第3話 聖者、集いて
教会通りに、明かりが灯る。
アランダ名物ガス灯は、言われているほどこの時代には普及していなかった。東区の中で最も大きな通り、教会通りに、つい最近並び始めたばかりである。
ここに火をつけるのが、路上管理人と呼ばれる男達の仕事であった。彼らは長い棒をガス灯に差し込み、点火する。どういった方法で火をおこすのか、彼ら以外に知るものはいない。だから、子供たちは彼らを魔法使いだと信じている。魔法使いが闇を追い払ってくれているのだと。
そんなことを信じていられる時代が、一番佳いのだ。大人になると見たくないものまで見えてくる。ガス灯の明かりが照らすものはたかが知れているが、もっと明るい灯火が普及するようになったとしたら。醜い部分が、浮き彫りにされるだろう。
彼は、馬車の窓越しに通りを見下ろした。腰の曲がった路上管理人が、難儀そうに点火作業を続けている。
何が華の都だろう。貧しい人々、粗末な建物、汚物にまみれた道。そんなものがまだ至る所に残っているではないか。大帝キャサリンのものとで国力は豊かになったが、それはあくまで見せかけのものだけではないか。東区のアランダ。これが本当のアランダの顔なのかもしれぬ。
「どうなさいましたか」
侍従の声に、彼は無言でかぶりを振った。なんでもない。なんでもないのだ。
ただ、この街に同族嫌悪を催しただけ。
昏い瞳を路上に向け、黒衣の男は溜息をつく。黄色い霧に包まれるアランダ。彼がいずれ継ぐべき街。暖房としてたかれた暖炉の煙が立ちこめ、目の前に立つ人物の顔すら見分けられぬ、よどんだ街。まるで、これからの時代を予感させるような。
街灯の下、子供が母に何かをねだっている。だだをこねる子供に、母親は淀んだ目を向け、そのままふらふらと歩き出す。その姿は霧に飲まれて、すぐに見えなくなった。子供は、慌てて後を追う。
*
師の残したもの。それは、借金とこの薬の他には何もなかった。
ウェルは小瓶を手に、中の液体を見つめる。これが本当に、傷を治したというのか。負傷した腕に触れ、彼は眉をひそめた。師は、確かに錬金術をかじっていたようだ。そして夢のようなことを言い続けていた。
「不老不死の薬」
そんなものを作るのだと。この薬は、その製作段階でできた、予想外の産物なのだろうか。今となっては確かめるすべはない。
彼は溜息をつき、薬を箱に戻した。
こんなものは、いらない。こんなものがあっては、彼らのような医者は、路頭に迷ってしまう。師は何を考えて、このようなものを作ろうとしたのだろうか。
それは、師が元は錬金術師だから?
「ばかばかしい」
ウェルはその考えを振り払った。錬金術師達が求めてやまなかった不老不死の霊薬・エリクサ。師がそれに憑りつかれていたのも分かる。ウェル自身、興味を持って精製しようと思ったことも、ないとは言えない。
この薬は、師のことを思い出させる。思い出したくないことまで思い出させてくれる。しかし、今度の事件が二年前の件に関わりがあるのだとしたら。ウェルも無関係ではいられないだろう。
「夜の囁き」
そう。師はこの薬をそう呼んでいた。何を思って名付けたのか分からない。彼は薬を入れた箱を、寝台の下に押し込んだ。こつん、と固い音がする。忘れていた。師の遺した本もここにしまっていたのだ。先日、ハルが見つけだすまですっかり忘れていた本。
ウェルは寝台の下に手を入れ、それを取り出した。装幀がやたらと立派な本である。表紙に書いてあるのは、大陸の古語だろう。これはさすがに読むことは出来ない。ぱらぱらと頁を繰れば、所々に書込があった。師の筆跡である。その中の一つを見て、ウェルは手を止めた。
「夜の囁き」
その単語が目に留まる。そのあたりを読み返してみると、どうやらそれはこの本の題名らしかった。と言うことは、ここに薬の製法と、効力などが書かれていると言うことだろうか。ウェルは唾を飲み込んだ。
「不老不死の薬」
そんなものが存在するとは思えない。だが。傷を治す薬ならば。
彼は知らず腕の傷に触れる。傷は、確かに治った。完治とまでは行かないが、ほぼ治りかけている。あれだけの深い傷が、一晩で塞がるなど常識では考えられない。
ウェルは改めて表紙を見つめた。
大陸古語に続いて、三、という文字が見える。三巻目ということか。では、このほかにあと二冊。『夜の囁き』は存在するのだ。
ウェルの視線が、微妙に揺れた。
甦る、二年前の記憶。
彼は本を閉じ、それを卓上に置いた。深い溜息が、静まり返った室内に落ちる。
*
このところ、睡眠時間が極端に少ない。少ない、と言うよりは眠っていないに等しい。眠れば悪夢が追いかけてくる。師、血塗れの売春婦たち、居酒屋に集う口の悪い大陸移民。そして、ハル。
「また顔色悪いよねえ」
朝から現れた彼女は、寝台の上でぼんやりしているウェルに向かって皮肉る風でもなくそういった。青灰色の目が、薄暗がりの中で心配そうにこちらを見ているのが分かる。ウェルはのろのろと腰ををあげた。不機嫌な顔そのままに、ハルの脇を通り過ぎる。
「仕事だろ? 今日は勘弁してくれないか」
ぶっきらぼうに言い捨て、汲み置きの水で顔を洗う。背後でハルが大仰に溜息をつくのが分かった。
「昨日の事件で、気持ち悪くなったわけかい」
医者のくせに、という意味合いが言外に含まれている。そうじゃねえよ、とウェルは否定した。
「体調悪くてさ。ここんとこ働きづめだから少し休みたいんだ」
「そうかい」
ハルはその言葉を素直に信じたらしい。借金取りを生業としている割には、素直なことだ。やはり彼女は、こういう仕事に向いていないのだろう。身なりやちょっとした仕種から見ても、東区の女とは違っている。本当は借金取りというのは口実で、他に何か含むところがあるのではないか。
(まさか、この薬のことを知っている?)
