第1話 教会通りの殺人


 アルビオンの首都・アランダ。

 この街は現在、世界の首都といっても過言ではない。アルビオン自体は小さな島国であるが、その所有する植民地は実に全世界の五分の一に匹敵する。

 とはいえ、後世に語り継がれる<華の帝都アランダ>のイメージは、都の西部、西区と呼ばれる区域のものにすぎない。瓦斯灯、地下鉄、辻馬車、演劇。その他思い浮かべられるものは、西のアランダ。つまり、表の顔。対して裏のアランダは、狂気と陰惨な事件の印象だけが強い。しかし、アランダの真の姿を知るには、そちらの方も覗かねばならない。

 下町、裏町と称された、東区の方を。

 その東区の一日は、日の出とともに始まる。人口三百万、といわれる帝都の大半は、この地区の住民である。中でも移民の数は圧倒的に多い。宗教闘争と不作に悩むグィール、内戦の続くカスティリャ、政情不安なプロイス、不況のどん底にある植民地、それらの都市からの移住者は、年を追うごとに増している。かれらはこの<夜を知らない街>に、富と栄光を求めているのだろうか。僅かな賃金と、貧しい食事、それでも飢え死にするよりは幾分ましな、生活を望んでいるのだろうか。

 既に許容量を超えた街は、断末魔の喘ぎすら漏らしているというのに、流入する住民は後を絶たない。


 その、移民街の路地という路地で、新聞売りがこえをあげはじめたのは、教会の鐘が正午を告げた頃だった。


「また、切り裂き魔だってさ」

 居酒屋の隅で、人夫たちが声高に話している。どうやら最近頻繁に起こる殺人事件のことらしい。殺人、強盗、放火などこの街では別段珍しいことではないのだが。昨今はやりの絵入り新聞が事件をことさら過激ににかき立てているせいで、この事件は人々の好奇心をあおっていた。

「いまのところ、娼婦だけしか殺していないってさ。牛みたいに色でも見分けられるのかね」

 売春婦がその目印として、赤いバンダナで髪を留めていることを言っているらしい。

 カウンターに腰掛けた青年は、適当に相づちを打った。黒髪に黒い瞳、一見カスティリャあたりからの移民のようである。例に漏れず、だぶついたシャツとズボンを纏い、薄手の上着を羽織っている。その全てが垢じみていないところを見ると、東区の中では余裕のある暮らしをしているようだ。

「市警の話じゃ犯人は医者か理容師か、とにかく内臓に詳しいヤツらしいぜ」

 花売り路地、と呼ばれる歓楽街の賭博師が声を潜めて言う。

「へえ」

 青年は気のないそぶりで声を上げる。賭博師は唾を飛ばしながら続けた。

 医者か理容師、革職人、肉屋、解体屋。職業であげるのならば、そのどれもがあやしい。そして。人種で疑うのならば。

「やっぱ、移民だよなあ」

 嫌みな声が、耳を打った。青年は肩をすくめる。そう。移民は厄介者なのだ。

 しかし、東区で生粋のアルビオン人を探すのは至難の業である。ここにいるのは、八割方が移民なのだ。現に、今イヤミを言った賭博師でさえ。

「なあ、ウェル。あんた、医者だろ。疑われてんじゃないのか」

 初めからこれが言いたかったらしい。賭博師は、上目遣いに彼を見上げる。ウェル、と呼ばれた青年は水っぽいシチューを啜りながら苦笑した。

「グィールの移民で、外科医で、教会通り在住だからか?」

 疑わしい要素が全てそろっている。しかし、彼以外にもそういった条件を持つものはごまんといるのだ。彼はそこで話を切ろうと立ち上がったが、賭博師はなおもしつこく食い下がってくる。本気で彼を犯人と思っているのか。それとも、単に好奇心からなのか。そのどちらともとれる陰湿な眼差しが、彼の黒瞳をのぞき込んだ。

「グィール人のくせに、髪も目も黒いしな。そういうヤツのことをなんて言ったっけ」

「妖精の取り替え子。一度しか言わねえから、おぼえとけ」

 皮肉めいた笑みを返し、彼は上着を片手に店を出た。残された男は、ぽかんと口を開けている。ウェルが今放った言葉。それはグィールの古語だった。東区の、アルビオン語も満足に話せない移民たちにはわかるはずがない。

