第5話 花咲ける背徳の帝都《みやこ》
「そこまでだ」
張りのある男の声に、一同は硬直した。そのまま、機械人形の如くぎこちない仕種で、入り口に顔を向ける。
山高帽に黒いコート。象牙のステッキを持った、中肉中背の男。
黒衣の殺人鬼が現れたのか、と彼らは錯覚した。
殺人鬼が、ついに売春婦以外にもその魔手を伸ばしたのだ、と。黒い
「いや……」
マーガレットが、身じろぎする。
が、男は彼らの意に反して、懐から別のものを取り出した。
黒光りする、鉄の塊。拳銃である。
彼はそれをエルナンに向けて、もう一度同じ台詞を繰り返した。
「そこまでだ」
同時に、我に返ったウェルは、その男の名を呼んだ。
「エディ」
マーガレットも、はっとしたように、
「殿下?」
小さく悲鳴を上げた。「殿下?」、とエルナンは眉をひそめ、エドワードを見る。
「エドワード殿下? 遊び人の? マーガレット妃殿下の、ご亭主のか?」
こいつはいい、とエルナンは爆笑した。狂っているのか、と思われるような、異常な笑い方だった。すでに、アルコールに脳をおかされているのかもしれない。
「まさか、娼婦の通り名が自分の女房と同じだからって、咎めに来たわけでもねえだろう? 何のご用ですかい、皇子様。ことと次第によっちゃ、ご協力しますぜ」
バカにしきった言いぐさに、エドワードは翻弄されなかった。相変わらず銃を構えたまま、
「その少年を、放してもらおう」
視線でウェルを示した。
エルナンは、へえっ、と頓狂な声を上げる。薄ら笑いを浮かべ、皇子とウェルを交互に見比べた。
「このセンセイが、殿下の
あくまでふてぶてしいエルナンを、マーガレットが遠慮がちに窘める。
皇子相手に暴言を吐いたことが知れれば、アランダ塔送りは間違いない。そのあと、不敬罪で絞首刑にされるのが落ちだ。その前に、今ここで撃ち殺されてもおかしくはない。
仮にここでエドワードが発砲したとしても、市警は彼を咎めるようなことはしないだろう。率先して、事件をもみ消すに決まっている。
「わかったよ」
エルナンは、粘っこい目をエドワードに向ける。
「でも、こいつをはなしたら、俺を撃ち殺すつもりなんだろう?」
ひっ、とマーガレットが喉を鳴らした。彼女は情夫の後ろに隠れる。エドワードは、尊大に顎をしゃくった。
「行け。おまえたちに、用はない」
これがその証だ、といわんばかりに、銃をしまう。
それを確認してから、エルナンはウェルを離した。マーガレットは、そそくさと扉に走り寄る。エドワードの脇をすり抜けるとき、彼女はぺこり、と小さく頭を下げた。エルナンも足早に彼女を追って、部屋を出ていく。
「なんで、あんたがここにいるんだよ」
額を押さえながら、ウェルがエドワードを睨め付けた。
後頭部がずきずきする。エルナンはかなり強く殴ってくれたらしい。床に転がる地酒の瓶を見て、これが凶器だったのかとあらためて気づく。これで殴られたのでは、気絶しない方がおかしい。
彼は、よろめきながら立ち上がった。
「どうやって、ここがわかったんだ」
「質問責めだな」
エドワードは帽子を取った。丁寧になでつけた黒髪が、露わになる。ウェルと同じ髪の色。この髪と、黒い瞳を見て、ウェルは彼に声をかけたのだ。
あとで、彼が皇子と知ったとき。ウェルは全身の力を吸い取られたような気がした。これが女性であれば、「お手つき」として喜べたものを。
「別に、抱きに来たわけではない。そう、かりかりするな」
「なっ」
「希望とあれば、そうしてもいいが。ただし、今度は金は払わないぞ。対等の立場で交際をするのだ」
「冗談だろ」
「冗談だ」
鼻白むウェルに、皇子はうっすらとした笑みを向ける。
