第4話 愚者の肖像
ウェルらが駆けつけたときには、そこはもう火の海だった。
グィール人のみの共同住宅は、窓を破られ、扉を外され、ひどい有様だった。ここを襲ったとおぼしき暴徒たちはもう影も形もない。荒らすだけ荒らして火を放ち、逃げ去ったのだろう。路上には暴行を受けたグィール人が数人、血にまみれて転がっている。付近の住民たちは遠巻きに見物こそすれ、誰も手当てをしようとはしない。
「あんたら! 医者くらい呼んでくれたっていいだろ?」
ハルが、野次馬の一人に詰め寄った。が、そっぽを向くだけで反応はない。
ウェルは業火に包まれた<樫の木>に飛び込んだ。
「賢者! 賢者、いるのか? いたら返事しろ! ランディ!」
幸か不幸か、中に人影はなかった。ウェルは外にとって返し、倒れているグィール人を抱き起こす。この中にもいないということは、彼は無事なのだろう。そう自分を信じ込ませ、手早く怪我人の応急処置を始めた。
「誰か、火を消すのを手伝ってください!」
アキノが声をからして叫んでいる。ハルが近くの給水所から水を運んでくるが、それだけではとても間に合わない。火はさらに勢いを増していく。
「ぼーっと見てんじゃないよ! このままだと、あんたらのうちまで燃え広がるからね!」
ハルのこの一言は効いたらしい。人々は我に返ったようにあたふたと動き始めた。人間、自分の身に降りかかる不利益だけは、本能的に避けるものである。消火活動には積極的に参加し始めたが、怪我人を手当てしようとするものは皆無だった。
「すまないね」
ウェルの腕の中で、グィールの老人が礼を言った。肋骨が折れているらしく、胸部がぼっこりと膨れている。これでは喋るのも辛いだろうに。
「すぐ、ちゃんとした医者を呼んでやるよ」
俺みたいな、堕胎医じゃなく。
その台詞は飲み込んで、彼は老人を路面に横たわらせた。重傷なのは老人だけで、他は軽いようだ。中には自力で動けるものもいる。ウェルは窓枠に手をかけて呻いている少年に声をかけた。
「自分で、立てるか?」
少年はかぶりを振った。ウェルは肩を貸し、なるべく<樫の木>から離れた場所に移してやる。この青年は腕と脚から血を流していた。脚の方はかなり腫れているようだが、歩様に問題がないところを見ると骨折はしていないようである。軽く患部を押しても、そう大きな反応は返ってこなかった。
「本当は、添え木を当てといた方が、楽なんだろうけどな」
患部をさすりながら、辺りを見回す。あいにく、手頃な板きれも見つからない。普段ならば、呆れるほど転がっているというのに。
今日は四つ辻掃除人も、かなり気合いを入れて職務に励んだようだ。
「ありがとう」
少年は、力無い笑みを浮かべた。
「新聞が、へんなこと書いたせいで、こんな」
切れ切れに怒りを漏らす。
「グィール人、てだけで、こんなこと。ひでえよ」
青い瞳に涙が光った。ウェルは唇を強く噛んだ。グィール人、というだけで。その言葉が重く心に沈んだ。
あの落書きのせいだ。
――グィール人に文句があるか。
あれを書いた人物は、一体何を考えていたのだろう。グィール人に罪を着せるつもりだったのか。それとも本当に、グィール人がやったのか。あるいは事件とは全く関係のないものだったのか。今となっては、確かめるすべはない。
「あんたたちみたいに、親切な人もいるのにな」
少年はハルやアキノに目を向ける。
「アル・ビオンやカスティリャのひとでも、ちゃんと」
カスティリャ。
ウェルの胸がちくりと痛む。少年は黒髪黒瞳のウェルを、カスティリャ人だと思っているのか。そう思われても仕方がない。こんな姿のグィール人は、ごく稀にしかいないのだから。
「同じだよ、俺も」
「え?」
「俺も、グィール人さ」
少年は彼を凝視した。彼を、彼の黒い髪を。黒い瞳を。そして。
「取りかえっ子に助けて貰う義理はねえ!」
乱暴にウェルの手を振り払った。
*
「借金取りさん、意外とキツイですねえ」
「その借金取りってのやめてくれない? 人聞き悪いだろ」
「じゃ、えーと、お嬢さん」
「お嬢さんって歳かい」
「ご婦人」
「まあまあだね」
ハルとアキノのやりとりをぼんやりと聞きながら、ウェルはジンを啜った。
居酒屋<馬の首>。あれから三人は、この店にやってきた。とりあえず何か食べましょう、というアキノの提案によるものだが、消火活動やらその前の立ち回りやらで空腹を覚えたらしいハルは、一も二もなく賛成した。
どこで食べるか、ということでこの店の名が上がったのだが。ウェルの脳裏を例の賭博師が掠めた。グィール人、というだけでウェルを犯人扱いする男。疑うだけでは飽きたらず、仲間を集めて襲いかかってきた。そんな男と顔を合わせて、笑って挨拶ができるほど、お人好しではない。
だが、反対したところでどうなるわけでもない。結局押し切られる形で連れてこられた。幸いなことに店に賭博師とその仲間らしき一団の姿はなかった。あのあと巡査に連行されたのだろうか。それならそれで構わないが。
「ウェルもお人好しだよね。あんなこと言われて、黙っているなんてさ。ああいうガキには、ガツンと言っとかないと」
「だからって、怪我人にけたぐりいれるのはひどすぎると思いますよ、借金、いえ、ご婦人」
