第2話 プリンセス・マギー
大陸から飛び出した二本の腕。そうよばれる半島の延長線上に、アルビオン島はあった。地図で見ると、耳を立てた兎がちょこんと座っているような、愛嬌のある形をしている。お世辞にも大きい島だとは言い難い。大陸が獅子なら、アルビオンはまさしく子兎である。この島が現在、世界の制海権を掌握しているのだ。海を制したものは自ずと世界の覇者となる。今やアルビオンは世界に冠たる当主国だった。
そのアルビオンの脇に、これまた小さな島がある。蝶の形をした島、グィールである。ここは古くからアルビオンの植民地となっていた。緑豊かなこの土地は、アルビオンの食物庫と呼ばれている。文字通りここで本国の食料を生産しているのだ。
ところが、ここ二十年ばかり、気候不順のせいか不作が続いている。本国に輸出するどころか、島内で必要な分の食糧の確保もままならない。それでも役人は強引に穀物を徴収していく。飢えた人々は食料を求め暴動を起こす。鎮圧のための軍隊が出動する。民衆と軍隊の衝突が起こり、無益な血が流される。世情は当然の如く悪化していく。悪循環の結果として、島を脱出するものたちが増加する。グィールからの移民は、大陸や本国へ大量に流出していくのだ。結果として畑は荒れ、穀物不況は深刻になる。
ウェルの家族ももとはグィールの農民であった。しかし他の多くの農民たちがそうであるように、多額の負債を抱えどうにも行き場がなくなって、最も近いアルビオンに移住してきたのである。だが、本国には渡ったものの、帝都では肝心の仕事がない。そこで一家は帝都から北、ハイランドと呼ばれる高山地帯に職を求めて旅立った。ハイランドでは、炭鉱労働者が不足している、そんな噂を頼りにしてだった。幸運にも両親はそこで職を見つけ、一家は漸く息をつけるようになった。
そんな生活が、二年も続いたころだろうか。父親の体調が徐々に悪化してきたのは。
「塵肺による呼吸不全」
内科医でも、ましてや外科医ですらないもぐりの医者がそういった。父は日がな一日咳にとりつかれ、終いには起きあがることすらできなくなっていた。そんな状態で仕事など満足にできるはずはない。
母は一家の食費を捻出するために、それまでしていた洗濯女から売春婦に変わった。いな、昼は洗濯女、夜は売春婦と二つの顔を持ったのだ。ウェルは幼心にそれがとても悲しかったことを覚えている。酒の匂いを漂わせ、見知らぬ男と親しげに話す母。母が別人に見えた。このまま自分たちをおいて、どこかに行ってしまうような気がした。その予感は、すぐに現実のものになる。
母が若い炭坑夫と逃げたのだ。彼と病床の父を残して。それでも、母は良心が痛んだのだろう。幼い妹と弟は、一緒に連れていった。一人で暮らせる、と母が勝手に思いこんでいたウェルは、取り残された。
妻に捨てられた、と知った父は、生きる望みも潰えたか、すぐに帰らぬ人となった。
ウェルは今度こそ本当に、孤独になってしまったのだ。彼は苦い思い出の残る炭坑の街を捨て、帝都に向かった。百万の人口を擁する<世界の首都>アランダへ。
そこで、彼はマーガレットに出会った。二人が初めて顔を合わせたのは、東区の救護院。つまり孤児院だった。この時代、移民でしかも孤児という境遇は決して珍しくはなかった。
大人たちはみな、アランダの幻想に惹きつけられ、その現実に失望し、貧しさの中に沈みながら命を失っていくのだ。マーガレットもグィールからの移民の娘で、境遇はウェルと似たり寄ったりだった。酒におぼれた父を嫌い、母が家を出たのだ。父は娘を救護院に放り込み、その後行方しれずとなった。
ウェルは不慣れな街をさまよっているうちに、市警に補導され、同じ救護院に送り込まれた。
救護院の生活はひどいものだった。食事はまともにとらせて貰えず、そのくせ労働だけは強いる。裏庭に作られた畑は自給自足と銘打ってはいるがそのうち大半は職員の食事だった。政府から支給される助成金は職員の給与と娯楽費に消えた。職員は気に入った子供を愛人のように扱い、飽きると人買いに売り払った。売られた子供はミートパイになるのだ、と。まことしやかな噂も流れた。病気になった子供は殺され、畑の肥料にされた。
*
「あのころは、ひどかった」
ウェルは呟くようにいった。マーガレットは何も答えず、小さく息をつく。
マーガレットが間借りしている古びた共同住宅は、教会通りからほど近い、通称賭博師通りの一角にあった。昼間から賑やかな通りで、時折路上で賭ボクシングなども行われる。今日はその開催日なのか、やけに人通りが多い。
この時代、ボクシングといえば下層階級の娯楽で、上流階級はもっぱら競馬とラグビーに心血を注いでいた。
寝台と粗末な卓子だけで一杯になっている狭い室内に、彼女はウェルを招き入れた。床には彼女が呑んだのだろうか、ジンの空き瓶が転がっている。ウェルはそれを冷ややかに見下ろした。マーガレットも他の娼婦と同じく、酒におぼれているのか。知らず、険しくなる表情をマーガレットは見とがめて、
「これ? エルナンが呑んでるのよ。あたしも、少しやるけどね」
幾分堅い口調で告げる。エルナンとは、道すがら聞かされた彼女の情夫の名である。今年に入ってから、ここで同棲を始めたと言っていた。五年前に結婚した夫とは、大陸に渡ったあと別れたようだ。この話になると彼女が言葉を濁すので、ウェルも追及はしなかった。思い出話も、語れる部分とそうでない部分がある。ウェルにしても、絶対にマーガレットに知られたくないことが、二つだけあった。