考え出すとキリがなかった。
彼女はウェルの疑いの眼差しなどつゆ知らぬ様子で、籠に入った
「朝早く起きると、おなか空いちゃってねえ」
嬉しそうに咀嚼する彼女を、ウェルは無視した。良家の子女だと思ったのは、思い過ごしらしい。
「それはそうと、ウェル」
ハルは食べかけのパンを卓上に置き、部屋の中を見回した。
「例の、借金のほうなんだけど。女伯爵の身内が、あんたの師匠に本貸したって言ってるんだけど。あんた、心当たりある?」
「本?」
本はたくさん持っていたはずだが。
師の死亡と同時に、全て差し押さえられてしまった。今ではその行方は全く分からない。それが貴重書であればあるほど、どこかに売られてしまって回収することなど到底無理であろう。そう言うと、彼女は眉をひそめた。二年前の話ではそれも仕方がない、と思っているのだろう。が、簡単には諦めそうにもなかった。
「その本を欲しがっている
「半分」
借金が半減。その言葉は魅力的だった。ウェルは思わず彼女を振り返る。
「本は全部古本屋が引き取ったから。うまくいけばあるかもしれない」
うまくいけば。その可能性を彼は切に願った。
「で? それって、なんて本だよ?」
問いに、ハルは一瞬ためらったのちに答えた。
「夜の囁き。――知ってるかい?」
*
アランダ市の大手新聞社にそれが送られたのは、その日のことだった。
差出人の名はなく、小さな包みには震えるような字で宛名のみが記されていた。綴りの癖からこれはどうも新大陸の人間らしいと、小包を受け取った新米記者は思ったという。
彼は、とりあえず中身を見ることにした。最近は悪質ないたずらが増えている。切り裂き魔報道を煽る新聞社に対して、不愉快に感じている者からだろう。脅迫文が束になって送りつけられることが多々あるのだ。
これもその類だろうと、記者は考えていた。だが、小包とは。
「まさか、動物の死体なんかはいってやしないだろうな」
同僚とふざけあいながら、封を切る。そして。次の瞬間、彼らは一斉に凍り付いた。
箱の中に入っていたもの。それは、小さな肉片だった。その上に無造作に置かれた紙片を手に取り、記者達は更に青ざめる。
赤黒い血文字でかかれたその文字は、記者達から言葉を奪うのに充分すぎる内容だった。
「これは、サラ・グレイの臓器です。――教会通りの切り裂き魔より」
*
古書店は、東区教会通りの一角にあった。このご時世でも本を買おうという物好きもいるらしく、店内はそれなりに込んでいた。ウェルは、ハルを伴って間口の狭いその建物の中に入っていく。奥で鼻眼鏡をかけた主人が店番をしていた。彼を見るのは、実に二年ぶりである。ウェルのことなど当然覚えてはいないだろう。
「こんにちは」
ハルが声をかけると、彼は値踏みするようにこちらを見た。一見して大陸からの移民とおぼしき男と、アル・ビオンの容姿を持つ女。間違っても姉弟には見られないだろう。娼婦と客、というのともちがう。主人の目には、奇妙な組み合わせの男女に映っていることだろう。案の定主人は怪訝そうに眼鏡を持ち上げた。
ここにあるかどうか分からないけれど、と前おいてハルは本の題名を主人に告げた。主人は更に訝しげな顔をする。
「錬金術の本、なんだけど。結構厚くて、三冊組になった」
錬金術、という言葉に主人は眉をひそめた。錬金術――異端の学問とされているものをどうして、と主人は問いかけているようだった。ウェルはふう、と息をつく。こんなものだ。彼の師も、かなり異端視されている。その弟子だったというだけで、彼も同様の目で見られた。それはそれで慣れている。この容姿のせいで、グィール人には疎外されていたのだから。
「三冊組になった、錬金術の本ねえ」
それでも商売だと思ったのか、彼は書棚を探してくれた。ほこりをかぶった本の中から、それらしきものを次々に引っぱり出す。彼はそれを胡散臭い本だといわんばかりに脇机に投げ出した。商品なのにかなり乱暴な扱いである。そうやって暫く探したのち、主人は緩くかぶりを振った。ないよ、という乾いた声が二人の意気を消沈させる。
「ここ以外に、古本屋さんてないんですか?」
ハルの問いには、ウェルが答えた。
「ハミルトンさんの蔵書は全部このオヤジさんが引き取っていったんだよ」
「なんだ」
