」


 廊下の奥からデス・キラーの爆笑する声が聞こえてきた。


「お、おい……」


 レンチョーが完全にいなくなった後、同僚の戦闘員がおずおずとアーガリーに手を差し伸べた。


 アーガリーはその手を受けず、床に散乱したパン注文書の切れ端を拾い上げ、ゆらりと立ち上がった。


「注文はこれで全部か? パン工房へ行ってくる」


 アーガリーはそう言って無理に強がり、レンチョー達に追いつかないよう、歩くスピードを調節しながら廊下を歩んだ。


 あのとき、あのままレンチョーが殉職してくれればどんなによかったか。アーガリーの心の中で、上司への憎悪が煮えたぎった。


「メエエエエ! そのパンを寄こせえええええ!」


 ウィーナの屋敷を裏門から出ようとしたとき、一人の山羊の顔をした獣人タイプの冥界人が立ち塞がった。


 相当腹ペコらしく、口からよだれをダラダラ流している。そして、その獲物を狙う視線はアーガリーのパン注文書に握られていた。


 彼もデス・キラーと同じく、別組織から派遣されてきた派遣戦闘員、ヤギ村田だった。


「これは紙だ」


 アーガリーは咄嗟に注文書を持つ手を背中に回し、注文書を隠した。


「メエエエ!」


 ヤギ村田は両手に装備したクローを振りかざして飛びかかってきた。


 間一髪で回避するアーガリー。


「貴様……! 派遣の分際で正規の戦闘員に……」


 アーガリーは滲みでる怒りで歯を食いしばった。先程のデス・キラーの嘲笑う表情と、額の『死』の文字が想起された。


 注文書をポケットにしまい、腰の鞘から剣を抜く。


「オエエエエエ!」


 ヤギ村田の攻撃。口を開けて緑色に輝く液体を吐きかけてきた。


 アーガリーはまた回避した。液体は屋敷の石塀に振りかかる。肉が焼けるような音がして壁はドロドロと溶解した。


「お前、仕事はいいのか……」


 言いつつ、両手で剣を構えて間合いを測る。


「メエエエエ! 貴様の紙をこの腹に収めるまでは仕事など馬鹿馬鹿しくてやってられんわ! この気持ち、お前なら分かるだろう!」


 ヤギ村田は目をギョロリと光らせ、こちらを見据える。


たわけたことでええ!」


 アーガリーは剣を振るったが、ヤギ村田は機敏に飛び上がりその一撃をかわした。


「ぐっ!」


 アーガリーは再び剣を振るうが、再び空を切る。


「メエエエエ! 正規戦闘員とはいえこの程度かあ! いいですねえ、正規雇用はこんな雑魚でもいい給料もらえるんだから!」


「黙れ!」


 自分は仕事を干されてその日食うにも困っている状況なのだ。


 アーガリーは怒りに任せて何度も剣を振るったが、ヤギ村田はあざ笑うかのようにゆうゆうと攻撃を回避する。


「ホシャアアア!」


 ヤギ村田のクローが唸る。必死に防御を試みた。鎧の腹部の装甲板がえぐられ、生々しい爪痕が描かれた。


 同時に、左肩の装甲も切り裂かれ剥がれ落ちる。


 アーガリーは構わず剣を突き出した。しかし、既に相手は脇にステップをして攻撃から逃れていた。


 突きのモーションは大きい。ここでアーガリーに決定的な隙が出来てしまった。


 アーガリーの喉元にクローが付きつけられる。


「メエエエ! 動くと血を見るぞ」


「ぐっ……!」


 こめかみに冷や汗が流れ落ちた。


 ヤギ村田はもう片方の手でアーガリーが注文書をしまったポケットに手を突っ込もうとした。しかし、手首に装着したクローが邪魔で上手く手が入らなかった。


「ん? あれ?」


 ヤギ村田は手の方向を変えて何とかポケットに手を入れようとしていた。


 咄嗟にアーガリーはヤギ村田の顎に肘打ちを入れた。


「ぶっ!」


 そして、相手がのけ反った隙を突き、逆に剣を相手の喉元に突き付けた。


「お前の派遣元はどこだ」