 それにしても、世情の乱れか昨今は人の心も以前に増してすさんできたような気がする。以前は、移民同士いがみ合うことは皆無に等しかったのに。この状態が続けば、暴動や虐殺が起こるかもしれない。そんなことを考えると、気が滅入ってくる。

「この街も、潮時か」

 何とはなしに声に出してみる。新大陸は景気がいいと言うから、そこへ行って見るのもいいかもしれない。

 ふと。背筋に悪寒を覚えて彼は身を固くした。視線を感じる。その元をたぐるように、彼はそっと首を動かした。が、ざわめきの中に視線の主は見あたらない。気のせいだったのか。それにしては、このところそういうことが多すぎる。

 ウェルを切り裂き魔と思いこんで、始末する機会を狙っている愚者の仕業とは思いたくはないが。それならそれで、対処法はある。問題なのは、もう一つの可能性の方だ。

 ウェルは立ち止まり、人混みの中に紛れ込んだ。幾重にも人が重なった輪の中心には、ご多分に漏れず新聞売りが立っている。彼は声高に口上を述べながら、刷り上がったばかりの紙切れを盛んに振りかざしていた。取り囲んだ客たちは、我先にとそれに手を伸ばす。ちゃりん、ちゃりん、と新聞売りの足下に硬貨が投げられた。ウェルもそれにならい、硬貨を彼の足下に転がし、油臭い紙を一枚、節ばった指の間から引き抜いた。安いインクを使っているのだろう。手にべっとりと汚れが付く。ウェルは全く頓着せずに新聞を広げた。

<殺人鬼現る!>の見出しの下に、黒ずんだ赤い文字であおり文句が踊っている。


 うら若き乙女を襲う恐怖!

 冷血な犯行。内臓は引きちぎられた。

 血を啜る殺人鬼、次なる犠牲者は、だれか。


 陳腐な台詞の横には、殺人鬼の想像図が描かれている。いかにも、といった全身黒ずくめのあやしげな男。帽子を目深にかぶり、黒いコートの襟を立てている。手にしているのは、血染めのナイフ。生々しく描かれた鮮血が、読者の恐怖と興味をそそるらしい。

 さらにその絵を取り巻くようにして、犠牲者の女性の無惨な姿がおどろおどろしく添えられていた。四肢を切り取られ、臓物をはみ出させた、悪趣味な絵だ。赤く塗られた唇から、でろり、と舌がはみ出している。やけに写実的だ。実物を見ながら描いたのか。

 その絵に耐えられなかったのだろう。彼の脇で、子連れの女性が倒れた。貧血を起こしたようである。

「なあ、にーちゃん。これ、なんて書いてあるんだね」

 女性の災難には目もくれず、泥酔した老人がウェルの肩をちょこちょことつつく。

「邪教集団の儀式か、魔術師の戯れか。帝都を恐怖に陥れる連続殺人鬼。犠牲者はこれで三人目」

 彼が淡泊に読み上げると、老人はうーむ、と顔を歪めた。そして尤もらしく口の中で「じゃきょうしゅうだんのまじゅつしが」と、適当なことを呟いている。後ろを振り返り、連れらしき男に

「魔術師の集団が、ねーちゃんをなぶり殺して食っているらしい」

 全く違う話をでっち上げて話していた。案外、噂はこういったところが出所なのかもしれない。ウェルは老人から離れ、その路地をあとにした。

 聞いたところによると、被害者は三人とも中年女だったらしい。それもそろって、街頭で客を引く売春婦。いわゆる街娼である。彼女らはお世辞にも美人とは言い難く、あの記事のように幻想怪奇めいた雰囲気は微塵もない。それが新聞売りの手に掛かるとこれだ。下町に流れる情報は、得てして眉唾物が多い。どうせこの事件も、物取りか痴情のもつれ、その他諸々のよくある話なのだろう。取り立てて騒ぐほどのものでもない。だが。

 ウェルは唇を噛んだ。黒い瞳の奥に、暗い影が揺れる。

 黒衣の殺人鬼。

 その言葉が頭から離れない。離れないばかりか、それは彼の苦い記憶を蘇らせる。今更、あんなものに悩まされるなんて。

「畜生」

 彼は小さく舌を打つ。もう、厄介ごとはごめんだった。

 この事件が起きてから、調子が狂いっぱなしだ。そう。何者かの視線を感じるようになったのは、第一の事件が起こったころと時を同じくしている。

 もう一つの可能性。

 <彼>がまだ生きているとしたら。

 そんなことはあり得ないと理性が否定する。そうであって欲しいと感情が要求する。相反するふたつの自分に、ウェルは毒づいた。このところどうかしている。気弱になっているようだ。そう思ったとき。