残念、といいつつ踵を返したハルを、主人は慌てた様子で呼び止めた。
「あんた。ハミルトンさんの本を探しているのか」
主人の言葉に、二人は頷く。と、彼はどうしたものかと額を押さえた。低く唸ってから、目で通りを示す。
「ハミルトンさんの蔵書ね。神父様が持ち帰ったんだよ。あの、教会の」
これは意外だった。ウェルはハルと顔を見合わせる。異端の書物を、旧教の神父が持っていったとは。焼き捨てるつもりだったのだろうか。
「教会だってさ」
ハルは肩をすくめた。ウェルも唇を尖らせる。
二人とも、あまり行きたい場所ではない。
教会通り――その名の由来となった、白い尖塔を持つ教会は、通りの突き当たりにあった。数十年前、ここに移民してきたグィール人が、めいめいの財産を持ち寄って建てた教会である。故に、教義は彼らの信仰する旧教であるが、この教会だけは国教会からもその存在を認められていた。故郷を失った人々の、最後のよりどころ。それがここなのである。
「こんなとこ、あたしがきてもいいのかねえ」
尖塔を見上げ、ハルが呟いた。
「俺もだぜ。なんか敷居が高いよな」
国教徒と堕胎医。罪深き二人が教会を訪れたのは、その日の夕刻であった。夕べの祈りが終わり、信者達が帰った頃を見計らってきたのである。今、教会内にいるのは、サンドバル神父のみのはずだった。
「入っていいのかな」
扉を前に躊躇するウェル。ハルはその脇をすり抜けて、扉に手をかけた。
「たたけよ、さらば開かれん、ていうじゃない。叩いてみようよ」
言葉通り彼女は扉を叩き、その頑丈な板を押し開けた。ギイ、と乾いた音がする。空間が四角く切り取られ、二人の影が中に伸びた。そのちょうど頭の部分に、人がたたずんでいる。黒い祭服を纏った初老の男性。燭台を手にした彼は、それを来訪者に向けてかざした。
「どなた、ですか」
誰何の声に、ウェルは一歩中に踏み込んだ。神父は、彼を見てこくりと頷く。懺悔に来た若者だと思ったのだろう。ウェルはすいません、と声をかけてから、単刀直入に話題を切り出した。
「こちらに、アンセルム・ハミルトン医師の蔵書が寄付されていると聞いてきたのですが。それを拝見させていただこうと思って、伺いました」
「ハミルトン?」
神父は目を細めた。
「医師、とおっしゃると。医学書ということですか」
「いえ。錬金術の関係です」
ウェルが答えると、神父は苦笑を漏らした。思った通りの反応だった。旧教の神父が、異端の書物に関わったことなどそう簡単に認めるわけがない。ここはじっくり責めねばなるまい。ウェルは拳に力を込め、更に一歩踏み出した。
と。不意に神父の顔が強張った。黒い瞳が驚きに見開かれていく。
「アリサ」
彼はそう呟いた。
「あたし?」
神父の視線の先にいるのは、ハルだった。
「いいえ、あたしは」
否定するハルに、神父はもう一度呼びかける。
「まさか、アリサ?」
その声は、震えていた。明らかに、神父は、怯えている。
「いえ、私はハリエット・グラッドストンです。アリサは」
言いかけて、彼女はハッとしたように口をつぐんだ。ウェルの視線に気づいてか、気まずそうに目を伏せる。神父は彼女をもう一度見つめ、納得したように頷いた。漸く我に返ったらしい。神父は微笑を浮かべる。
「ああ、申し訳ありません。人違いでした」
彼は敬虔な宗教者の顔に戻り、燭台を胸元に下げる。温厚な顔がほのかな明かりに照らし出された。が、その顔には拒絶の色が浮かんでいる。この様子では、真実を告げてくれるのはまだ先のことになりそうだ。ウェルは肩を落とし、神父に背を向ける。そのままハルをおいて、教会をあとにした。
*
「ちょっと。あんたどうしたってのさ」
教会通りから少し離れた、ティムス側のほとり。古語で暗い川と言う意味だそうだが、今では臭い川、と呼ばれている。アランダの住人は、この中にあらゆるものを投げ込んだ。排泄物、生ゴミ、死体。どろどろに濁った川の中を探れば、大抵の失せものは見つかると人々は噂していた。現に数ヶ月行方不明であった少女が、この中から遺体となって発見されたのである。
「この中から、師匠の本も出てきたらありがたいんだけどな」
橋の欄干にもたれ、苦笑混じりにウェルはいった。
「あの分だと、神父さんはなんか知っているらしい。でも、口固そうだよな」