魚介類のスープ、その実体は牡蠣の煮込みを食べながら、ハルは机を叩いた。
「あれくらい、どうってことないさ。だけどまあ、ウェルが新大陸に行きたいって気も何となくわかる気がしてきたね」
偏見と私怨と差別と。いつからこの街にそんなものが溢れるようになったのだろう。答えは単純。移民が流入するようになってから。
「俺は慣れてるから。ガキに何言われようが気にしちゃねえよ」
「慣れてる? はん、あの顔はそんなんじゃなかったね」
「……」
「傷ついた、ってかんじだったよ。あたしゃ、あんたのあんな顔はじめてみたよ」
知り合って、半月も経たない癖に。悪態をつこうとしてやめた。悔しいが彼女の言う通りだ。あのとき確かに彼は傷ついた。同郷の人間に、面と向かってはっきり言われたのは初めてだったのだ。それも、老人たちならいざ知らず、取り替え子の意味もよくわからないであろう少年に。傍目にもはっきりわかるほど顔色が変わったに違いない。離れていたハルが、やにわに近づいてきて、暴言を吐いた少年を足蹴にしたくらいなのだから。
『あんたね、言っていいことと悪いことってのがあるんだよ』
ハルの剣幕に、少年は心底怯えたようだった。他のグィール人も、呆気にとられてハルを見ていた。アル・ビオン人が、グィール人を庇う。そのこと自体も信じられないといった様子であった。
「だけど、こうなったからには是が非でも殺人鬼を捕まえないといけませんねえ」
他人事のように言うアキノを、ハルが横目で睨み付ける。
「それが、あんたらの仕事なんだからね。キリキリ働いて貰わないと困るんだよ。いまのところ、他に証拠はないのかい?」
「我々の握っているものなんて、たかが知れていますよ。みんな新聞に書かれたし。あの落書きと、犯人からの手紙と、『贈り物』と、それくらい」
「おくりもの?」
ウェルはハルと顔を見合わせた。犯人の手紙のことも初耳だ。
「あれ、ご存じ無かったんですか。犯人からね、手紙が来たんですよ。犯人しか知らないような、細かい内容を記した手紙がね。どうせいたずらだろう、と思っていたら、別便で小包が送られてきました。中身、何だと思います?」
この期に及んで謎かけするとは。この巡査、見かけほど善人ではないのかも知れない。
ウェルは、サラ・グレイの肝臓が切り取られていたのを思い出し、
「臓器とか?」
奇をてらったつもりではなく、答えた。アキノはニヤリと笑う。
「おや、鋭い。その通りです」
それがどうやらサラ・グレイのものらしい、というので、犯人からの手紙は信憑性を帯びた。
「だけど、まあ、なんですねえ。イヤな世の中といいますか。昔はこんな、内臓切り取って送りつけるようなことは、しませんでしたよ。人の心もすさみましたね。いたずらに騒ぎ立てる新聞屋も問題がありますが」
「なんか、前にも同じ様な事件があったような口振りだけど」
ウェルがつっこむと、アキノは鼻の頭を掻いた。お恥ずかしい話ですが、と前置きして
「二年、三年くらい前でしたか。そのときは、二人くらいだったんですがね。同じ様な殺されかたをしたんです。外科医に解剖されたような、ああ、失礼、そう、でも、解剖されたとしか思えないような死体だったんですよ。二人とも、娼婦で身寄りがなかったのがせめてもの救いですが、あんな姿を身内が見たら、なんと思うでしょうねえ。ひどいものです。そのときも、我々は犯人を捕まえられなかった。先程お医者さんが仰ったとおりです。東区でおこる殺人なんて日常茶飯事で、市警は関心を寄せることもしなかった」
「その時の犯人が、また殺人を始めた、とか」
ハルが考え深げに言う。ウェルは無言で目を閉じた。
二年前の殺人。売春婦の殺された事件。その件について言えば、自分は犯人を知っている。ウェルは瞑目したまま、その犯人の名を胸の内で呟いた。
(ハミルトン)
と。
だが、今回の事件に関して言えば、ハミルトンではない。彼は死んだ。二年前に。
「どうでしょうか」
アキノは否定しない。
どくん、と心臓が跳ねた。ウェルはつばを飲み込み、巡査に顔を向ける。
そんなことはありえない。あの犯人は死んだのだ。
死んだ。そう、死んだ。
生きているはずがない。
「解剖の癖が似ていますしね。お医者さんならわかりますよね。外科医には一人一人癖があるってこと」
ウェルは答えなかった。答えたくなかった。アキノは気にせず先を続ける。
「外科医だけでなく、理容師とか、肉屋とか、革職人とか。そう言った類の、いわゆる玄人の作業だったんですね。でも、わたしはその時一人の外科医に目を付けて、事項を聞きに行ったんです。でも」
「でも?」
ハルが促す。
「彼は死んでいた。彼の弟子、という少年も大けがをしていて。彼の家にはまあ、なんというか、血塗れの診療台とか色々あったんですけど」
「へえ」
「そこで何があったのか、今となってはわからないでしょう。その少年も、ケガのせいか記憶が曖昧で話にならなかったので、結局事件はうやむやになってしまったんですけどね。こういうのが特殊だって訳じゃなくて。他にも凄い事件はありましたからね」