「マスラオブリブリ……商会……」


「ルナケイト殿か?」


「メエエ……パン工房……パンのおじさん」


 ヤギ村田はしぼり出すように声を漏らした。


「俺も、そこに用がある」


 しばらくヤギ村田を睨み据え、さっと剣を引いて鞘に収めた。そして、屋敷を出ようと裏門の取っ手に手をかけた。


「メエエエエエエエ!」


 奇声が聞こえた。振り向くと、再びクローを振りかざし迫りくるヤギ村田の姿が。


「なっ……?」


 剣を抜こうとするが間に合わない。思わず腕を交差して身をかがめた。


 しかし、敵のクローは寸前で停止した。何者かがヤギ村田の腕をつかんでいたのだ。


 それは、筋骨隆々の山のような大男。頭部から力強い角を生やし、力強い皺の刻まれた猛牛の顔を持つ男、バングルゼであった。


「バングルゼ殿!?」


 アーガリーは思わず声を上げた。


「お前、何してんだ?」


 バングルゼはその大きな手でヤギ村田の頭をすっぽりと鷲掴みにし、やすやすと持ち上げた。


「アッー!」


 ヤギ村田は足をじたばたさせ、怪しげな悲鳴を上げた。


「行け。砕けた鎧の掃除はコイツにやらせる」


 バングルゼはアーガリーを顎で促した。


「あ、ありがとうございました!」


 アーガリーはそそくさと裏門を出て、屋敷を脱出した。アーガリーはバングルゼに感謝した。


 彼はマスラオブリブリ商会の屋敷に向けて城下町の大通りを歩いているところだった。仕事を干されている状態で、ウィーナの屋敷にいても修行くらいしかすることがない。彼はダラダラ歩いていた。


 頭の中はレンチョーのことで一杯だった。なぜ自分だけこんな苦しい思いをしなければならないのか。あんな場面だったら誰だって助けにいかない。むしろ被害者は自分だ。そんな思いが彼の頭を巡っていた。


「アーガリー」


 背後からよく通った女性の声が聞こえた。


 頭を妄想の世界から切り替えて振り向いた。そこには一台の真っ白な魔動車まどうしゃが停まっていた。


 最近、冥界の上流階級の間で流行り始めた移動手段だ。魔法を動力にして動く車で、科学という技術も融合された代物だ。


 優秀な異世界の霊魂から伝承された技術で開発されたのだろう。


 後部座席の窓から顔を出したのは、アーガリーが仕える主君、ウィーナであった。


「おはようございます!」


 アーガリーは慌てて敬礼した。ウィーナは微かに笑顔を見せた。その笑顔を見ただけで、何か自分が他の同僚と比べて優位に立ったような気がしてくるから不思議である。


 そして、一介の平従者に過ぎない自分の名前をウィーナが知っていることに対して、アーガリーは驚いていた。ここに就職して、ウィーナと話したことなどろくにないのにだ。いや、全くなかったかもしれない。


「どこへ行く?」


 ただそう問われただけなのに、ウィーナの視線を受けて自分の内面全てを見透かされているような気がした。


「はい。マスラオブリブリに。パンの注文を」


「行先は同じか。乗っていくがいい」


「ええっ!?」


 アーガリーは度肝を抜かれた。


「いや、私は」


「遠慮するな」


 結局、ウィーナ相手に断る勇気が出ず、アーガリーは魔動車に乗せてもらった。


 隣には、ウィーナが座る。まさかこんなときに、こんなところで組織の親玉と同席することになるとは。


 何か粗相でもしたら嫌だ。アーガリーの心中はネガティブな感情で一杯になっていた。


 運転席でハンドルを握るのは、黒い外骨格に覆われた虫の容姿を持つ戦士、平従者のビートだった。


 ウィーナの運転手や給仕をしている付き人のような男である。勝利の女神という雲の上のような存在とよく四六時中一緒にいられるものだ。小心者のアーガリーにはとても無理な役回りだ。