「わたしも、二年ほど前に知ったのだが、御身はアンセルム・ハミルトンの弟子だったそうだな」
思わぬ人物からその名が漏れて、ウェルは絶句した。
アンセルム・ハミルトン。エドワードがなぜその名を知っているのだろう。
それに、ウェルが彼の弟子だったことも知っているとは。
伊達に東区を徘徊しているわけではないのか。ウェルは、この黒衣の皇子を薄気味悪く思った。
「そのことで、聞きたいことがあったのだ。先日、奇跡的に見かけたと思ったら、逃げられてしまった」
「だから、あれは」
また、声をかけられると思ったのだ。
一度だけ、という約束であったはずなのに、エドワードは街でウェルを見かけるたびに声をかけてきた。夜、外科医の見習を追えてから、呼び売り商人の副業をしていたとき。必ず側に、薔薇の紋章入りの馬車が横付けされ、黒衣の皇子が降りてきた。
皇子はよほどウェルが気に入ったのか。
花嫁を迎えてから暫くは、東区に姿を見せることもなかったが、ここ一年程は頻繁に現れているようだ。ウェルもなるべく彼と顔を合わせないように、夜間の外出は避けていたのだが。
「過ぎたことは、まあ、いい。他にも、御身と話がしたい、というものがあってな。その人物に偶然教会で会って、ここに案内してもらった」
「教会? 案内?」
半眼になる、ウェル。
エドワードは、肩越しに連れに声をかけた。
「入られよ」
彼の背後から、白い影が滑り出す。
異教の聖衣を纏った青年が、やあ、と片手をあげていた。
「賢者!」
樫の木の賢者・ランディール。彼は乞われるまでもなく入室し、手近にあった椅子に馬乗りになった。椅子の背に顎を乗せ、にやにやとウェルを見ている。
「あの、イカすおねーさまは、一緒じゃないわけね」
ハルのことを言っているのだろう。
「彼女は、<馬の首>で巡査とお食事中。で、なんなんだよ。賢者と、エディが纏めておしかけて」
賢者は、それそれ、と手を打った。
「アリシア・ウェリントン、て知ってるか?」
ウェルは即座に否定した。聞いたこともない名だ。アリシア・ウェリントン――患者にも、そんな名前の女性はいなかった。いや、患者の名などいちいち覚えてもいないが。
ハルの正式名は、ハリエット・グラッドストンだった。似ているが違う。
それが、といった顔をするウェルに、賢者は別の名を告げた。
「じゃあ、アリサは?」
「アリサ」
聞いたことがあった。どこでだろう。
考えて、ふと思い出す。教会を訪ねていったときのこと。ハルの顔を見た神父が、彼女をその名で呼んだのだ。
――アリサ。
アリサ、ということは、アリシアの愛称なのか。ハルに似た女性、それがアリシア・ウェリントン。
「ハミルトン医師の後援者だった女性だそうだ。ハミルトンは、彼女から金を借りて、いや、実際は寄付して貰って、実験を続けた。おそらく、どこか人目に付かないところで」
賢者は瞑目した。
「殿下は、そのことに気づいていたらしい」
話を振られたエドワードは、面白くなさそうに口髭をいじる。
アリシアとエドワードは、友人であった。
一般に言う友人ではない。ともに人に秘めたる趣味を持つ、同好の志であった。
エドワードは、男色。アリシアは、錬金術。
公にできない趣味を、混沌の街・東区で堪能していた。
『いま、不老不死の霊薬を作っておりますのよ』
アリシアは最後に会ったとき、そう言っていた。彼女は自らを実験台にし、蘇生の薬の研究に励んでいたという。だが、それから暫くして彼女は死んだ。
公表はされていないが、伸びやかな肢体には、いくつもの傷痕があったという。それも、手術用のメスで切り刻んだような、深い裂傷である。それを聞いたとき、エドワードはついに来るべきものが来た、と思ったのだ。