修道女を二十年以上監禁し白骨化させた事件、客を人肉屋に売りつけていた理容師の話、臓器を売るために行商人の少年を殺害・解体した事件。
アキノは指を折って数え上げる。
「こんなはなしをすると、思い出してしまいますねえ。私ももう忘れていたんですけれど」
アキノは遠い目をしていた。二年の歳月を越えているのだろうか。
「そう、あの医者は、ハミルトン、とか言いましたね」
邪気のない声でアキノは言った。
ウェルは反射的に椅子を蹴る。二人は驚いて彼を見上げた。
「帰る」
上着を手に取り、彼は店を出た。
*
アンセルム・ハミルトン。
ウェルの師。グィールの血を引く外科医。いや、外科医とは名ばかりで、実際は『解体屋』が本業だった。解体屋とは、死体を解体して研究用の臓器を外科医に売りつける仕事である。東区の外科医は貧しく、研究のための死体などを容易に入手することはできなかった。アランダ塔から出される罪人の死体は、たいてい大学の研究室に運ばれてしまう。
そこで、多くの解体屋は地下墓地から死体を盗み出していた。
しかし。ハミルトンは違った。
前からそうだったのか、それとも途中からそうするようになったのか。
ウェルがその事実を知ったのは、二年前のあの日。聖夜祭が近づいた、雪の降る晩だった。
いつもは深夜になる前に帰宅するはずの師が、なぜか夜半をすぎ、明け方近くなっても帰ってこなかった。普段ならそんなことを気にとめることもないのに、なぜかその日は師のことが気になって寝付けなかった。
外は、雪。汚泥にまみれた街も、清らかな眠りに包まれている。全ての音が、薄ぼんやりとした空間に吸い込まれて、イヤになるほど静かだった。
こんなときは、救護院を抜け出してきた夜を思い出す。
そのあと、エドワードの腕の中で一夜を過ごしたことも。
ウェルは薄い毛布を頭からかぶり、過去の悪夢を振り払うようにぎゅっと目を閉じた。
そこに。
『ウェル?』
微かに自分を呼ぶ声がしたような気がして、彼は目を開いた。毛布越しに、冷えた夜気が肌に突き刺さる。扉が開いているのか。思ったものの、寒さに負けて顔を出せない。
『寝てるのか、やっぱり』
師の声だった。台詞の後半部は、扉の閉まる音に重なる。ややあって、人の話し声が聞こえた。声の感じから言って、どうも女性のようである。きゃはは、と甲高い笑い声もした。師が売春婦を連れ込んだのか。珍しいこともあるものだ。そういえば、以前にも二度ほど、そんなこともあったような気がする。そんな翌日は、決まって女連れでどこかに消えてしまう。そうして戻ってくるのは、一週間ほどしてからだった。
(かわったひとだよな。いい人だけど)
階段の軋む音がする。屋根裏に行くつもりなのだろう。階下の古着屋の主人は、かなりの高齢で耳が遠いから、別に隣の診療室でも構わないと思うのだが。
しかし、屋根裏?
たしかそこは、死体の腑分けをする場所ではなかったのか。
そんなところで睦言など。師はいいとしても、女性の方はいやだろう。
(師匠も気がきかねえからな)
案の定、上から小さな悲鳴が聞こえた。続いて、重い布袋が倒れるような音。娼婦が失神したのだろう。やれやれ、とウェルは身を起こした。のぞきは野暮だが、病人が出たのを知って無視するわけにもいくまい。彼はシャツを着込み、上着を羽織ると、屋根裏に続く階段を上った。数段目にまでさしかかると、角灯の淡い光が天井に映っているのが見えた。ウェルは手すりに片手をかけたまま、そこにいるであろう師に声をかけた。
『師匠、へんなとこにおんなのひと連れ込んじゃ、だめですよ、……って』
からかい口調で言いながら、屋根裏部屋をのぞき込む。そこで彼が見たものは。
血、だった。
血にまみれた師の手、身体。腹部を裂かれた、中年の売春婦。もう死んでいるのか、ボロを纏った華奢な肢体は、力無く台の上に横たわっている。
『ウェルか』
師は、平然とこちらを見ていた。いつも通りの、ぽよんとした善人面で。
『師匠?』
ウェルは目を疑った。師は、何をしているのだ。生きた人間の腹を切り裂いて、何をしようというのだ。全身に鳥肌が立った。目の前に経つ男が、得体の知れない生物に見えてくる。ウェルは、唾を飲み込んだ。
『ちょうどよかった。いま、面白いことをしようとしていたんだ』
師は、遊び相手を見つけた子供のように、嬉しそうに笑った。血だらけの手をこちらに向けて、
『見て、確かめてごらん。このひとは、死んでるよな?』
ぐにゃりとした体を持ち上げる。
『でもな、生き返るんだよな、これが。俺がつくった薬で』
『薬?』
『そう。むかし、おまえにもやったろう? 傷を跡形もなく治す薬。あれのもっと凄いヤツができたんだ。死体を生き返らせる薬だ。どうだ? 早く見たいだろう?』
師は、茶色の小瓶のふたを開けると、中の液体を死体の傷口に振りかけた。
『ほら、こうしておけば、朝には何事もなかったように目が覚める』
『嘘だろ、師匠』
『嘘なものか。試したんだ。ちゃんと、彼女は生き返った』
師は恍惚と目を細めた。彼女、ということは、他にも犠牲になった売春婦がいるのか。
『いい商売になると思わないか、ウェル。解剖して、臓器を少しとったとしても、この薬を使えば生き返るんだ。西区の医者どもに話したら、いったいどれだけの値を付けてくれるんだろうな』