「そうだよねえ」
ハルも、彼の傍らにたたずむ。欄干に背を預け、目だけで彼を見た。
「結構、見かけに寄らず頑固そうだからね。出直したほうが良かったかも」
「ああ」
ウェルは、チラリと彼女を見返した。青灰色の瞳が、黄昏の光の中に溶けている。その目を見つめ、彼は小さく呟いた。
「ハリエット・グラッドストン」
ハルは、ハッとしたように口元を押さえた。が、すぐに気を取り直したらしい。いたずらっぽく頬を歪める。
「あたしの本名。結構可愛いだろ」
「そうかぁ?」
「おや、素直じゃないね」
ハルは喉の奥で笑った。
「あんたは、確かブランウェルっていったっけ? ブランウェル、なに?」
「さあな」
ウェルははぐらかした。答えたくないわけではない。ただ、今は。あえて口にしようとも思わなかった。捨てた故郷の名前。今更思い出してなんになる。
「秘密主義だね」
「それはお互い様。けどなんであんた、借金取りになんかなったんだ? 他にやること色々あるだろうが」
ハルが一瞬押し黙る。色々あるね、と唇の先で呟いた。女性の借金取りは、いないことはないが非常に珍しい。実家が高利貸しとか両替商とか、そういった家に生まれれば否応なしにその職業になれていくものなのだろうが。ハルは一体どういう経緯でこの職業に就いたのだろう。
「ウェル。あんたは何で医者になったわけ?」
逆にハルが質問をしてきた。ウェルは「さあな」と濁す。
「答えられないんじゃ、おあいこだね」
ハルは皮肉めいた笑みを浮かべる。二人は暫し無言で、橋の上にたたずんでいた。
徐々に霧が濃くなり始める。ひやりとした夜気が、首筋を撫でた。
「おなかすいたね」
決まり文句のようにハルが言う。言葉の接ぎ穂のつもりかもしれない。が、ウェルも今度ばかりはそれに賛成だった。きゅう、と腹の虫がなっている。
「じゃ、なんか食おうか」
「そうこなきゃ」
*
ウェルが彼女を案内したのは、『馬の首』ではなかった。『樫の木』という看板が掲げられた、小さな居酒屋である。主に扱っているのは酒で、ついでに軽食も出しているといった形を取っているらしい。壊れかけた扉を押し開け、中にはいるとそこには、木の切り株を並べた椅子と、今にも朽ち果てそうな机が並んでいた。
居酒屋、というよりも集会所といった印象を受ける。
それもそのはず。ここは、グィール人街。彼ら専用の集会所であり居酒屋だったのだ。店のものとおぼしき赤毛の少女が、胡散臭そうに彼らを一瞥する。カスティリャ人とアル・ビオン人がなんの用だ、と言わんばかりの態度である。
それでもウェルはイヤな顔もせず、奥の席に腰掛けた。近づいてきた少女に、冷めた声で尋ねる。
「賢者は?」
少女は眉を上げ、奥へと引っ込んだ。お客だよ、といった意味の野太いグィール語が聞こえる。と、程なく一人の男が現れた。白い貫頭衣を纏った、長身の青年である。赤みがかった金髪と、青い瞳。目がとろんとしているのは、酒のせいだろう。彼は手に抱えた瓶を掲げて、ウェルに挨拶をした。
「よお。お揃いで」
酒臭い割には、呂律がはっきりしている。歯切れのいいアル・ビオン語が、二人を迎えた。
「おねーさんづれとは珍しいな。おまえの
からかう青年に向かって、ウェルはかぶりを振る。
「ふうん。で? 今日はどういったご用件で? 珍しいな。おまえさんがここに来るなんて」
彼は酒を一口呑んだ。げふ、と喉が鳴る。
「かれこれ、二年ぶりくらいか」
言葉に、ウェルは目を伏せた。二年前。そう、あの日。ここを訪れて以来だった。
賢者とは東区内の居酒屋で会うこともあるが、この店でともに食卓を囲むのは、あの日のあと、初めてではないか。そう。ハミルトンが死亡した翌年の春に一度ここを訪れたことがある。その時は、賢者ともろくに言葉も交わさずに出ていった。出ていったと言うよりも、出ていかされた。不吉なグィール人として。
その時のことを思い出すと、今でもやるせない気持ちになる。同じ民族なのにどうして毛嫌いされるのだろう。割り切っているつもりではいても、心のどこかがちくりと痛む。
「覚えていたらでいいんだけどさ。ハミルトンさんの蔵書のことなんだけど」
「ハミルトン?」
賢者は頓狂な声を上げた。