「背徳におぼれたものが、その代償を払う日が来た」
と。
良き理解者を失ったハミルトンは、暴走したのだろう。そのあと、声をかければ簡単についてくる、生ける死体・売春婦を使って実験を続けた。それまでもハミルトンたちは売春婦を実験台としていたのだろう。彼女らであれば、殺されても行方不明になっても、誰も関心を払わない。
二年前に見つかった売春婦の死体は、おそらくハミルトンが始末し損ねたに違いない。
しかし。
「師匠の死体と売春婦の死体。あれは、どうなったんだ?」
ウェルが師に殺されかけた晩。師に実験台として連れ込まれた女性。彼女は一体、どうなったのだろう。暗がりで顔はよく見えなかったが、彼女は確かに死んでいたはずなのだ。
「そこんところが、オレにもわからねえ」
賢者は頭を掻いた。エドワードも肩をすくめる。
「サンドバル神父ならば、ご存じかと思ったのだがな。口が堅くて、二年もの間、翻弄され続けている」
「神父? なんで、神父さんが? あのひとが、何か関わっているのか?」
ウェルの問いに、二人の『聖者』は顔を見合わせた。
んー、まあねー、と言いにくそうに賢者が口を開く。
「サンドバルさんの名誉のためにも、黙っておきたかったんだけど」
仕方なく、本当に仕方なく、といった調子で。賢者は神父の罪を告白した。
「やっこさん、死体を売ってたんだよ。共同墓地にある、新しいヤツを」
それは、初耳だった。
解体屋が死体を盗むことは知っていた。聖職者が、金のために見て見ぬ振りをすることも知っていた。しかし、聖職者自らが遺体を売買するなど。
信じられなかった。
世の中は、ここまで腐敗しているのか。
人の心は、そこまで荒んでしまったのか。
アランダは、大アル・ビオンはもうおしまいだと、直感的に思った。
次期皇帝には悪いが、この国には未来はない。
ウェルは頭を抱え込んだ。歪んでいるのは、東区だけなのか。西区にいる人々も、同じなのか。エドワードや、アリシアのような、背徳の喜びに身を落としていくものもいるのだ。西区とて、まともであるはずがない。
「サンドバルさんは、知っているのさ。今回の殺人事件。あの事件の犯人を。知っていて、庇っている。なぜ庇うのかはしらんけど」
白けた賢者の声が、芝居の台詞のように聞こえた。彼は落ちていた地酒の瓶を拾い上げ、中身をあおった。エドワードはそれを静かに見つめる。
「おのれの罪を握られ、それを公表しないことを引き替えに、口をつぐんでいるのかもしれん」
「どっちでも同じだ。知っていて黙っているのは、犯人と同じだろうが」
ウェルの言葉に、二人は笑った。それもそうだな、と。
「だけどよ。やっこさん、ハミルトン師匠の弟子には、全てを話すといってたぞ。彼が現れるまでは、誰にもいえないって。だから、オレらがおまえを迎えに来たんだけどな」
「どういうことだ?」
「そういうことだよ」
賢者は親指を立てて、扉を示した。
だから、教会に行く。
彼の目はそう言っていた。
*
ハルは、彼を見つめていた。
角灯と、床に落ちた蝋燭の火だけに照らされた部屋。そこに、二人の人物がたたずんでいる。ハルと、もう一人。神父を刺した男。そしておそらく、今回の事件の犯人。
「それは違いますよ。犯人は、ハミルトンです」
彼は、いけしゃあしゃあと言ってのける。ハミルトンが犯人とは、笑止千万である。彼は、死んだはずではないか。しかも二年も前に。
「そうですよ。たしかにね」
からかっているのだろうか。ハルは相手を睨み付けた。
チリチリと、蝋の燃え落ちる音がする。神父の横に落ちた蝋燭が、最後の光を放って、消えた。また少し、中が暗くなったような気がする。その分嗅覚が増したようだ。
血の匂いが、ひどく鼻につく。