ふいに、ニヤリと笑ったのだ。その笑みにただならぬものを感じて、彼は反射的に後退する。狂っている。師は、狂っているのだ。激しくかぶりを振る彼を、師は不思議そうに見下ろした。
『信じないのか?』
あたりまえだ。ウェルは叫んだ。死者が生き返る。そんなことはあり得るはずがない。これは殺人を正当化するためのいいわけだ。新鮮な臓器を希望者に提供するための詭弁だ。
ウェルはきびすを返した。その背に、師が問いかける。
『どこへ行くんだ?』
『きまってんだろ! 市警だ。こんなこと、こんなこと、許されるわけねえだろ!』
『市警』
師は鼻で笑う。
『いっても無駄だ。巡査が来たところで、死体がなければ話にならないだろう』
『……っ! そんなわけ……』
ウェルは師を振り仰ぐ。師は治療用に用いている短剣を、道具箱から取り出した。そして、ごく自然に鞘を払う。刀身が角灯の火を反射して、赤く光っている。
『だったら、自分で試した方がいいな。おまえが自分で』
『なっ?』
何の冗談だろう。彼は戦慄を覚えながらも、師の行動を凝視していた。呪縛にあったように、体が動かない。師は短剣を逆手に構えたまま、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
『師匠?』
目の前で、白刃が空を切る。ヒュッと音がした瞬間、右肩に激痛が走った。鮮血が霧のように視界を染める。彼は患部を押さえ、壁に背を預けた。今の一閃。明らかに彼の頸動脈を狙っていた。避けなければ、間違いなく殺されていただろう。
『動いたら、だめだろうが』
心底困ったように師が言った。
『せっかく、楽に死なせてやろうと思ったのにさ』
狂っているのか。彼は痛みに顔を引きつらせながら、師を見つめた。そのまま壁に背を預けるようにして、ずるずると階下に降りていく。下まで行けば、古着屋のオヤジに助けを求めることもできる。いや、少し離れた<樫の木>まで行けば。賢者・ランディールが救ってくれるだろう。
そんな僅かな希望すらも、師はうち砕いた。師は短剣を構えたまま、ウェルに飛びかかってくる。重力の助けを借りた攻撃。師の細いからだが、ウェルに覆い被さる。
『う、あ!』
脇腹に熱い痛みが走った。師の体は、ウェルの脇をすり抜け、派手な音を立てながら階段を落ちていく。床に激突した瞬間、ゴムマリのように跳ねて、寝室の扉に叩きつけられた。ごふ、とその口から鮮血が溢れる。師の胸から、短剣の柄が飾りのごとく生えている。暗がりに生臭い鉄の匂いが満ちた。
『師匠!』
脇腹を押さえながら、師の顔をのぞき込むと、彼は暗い目をこちらに向けた。赤く染まった唇が、何か言いたそうにもぐもぐと動く。声を聞こうと身をかがめたウェルの腹に、師は短剣を突き立てた。
ほろり、と水滴がこぼれるように。目の前の光景が下に流れた。ウェルは口だけで呼吸しながら、後ろに下がる。嘘だ。そう、繰り返していたと思う。これは夢だと。何度も呟いていたはずだ。流れ出る血とともに、意識も遠のき、手足の感覚も無くなっていく。
闇の中で、満足げに笑う師。
それが、師を見た最後だった。
次の瞬間、ウェルの体は、背後の羽目殺しの窓を破って、路面へと落下していた。
雪に抱き留められたせいか、打撲は大したことはなかった。しかし、師から受けた傷は重く、ウェルはそれから数週間を東区の慈善病院で過ごすこととなる。身元引受人は、ランディールだった。慈善病院、ということで、保証人が異教徒であっても、患者が旧教徒であれば構わなかったのだろう。見舞いに訪れたランディールから、ウェルは師の死亡を聞いた。市警は、この事件にさしたる興味もないのか、昨今はやりの物取りの犯行として片づけたという。つまり、少々金のありそうな外科医宅に押し入った強盗が、気づかれてその師弟を殺傷したのだと。
ウェルは意識が戻ってからも暫くは混乱していたようだ。聴取に来た巡査が、匙を投げて帰ってしまったくらいである。なにしろその時彼が話したのは、
『師が、蘇生の霊薬の実験をするために売春婦を殺し、自分も殺そうとした』
だったのだから。
悪趣味な芝居の見すぎでしょう、と巡査は言ったそうだ。これだから、魔術師と関わりのあるものは、とも。これはのちに、ランディールが笑って話したことであるが。
『だから、そーゆー意味では、おれは魔術師じゃないっちゅーの!』
そう言って目をつり上げる賢者の姿が目に浮かぶ。
そのあとに、ランディールがぽつりと漏らした言葉。そちらの方が、悪趣味な芝居のようだった。
『ハミルトンさんの死体。埋葬前に、消えちまったんだと』
*
ウェルは溜息をついた。
嫌なことを思い出してしまった。あの偽善的な巡査が、妙なことを言ったからだ。
消えてしまった死体。あのとき消えた死体は二つ。すっかり忘れていたが、売春婦のものもあったはずだ。てっきり彼女の死体も発見されたものだと思っていたのだが。
アキノは「診療台が血塗れだった」といっていた。死体のことには触れなかった。
と、言うことは。師は、売春婦は、本当に生き返ったのか。
「うそだろ」