「そりゃまた随分と古い話で。あのオヤジがどうしたって?」
「あの人から、なにか貰っていないかと思ってさ」
蔵書は全て教会のサンドバル神父が持っていった。古本屋の主人はそういっていたが。もしかしたら、親しい友人に何冊か譲っていたかもしれない。そんな藁にもすがる思いでの問いかけだった。賢者は、酒臭い息を吐き出し、頭をぼりぼりとかきながら低く唸る。その姿をウェルの傍らで見ていたハルは、胡散くさげにまゆをひそめた。
「ちょっと、この人なんなんだい」
囁きに、ウェルは小声で答える。
「樫の木の賢者。グィールの土着信仰の神官だ」
「異教徒? じゃ、グィールの魔術師?」
その言葉を聞きとがめたのか、賢者はちっちっと指を振った。
「違う違う。魔術師じゃなくて、賢者」
「でも、グィールの神官は魔術師だって言うけどね」
「そういう誤解は良くないね、おねーさん。魔術師って言うけれど、魔術なんて使えないんだよ。言われているだけでね。そこの教会の神父さんと同じなんだから、あまり特殊に考えないで欲しいなあ」
酔ってはいても、思考は確からしい。自分の立場はしっかりと主張する。
「そんなことはどうでもいいって。ハミルトンさんの本。しらねえか? 三冊組になった、その」
「『夜の囁き』って、錬金術の本なんだけど」
ハルが言葉を継いだ。賢者の動きが、一瞬止まる。彼は口の中で「夜の囁き」と幾度か題名を繰り返した。
「知ってるのかい?」
ハルは身を乗り出す。が、賢者は低く唸るだけで応えない。ウェルは心のうずきを押さえられず、そっと真実を告げた。
「三巻目は、俺のうちにあるんだ」
「なんだって?」
ハルは予想通りの反応を返した。黄昏色の瞳を見開き、キッとウェルを睨み付ける。
「あんた、知ってたのかい? 知っててあたしに黙ってたっていう」
「こらこら。痴話喧嘩は、やめときな」
安酒を喉に流し込み、賢者は大きなげっぷを吐いた。こんな人物に止められても、怒りは治まるものではないだろう。ハルは下品に舌を打ち、ぎゅっとウェルの患部をつねった。
「っ!」
激痛に息を呑み、ウェルはハルの手を払う。
「隠していたわけじゃねえよ。あれ、三冊組だろ? 俺の持ってるのは、三巻だけだし」
「それだって、充分だよ」
彼女はイライラと爪を噛んだ。
「ほんとにもう、どうしようもない坊やだね。このぶんじゃ、他にも何か隠していそうだよ」
チラリと睨み付けるハルの目に、ウェルは心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。何か隠している。その何かを彼女は探ろうとしているのではないだろうか。この、女借金取りの目的は、いったい何なのだろう。
「まあまあ。落ち着きなさいって。でも、俺もよくはしらんのだが」
賢者は立ち上がった。おぼつかない足取りで奥に消え、暫くしてから薄い冊子を手に戻ってくる。それを二人の前にさしだし、彼はまた、酒をあおった。
「ハミルトンさんの覚え書き。多分、それがあんたらの探しているものの一部だろう」
ウェルはそれを手に取った。手早くページを繰る。そこには几帳面な字で、霊薬の精製法が記されていた。
『夜の囁き』の抜粋。
ウェルは、息を呑んだ。これが本当に精製法だとしたら。ハミルトンは、実験に成功したことになる。
「まさか」
呟きは、ハルの口からも漏れた。
*
「不老不死の、霊薬ねえ」
ぽつりと呟く。そんなものがあるとも思えない。また、そんなものがあったら、面白くはない。終わりがあるからこそ、人生は楽しい。
そうは思わないか、と彼は年上の医師に尋ねたことがある。グィールの魔術師の問いに、錬金術師崩れの医者は答えた。
『もちろん。だから、俺は』
アンセルム・ハミルトン、という男の言葉が甦る。
彼が造りだしたもの。それは、不老不死の霊薬ではなかった。精製段階で間違えたのか、それとも偶然の産物なのか。ハミルトンは、奇妙な薬を作り出した。その名を、夜の囁きという。彼が生涯大切にしていた、錬金術の蔵書と同じ名前の薬である。
今となっては、その製造法を知るものはいない。
弟子ですら、伝えられていないのだ。他のものには一切、口外していないだろう。
(いや、まてよ)