神父の手当てを早くしないと。ハルは意識の片隅で、ぼんやりそんなことを考えていた。
だが、目の前のこの男から目を離せない。多分、仲間はいないだろうが。
「思い出してください。今回の事件。誰も、犯人を見た人はいないでしょう」
彼の言葉に、ハルは頷いた。
犯行が行われるのは、明け方。辻馬車の御者や、警邏中の警官、早起き鳥と呼ばれる掃除人。それらの誰もが、犯人を見ていない。
最初の犠牲者も、次も、その次も。
第四の犠牲者、サラ・グレイに至っては、彼女らが第一発見者だった。サラは事切れてまもなかったが、犯人らしきものは、見あたらなかった。
「そうなんですよ、ご婦人。不思議に思いませんでしたか。姿無き犯人なんて、たちの悪い芝居でしょう。二年前の事件も、全く同じだったんです。全ては、あのバカ医者と、女伯爵のせい。『夜の囁き』。彼らが作った、ばかげた薬のせいだった」
彼――アキノは血刀を持った手を軽く揺すった。
「止めなかった神父さんにも、罪はあります。弱みを握られていたから、ってねえ。許せないでしょう」
アキノは足元の神父を蹴り上げた。まだ、意識があるらしく、神父の微かなうめき声が聞こえる。
「死んでしまった二人は、仕方ないですけどね。ハミルトンさんの弟子。あの、若いお医者さん。彼もだめですよねえ。いつか、バカな師匠と同じ、バカな薬を作り出すだろうと思っていましたよ。だから、お仕置きしてあげようと思ってね」
「おしおき?」
「彼にも、あの薬を使わせてあげようと思ったんです。いいでしょう。身をもって、愚かさを知るのだから」
では、ウェルがけだもの長屋で襲われた、といっていたのは、彼だったのか。それに、事件が起こるようになってから、つけられていると言っていたのも。
アキノの仕業だった。アキノが、ウェルを追い続けていたのだ。
「じゃあ、ウェルは無関係なの」
ハルは、ほっとした自分に驚いた。ウェルが犯人ではなかった。そのことが、とても嬉しい。知らず顔をほころばせる彼女に、アキノは、ほのぼのとした笑みを向けた。
「お医者さん、あの薬使ったんですよね。天罰が下りますよ」
「なんだって?」
「そう、そのうちに、ね」
くく、とアキノの喉が鳴る。ハルは悪寒に身を震わせた。ウェルの身に何が起こっているのだろうか。心臓が、冷えた鼓動を刻んでいく。
*
「う……?」
ずきり、と。腕が痛んだ。ウェルは、腕を抱え込む。傷の様子がおかしい。
「どうした?」
エドワードが、肩に手をかける。ウェルは息を殺しながら、彼に視線をやった。
腕が痛い。目で訴える。痛みはじわじわと広がり、二の腕から肩、胸へとその勢力を伸ばしてくる。
「おいおい。まさか例の薬のせいじゃないだろうなあ」
心底嫌そうに、賢者が呟く。
もはや教会は目の前である。夜半の闇の中に浮かび上がる、白い尖塔。それが墓標のように映るのは、気のせいだろうか。ウェルは、左腕を押さえながら、その尖塔を見上げた。
そのとき、唐突に先程のことを思い出したのだ。
最後のカード。全てをつなぐ、その『原因』を。
「そうだったんだ」
師の霊薬。『夜の囁き』と名付けられたそれは、止血剤ですらない。不老不死の薬などでは勿論無い。蘇生の効用もあるはずが無く、ただ、
一時的に、傷を塞ぐのみ。
*
「個人差は、あると思いますよ。あと、その時の薬の出来具合もね」
二年前、ハミルトンの実験に使われた娼婦たちは、一部を除き生存していた。
霊薬が効用を見せたのである。薬は傷を塞ぎ、止血をし、表面的には何事もなかったようにできたのだ。実験材となった娼婦は、解剖されたことを何かの悪夢であったと錯覚し、日常に戻った。
それから、二年後。
薬が切れたのだ。