「やっぱり、ウェルはお医者になったのねえ。あの、あたしの手当てをしてくれた先生のお弟子にしてもらってたんでしょ」
「まあね」
「先生、元気?」
「死んだ。二年前に」
「そう。病気? 医者の不養生ってヤツ?」
「いや。事故だ」
事故。本当にそうなのか。自分がそう思いこんでいるだけではないのか。
触れられたくないことの一つ。そこにマーガレットは悪気無く踏み込んだ。彼女はさらに質問を投げかけてきたが、ウェルはそれを無視した。そうするより、方法がなかった。
空き瓶をつま先で蹴飛ばし、ウェルは足の歪んだ椅子に腰を下ろす。マーガレットが目の前に、ジンの瓶を置く。もてなしのつもりなのだろう。ウェルがかぶりを振ると、彼女は自分で瓶に口を付けた。白い顎をのけぞらせ、一気に酒をあおる。
プリンセス・マギー。こういうとき、彼女は娼婦の顔になる。
濡れた唇を舐める、赤い舌。ウェルは知らず、彼女から視線を逸らした。脳裏にハルの屈託のない笑顔が浮かぶ。なぜ、あの女借金取りの面影が、と苦笑する。
あれから、ハルは仕事があるといいおいて、かえってしまった。二人が知り合いだと知って、変に気を回したのだろう。そういう関係ではない、と彼が何度も否定したのだが。
「幼なじみなら、なおさらさ。つもる話に他人は邪魔なもんだよ」
知った風なことをいい、手を振りながら去っていった。
マーガレットは以前と変わらぬ困ったような、はにかんだような、妙に幼い表情を見せて、ジンの瓶を手に取った。そしてそれがカラであることを思い出したのか、古びた机の上に乱暴に投げ出す。それから、髪に巻いていた赤いバンダナの端を弄び、ほどく。柔らかな金髪が細い肩に落ちた。
彼女は上目遣いにウェルを見上げる。唇が何かいいたそうに、二、三度動いた。
「具合、悪いんだっけ?」
彼女の台詞を待たずして、彼は問いかける。故意に話題を変えたわけではないが。そう言った瞬間、マーガレットの顔色が変わった。
先程、体を支えたときにわかった。彼女は、マーガレットは妊娠している。
ウェルとて、ヤブではない。たとえ低い水準であったとしても、正規の教育を受けたものだ。とくにこのところは、堕胎を専門に行っている。イヤでも彼女の変調には気づいてしまう。
彼女は彼の意思がわかったのか、軽く唇を噛んだ。
「わかっちゃったか」
「……」
「こども、ね。いたら困るのよ。お金ないし。仕事にも影響するし」
「
皮肉めいた答えに、マーガレットは僅かに目をつり上げた。
「でも。子連れでの仕事は大変なの。二人分、ううん、三人分かせがなきゃならない」
三人目は同棲相手だろう。ウェルは肩をすくめた。売春婦のヒモに成り下がった男に、まともな稼ぎを望むのは愚だ。それも、マーガレットのように若く美しい売春婦のヒモともなれば、働くのがばからしくなる。彼女であれば、一晩に普通の娼婦の三倍は稼ぐだろう。
「まあ、別に俺の体じゃないから。決めるのはあんただけど」
我ながら冷たい台詞だとは思う。彼女の顔色を窺うと、やはり普通の娼婦のように、あからさまな怒りを宿していた。彼女は拳を机にたたき落とし、すくい上げるようにこちらを見上げる。ウェルはかぶりを振り、両掌を空に向けた。
そのとき。
乱暴に扉が開き、一人の男が姿を現した。ジンの瓶を抱え、傾いた体を壁に預けている。黒髪に黒い瞳、のっぺりとした顔立ち。娼婦のように、痩せた顔の中で目ばかりが光っている。無精ひげに覆われた顔は、年の割に老け込んでいる。マーガレットの話では、彼・エルナンは二十三歳とのことだった。だが、今目の前に立つ男は、どう見ても三十はすぎている。生気を失った暗い双眸は、頼りなげに狭い室内を見回し、そこに見知らぬ男の存在を確認すると、ハッとしたように見開かれた。彼の情婦が客を連れ込んだ、とでも思ったのか。ごくり、と唾を飲む音が聞こえ、エルナンは一歩下がった。怒鳴るのかと思いきや、ばつが悪そうに目をそらす。
ひどくゆったりとした動作できびすを返そうとしているその男に、声を掛けたのはマーガレットだった。
「お医者さんよ」
エルナンはのろのろとこちらに向き直る。酒のせいで濁った瞳が、ウェルを絡め取る。そのねばついた視線に、彼は身震いした。かつてこれと同じ目を見たことがあったのだ。そこから忘れかけた記憶が引き出されそうになる。ウェルは強く拳を固めた。
「メグ。俺、帰るわ」
立ち上がるウェルを、マーガレットは笑顔で見送る。先程の怒りは、すっかり消え失せたのか。元々彼女にはそういった気分屋的な面があったのだが。
「じゃあね、ウェル」
手を振る彼女を、エルナンは感情のない瞳で見つめていた。
気まずい雰囲気を背に感じながら、ウェルはアパートの階段を駆け下りた。
*
幼なじみの恋人。そんなものに逢うとは思っていなかった。なんだか間男をしてきたような気分である。とても後味が悪い。ウェルが帰ったあと、マーガレットは情夫になんと説明するのだろう。さっきは「お医者さん」と言っていたが。それだけではないことは、酒で鈍った頭でもわかるだろう。エルナンは、ウェルをどう見ているのだろうか。
「恋敵、ってまさかな」
思わず苦笑する。そう思ってくれれば、少しは気も晴れるのだが。
これは嫉妬というものなのだろうか。
限りなくそれに近いとは思う。娘に恋人を紹介された父親の気持ち。そのほうが正しいのかもしれない。