樫の木の賢者は、ある人物の名を思い出した。ハミルトンの研究に直接関わっていたわけではないのだが。彼の研究に詳しいものが一人だけ、存在する。そして、その人物こそ、ハミルトンの研究書を所持しているはずであった。
「賢者」
声をかけられ、彼はふと顔を上げた。赤毛の少女が、こちらをのぞき込んでいる。彼女の青い目が、僅かに細められた。
「お客さん、帰ったみたいだけど?」
「ああ、そ」
適当に頷き、彼は立ち上がった。手元に残った冊子を見下ろし、どうしたものか、と小さくひとりごちる。少女は訝しげにこちらを見つめる。賢者、変だよという彼女にその冊子を預け、彼は木戸を押し開けた。
「出かけるの?」
「ん。ちょっとな。今日は帰らないかもしれない」
言って、彼は肩越しに手を振った。そのまま、はだしで表に出ていく。
寒風が、ひどく身にしみる。彼は黄色く靄のかかった街へと、ゆっくりと歩き出した。
*
――アリサ。
そう、彼は呼んだ。彼女のことを、別の女性の名で呼んだ。彼がその名を知っているはずがない。なぜ、彼がこの名を口にしたのか。それが分からない。
――アリサ。
数年前、同じ名で彼女を呼んだものがいる。懐かしそうに、彼女に微笑みかけながら。
――アリサ!
ハミルトンの声は、未だに耳に残っている。
*
「結局、無駄足だったってわけかい」
ハルの呟きに、しかしウェルは答えなかった。確かに、『樫の木の賢者』のもとにあった『夜の囁き』の抜粋には、不老不死の霊薬についての情報が細かに書き込まれてはいた。霊薬・エリクサを精製するために必要な道具。その製造工程。果ては出来もしない薬の効用まで、見果てぬ夢そのままに、師の文字が薄汚れた冊子中に踊っていたのだ。
しかし、今彼らが必要としているのは、書籍そのものだった。幻の薬の精製法などではない。美術的、歴史的価値の高い、『夜の囁き』という名の書籍を求めていたのだ。それは、全三巻揃って初めて、価値が出るものだという。ウェルの手元にある三巻目だけでは、安く買いたたかれるのが関の山。価値を知らぬものには、ゴミに等しい扱いを受けるだろう。ウェル自身、師の遺産ということで保管して置いたのだ。それでも、あの忌まわしい記憶を呼び起こすものとして、一時は処分を考えたことすらあった。
「とりあえず、あんたんちに一冊あるってことはたしかなんだよね」
彼女の言葉にウェルは我に返る。ああ、そうだな、と頷いてから視線を足元に落とした。
黄色い霧が、足に絡みつく。ねっとりとした、この街そのもののような霧が。
「後の二冊は、やっぱり神父さんが持ってる確率が高いから。また、聞きに行かないと」
霧の向こうで、ハルの声が聞こえる。
ハル――彼女の存在自体、霧のようなものだ。はっきりと姿を見せてはくれない。借金取り、とはいうものの何かが違うような気がする。彼女は、いったい何の目的で彼に近づいたのだろう。霧の向こうにいる女性は、その存在自体が謎だった。
けだもの長屋でウェルを襲った人物。それが、ハルでないとは言い切れない。
ウェルはそっと上着の下の短剣を探った。襲われてから、護身用に持ち歩いているのだ。アランダ・東区の治安が悪いことは十分承知している。が、まさか、護身刀まで持たなくてはならなくなるとは。
(世も末だな)
胸の内で結論を下し、彼は見えない天を仰いだ。アランダも、潮時かもしれない。
「ねえ、ちょっと。聞いてんのかい?」
耳元でハルの声が聞こえた。驚いてそちらを見やると、黄昏色の瞳が間近に迫っていた。青灰色の、澄んだ瞳。心の奥底まで見透かすような視線が、じっとウェルの闇色の双眸を見つめている。
「まったく、あんたもあの魔術師も、ろくなもんじゃないね。いいのは見かけばっかりかい。中身は空っぽ、って」
彼女のイヤミに、ウェルは目をつり上げる。
「人のこと言えるか、この借金取りが! てめえは、金のことしか頭にないんだろ。しょうもねーよな、くそばばあ!」
「何だって?」
今度はハルが目をむく番だった。彼女は唇を震わせて、ウェルに詰め寄る。
「その金も返せないようなヤツが、偉そうなこと言うんじゃないよ! 借りるときだけぺこぺこ頭下げて、取り立てに行ったらこれだ」
「うるせえな、俺は、あんたから金なんぞ借りてねえ!」
「――!」