薬が切れて、ハミルトンに切られた部分が再び口を開けた。
自然の摂理に従うように。
「それが、今回の事件の真相か」
背後から響いた声に、しかしアキノは驚かなかった。ゆっくりと振り返り、そこに立つ人物を見やる。ウェルと、ランディール。二人の男が出入り口を塞ぐようにしている。ウェルは彼の予想通り、辛そうに腕を抱えていた。もう、薬の効果が切れかけているのだろう。アキノは満足げにほくそ笑んだ。
「辛そうですね、お医者さん」
「誰のせいだ、だれの! まさか、あんたがあのときの犯人だなんてな」
ウェルは声を絞り出す。
「知っていたんだな。あの薬のことを。二年前、師匠を調べていたときから、ずっと」
「知っていましたよ。聴取で、ハミルトンさんが得意げに話していましたから。でも、薬の欠点に先に気づいたのは僕ですけどね」
得意げな表情。この男も、おかしい。
ハルはアキノが彼らに気を取られているうちに、神父を抱き起こした。危険な状態だが、息もある。彼女は下着を裂いて、止血をした。このまま神父を連れて脱出したいのだが、そのためにはアキノの脇を通らねばならない。その動きに気づいたアキノは、相好を崩した。
「いいでしょう、ご婦人。お通りなさい。神父さんを、お医者に連れていきなさい」
「え?」
「無駄でしょうけどね」
くす、と喉を鳴らして彼は道をあけた。ハルは半信半疑で、その脇をすり抜ける。奇妙な男だ。脇を通るさい、彼女はそう言う視線を彼に残した。
「魔術師さん、このひとを、お医者に」
ハルはランディールに神父を預けた。ランディールは肩をすくめ、神父の小柄な体を背負う。
「さあて、逃げ場はないよ、アキノさん。このままおとなしく、我々と市警に行くかい」
痛みをこらえながら、ウェルは巡査を促した。出血が始まっているらしく、視界がくらくらする。立っているのも限界だろう。傍らでハルが肩を貸してくれているが、そろそろ、きつい。
「さ、どうしましょうか」
アキノは平然と彼らに背を向けた。書棚に歩み寄っていく。黒革の背表紙に指を這わせ、一つ一つ
「これ、お酒ですよね」
次に、壁の角灯を外す。室内の影が大きく揺れた。彼は鼻歌を歌いながら、小瓶を掲げる。
ランディールが、やめろ、と声を上げた。
アキノは、「やめない」と一言だけ、答えて。
瓶の中の液体を、床にぶちまけた。酒の匂いが地下室に充満する。透明な液体が床を舐めるように這った。その上をめがけて、今度は角灯を叩きつける。
「うわっ!」
火は、一瞬にして燃え上がった。アキノの体が炎に包まれる。彼は、にこやかに手を差し伸べてきた。こちらに。ウェルに向かって。
「さあ」
ともに来い、とでも言うように。
「逃げろ!」
ウェルは、ハルのからだを突き飛ばした。彼女はよろめきながら階段を上がっていく。神父を抱えたランディールも、そのあとに続いた。
「ウェル、早く!」
「くそ!」
ウェルも地下室をあとにする。いや、あとにしようとした。
その脚を、アキノが掴む。火だるまになった巡査は、天使のごとき笑みを浮かべて、彼を道連れにしようというのだ。
「はなせ!」
ウェルは彼を蹴り飛ばした。アキノはそれでも離れない。ますます強くしがみついてくる。ウェルのズボンにも、火が燃え移った。このままでは本当に、巡査と心中してしまう。
冗談ではない。
ウェルは短剣を抜いた。痛む左手に右手を添えて。
強く目を閉じ、アキノの手首めがけてそれを振り下ろす。
ぎゃ、と短い悲鳴がして、アキノは手を離した。そのまま力つきたのか、倒れ込んで動かない。ウェルはふらつく脚を叱咤しながら、階段を上った。
その時である。左腕と、左肩に、激しい痛みを覚えたのは。
「!」
肩口から、剣が生えていた。ウェルは前にのめる。痛みが、思考を、動作を奪う。