 魔動車は、歩行者にぶつからないように、城下町の大通りをゆっくりと進んでいく。


 その間、車内は無言だった。ウィーナも一言もしゃべろうとしない。


「今日は暑いですねえ……」


 アーガリーはその沈黙に耐えられず、思わずどうでもいい話題を振った。よせばいいのにと自分でも思うが、どうも不安になって余計なことを言ってしまうのである。


「アーガリー」


「は、はい!」


「近く、お前を別の隊に異動させようと思う」


 ウィーナは、外の景色を見ながら話を切り出した。


「えっ?」


 不意のことにアーガリーは口を半開きにした。


「どこに移すかはまだ決まっていないが、近く知らせがくる。そのつもりでいてくれ」


「はい」


 アーガリーは口を結んで、顔を真正面に向けて硬直させた。ウィーナはアーガリーの隊内での立場を知っているのだろうか。


 アーガリーの心にじわじわと喜びが沸いてきた。決して顔には出さなかったが、心が晴れる気分になった。


 レンチョーの隊から離れられる。これほど嬉しいことはない。


「その鎧は誰かにやられたのか?」


 しばらくの沈黙の後、再びウィーナが口を開いた。


「これは……」


 アーガリーはつい先ほど行われた戦闘の件を一部始終話した。


「そうか……。ヤギ村田、か……」


 ウィーナは静かに腕を組んだ。女神は何を考えているのか。小人たるアーガリーには計りかねた。


 ウィーナはおそらくルナケイト商会長に会うのだろう。自分はパン工房のマーガリンおじさんに用がある。


 商会の屋敷で魔動車を降り、ウィーナと別れた。そして、敷地の隅にあるマーガリンおじさんのパン工房へ足を運んだ。煙突が目印である。


「おはようございます」


 アーガリーは工房の玄関を開けた。


 そこには、パン生地をこねる台の上で、パンツ一丁で座禅を組んでいる中年男性がいた。


 脂ぎった長い顔を持ち、額には『魔』の一字が威圧的に刻まれている。いつもながら只者ではない。


「何奴」


 マーガリンおじさんは座禅の構えを維持したまま言い放った。


「おじさん、俺だよ」


「何用だ」


 アーガリーは構わず、レンチョーに真っ二つにされた注文書を台に置いた。


「あんパン三個、ジャムパン二個、普通パン五個……昼までに届けて下さい。頼みます」


 アーガリーが注文書の内容を読み上げる。


「なぜ?」


 マーガリンおじさんは目を開き、こちらを見下ろしてきた。


「昼飯にパンを食べたいからなんですけど」


「なぜお前はここにいる。ヤギ村田は?」


「やはりおじさんの差し金でしたか」


 アーガリーは奥歯を噛みしめた。


「ワシの弟子だ。あれはパンではなくパンの注文書にしか興味を示さなかった。だから派遣した。ただそれだけの話だ」


「ただそれだけの話で襲ってこられてもねえ……」


「口から吐く液体はなかなかの技であろう。貴様如きにかわせるとも思えんが」


「で、パンは?」


 アーガリーは話を戻した。


「今日はパン祭りだ! ワシのパン祭りだ! 雑魚は引っ込んでろ!」


 マーガリンおじさんのパンツの前面が、小高い丘のように盛り上がった。パンツの中の陰茎が固くなって起き上がったのだろう。


「分かったよ。余所よそへ行く。パン屋はおたくだけじゃない」


 アーガリーは注文書を回収し、きびすを返した。すると、彼の背中にマーガリンおじさんの嘲笑ちょうしょうが降りかかってきた。


「フィッヒッヒッヒ! 腰抜けめ! ワシを倒してみろ! 倒してパンを注文してみろ! ワシは貴様の頭の中に詰まったパンを頂くとしよう。あの夢は今日のことだった。そうであろう? ヤギ村田」


「よし……分かったよ」


 アーガリーは剣を抜き、マーガリンおじさんと対峙した。

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