マーガレットも一人前になったのだ。一度は結婚し、家庭に入っている。救護院でいつもいじめられて泣いていた、弱虫メグはもういない。守ってやらなければならない妹は、時の彼方に消えてしまった。
ウェルにしてやれることは何もない。いや、せめて堕胎ぐらいか。それもかなり虚しいものがある。
夕暮れの裏路地を歩きながら、彼は昼間のことを思いだしていた。五年ぶりに逢った幼なじみ。その面影が、頭から離れない。
マーガレットは、娼婦になっていた。よりによって。
女工やお針子、洗濯女。ごく一般に女性が就ける仕事は、賃金が安い。少しでも裕福な生活をするには、売春が一番早いという単純な理由から、近頃は身を売る女性が多くなった。無論、大半の女性は生活のためである。しかし中には、安易に金を手に入れるためにこの道に入るものが急増している。そういった、特に若い女性たちは街娼と呼ばれる路上売春婦ではなく、売春宿に登録し、そこで客を取っているのである。宿の娼婦は、例外なく美しく着飾り、食事や住居も保障されている。そんな生活にどっぷりと浸かってしまった女は、二度と這い上がれない。その世界から抜けようとしない。
街娼も、そうでない売春婦も、からだを売ることの意味を知っているのだろうか。
この時代に、こんなことを言う自分の方がおかしいのか。ウェルは自嘲した。それにしても、あの一言には勇気がいる。
――僕を、買ってください。
これだけの言葉を紡ぐのに、一体どれだけの苦痛を伴ったか。
(ばかやろ)
足下の小石を蹴飛ばす。それは音もなく路地を転がり、瓦斯灯の柱に当たった。黒い陰をたどった視線が、開けた通りを捕らえる。教会通り。今日は何度この通りを往復したことだろう。マーガレットの家を出てその足で居酒屋へ行き、早めの昼食を済ませた。そのあと闘技場に賭ボクシングを見に行き、二、三試合観戦したのち、あてもなく移民街をさまよっていた。あてがないつもりでも、足は決まって教会通りに向いている。住み慣れた場所だからかもしれない。
ウェルの師が開業していたのも、教会通りだった。今の下宿先よりも多少ティムス川に近い、古着屋の二階である。徒弟は師の家に住み込みで技術を学ぶというのがしきたりとなっていたから、彼はそこに同居していた。師が鬼籍に入って、その借金のカタに家財道具いっさいを差し押さえられたため、ウェルは退去を余儀なくされ、現在の共同住宅の中二階に転居したのだった。
教会通り。ここには良くも悪くも縁がある。
七年前、師と出会ったのもこの通りだった。そして。彼と出会ったのも。
「!」
通りに一歩踏み出したせつな、全身の筋肉が硬直した。通りの反対側に、馬車が止まっている。黒塗りの、華美ではないが装飾の施された馬車である。辻馬車ではないことは一目でわかった。車窓のすぐ脇にある紋章。薔薇をかたどったそれには、見覚えがあった。
「エディ」
知らず、その名が口をつく。折しも馬車から一人の紳士が降り立った。黒い外套、小振りのステッキ。帽子をかぶっているせいで、顔を見ることはできない。が、それが誰であるか、ウェルはわかっていた。そらそうとしても、なぜかそちらに目がいってしまう。
その視線に気づいたように、紳士がこちらを向いた。帽子の下に潜む双眸が、自然、ウェルに注がれる。広い通りを隔てて、二人の視線がしっかりと結ばれた。
「……?」
紳士が何か言ったようだった。声は緩やかに街を覆い始めた霧に吸い込まれる。通りを行き交う商人たちの、甲高い呼び声が代わりに彼の耳に響いてきた。
「あ」
紳士はこちらに足を向けた。驚くほどの早さで通りを横切ってくる。かき分けられた通行人が罵声を浴びせるのもものともしない。ただひたすらウェルだけを見つめて近寄ってくる。
ひゅう、とウェルの喉が鳴った。それが全身の呪縛を解いたのか。かれはきびすを返した。紳士から逃げるように、路地裏の雑踏に紛れ込んでいく。
悪夢が、追いかけてくる。
ウェルは悲鳴を上げそうになる自分を叱咤しながら、無我夢中で走り続けた。
そうして、どれくらい経ったろうか。
漸く紳士を振りきったところは、移民街の外れあたりだった。
通称<けだもの長屋>。先日ハルに連れられて、ベスとか言う中年の女を診に来た覚えがあった。ここは東区の中でもことさらに寂れた場所である。
アランダ名物、といわれる瓦斯灯もここにはない。夕闇があたりを覆い尽くせば、ここは夜に飲み込まれる。それを知ってか人通りはない。かつてはそれなりの賑わいを見せたであろう居酒屋や劇場も、朽ちかけた看板を虚しく軒にぶら下げているだけだった。四つ辻掃除人もここには益なしと見ているのか、路上は糞尿や野良犬、野良猫の死骸で汚れている。
場末。そんな言葉はこの通りのためにあるのではないか。
ウェルは息を整えながら、汚物でぬかるんだ道を歩いた。さすがに、ここまでは追ってこないだろう。そんな油断が、神経を鈍らせた。背後から迫った殺気に、不覚ながら全く気づかなかったのだ。
「え?」
異常に気づいたのは、刃が間近に迫ったときだった。とっさに身をかわすが間に合わない。ブシュ、とビシュ、の中間のような音をたてて、肉が切り裂かれた。
「くっ!」
血の滴る左腕を押さえ、ウェルは半歩飛び退いた。居酒屋の壁に、背を預ける。ほぼ正面にたった襲撃者は、暗がりの中からこちらの様子をうかがっているようだった。
人違いか。それとも、ウェルと知っての襲撃か。おそらく後者の方だろう。ウェルはそう判断した。ここ数ヶ月、常につきまとっていた視線。あの主がついに行動に出たのだ。