「く、そ」
アキノの、無邪気な笑みが頭から離れない。彼はウェルを捕らえて離さないのか。
意識を失う瞬間に見たのは、手を差し伸べてくるハルの姿だった。
*
ぼんやりと意識が戻ってくる。瞼越しに淡い光が感じられた。あまり眩しく感じない。と、いうことは、帳越しの光なのだろう。では、今は昼間なのか。
「う……っ」
目を開くと、そこには女性がいた。
「――!」
思わず半身を起こすと、全身の傷という傷が一斉に悲鳴を上げる。息を殺しながら肩に触れれば、指先に布の感触があった。包帯が巻いてある。左肩から脇腹へ。お世辞にもうまいとはいえない巻き方だ。素人の施術だとはっきりわかる。
「まだ動いちゃだめだと思うよ」
はすっぱな口調。ハルだ。彼女は両手を腰に当てて、こちらをのぞき込んでいる。
ウェルはたるんだ包帯の端を口で押さえ、巻きなおした。
「嫌みったらしく、なおすまえにさ。礼くらい言ってほしいもんだよね」
「医者にも連れていかずに、素人療法しておいてそう言うか」
「医者を医者に連れて行くわけにはいかないだろ。ヤブでもあんた、一応医者なんだから」
相変わらず口の悪い女である。ウェルは舌を出し、彼女を睨んだ。と、その体のむこうに見える卓子に、見覚えのある箱が転がっていた。ここ数日、話題に上ってばかりの件の止血剤。『夜の囁き』である。ハルはこれを使ったのか。
「ああ、あんまりひどい怪我だったんでねえ。これ全部使っちゃった」
全く悪びれていない様子には、怒る気も失せる。
これがどんなものか、知っているくせに。小さく溜息をついただけで何も言い返さないウェルの脇に近づき、ハルはそっと目を伏せた。
「ごめんよ。ほんとは、お医者さんに見てもらったんだ。あの、エディさんの主治医に」
ぷるぷると肩が震えている。悪い冗談だ。
「こっちに戻ってきてから、包帯の取り替えとか、その他いろいろ。あたしがやったんだよ。感謝して貰いたいね」
「はいはい」
彼女曰く、あれからエドワードが人をやって市警を呼んできてくれたらしい。さすがにエドワードが衆人のまえに姿をさらすわけにもいかず、本人は早々に引き上げた。神父、ウェル、といった怪我人には、自分の主治医を手配することも忘れていない。
幸いなことに、神父も命を取り留めた。が、ウェルよりも重傷なので、職務に復帰するにはまだひとつきほどかかるという。
「かわりにおれが説教くれようか」
ランディールが、笑えない冗談を言っていたようだ。
一方ウェルの怪我は、左腕の傷が開いたものと、アキノに刺されたものだった。アキノの剣は、彼の肩口を貫通していた。失神する前に見た、「肩から生えている剣」は、それだったのだろう。
「で、事件の方は?」
質問に、ハルは苦い顔をする。
「それがねえ」
教会炎上、神父、及び外科医殺人未遂の事件は、それだけで固有の事件として扱われたのだ。エドワードが故意にもみ消したのだろうが、酔ったアキノが教会に乱入し、懺悔中の外科医と神父を刺したあと、自殺を図ったと記録されている。ハルとランディールは、たまたま通りがかった善意の協力者だそうだ。
市警としても、収められる事件は、収めておきたいのだろう。
肝心の『娼婦連続殺人事件』は、このままでは迷宮入りのようである。本当のところを話したとて、誰が信じてくれるだろうか。
ハミルトンの実験材料にされた娼婦が、あとどれくらいいるのか見当もつかない。サラで最後なのか。それとも、まだ数多くいるのだろうか。
独自に探すとしても、それだけで骨が折れそうである。それよりも、見つけたからといって、何ができるわけでもない。ただ、いらぬことを教えて、恐怖を与えてしまうだけだ。
