ありし日のアンナ・ルイーズ【KAC20214】
冬野ゆな
第1話
雨に紛れ、私は人気の無い道を駆け抜けた。
足元が泥にまみれ、転びそうになりながらも、片手に抱えた大きな荷物を抱えて走り続ける。もはや息も絶え絶えで、いまにも心臓が破裂してしまいそうだった。門をくぐり抜け、家のドアを開け放つと、震える手でドアに鍵をかけた。その途端、降り注いでいた雨の音はぴったりと聞こえなくなった。
静寂の中で、私の呼吸の音と心臓の音だけが響き渡る。
そして震える手で、薄汚れた布に覆われたカンバスを抱きしめた。
*
エドワルド・トナーズは、鼠のような男だった。
狡猾でずる賢いというわけじゃない。
痩せぎすの落ち窪んだ顔はいつ見ても憂鬱そうで、いつだって隅の方でひっそりと佇んでいる。顔のせいか実物より大きく見える双眸で人の表情を窺い、そろりそろりと足音を立てずにひっそりと遠ざかっていく。厭世的な世捨て人のような空気を纏いながら、穏やかな生活を望んでいるような男だった。
とはいえ彼はけして世捨て人ではなかった。陰気だが機嫌のいい時は控えめな冗談も言い合う。目まぐるしい社会の波に必死で食いつきながら、なんとか日々を心安らかに過ごしている、そういう男だった。
そんなエドワルドが私のもとを尋ねてきたのは、十一月の末のことだった。外は既に肌寒く、彼はコートの前をひっぱって縮こまっていた。
「やあ、エディー。久し振り」
「うん」
まるで合言葉のようなお決まりの挨拶をして、私はエドワルドを中に通した。
「今日は寒いな。真っ青じゃないか」
彼はいつにもまして蒼褪めた顔をしていた。私の問いにも何も答えず、ソファの定位置へ座り込むと、落ち着きなくそわそわしていた。
「そ、相談があるんだ」
「相談?」
私は先を促すように言ったつもりだったが、彼はじっとうつむくばかりだった。
「悩み事でもあるのかい。まあ何か飲みたまえ、顔が真っ青だぜ。景気づけにウィスキーはどうかな」
「いただくよ」
彼はきょろきょろと辺りを見回しながら何とかそれだけ言った。静かな男だが、ここまで妙な振る舞いをする事はなかった。ウィスキーを注いでやりながら観察すると、手はぶるぶると震え、そうかと思えば何か考え込むように目線を床に向ける。何かを伝えたがっているのは明らかだった。私は敢えてこちらから尋ねるようなことはせず、第一声が放たれるのを待った。
「きみ。僕の――僕の趣味の事は知ってるだろう」
ようやく彼の口が開かれると、私は静かに頷いた。
彼の唯一の趣味ともいえるものは、絵を見ることだった。
世の中の大半の人々は、多大に評価された芸術作品のみを”絵画”と表現するふしもあるが、彼にその区別は無い。有名画家から公園で絵を描くアマチュアのものまで幅広い絵を好んだ。
プロの画家に関しても好き嫌いはあまり見せず、子供でも知っているような著名な人物から、ゴーギャンのような印象派、ターナーのようなロマン派まで、展覧会があると聞けば一人で出かけていくような性質だった。
そうかと思えば、新進気鋭の若い作家たちの個展へ足を向ける。きらりと光る原石も、自己満足も、過剰に自己肥大しただけの駄作もひっくるめて鑑賞した。
彼は本当に、絵画であれば評価の善し悪しを問わなかったのだ。
どちらかというと、絵を見るときの静かな空間を好んでいたのかもしれない。人のあまりいない時間を見計らい、静かに絵を鑑賞する時間が何よりも好きらしかった。
「ああ、知っているよ。きみの趣味をとやかく言う人はいないだろう」
「それで、その――小さなアトリエだったんだ。名前も知らないような」
「なんだって?」
エドワルドはぽつぽつと話し始めた。
「あまりに小さくて、見逃してしまっていたんだ――たぶん。中はこぢんまりとした、お世辞にも小ぎれいとは言えないところさ。掃除は行き届いていたみたいだけどね。入ってすぐ、まっすぐに続くだけの廊下の壁に、アマチュア作家の絵が飾られていた。興味深いものばかりだったよ。
そんなときだった。
彼女を。その絵を見つけたのは。
彼女はひっそりと、アトリエの奥に安置されていた。彼女を見た瞬間、雷が落ちたように僕は動けなくなったんだ。体と同じように、一瞬で僕の心も奪われてしまったようだった。彼女は椅子に座って、僕を見つめていた。
『ありし日のアンナ・ルイーズ』。
それが彼女の名であり、その絵の名前だった。今まで色々な婦人画を見てきたけど、これほど魅了される絵ははじめてだった。僕はなんと言ったかわからない。時間も忘れて、彼女をじっと見つめていた……」
「そりゃあ、きみ、恋じゃないか」
私は冗談めかして言った。
「絵の中のご婦人があんまり綺麗だから、一目ぼれでもしたのさ」
そう続けて笑ったが、エドワルドの眼は真剣そのものだった。
「それで、絵を買ったのかい?」
「……ああ。……いや。それが、わからないんだ」
「わからないって?」