声に出して否定する。左腕の傷を、服の上から押さえる。歪んだ現実が、思考を混乱させる。もし、師の言葉が本当だとしたら。師は蘇生して、現在も殺人を続けているのか。噂の黒衣の殺人鬼。あれはハミルトンだというのか。
(いや。生きていたら、必ず俺に何か言ってくるはず)
思いを否定しかけて、完全に振り切る一歩手前で。ウェルはそのことに気づいた。知らず、あっ、と声を上げていた。事件が起こったころから時を同じくして、彼につきまとっていた視線。あれは、ハミルトンのものではないのか。弟子であった彼が、ハミルトンの犯行にいつ気づくか。それを見張っていたのではないか。
そうして。先日、けだもの長屋で彼を襲ったのも。あれは、賭博師たちではない。彼らにあのような動きはできない。あの動きは、まるで
(師匠)
あの日の師そのものだった。
だとしたらなぜ、彼を襲う? また、殺すつもりなのか。殺して、蘇生させて。その経緯を楽しむつもりなのか。
ウェルはその考えを頭の隅に追いやった。もう考えたくない。
たどり着いた自宅の階段を重い足取りで上りながら、意識を現実に引き戻す。今は、別のことを考えよう。そう。ハルの借金のことでも。
「?」
中二階の自室の前まできたとき、ウェルはふと立ち止まった。闇の中で、何かがうごめく気配がする。誰かがいる。ウェルはとっさに身構えた。
襲撃者か。
油断無く短剣の柄を握りしめながら、彼は一歩踏み出した。
「!」
それとほぼ同時に、物陰から腕が伸びてきた。それは迷わず彼の首に絡みついてくる。
「おまえは……!」
叫びは途中でかき消えた。
*
夜の教会は、廃墟のようだった。季節柄もあるのだろうが、ひんやりとした空気が、その内部を満たしている。既に自室にこもったのか、神父の姿もない。
「扉が開けっ放しってのは、不用心なんじゃないかい?」
「常に門戸を開いておくべし、という教えがありますからねえ」
アキノのとぼけたいらえに、ハルはがっくりと肩を落とした。先刻も思ったが、この男、全く緊張感がない。それはそれで、ありがたいのだが。できればもう少しビシッと決めて欲しい。いやしくも大アル・ビオンの帝都市警である。威厳の片鱗を見せて貰いたいのだが。
「あたしらの税金で生活しているんだからね。ちっとは、いいとこみせなさいよ」
「ご婦人。わたしも税金を払っているのですが」
「貰った税金を一部返しているだけでしょうが。つべこべいわないで、さっさと中入って」
「ご婦人」
まだなにか言いたそうにしている市警を教会内に押しやり、ハルはその背後から油断無く中を見回した。特に人の気配はない。誰かが潜んでいると言うことはなさそうである。それでもハルは、袖口の鎖を握りしめた。ふいうちをされても、ある程度は防ぐ自信がある。
蝋燭の火に映し出された聖図を横目に、二人は奥へと進んだ。突き当たりには祭壇があるだけである。祈祷室への扉の他は、出入り口は見あたらない。
「どうせなら、明日にしましょうよ。その方がいいですってば」
ふ抜けた巡査は心許ない顔で、年下の女性を振り返る。ハルは頑として首を縦に振らない。
「淑女の頼みを聞くのは、紳士のつとめでしょうが。学校で習わなかったのかい?」
「い、いや、それは、その」
「じゃあ、さっさと言うとおりにする!」
ハルは、祈祷室の入り口とおぼしき場所に、若い巡査を追いやった。
『お医者さん、どうしたんでしょうねえ』
ウェルが席を立ったあと。巡査はのほほんと呟いて、彼の残したジンに手を伸ばした。その手を押さえて、ハルは彼に顔を近づける。
『いま、ハミルトン、っていったよねえ?』
剣幕に、アキノはたじろいだ。
『もう少し、詳しく聞かせておくれよ。その事件』
『え? って仰いますけど。それくらいですよ。あとは、彼が死体売買をしていたらしいってことくらいで』
『死体売買?』
『それも、はっきりとした証拠はなくて。ま、医者なら誰しもやるんじゃないですかね。取引の相手は、ちょっとというかかなり意外でしたけど。倫理的にね』
ハルが無理矢理聞き出した、取引の相手。それは確かに、意外ではあった。
彼女は鋭く舌打ちし、乱暴に席を立つ。アキノは、泣きそうな顔で彼女を見上げた。
『今度はご婦人ですかぁ?』
その腕を強引に引き上げ、ハルは出口へと顎をしゃくる。
『行くところができたんだよ。ちょっと、つきあっておくれよ』
そうしてやってきたのが、教会である。
ハルは前を行く巡査の背中を見つめ、後悔に似た思いに駆られた。本当は、ウェルに来て貰った方が良かったのかも知れない。しかしすぐその考えをうち捨てた。ウェルはハミルトンの弟子だ。何を言っていても、所詮、師には逆らわないだろう。それに、下手をしたら。彼も共犯かも知れない。共犯どころか
(師匠が生きているように見せかけた、彼の犯行かもしれない)
その推測は、おおむね正しいようだった。ウェルも師匠ほどではないが、錬金術に傾倒している。現に、エリクサの効能を知ってから、その生成法にひどく執心だったようではないか。くわえて、彼には<魔術師>の知人もいる。
(信じたかったんだよ。あんたのことは)
黒髪のグィール人を思い出す。すれているくせに、どこか子供じみた部分をも持ち合わせている青年。心身共に、少年といった方がふさわしい。もし、彼が今回の殺人事件の犯人だとしたら。