「なんで、俺を狙う?」
肩が激しく上下する。襲撃者は答えず、僅かに身じろぎした。闇の中から生えた刃が、心臓めがけて繰り出される。ウェルは体を反転させてそれをよけた。切っ先が石壁に突き刺さる。金属の擦れる、甲高い音がした。
「つっ」
刃を避けるたび、壁に血がへばりつく。それを辿るように、殺気が追いかけてくる。かなりの手練れの仕業だ。避けるのに精一杯で、反撃の糸口が見つからない。
襲撃者は初めからそれがねらいだったのか。ウェルはついに袋小路に追いつめられた。
「くそ」
もう、あとがない。ひび割れた石塀にもたれたまま、ウェルは相手を見据えた。夕日の名残の一滴が消えた今、明かりは殆どないに等しい。敵の姿は、輪郭すらもおぼつかなくなっている。それでも必死にこらした目に、刃が鈍い光を放ちながら迫るのが見えた。
「!」
一か八か。ウェルは身を乗り出した。手刀で凶器をたたき落とす。凶刃はウェルの頬を掠め、宙にはじき飛ばされた。予期せぬ反撃に、襲撃者は大きく後方に飛び退いた。ウェルは素早く足で短刀を蹴り上げる。それは過たずウェルの右手に収まった。
形勢逆転。ウェルは短刀を逆手に構える。襲撃者は動く様子はない。こちらの余力をはかっているのか。
と、ふいにウェルのもたれている塀が動いた。必然的に体が背中から地面に叩きつけられる。塀だと思っていたのは、木戸だったのだ。仰向けに倒れたウェルの前に、脚が現れる。もう一人、仲間がいたのか。起きあがろうと半身に力を入れるが、痛みのせいで腕に力が入らない。
ここまでか。ウェルは半ば覚悟を決めた。すると。
「なに? これ、人殺し?」
女性の声がした。それが呪縛を破ったようだ。襲撃者は、きびすを返した。遠ざかる気配が、ウェルに安堵の溜息をつかせた。
「やだ、うそ」
女性は足下に転がる青年を、手にした小振りの傘でつついた。汚物に等しい扱いである。ウェルは我ながら情けなくなってきた。
「ねえ、あなた、生きてるの?」
声の主が顔をのぞき込んでくる。その、青い瞳に見覚えがあった。
「メグ?」
半信半疑で彼は女性を見上げた。本当に彼女なのか。だとしたら、なぜこんなところにいるのだろう。
「うそお。ブランウェル?」
彼女も頓狂な声を上げた。街娼・マーガレット。彼女はまじまじと足下に転がる幼なじみを見つめている。
*
「本当に、大丈夫なの?」
教会通りの共同住宅。ウェルが住むその部屋まで、マーガレットは付き添ってきた。
「ねえ、お医者さんよぼうか」
「俺、一応医者なんだけど」
「でも、ちゃんとしたお医者さんに見て貰った方がいいわよ」
「どういう意味だ、それは!」
傷の痛みと失血と。かなりの深手を負わされたのに、失神しないのが不思議なくらいだった。意識は朦朧としているが、虚勢を張るには充分だった。マーガレットに支えて貰いながら、中二階の自室に入る。卓子の上には、朝食の残りが放置してある。今朝、ハルにたたき起こされ、慌ただしく食事をとったせいだ。
「メグ、悪い。そこの箱、あけてくれ」
寝台に腰を下ろしたウェルは、目で棚の上の木箱を示した。マーガレットは指示通りそれをおろし、こちらに運んでくる。古ぼけた木箱を、白い指が丁寧に開いた。中には包帯、傷薬など応急処置に必要なもの一式が入っている。ウェルは自ら包帯を掴みだした。が、手の感覚が麻痺してきたせいか、あえなくそれを取り落とす。
「かなりまずいんじゃない」
マーガレットは拾った包帯を彼の利き腕に握らせながら、苦い声で呟いた。
ウェルは左利きなのだ。利き腕をやられてしまっては、満足に手当てもできない。しかもここまで無理をしたせいで、熱もかなり高くなっている。掠めた指先は、異常に熱い。マーガレットは強引に彼を寝台に横たえた。
「お医者さん、呼ぼう。ね、ウェル。それとも、病院の方がいい? もう少し、我慢できる?」
ウェルはかぶりを振った。
「いや。薬が、あるんだ」
「くすり?」
熱に侵され始めた頭をもたげ、必死に室内を見回す。こういうときに使え、と言われた薬があったはずだ。師が生成した傷の特効薬。効くかどうかはわからない。が、この際そんなことはどうでもよかった。
この痛みを何とかしたい。
その気持ちの方が強かった。
「メグ」
もう一度、彼は幼なじみを呼んだ。彼女は「なあに」と問い返す。
「枕の下にある、箱。そっちの箱、出してくれ」
これを使うとは思っていなかった。マーガレットが取り出した箱をしげしげと眺め、右手で蓋を開けた。そこには先程とは異なり、小指ほどの大きさの瓶が三本並んでいる。
あのときのままだ。
ウェルはその一つを摘んだ。親指と人差し指を使い、器用に栓をはずす。つん、と酒に似た匂いが鼻を突いた。
「これを、傷口に」
瓶をマーガレットに差し出す。彼女がそれを受け取ったのを見て、彼はシャツを引き裂いた。左腕が露わになるが、血が腕全体を染めており、どこが傷口かわからない。マーガレットは数秒躊躇し、思い立ったように彼の腕に唇を押しつけた。
「ぐっ」
舌と唇が傷口を探る。決して乱暴ではなかったが、傷に触れられるたび、激痛が走った。ウェルは敷布に爪を立て、必死に悲鳴をこらえる。
彼女は薬品を口に含むと、傷に向かって吹きかけた。
「……!」
ウェルの体が硬直する。マーガレットは構わず、二度、三度とそれを繰り返した。
「すまない」
包帯を巻き終えたマーガレットは、小さく笑ってかぶりを振った。