ハルは目を細め、拳を固めた。霧に溶け込んだ白い手が、微かに震えている。その手をふっと下ろし、彼女はウェルに背を向けた。勢いを削がれたウェルは、どうしたものかと瞳を揺らす。
「そうだよねえ。あんたに言っても、仕方のないことだよねえ」
声は、震えているようだった。ハルの気配が遠ざかり、ウェルは反射的に後を追う。このまま彼女が、霧に中に消えてしまうのではないか。ふと、そんな気がしたのだ。が、ハルは橋の欄干にもたれ、ウェルが来るのを待っていた。彼が訝しげに顔をのぞき込むと
「借金取りってね」
徐に切り出した。「極悪人みたいに言うけどさ。借りたもんを返さないほうがよっぽどあくどいよ。金貸しだって、立派な商売だ。商品を売る代わりに、金を貸す。それだけのことだろ? なのに、なんでそこまでいわれなきゃならないんだい?」
「ハル?」
「借りておいて、何食わぬ顔して。取り立てにいったら、鬼畜扱い。ひどいよねえ」
彼女の声は、か細かった。泣いているのか。ウェルはそう思ったが、違った。彼女は泣いてなどいない。青い瞳を、暗い川に注いだまま、独り言のように言葉を続ける。
「あげくに、金を返さずに逃げちまう。貸している方はたまったもんじゃないよね。それで生活しているんだから」
「それって」
「昔の話だよ。あたしにも、惚れた男がいてね。そいつのうちが、金貸しだった。そいつも、そいつのオヤジもいい人で。人の良さにつけ込まれて、借金踏み倒されて。結局親子で首くくっちまった。許せなかったね。踏み倒したヤツは、どうしていると思う? 貧乏で困っているって? とんでもない。豪勢な生活しているんだよ。金が無くて払えないならまだしも、払えるのに踏み倒して、あげく人の命を奪ったのに何とも思っていないんだ。許せるもんか」
ハルは、欄干に拳を叩きつけた。鈍い音が、響く。ウェルは返すべき言葉が見つからなかった。ハルの華奢な肩が震えている。そこにそっと手を置いて、彼女の顔をのぞき込んだ。再び、青灰色の瞳が彼を見る。僅かに潤んだ、黄昏の瞳が。
「ウェル?」
彼女の声に、彼は慌てて手を離した。その手を背に回し、照れ隠しにかぶりを振る。
「わりい。俺」
言いかけるウェルに、ハルは冷めた笑みを返す。なにいってるんだい、とその唇が動いたように見えた。そのせつな。
「危ない!」
ハルが叫んだ。その叫びを聞く前に、ウェルは、大きく飛び退いていた。ハルも彼と同じように身を翻し、堂に入った形で身構える。チッ、という鋭い舌打ちが聞こえ、刃物が湿った空気を切り裂いた。
ウェルは咄嗟に短剣を抜き放ち、迫る凶刃を弾いた。キイン、と金属がぶつかり合う音がする。霧の中に、火花が散る。同時に脇からもう一つの殺気がぶつけられた。棒らしきものが唸りをあげて頭部に向かってくる。ウェルはこれを僅差で交わし、暴漢の足を逆に蹴り上げた。短いうめき声が聞こえ、人の倒れる音がする。「おい」と、うわずった男の声がした。
「……!」
聞き覚えのある声だった。ウェルは初めに襲いかかった男の方に目を向ける。霧に阻まれてその姿は見えない。しかし、この声。忘れるわけがない。ウェルはその人物の名を言った。
「グィール人が!」
正体がしれた暴漢は、唾とともに忌々しげに吐き捨てる。『馬の首』の常連。賭博師であるその男は、開き直ったのか今度は正面からかかってきた。
「教会通りの殺人鬼が!」
言葉にウェルは顔をしかめた。ついに行動に移すまでになったのか。言葉で罵るだけではなく。
あの、居酒屋で私刑にあった青年のように、数人がかりでいたぶるつもりか。ウェルは怒りにまかせて、賭博師に拳を叩き込んだ。ぐえっ、と叫んで小柄な男は後方に吹っ飛ぶ。ウェルは肩で息をつき、側にいるはずのハルを探した。
「ハル!」
まさか、彼らは関わりのないハルにまで危害を加えたのか。ウェルはもう一度彼女の名を呼んだ。
「来ないで!」
それが彼女の答えだった。ウェルは思わず足を止める。薄ぼんやりとした、街灯の下で。彼女は三人の男と対峙していた。
「ハル!」
ウェルの声に、一人がこちらを振り向いた。男は引かれるようにウェルに獲物を向けてくる。ウェルは本能でそれを払った。視界の隅で、ハルもまた凶刃を受けている。街灯の明かりを反射した白刃が、彼女の体に吸い込まれそうになる。
「ハル!」