うまく、だましてくれたものだ。
ハルは不毛な空想に終止符を打ち、祈祷室の扉に手をかけた。不安げなアキノの様子を窺い、目を細める。巡査が側にいると、却ってことが複雑にならないか。神父も警戒して、真実を語ってはくれないだろう。ハルは彼に、外で待っているように依頼した。アキノは怪訝そうに顔を歪める。
「なんかあったら大声出すから」
変なことはしないでくださいとでも言いたげに彼女を見つめ、アキノは入り口の方に去っていった。その姿が完全に視界から消えたのを確かめてから、ハルは扉を叩く。当然、答えはない。が、答えを待つ必要もない。彼女は、扉を押し開けた。
「早いお越しですね。ハリエット嬢、でしたか」
「……?」
そこには、神父の姿があった。燭台を手に、何の気配もなく。ハルは口元に手をやった。神父は気づいていたというのか。彼女の来訪を。
「お入りなさい。話があるのでしょう」
彼はハルを招き入れると、扉を閉めた。祈祷室、と思われる空間に二人の影が伸びる。サンドバル神父は手を伸ばし、傍らの帳を持ち上げた。下から人一人がやっとくぐり抜けられるほどの穴が現れる。彼はそれを示して、
「どうぞ。奥でお話ししましょう」
自ら先に立っていく。ハルはいささかためらいはしたが、袖口の鎖を握りしめ、後に従った。
石造りの、やや苔むした階段を下りると、目の前が急に開けた。ちょっとした居酒屋か集会所のような広さである。出入り口を覗いた他の三方を、書棚が囲んでいる。壁に掛けられた角灯の明かりに浮かび上がるそれらの表題を目にし、ハルは驚きの声を上げた。
魔術書。それに、錬金術書。異国の、古代宗教の書物。
その棚の一角にひっそりと置かれた本を見て、ハルは声をあげた。『夜の囁き』。
「一巻と二巻。ここにあったの」
ハルはそれに手を触れた。ハミルトンが所持していたという、秘教の書。彼が研究を重ねた不老不死の霊薬・エリクサの生成法が載っていると思われる書物。ハルはそれを手に、サンドバルを振り返った。
「嘘を、ついたのね?」
「そういうことになりますね。時が来るまで、このことは伏せて置いた方が良いと思われましたので」
彼は静かに答える。その、穏やかな黒い瞳がハルを見つめる。
「ハリエット・グラッドストンさん。あなたは、そんなことを訊きにいらしたのではないでしょう。『アリサ』のことを、お尋ねになりたいのではないですか」
ハルは頷いた。本を書棚に戻し、サンドバルに対峙する。
「そう。あなたがなぜ、わたしの伯母の名を知っているのか。旧教の聖職者で、東区の住人で。伯母とは何に関係もないあなたが。あなたが私を見て間違えたのは、アリシア・ウェリントンのことでしょう?」
「姪御さん、でしたか。なるほど、確かによく似ていらっしゃる」
いい天気ですね。そう言うのと何らかわりのない調子で、彼は言った。ハルがもう一度ここに現れると予感したときから、覚悟は決まっていたのだろう。今の彼は、恐ろしいくらいに冷静だった。
「わたしは直接お会いしたわけではありませんが。ある人から伯母上のことを伺い、そして」
サンドバル神父は、書棚の一つを示した。ハルがそこに目をやると。
銀の写真立てに飾られた、古い写真が目に入った。日傘を持った、若い婦人の肖像。その顔は、うり二つとはいえないが、ハルにとてもよく似ていた。
「だからわたしは、あなたを伯母上の名で呼んでしまったのです」
「二年前、私を見て同じことを言った人がいたわ。アリサは、伯母の愛称。よほど親しい間柄だったんでしょうね。確かに私は、伯母によく似ている。あたりまえよね。血が繋がっているんだもの。その人は、数年前に伯母を殺し、あやしげな薬を塗りつけてくれたわ。それが、霊薬? 霊薬と思いこんでいたから、彼は私を見て伯母が生き返ったと思いこんだのよ。バカみたい。そんなものなんて、あるわけがないのに」
ハルの口調が変わったことに、神父はさほど関心を示さなかった。無意識のうちに、ハルは戻っていたのだ。ハリエット・グラッドストン。ハイランドの貴族の娘に。
二年前、彼女はアランダに上京した。兄とともに、伯母の財産を処分するために。伯爵家の家計は伯母の存命中から火の車だった。母がなにかと金を用立てていたのだが、伯母はそれを片端から何かにつぎ込んでしまう。一度業を煮やした母が彼女を問いつめたとき、伯母は楽しげに、そう、とても楽しげにハミルトンのことを話したのだ。つきあっていられない、と母は言った。以後、金銭の援助もぷっつりとやめた。伯母の方からも何も言ってこなくなった。
それから、一年ほどしてからだろうか。伯母が亡くなったのは。今からちょうど、五年前のことである。
ハルを残して、両親と兄が伯母の遺体を引き取りにいった。
伯母は彼らに、一通の遺書を残していたという。
「霊薬を飲んでいるから、必ず生き返ります」