「それも仕方ないか」
言って、ウェルは横たわった。縫合治療のおかげで傷が塞がりかけているとはいえ、未だ起きているのは辛い。堅い枕に頬を埋める彼の背に、ハルは毛布を掛けた。
「あたしもバカだよね。最初から、あんたに相談すれば良かったんだ」
ハルは、ウェルを疑っていた。これがなければ、神父も傷を負わずに済んだのかも知れない。うなだれるハルに、ウェルは軽い皮肉をとばした。
「俺は、あんたが犯人かと思ってた」
「なにいってるんだよ」
ハルの瞳が揺れた。
「賢者たちに聞いたんだろう? アリシア・ウェリントンは、あたしの伯母。あんたの師匠の後援者で、今あんたが背負っている借金の受取人。彼女は錬金術師・ハミルトンの後援者だったんだよ」
初対面の時にハルが言っていた、『借金回収の依頼人』とは、ハルの兄だという。
「兄は、せこいはなしだけど、伯母の借金を少しでも減らそうとしてさ。ハミルトンさんに寄付分を払って貰おうと思っていたんだ」
「でも、師匠は二年前に死んでいた」
「そう。だから、あたしはあんたに近づいたのね。弟子なら払ってくれるかと思って。ついでに、ハミルトンさんがあたしを見て、アリサが生き返っただのなんだのって言ってた意味も知りたかったし」
「あいにくだったな。俺はなんにもしらなかったんだ」
「そうだったね」
疲れたような口調だった。ハルは寝台に腰を下ろし、ウェルの髪を指で梳いた。
殺人鬼は、死んでいた。猟奇趣味な新聞屋がこのネタを掴んだら、喜んで書きたてるだろう。このネタは、売れる。猟奇に飢えたアランダ市民は、こぞって飛びつく。
「けど、新聞て怖いよね。ありもしない殺人鬼を作り上げるんだから」
「見てきたように、な」
二人は顔を見合わせて笑った。
絵入り新聞の描いた、殺人鬼像。黒衣の男。
一部では、「年齢三十代後半、グィール出身。元外科医。現在は東区移民街にて、賭博により生計を立てている。性的不能のため、娼婦をことさら憎んでいる」そんな人物像が勝手に作られたりもしていた。
なんと勝手な思いこみなのだろう。
本当の、と言っては語弊があるが。実際に娼婦に手をかけたハミルトンは、不能ではなかった。グィールの血を引いてはいても、生まれも育ちもアル・ビオンで、男色家ですらない。娼婦も金があれば買っていた。酒も飲むし、博打もする。ごく普通の男だった。ただ、錬金術に、不老不死に、執着する以外は。
(そう。それ以外は、いい人だった)
ウェルは目を閉じた。もう少し、眠りたい。
「側にいてやるから。ゆっくり休みな」
ハルがまた、髪を梳いた。ウェルは深い眠りに落ちていく。
*
賭博師通り――賭ボクシングが盛んに行われるその通りをウェルが訪れたのは、十一月も終わりの、ある寒い日の午後だった。事件でだめになってしまった一張羅のかわりに、ハルが仕立ててくれた新しい上着を羽織っている。ハルが仕立てた、という言葉をとりあえず信じてはいるが、その実これは、エドワードが専門の業者に作らせたものに違いない。ハルが縫ったにしては縫製がしっかりしすぎているし、何より布が上等すぎた。ハルが金持ちとはいえ、ここまでの高級素材を、知り合って間もない相手に渡すというのも妙な話だろう。
それはそれで、彼らの厚意と受け止めて、ウェルはありがたく貰うことにした。
アランダの冬は冷える。底冷え、という言葉が似つかわしい。この温かい上着とズボンは、何よりもありがたかった。霧に湿気ると重くなるきらいはあるが、温もりには変えられない。
ウェルは上着のポケットに手を突っ込み、ぶらぶらとそこへ向かっていった。
賭博師通りの共同住宅――マーガレットの部屋に。
あれから、彼女とは会っていない。当然といえば、当然である。