ウェルはぐったりと寝台に身を預ける。頭が重い。腕が痛い。気分は最悪だった。
「だって。ウェルは昔、あたしのこと助けてくれたでしょ。命の恩人だもの。これくらい、当然よ」
「ああ」
ウェルは目を閉じた。
苦い思い出が蘇ってくる。
泣き叫ぶ少女の声。肉を打つ、鞭の容赦ない音。
救護院の職員は、機嫌一つで孤児たちを虐待した。
気絶するまで角材で殴りつける。
声が出なくなるまで鞭で打つ。
そんなことは日常茶飯事だった。
酷いときは、半殺しのまま、雪の降る中庭に数日間も放置し、それでも生きていれば数人で暴行を加え、飽きると川に捨てたりした。
救護院の孤児たちは、常に生傷が絶えない。
また、職員は何かと理由を付けては、規則を破ったとして、孤児を倉庫に閉じこめていた。その場合、いっさいの飲食は与えられない。殆どの孤児たちは、そこで命を落としていった。
ウェルもあるとき倉庫に放り込まれた。その前に幾度も鞭打たれた体は傷つき、体力はないに等しかった。このまま何も口にせず、数日を過ごしたら。彼は間違いなく息絶えてしまうだろう。彼は半ば覚悟を決めて、倉庫の隅にうずくまっていた。
――ウェル、これ食べて。
マーガレットは、いつも庇ってくれる彼を兄のように思っていたのだろう。こっそりと自分の食事を運んできてくれた。おかげでウェルは命を長らえることができたのである。ところが、それが職員の知るところとなった。マーガレットは捕らえられ、屈辱的な姿で鞭打たれた。
もともと病弱であった彼女は、その仕置きに耐えられなかった。折檻が終わらぬうちに虫の息になっていたのである。
――弱いのは、つまらないねえ。
職員たちは笑いながら、彼女をゴミだめに使っている穴に投げ込んだ。それを目の当たりにして、ウェルの中で何かが切れた。
彼はマーガレットを連れて救護院を脱出したのだ。
――妹が、妹が大変なんです。
やっとの思いでたどり着いた西区で、彼らは医者という医者をまわった。雪道を裸足で駆けずり回り、内科医、外科医、薬剤師を問わずその扉を叩いた。彼の迫力に思わず顔を覗かせた医者たちは、そこにいるのが泥まみれ、血塗れの子供だと見るや、あっさりと見放した。無理もない。薄汚れた浮浪児が、治療費など払えるはずもないのだ。医者は金無くしては動かない。ウェルは疲れたからだを宥めながら、アランダ中をさまよった。そうして。
――ぼーず。どうした?
教会通りにやってきたとき、ハミルトン医師に出会ったのである。お気楽もので人のいいその外科医は、彼らに手を差し伸べてくれた。ハミルトンは二人を自宅に招き入れ、マーガレットの手当てをしてくれたのである。
――こりゃあ、随分酷くやられたもんだ。
傷のひどさに、医師は唸った。この傷では、彼の手に負えない、と。
外科医と名は付いているが、東区の医者のできること、などたかがしれている。素人療法に毛の生えたくらいのものだ。止血と消毒と、包帯を巻くこと。たったそれだけのことしかできない。いかんせん、治療に必要な道具がないのだ。
そう言われてうなだれるウェルに、
――そんな顔、すんなって。なんとかしてやるから。
言って、青年医師は知り合いが勤めているという西区の病院に紹介状を書いてくれた。
――高くつくけど、命にゃあかえられんだろ。
師の言葉は忘れられない。
青年医師は、借金までして縁もゆかりもない小娘の治療代をつくってくれたのである。しかも担保は、医師の診療具一式と、蔵書全冊だった。
嬉しかったが、却ってその厚意が重かった。ウェルは、自分の手で治療費を稼ごうとした。しかし、十四になるやならずの少年が、そんな大金を作れるはずがない。ウェルは悩んだ。悩んで、――街に立つことにしたのだ。
――僕を、買ってください。
生涯に一度、言ってしまった言葉。
それを知った医師は、怒りはしなかったが寂しげに目を伏せた。
――そんなことして。後悔しないのか。それに、メグが喜ぶと思ってるのか?
痛い言葉だった。でも、こうするより他はなかった。結果的に、ウェルの稼いだ金で医師の財産は守られた。マーガレットの命も。これで良かった、と思うより他はない。
「ごめんね、ウェル」
彼女は気づいているのだろうか。自分のために、身を売った男がいることに。
キャサリン朝では、男色は御法度。売る方も買う方も、絞首刑を覚悟しなければならない。ウェルもこのことが知れれば、間違いなくアランダ塔送り。数日後には裁判に掛けられることもなく、処刑される。
そんなことはどうでもよかった。罪よりも何よりも、マーガレットに知られるのはいやだった。
彼女にだけは。
「ごめんね」
グィール語で、彼女が子守歌を歌っている。ウェルはそれを聞きながら、ゆっくりと意識を手放していった。
*
翌日。目が覚めたときには、すっかり熱が引いていた。腕に力を入れても、それほど痛まない。そっと半身を起こし、腕を見下ろす。白かった包帯は赤黒く変色し、腕にべったりと張り付いている。ウェルはゆっくりと包帯をほどき始めた。
「う……っ?」
患部に密着していた油紙を取り除いたとき、言いようのない恐怖が全身を駆け抜けた。
傷が塞がりかけている。あれだけの深手が。昨日今日で治るはずのない傷が。
あの薬のせいなのか。ウェルは傷口を掌で包み込んだ。あり得るはずがない。あってはいけないのだ。こんなことは。彼はがっくりとうなだれた。
「どうしたの?」
マーガレットの声がする。どこにいるのだろう。もう、帰ったと思っていたのだが。
「メグ?」