そんな内容だったそうだ。勿論、妹夫妻――ハルの両親はそんなものを一笑に付した。遺言に反して、アリシアの遺体を埋葬したのである。それから暫く伯爵家の財産は放置されていた。遅かれ早かれ、アリシアの膨大な借金のカタにとられてしまうものである。急いで整理することもない。それに、両親も新大陸での事業を進めるために多忙を極めていた。結局、ハルの兄が財産整理に乗り出したのが、三年前。彼は妹を伴ってアランダにやってきた。アリシアが資金援助していたという医者から、その分の返済を迫るためである。
『そういうのは、おまえが得意だろう』
兄は厄介ごとを妹に押しつけると、自分はさっさと帰郷してしまった。ハルは仕方なく、ハミルトンを訪れたのであるが。
彼女を見るなり、ハミルトンの表情は一変した。
『生き返ったのか』
アリサ、と心底嬉しそうに伯母の名で彼女を呼んだ。とても借金の話どころではなかった。
(あのときは、適当にごまかすつもりでいるのかと思っていたけど)
彼は違ったのだ。芝居ではなく本当に、アリシアが蘇生したと信じ込んだようだ。ハルは後日あらためて出直すことにして、その場は辞した。
その数日後に、事件が起きた。外科医師弟殺傷事件。強盗により、ハミルトンとその弟子が死傷した。
弟子の方は暫く行方知れずとなり、ハルは一度故郷に戻ったのである。
(戻ってきたら、こんな事件が起こっているなんてね)
つくづくついていないと思う。
事件を初めに知ったとき、ハルは、ウェルが犯人だと思っていた。師の遺志を継いだ弟子が、相も変わらずくだらない実験に血道を上げていると。
「ハミルトン医師は、愚かな人です」
サンドバルは、苦笑を漏らす。
「霊薬なんて、あり得るはず無いのに。彼は、それをつくろうとした。彼が実際に作り出したのは、それに似て非なるもの」
「え?」
「細胞を活性化させ、再生を促す薬。早く言えば、良くできた傷薬のようなもの」
苦笑は自嘲に変わる。
「それを一時的にしろ、信じてしまった私も愚かですがね」
「神父?」
「あんなもののせいで、多くの命が失われました。私は、信じてくれる人を待ち続けていたのです。この馬鹿馬鹿しい話を、笑わずに聞いてくれる人を。できれば、ハミルトン医師のお弟子さんが、一番良かったのですが」
彼の横顔に諦めに似たものが走る。蝋燭の光のせいだろうか。彼の姿は、ひどく儚げに見える。
「ハミルトン医師の、お弟子、って。夕方私と一緒に来た青年が、そうですけど」
「彼が? しかし、ハミルトン医師の弟子は、たしか」
グィール人のはず。ハルとともにここを訪れた青年は、カスティリャ人のような黒髪黒瞳ではなかったか。
「かれは、グィール人です。グィールのなかでも、稀に生まれる『取り替え子』という」
「そうでしたか」
サンドバルは、がっくりと肩を落とした。
「もう少し早く気づいていれば……。あのとき、お話ししておくべきでした。ハリエットさん。彼にお伝えください。霊薬を、決して使ってはいけませんと。あれが、現在の殺人事件の元凶です」
「どういうことですか?」
「今回の事件の真相は」
せりふは、唐突にとぎれた。がしゃん、と激しい音を立て、て燭台が床に叩きつけられる。石壁に湿った反響が幾重にも響いた。
サンドバルの腹に、銀の刃が生えていた。それが、意志あるものの如くぐるりと回転し、肉のこすれる音とともに、神父の体の中に消えていく。せつな、彼の腹から鮮血が飛び散った。
「神父!」
生暖かい鮮血を浴びながら、ハルは神父に駆け寄った。神父の小さなからだが、大きく揺らめく。そのまま糸の切れた人形の如く、床に頽れた。げふ、と神父が激しく咳き込む。
「に、げ、て」
血とともに言葉が絞り出される。
「お喋り神父め」
床に燃え広がった火に、その姿がはっきりと映し出される。手に持つ短刀を染めるのは、神父の血か。その刃先を指でたどり、彼は冷ややかに笑っていた。
鈍い明かりに浮かぶその顔を確認したハルは、怒りに拳を震わせた。
「あんたってひとは!」
*
それは、柔らかな感触だった。上等のプディングにも似た張りのある唇が、彼のそれを塞いでいる。差し込まれかけた舌を押し戻すようにして、
「メグ?」
抱きついてきたものの名を、ウェルは呼んだ。彼女は無邪気に微笑み、彼の胸に顔を埋める。細い体は、寒さのためか小刻みに震えていた。
「ずっとここにいたのか? 中に入っていればよかったのに」
どうせ鍵もかけていないのだ。ウェルは彼女を促して部屋に入った。土間も寝室も一緒くたになった、辛気くさい部屋に明かりをともし、彼は扉の前に立ちつくしている幼なじみを振り返る。
「どうしたんだよ、いきなり。仕事の依頼だったりしたら、明日にして欲しいんだけど」
マーガレットは否定した。彼に駆け寄り、左腕にしがみつく。
「メグってば」
困惑する彼に、また、無邪気な笑顔を見せる。
「本当に治ったんだ、この前の傷」
けだもの長屋で襲われたときの傷を言っているのだろう。「心配だったんだ。あのあと、ずっと来なかったから」
ウェルはシャツをまくって見せた。念のため包帯は巻いてあるが、傷口は完全に塞がっている。今ではうっすらと赤い線が残っているだけだった。そこに白い指を這わせて、マーガレットは感嘆の声を上げる。いたずらが成功したときの、子供のようだ。
ウェルは苦笑いして、袖をおろした。
「悪かったな。心配かけて。そんなことで、わざわざ来てくれたのか」