そのとき。ハルの袖から銀色の鎖が放たれた。それは男の腕に絡まり、ハルは難無く刃を奪う。それを相手に突きつけて、彼女は凄惨な笑みを浮かべた。
「ナイフってのはね、こうやって使うんだよ」
ひっ、と男が悲鳴を上げた。ハルは容赦なく彼の服を引き裂く。哀れ男の一張羅は、ただのボロと化していく。それを見た、もう一人の男が、仲間の仇とばかりにハルに襲いかかった。
そこに。数人の足音が響いた。新手か、と身構える二人の耳に笛の音が聞こえる。市警だ。それに気づいた賭博師達は、各々慌てて逃げ出していく。それを追いかける、数名の足音。そうして、そのうちの一つはこちらに向かってやってきた。
「大丈夫ですか」
ほのぼのした声に顔をあれば、それはいつぞやの巡査だった。確か、アキノといったか。彼もこちらに気づいたらしく、あれ、と頓狂な声を上げる。
「お医者さんと、借金取りさんじゃないですか」
ハルも奇妙な偶然に呆然としているようだった。
*
「ははあ、グィール人、ですか」
二人の説明を聞いたアキノは、頷きながら顎に手を添えた。
「そりゃ、とんだ災難でしたね」
「まったくだよ」
答える二人に、アキノは苦笑を返す。
「いやいや、まったくね。新聞が妙なことを書き立てるから」
「新聞?」
「いえね。ほら、こないだの事件。あのときに塀に書かれていたでしょ。あの言葉を誰が知ったのか、新聞社に投書したんですよ。それで、今日は軒並みグィールの人が襲われてね」
――グィール人に文句があるか
その一文を思い出し、ウェルは息を呑んだ。あの文が、公開された。書いた主と、多分彼らしか知らないであろう、あの一文が。また、好き者の市民が、話に尾ひれを付けて騒ぎ立てるのだろう。彼らの不満の対象、それが見つかったことへの喜びとともに。
「今日は、グィールの人ばかり、何人も襲われてね。今も、そこのグィール人街、そこで放火があったって」
「放火?」
ウェルは声を上げた。グィール人街。血の気が一度に引いていく。ハルも顔を強張らせ、ウェルの腕を掴んだ。ウェルは強く唇を噛み、地面を蹴った。
「ランディール! 賢者!」
*
蝋燭の炎が揺れていた。
神父は一人、祈りを捧げる。おのれの呼吸さえもが聞こえるような静寂。その中に身を置いていると、不思議と感覚がとぎすまされていく。背後で扉が開いたのも、そこから人影が入り込んできたのも。振り返らずとも分かった。そう。ここ暫く、通い続ける人物であることが。
「幾度いらしても、同じことです」
彼の、サンドバルの答えも変わらなかった。
「たとえあなた様でも。私は申し上げる気はございません」
毅然とした物言いに、訪問者・エドワードは何も言葉をかけなかった。これも常と変わらない。こうした不毛な会話。否、会話ですらない一方的な拒絶の言葉だけが、二人の間をつないでいる。国教の首長たる帝室の後継者と、旧教の神父。互いに信ずるものさえ相容れぬ二人の間に、意志の疎通などもとから無いのかもしれない。
「私がお話しするのは、彼の弟子であるグィール人だけです。他の方には、一切」
エドワードは一歩踏み出した。これは神父も予想していなかったことであろう。はっと肩越しに彼を振り返る。黒衣の皇太孫は、静かに神父を見下ろした。
「その人物になら、話すというのか。何もかも」
問いに、神父はためらわず頷いた。
「ご存じなのですか。その人物の居場所を」
これには、かぶりを振る。それはこちらが知りたいくらいだ、との呟きは、果たして聞こえたかどうか。蝋燭の燃える音が、再び訪れた静寂を強調する。
「知っているぜ」
突如として聞こえた声に、二人は入口に目を向けた。そこにいたのは、赤毛の青年。入口の壁にもたれて、こちらを皮肉げに見つめている。白い、異国の衣装から、彼がグィールの神官であることは容易に想像がついた。二人の訝しげな視線を楽しむかのように、青年は口元を歪めた。
古代の彫刻の笑み。うっすらと浮かぶそれを、二人の聖職者はどのように受け止めたのか。
「ランディール・ブロンディ」
自己紹介をしつつ、青年は壁から離れる。
「グィールの神官だ。樫の木の賢者――人は、そう呼ぶけどな」
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