そっと声のしたほうを振り返る。傍らに、幼なじみの娼婦が横たわっている。しかも、半裸で。ウェルは傷口を見たときよりも、さらに深く肩を落とした。
「メグ。おまえ、商売した?」
「やだ」
マーガレットは、けたたましく笑った。両手を伸ばし、「よいしょ」と勢いをつけて起きあがる。
「熱が出て、震えていたからあっためたの。これ、無料奉仕だから。ウェルからお金は取れないよぉ」
「あ、そう」
「喜ばないの? 教会通りのプリンセス・マギーに看病して貰って、添い寝のおまけまで付いちゃうなんて、他の人が聞いたら羨ましがるよ、ぜったい」
そういうことではなく。
「だけど、凄いね。あれだけ唸ってたのに、もう治っちゃったの? センセイの薬ってきくんだねえ」
彼女は感心したように彼の腕を掴んだ。右側にいる彼女が左腕に触れるのだ。当然、その体はウェルのそれに密着する。情欲は湧いてこない。所詮、妹のようなものだ。だが、彼女はどうなのだろうか。ウェルを誘っているのか。それとも、知っていてわざとこんなばかげたことをやっているのか。
渋い顔をするウェルに、マーガレットは先日と同じ、娼婦の顔を見せた。
「欲しかったら、いいよ」
「ばーか」
彼女の額を指でつつき、彼は寝台を降りた。歩くとまだ傷が痛む。それでもここに二人でいるよりはましだった。彼は椅子に掛けてあった服を手に取り、身繕いを始める。その姿を見つめ、マーガレットはかすれた声で
「あたし、汚い? 汚いから、いや?」
「そうじゃねえよ」
昨日のものとは違うシャツを纏い、くたびれたズボンをはいて、ウェルは彼女を振り返る。
「迷惑かけた。わりい」
マーガレットは目を伏せた。
「やっぱり」
ぽつりと呟く。
「やっぱり、そうなんだ。ウェルって」
そのあと何かを言おうとして、思いとどまったようだ。代わりに更に小さな声で
「親切にされても、重いんだよね。そんな親切は、迷惑なだけだよね」
「メグ?」
「ウェルは、親切すぎるんだよ。あたしには、きつい」
ウェルは言葉を失った。
*
居酒屋<馬の首>。扉に書かれたその文字を認め、ハルは腐りかけた木戸を押し開けた。教会通りから一本裏通りに入ったところにある、こぢんまりとした店である。
ウェルがよく通うというその店を彼女が訪れたのは、昼を少しまわってからだった。さすがに人夫水夫たちの姿は見えず、中にたむろしているのは、売春婦と呼び売り商人、四つ辻掃除人等である。
ハルはチラリと店内を一瞥した。思ったよりも柄は悪くない。東区にしては格段に身なりのいい彼女が入っていっても、客たちはさして関心を払わなかった。
彼女はカウンターに席を取ると、奥の女給に向かって粥と果実酒を注文する。硬貨一枚と引き替えに、女給は出来合いの粥を彼女に渡した。
火を通した食事は週に一度くらい――ウェルの言葉を思い出す。移民街の住民にとって、燃料費は高価すぎるのだろう。ハルは黙って、冷えた粥を匙ですくった。大麦と小麦、それぞれ同じ割合で混ぜられているのだろうか。舌触りは今ひとつである。
なんだかんだと言って、自分はずいぶん恵まれているのだ。ハルは音を立てて粥を飲み下す。目の前に、果実酒が乱暴に置かれた。彼女は先刻買った絵入り新聞を取りだし、酒を啜りながらそれを読み始めた。
裏町の娯楽は、賭ボクシングと娼婦買い、それにこの絵入り新聞くらいである。昨日起きた殺人事件も、早速記事になっている。派手な見出しと誇張した内容、グロテスクな絵は相変わらずだった。食事中に見るものではないと思いつつも、つい、気になって目を通してしまう。
――黒衣の殺人鬼、ついに四人目の犠牲者!
おきまりの、コートに山高帽、血染めのナイフを持った男の絵の下に、可憐な女性のイラストが添えられてある。これが昨日、ハルとウェルが発見した犠牲者らしい。そして、ハルが彼に紹介した患者でもある。
(サラはたしか、四十くらいだったんだけどねえ)
この絵では、二十歳そこそこ。しかもかなりの美女に描かれている。多少の美化は売れ行きのために必要なのかもしれないが、ここまでやって良いものだろうか。
記事の方は、状況をさらりと流しているだけで、さして重要なものではなかった。相変わらず犯人当ての懸賞のようなものが行われており、ズバリ的中したものには多額の懸賞金が送られると言う。これでは無実のものを犯人に仕立て、金を貰おうというものが出てくるのではないか。ハルは額を押さえた。
今は人を見れば殺人鬼と思え、といった状況である。現に、ウェルも犯人の条件に合うというだけで白い目で見られがちなのだ。移民街を徘徊しているとの噂のある、エドワードすらも犯人候補の一人だというのだから。
「案外、犯人なんてのはいないのかもしれないねえ」
ぽつりとひとりごちる。
(それに黒衣の殺人鬼、って。今、男はみんな黒い服着てるじゃないのさ)
禁欲が美徳とされる近年、男性の服は「性欲抑制効果のある」黒が基調となっていた。ウェルもそうだが、東区の、いな、アランダ中の男たちの着ているものは、黒以外にない。上着もズボンも、黒いものしか売っていないのである。これでは、男であれば誰もが殺人鬼である可能性がでできてしまう。
「ばかばかしい」
ハルは、果実酒の杯を唇に押しつけたまま、天井を仰いだ。
もし、犯人がいるとして。それが彼女が思っているような人物だとしたら。彼は、いつ動き出すのだろうか。やはり、二年前に決着をつけておくべきだったのだろうか。
(わたしの、せいなの?)