なんだか嬉しかった。自分を気遣ってくれる人がいる。そう思うだけで、心が温かくなる。先程の暗い記憶が、薄らぐような気がした。
ウェルはマーガレットに椅子を勧め、棚から再利用茶葉を詰めた缶を取り出す。それを適当にはかって鍋にかけながら、
「たしかに師匠の薬で治っちまうなんて、ちょっと普通じゃ考えられないもんな。ぜってえ、胡散臭いと思うし」
「うん。でも、治ったんでしょ。あんな凄い怪我が」
机に頬杖をつき、マーガレットが上目遣いに見上げる。
「ウェルも、あの薬、作れるの?」
「俺?」
ウェルはカップに煮立った茶を注いだ。そこに獣臭い
「俺は作れない。っていうよか、作り方を知らないんだ」
つくろうと思ってその生成法を記したものを捜したが、結局徒労に終わった。
樫の木の賢者・ランディールのもとにあった抜粋書いてあるのは、錬金術師たちが求めた不老不死の薬・エリクサであって、師の作り出した『霊薬』のことはどこにも載っていないだろう。師はエリクサをつくるつもりだった。それを失敗してどこをどう間違えたのか、あの中途半端な霊薬が生まれたのだ。霊薬は、偶然の産物にすぎない。師がそれについてメモを残していたとしても、二年前の一件で、どこかに紛失してしまったはずである。
「ふーん。じゃあ、もうあの薬ってできないの?」
マーガレットはしょんぼりと肩を落とす。
「俺だって、作れたら作ってみてえよ。なんか、金儲けになりそうだし」
「さすがお医者さん。金にあざといよね」
彼女は肩を震わせた。外科医など、卑しい職業のものは金にあざとい。朝の挨拶と同じくらい、人々の頭に刻まれた通説である。ウェルは渋い顔で茶を飲み干した。
さっきから薬、薬、と。マーガレットはそればかり口にする。あの薬が欲しいのだろうか。確かに、あれは便利なものであるが。まだ、得体が知れない。どこかに欠陥があるような気がする。師は、あの薬を作った三年後に『蘇生の霊薬』を作り出したと言っていた。
(だから、俺が貰った霊薬は、まだ実験段階の代物)
それから幾許か改良が加えられたのである。
黙り込んだウェルに、マーガレットは甘ったれた声で懇願した。
「ねえ。あたし、あの薬が欲しいんだけど」
やはり。ウェルは舌を打った。珍しいもの、便利なものに飛びつきたくなるのが人情だ。
「あのな、メグ。あれは子供の玩具じゃないんだ。下手に使ってみろ。どんな副作用があるか」
「けど、ウェルは平気なんでしょ。だったら」
「まだ、わかんねえよ」
マーガレットは眉間にしわを寄せた。
「いじわる」
「いじわる、って」
「ウェルって、独り占めする気なんだ。自分だけお金持ちになって、新大陸とか、行っちゃうつもりなんでしょ」
新大陸。その言葉にぎくりとする。それを考えないでもなかったが。
「ねえ」
マーガレットが顔を近づけた。唇が、触れるほど側にある。彼女の吐息が頬にかかった。
「あたし、夢を見るの。切り刻まれる夢。ウェルの先生に、ううん、よくわからない――誰かに。だから、きっとあの殺人鬼にも刻まれちゃう。でも、あの薬があれば」
「メグ」
何かが、頭の中で閃いた。ウェルは至近距離に迫ったマーガレットの瞳に、自分が映っているのを見た。積み木の最後の一つ、カードの最後の一枚。パズルの最後の一ピース。かちりと音を立てて、全てのものが繋がった。
わかった――唇の先で言葉は消えた。
なにか、強い衝撃が後頭部に炸裂する。
マーガレットの瞳の中で己の姿が揺らぎ、ウェルは机に突っ伏した。
「勿体ぶらないで、さっさと出すもんだせってんだ」
男の声がした。聞き覚えのない声だ。ウェルはのろのろと頭を上げ、背後の声の主を振り返ろうとした。せつな、髪を強く捕まれる。背後の男は、濁った目でこちらをのぞき込んできた。
「エルナン」
マーガレットが、男を呼んだ。男は酒臭い息を吐きながら、けたけたと笑う。
「おまえの色仕掛けが効かない、ってのもな。こいつ、やっぱりそうなんだ」
やっぱり? ウェルは眉を引き絞った。やっぱり、なんだというのだ。そういえば、マーガレットも以前同じ様なことを言っていた。
ウェルは、やっぱり。
言いかけて、慌ててやめたが。
「男娼やるくらいだからな。男の方がいいんだろ」
エルナンの台詞は、幾重にも反響を伴っていた。
ウェルはマーガレットを見た。彼女は知っていたのだ。ウェルが、街に立ったことを。知っていて、さらにそれを情夫に話した。
感謝してくれとは思わない。礼が欲しいとも思わない。
知って欲しくなかった。知っても、知らぬ振りをして欲しかった。
「メグ」
呟きは、うめきに近かった。エルナンは、ウェルの耳に息を吹きかけ、熱く囁く。
「アランダ塔送りが嫌だったら、言う通りにするんだな。例の薬、早く出せよ」
「嫌だ」
ウェルはきっぱりと否定する。
「嫌だと? かわいがって貰わないと、言うことが聞けねえってのかぁ」
嘲笑が浴びせられる。ウェルは歯を食いしばった。怒りと屈辱とがこみ上げてくる。彼は短剣に手を伸ばした。怒りのままに、エルナンを、マーガレットを刻んでやりたい。
教会通り式のやり方で。
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