「当然、僕は絵が欲しくてたまらなかった。いや、もう絵というよりも、彼女を手に入れたくてしょうがなかった。だからすぐ、アトリエの主に申し出たんだ。いくらでもいい、どれほど高くても構わないから、この絵が欲しいとね。
アトリエの主は暗い老人で、歳もわからないくらい老け込んでいた。だがそんな老人が、これだけは売れないと言ったんだ。わかるか? 売れないと言ったんだぞ。何度かやりとりをしたような気がする。気がするというのは、僕が何を言って、どう食い下がったのか、さっぱり覚えていないからだ。老人はあまりに頑なで、僕もとうとうムキになりはじめた。僕らは互いを非難し、激しく罵り、そしてなにかを殴りつけたような、堅い感触が僕の手に残った……」
ぞくりとした。その不安をかき消すように、私は続ける。
「つまり、買えなかったってことだろう? それなら……」
「いや」
エドワルドは静かに首を振った。
「アンナ・ルイーズは、いま、僕の部屋にいる……」
私はどきりとした。
それきり、何も言えなくなってしまった。エドワルドもじっと押し黙ったように地面を見つめていた。それからエドワルドがどうやって帰ったのか覚えていない。なにかもぞもぞと互いに言い合って別れた気がする。
私はエドワルドが帰ってからというもの、ずっといまの話について考えていた。
アンナ・ルイーズ。
その名を口にすると、不安と対称的に心が躍るような気がした。なんという美しい名だろう。友人が心奪われるくらいだから、ずいぶんといい絵のようだ。きっと友人は、その美しさに心奪われ、正規に購入したことも忘れてしまったのだろう。そうに違いない。主との交渉ばかりを覚えていて、その後のことをすっかり忘れてしまっているのだ。
きっと思い違いだ。
私はエドワルドの言ったアトリエを探しはじめた。小さなアトリエはいくつか見つかったが、彼のいったような老人のいるアトリエは見つからなかった。小さなアトリエはす、ぐに閉店してしまうこともある。絵を売り切って終わりということもあるのだから、そういうこともあるだろう。このあたりにこれこれこういう画廊は無いかといろいろな人に尋ねてみたが、覚えている人間はいなかった。
アトリエの場所をしっかりと聞いておけば良かった。
だが、もしも。もしもだ。アトリエの主が殴り倒されたかして、それを警察に言うような事があれば。もっとひどいことがあったならば。今頃きっと友人だけでなく、私の所にも何か連絡があってもいいはずだ。きっとそうだ。友人が恐ろしい犯罪に手を染めた可能性は低いのではないか。きっとそうに違いない。
私はいてもたってもいられなかった。
エドワルドのことが心配だった。たかだか一枚の絵のために、彼が破滅するような目に遭ってほしくない。
その日は、十二月にもかかわらず季節外れの雨が降っていた。もうとっくに雪が降っても良さそうな頃合いなのに、ざあざあと耳障りな音が私の脳をかき回した。
びしょぬれになりながら、私はエドワルドの家の扉を叩いた。
「……やあ」
エドワルドは以前よりもすっかり痩せ細っていた。
大丈夫か、と私が尋ねる前に、彼は口を開いた。
「よく来たね……。彼女を紹介したかったんだ」
エドワルドは、まるで妻や恋人を紹介するように言った。はやる気持ちをおさえ、私は彼について壁に飾られた絵と対面した。
奇妙なサイズの縦長のカンバスだった。
額縁につけられたタイトルには、「ありし日のアンナ・ルイーズ」とある。
油絵で描かれていて、やや色調は暗い。暗い金髪に、特徴的な緑色の瞳。黄色いワンピースは、その色に反してずいぶんと落ち着いて見えた。彼女は命が宿ったかのごとくこちらをじっと見据え、私に微笑みかけていた。
雷に打たれたような心地で、その美しさに目を見張った。
心が震えた。全身が硬直し、まるで永久の恋人に出会ったかのようだった。エドワルドが何か言っていたが、私にはとっくに聞こえなくなっていた。
*
私は彼女をテーブルの上へと置くと、ずぶ濡れのレインコートを脱いで、暖炉の中へと突っ込んだ。何度も失敗しながらマッチに火をつけ、ところどころ血のついたレインコートを燃やした。膝をついた拍子に、からん、とポケットから落ちたものに目をやる。エドワルドの血のついたナイフだった。震える手で拾い上げると、彼女を包んでいた布で拭き取った。布も暖炉の火の中にくべた。
私は彼女の絵を丁重に壁に飾ると、ダイニングテーブルの上に白いシーツをかぶせた。しまいこんであった燭台を二つ等間隔に置く。
今日のところはこれでディナーとしよう。
明日になったら、彼女にぴったりの服を買いに行くのだ。
彼女はきっと、バンヒルの店で見た深紅のドレスが似合うはずだ。
ありし日のアンナ・ルイーズ【KAC20214】 冬野ゆな @unknown_winter
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