目を細める。視線の先で、天井が揺れた。
「泣いてんのか?」
すぐ脇で、聞き慣れた声がする。驚いてそちらを見やれば、黒い瞳のグィール人が佇んでいた。彼は肩に掛けていた上着を椅子の背に掛け、彼女の隣に腰を下ろす。ぷん、とアルコール臭がする。彼でも昼間から酒を飲むことがあるのか。ハルは、風変わりなグィール人を目の端で捕らえた。
「昼間から酒呑んで、泣き上戸か」
女給に腸詰めと小麦の粥を頼んで、ウェルはカウンターに硬貨を数枚投げ出した。無表情な女給が、ささくれだった指でそれを回収し、粥を差し出す。彼はぎこちない仕種で、匙をとり、粥を口元に運んでいく。
「あんたも酒呑んでるんだろ? お互い様じゃないか」
「なにいってんだよ。俺は呑んでねーよ」
「だって」
ハルは彼の手元を見た。彼は酔っているのか、手元も狂いがちである。粥を上手くすくえない。ぽと、と派手に飛沫をあげて汁があたりに飛び散っている。見れば、彼は右手で匙を持っているようだった。違和感を覚え、ハルは目を細めた。
彼の左腕。だぶついたシャツの二の腕の部分が、不自然に膨らんでいる。彼女は手の甲で軽くその部分を叩く。と、ウェルがぐっと息を呑む気配が感じられた。
「なにすんだよ」
彼は反射的に腕を庇った。ケガをしているようだ。不自然な膨らみは、包帯らしい。ハルは溜息をついた。動きがおかしいと思ったら、やはり。利き腕を負傷していたのか。
「早とちりの連中に襲われたわけかい。大変だねえ、あんたも」
「余計なお世話だ」
「犯人は、医者か理容師、肉屋か革職人。わかってもいないのに、適当なこと言うからね。市警のおじさんたちは」
ハルが笑うと、彼は肩をすくめた。それからふと真顔に戻り、
「そのことなんだけどさ。まんざら嘘でもないらしい」
「なに? どういうこと」
「ちゃんとした根拠があっての噂だってこと」
黒い瞳が鋭さを増す。
「じゃあ、それを聞かせておくれよ」
ハルは絵入り新聞を彼に差し出す。彼は無言でそれに目を通した。
「昨日の死体。あんたの見立てでは、どう?」
「食事中にする話かよ」
ウェルは苦笑した。それでも、低い声で見立てを告げる。
昨日、彼は靴屋のおかみが巡査を呼びに言っている間に、素早く検死を済ませたのだ。とはいえ、その傷口などを大ざっぱに見ただけではあるが。
彼は腸詰めをつつきながら、
「まず致命傷は、首。右から左に喉を掻き切られている。鋭利な刃物、肉厚の短剣かなにかだろうな、凶器は。多分、声も出さずにあの世にいっちまったんだろう。で、普通はこれで終わりなんだけど」
「なにさ」
「腹が、裂かれている」
ウェルは腸詰めを半分に裂いた。
「内臓が一部、持ち去られているんだ」
「う」
ハルは口元を押さえた。皿に載っている腸詰めが、それを生々しく想像させる。彼は気にせず、腸詰めを口に運んだ。さすがは外科医、と言いたいが、今は冗談すら出てこない。うまそうに咀嚼する彼を恨みがましい目で見ながら、ハルは気付けに酒をあおった。
「市警の奴らが、『内臓に詳しいものの犯行』って言ってたわけがわかったろ? 短時間で殺して、確実に内臓を取り出していく。素人にできる技じゃない。おまけに持ち去った臓器って肝臓だぜ。あんなのちょっと見にはわかんねえよ。まったく、一体何考えてんだか」
追加注文した紅茶を飲んで、ウェルはふう、と息をついた。
「あのとき、巡査が『またか』って言ってただろう。殺人鬼は、ずっと内臓を持っていったらしい」
「それって、殺しの目的が初めから臓器だった、てこと?」
「かもな」
あっさり答えるウェル。彼女はこめかみを押さえた。
事件の真相。それは、ハルが思っているよりもずっと根深いものに違いない。
「新聞屋が騒ぐだけのことはあるぜ、今度の事件。これ以上ないくらい猟奇的だもんな。これで、犯人が実は妙齢の美女だった、とかいったら収まりがつかねえんじゃねーの?」
たんたんとウェルが語る。彼は右手で匙をとった。また、ぎこちなく粥をすくい上げる。その仕種に、ふと疑問がわき上がる。
「ねえ。そういえばさ。犯人て、利き手はどっちなのさ。わかるんだろ?」
ウェルの動きが止まった。彼はそっと匙をおろす。闇色の瞳が、ハルに注がれる。
「言わなかったか。喉が右から左に掻き切られているって」
それはつまり、犯人は左利きということだ。勿論、正面から凶行に及んだと仮定しての話だが。
犯人の利き腕が判明しても、左利きの男など、アランダ中にごまんといるのだ。女性も入れれば、その数もかなりのものになる。とても犯人の特定などできたものではない。
「なんだよ。あんたも俺が犯人と思ってるわけ?」
半ばうんざりしたようにウェルは口を尖らせた。叱られた子供のような表情である。ハルは「そうじゃないけど」とかぶりを振って、また絵入り新聞に目を戻した。二人はしばし無言で時を重ねる。
今までは新聞屋のでっち上げ事件だと思っていた。ただの変質者の犯行を、興味本位にかき立てているのだと。だから、半信半疑で行動していた。けれども。実際にその犯行現場を目撃してしまうと、あらためて恐怖を感じる。もしかすると、この殺人鬼と対決せざるを得ない、そんな状況に陥ってしまうのではないのか。
しかも、そうなってしまった原因の一環は、自分にある。
だから、結果はどうであれ、始末をつけねばならない。
「どうだい、検死しちまったついでに犯人探してみるかい? 大事な客をとられちまったんだよ」