彼は、翌日から西区の帝立病院の個室に、神父とともに入院させられていたのだ。意識が戻るころになって東区の自宅に戻され、ハルの『手厚い』介護を受けた。
そのあとは、殆ど寝たきりで。ここ数日、やっと起き出すことができたのである。
動くとまだ傷が痛い。ウェルは重い足取りで幼なじみを訪ねた。
この時刻なら、まだ家にいるだろう。そう思ってきたのだが。
「?」
今日は賭ボクシングの日だろうか。嫌に人だかりがしている。彼は人混みをかき分けて、マーガレットの共同住宅へと歩みよった。
「こら。来たらいかん」
以前見かけたことのある巡査部長に、行く手を阻まれた。アキノの上司である。彼はウェルを押しのけ、他の野次馬どもにも声を上げた。
「近づかないように。 現場を荒らしちゃいかん」
現場、ということはまた何かあったのだろうか。
娼婦殺しだって、と脇の赤毛がウェルに囁いた。どこかで見たことのある女だと思ったが、ウェルはさして気にもとめなかった。彼女がベスという名で、マーガレットの友人であったことなど彼は知る由もない。また、知らずとも一向に構わなかった。
「この間、見舞いに来てくれたのにねえ」
赤毛の呟きがかき消される。
野次馬がざわついている。また、殺しがおこった。恐怖に近い期待感が、人々の上に渦まいている。
薬を使っていたものが、まだいたのか。それも、マーガレットの近所に。ウェルはやるせない気持ちを抑え、幼なじみの姿を探した。当然そこにいるはずの彼女の姿はない。エルナン――彼女の情夫もだ。
どうしたのだろう。留守なのだろうか。
なにやら嫌な予感がする。
思う間に、巡査たちに運ばれて、被害者が姿を現した。
「メグ」
担架に乗せられた女性。完全に事切れて、ただの物体となり果てた女性。それは、マーガレットの顔をしていた。
白蝋の肌に、血の気は全くない。青い瞳は、堅く閉ざされた瞼の向こうに在る。
マーガレット。
ウェルは心の内でその名を呼んだ。
『ハミルトン先生に、解剖される夢を見るの』
いつぞやの言葉が、胸をよぎる。彼女も、師の犠牲者だったのだ。
「俺は違う!」
ざわ、と野次馬がざわめいた。巡査に取り押さえられたエルナンが、引きずられるように連行されている。
「気がついたら、気がついたら、マギーがこんなに――」
その言葉は、虚しいだけだった。ここにいる誰もが、信じないだろう。皆、彼が情婦を殺したと、そう思いこんでいる。事実、そうなのかもしれない。マーガレットに関しては、師は無関係で、エルナンが犯人かも知れない。
担架に乗せられたマーガレットの頭部が、ぐらりと傾いだ。
観衆から悲鳴が上がる。彼女の首は、皮一枚で繋がっている。殆どとれそうだった。
「解剖」
ウェルはその言葉を思い出す。
マーガレットとエルナンの二人は、市警に伴われて教会通りへと消えていった。悪名高き、教会通りへ。
名の由来となった教会は今、半焼状態で、『奇特な紳士』の寄付で再建工事がなされている。神父も未だ戻らず。焼け残った白い尖塔だけが、全てを知っているのだと、そんな表情で佇んでいた。
ウェルは家々の屋根越しに、その優美な姿を見上げる。
午後の気怠い光が、蜜のようにあたりを包んでいた。
この事件を最後に、謎の殺人鬼の噂は消えた。暫くは、娼婦が殺されることもなく、人々は殺人事件を過去の記憶として心に留め置くだけとなった。
事件が再び脚光を浴びたとき、その真犯人は伝説の殺人鬼として、犯罪心理学者たちを熱い討議の中に誘うのである。
そして。
ハミルトン医師の遺体は、その後も発見されることはなかった。
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