口を切ったのは、ハルだった。冗談めかした問いに、ウェルはしかし乗ってこない。無言のまま背中を丸め、紅茶を飲んでいる。何か考え込んでいるのか。視線が宙をさまよっているように思える。ハルは溜息をつき、席を立った。
「じゃ。明日、また仕事持ってくるよ。早く借金返しておくれね」
置きみやげの効果は絶大だったらしい。
ウェルは、ハッとしたようにこちらを見た。そこにヒラヒラと手を振って、彼女は店をあとにする。
「振られたね、色男」
ひょい、と脇から顔を出すものがいる。この店の二階に下宿している、呼び売り商人である。彼は楽しげに笑いながら、ウェルの肩に手を置いた。
「別嬪さんじゃねえか、いまの。素人娘だろ? しかも年上。やるね、あんたも」
中年男の楽しみは、若者をからかうことらしい。ウェルが無視を決め込んでいると、さらに調子づいてきた。
「娼婦もかわねえ、嫁ももらわねえ、変わった兄ちゃんだと思っていたけどさ。フツーの男だったのか。で、あのねーさん、誰よ。どこぞのお屋敷のお女中かい」
「あんたも、そのうち世話になるかもな」
「へ?」
「あの女、借金取りだぜ。それもかなり凄腕らしい」
「うへ」
呼び売り商人は、慌てて飛び退いた。借金取り。貧乏人には、疫病神以外の何者でもない。彼はなにごとか呪文を唱えながら、ウェルのそばを離れていった。
「やれやれ」
やっと一人になれた。
これで、ゆっくり考えごとができる。
ウェルは肩の力を抜いて残った紅茶を楽しんだ。
出涸らしを干して、再利用した紅茶だろうが、それでも味はまあまあだった。ここ数年で植民地での紅茶栽培が軌道に乗ったため、割と手軽に茶葉が手にはいるようになったのだ。今飲んでいるものも、再利用品と、新しい茶葉を混ぜ合わせたものかもしれない。
(支那の紅茶は高いからな。貧乏人には高嶺の花だぜ)
日々寒くなるこの季節、紅茶は心の友である。冷えた体を温めてくれる、数少ない食事の一つだ。
彼は目を細めた。
至福の午後。それを破ったのは、男たちの怒号だった。
「ふざけてんのか、コラぁ!」
卓子が派手にひっくり返った。喧嘩だ。昼間から酔っぱらっているのか。ウェルは肩越しに振り返る。大陸系の男が三人、割れた瓶を片手ににらみ合っている。雰囲気は最悪だ。次は誰かの体が飛ぶだろう。さきほどウェルに絡んできた呼び売りが、柱の陰で彼らをはやし立てている。泥酔状態になった賭博師は、本能で危険を察知したのか、ジンの瓶を抱えてこそこそと表に逃れていった。
日常茶飯事のこと。誰も止めようとはしない。むしろ、騒ぎが起こることを心待ちにしている感がある。ウェルもその一人だった。こちらにさえとばっちりが来なければ、これ以上ない面白い見せ物である。
数人の観客の前で、道化師たちは暴力的な芝居を始めた。
「なめてんのか、このガキ!」
血の気の多そうな禿頭の男が、華奢な青年の胸ぐらを掴む。
「黙って聞いてりゃいい気になりやがって。のされてえのか」
がくがくと細い体を揺する。罵声に、青年も負けてはいない。男にむかって唾を吐き、その向こうずねを蹴り上げた。男は悲鳴を上げて青年を投げ出す。青年の体は壊れた卓子に叩きつけられる。ごぼっ、と血を吐いて、青年は男を見上げた。血走った目が、容赦なく男を睨み付ける。
「図体だけのくそ野郎が! 教会通り式のやり方で切り刻んでやる!」
青年が砕けた瓶を手に立ち上がったとき、周囲の空気が凍り付いた。
教会通り式のやり方。
その言葉に皆が反応した。ウェルはカップをカウンターにおき、青年を見つめる。青年は自分が口走ったことの意味を解していないらしい。怒りに肩を震わせ、瓶を上段に構えている。
「脅しもいい加減にしろよ、小僧」
血が上った男たちは客たちの変化に気づいていない。中年男二人は、青年を押さえつけようとじりじりと迫っていく。青年は唾を飛ばしながらさらに叫んだ。
「脅しじゃねーよ。俺が殺人鬼だ。黒衣の殺人鬼だ!」
(おい)
ウェルが危惧したとおりになった。ザッと客たちが立ち上がる。彼らは青年を囲み、その輪の中に閉じこめた。青年はそうなって初めて自分の置かれた状況に気づく。喧嘩相手の男たちの顔からも血の気が失せていた。
「あんたが、犯人だってのかい」
売春婦の一人が青年の背を蹴飛ばした。青年はびくりと彼女を振り返る。
「あたいらの仲間殺したのは、あんたなのかい」
売春婦は、ジンの瓶で青年の後頭部を殴った。がしゃん、と瓶の砕ける音がする。それが何かの合図であったかのように、客たちは一斉に暴行を始めた。
(なんてこった)
ウェルは絶句した。青年をいたぶる人々の、嬉々とした顔。新しい玩具を与えられた子供のような、無邪気な残酷さに満ちあふれている。彼らに理由などいらない。虐げる対象が欲しいだけなのだ。そう思うと吐き気がしてくる。
ウェルは無意識のうちに、傷ついた腕を抱えていた。
*
四件目の殺人事件ののち。
自称殺人鬼が街に溢れた。喧嘩のたびに我こそは噂の殺人鬼と叫び、通報を受けた警官によって連行されていく。その数は日に十数人。市警はほとほと手を焼いていた。加えて愉快犯から、殺人鬼を名乗った投書が数百通、数千通と送りつけられている。
今まで、東区では様々な事件が起こっていた。失踪、妻・夫殺し、子殺し、親殺し。強姦殺人、火付け、強盗。それでも市警はいっさい東区に関心を示そうとはしなかった。ところが今回はそうもいかない。東区どころか西区、果ては国内全ての目が
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