 また、だ。視線を感じる。彼だけを見つめる視線。雑踏の中から確実に、彼の姿を捕らえている視線。彼は新聞に読みふけっている風を装いながら、足早に路地裏に消える。別に、相手を撒こうというのではない。ケリを付けるのなら、人目の少ないところの方が好都合だからだ。向こうも状況によっては、仕掛けてくるだろう。

 足下を、まるまると肥えた鼠が走り抜ける。それが合図であったかのように、彼は足を止めた。そのままくるりと振り返る。無論、いつでも攻撃ができるように、身構えて。

「てめえ、なんのつもりだ!」

 叩きつけるように声を放つ。これで少しは機先を制したか。そんな期待は、しかし次の瞬間見事に霧散した。

「なーに怖い顔してんだよ」

 路地の入り口に佇む人物は、呆れたように声を上げた。

「あんた、売春婦が声かけても、いちいち身構えんのかい。ご苦労だね」

「ばいしゅんふ?」

 違和感を覚えつつ、彼は声の主を見つめる。

 壁によりかかり腕を組んでいるのは、若い女だった。年の頃は二十代半ば。ウェルより三つ四つ年上と言ったところか。売春婦にしては珍しい、こざっぱりとした姿をしている。それに器量もいい。東区には珍しい、ハッとするような美人だった。黄昏時の光のような青灰色の双眸と、くすんだ琥珀の髪を見た限りでは、生粋のアルビオン人に見える。と、いうことは同じ売春婦でも西区の女なのだろうか。

 ウェルは、無遠慮に女を観察した。と、同時に彼女の方も彼を品定めしていたらしい。彼の黒髪と黒瞳をじろじろと眺め、「大陸の移民だね」吐き捨てるように呟く。

「でも、それにしちゃ、いい男じゃないか。好みだよ」

 からかわれ、ウェルは露骨に顔をしかめる。最近は昼でも街娼が立っているが、実際声を掛けられたのは初めてだった。ただの客引きか。と、なれば街娼などに用はない。彼は素早く踵を返した。

「女にゃ不自由してねえんだよ。他を当たってくれ」

 立ち去ろうとする彼の背に、

「何いってるんだよ。仕事だよ、仕事」

 女が鋭い声を投げつける。

「仕事ぉ?」

 うさんくさげに振り返ると、女は大きく頷いた。

「ちょっと、しくじったひとがいてね。始末を頼みたいんだってさ」


 *


 その女は、ハルと名乗った。ウェルの想像通り、生粋のアルビオン人らしい。東区に来たのはつい数週間前のことで、それまでは地方都市にいたという。そういわれれば、微かに北部訛があるようにも思える。

「あんたは、カスティリャあたりだろう」

 なかば馬鹿にしきったように言うハルに、ウェルはかぶりを振った。

「ちがう。よく間違われるけど。俺はグィールからの移民だ」

「え、あんた、グィールの生まれなの」

 ハルは大げさに驚いてみせる。それはそうだろう。グィールの民、と言えば例に漏れず金髪碧眼である。ところがウェルはこの通り黒髪黒瞳なのだ。両親ともに金髪碧眼なのに、彼だけが違う。こういった子供は時々産まれるらしい。彼らは<妖精の取りかえ子>と呼ばれる。妖精が美しい子供を誘拐し、代わりに醜い子供をおいていくのだ。

「迷信だね」

 彼女は鼻を鳴らした。

「そんなことを信じているから、あそこはだめなんだよ。やだね、あんたも魔術師崩れの医者なんかじゃないだろうね」

 疑わしげにこちらを見る。グィールの田舎では、未だに科学的な医療は行われていない。魔女や魔術師と呼ばれる、神官と民間医療師をかねた人々が、呪術を使って病や傷をいやすのだ。ウェルは幼いころ近所の魔女に薬を貰い、それがもとで高熱を出したことがある。以来、そういった方法は否定してはいるのだが。最近は科学だけが全てではないような気もしてきた。いま、自分のやっていることを考えれば、あの魔術師たちの治療の方がよほど人間的である。もっとも、効率はひどく悪いのだが。

「内緒で始末してくれる医者の中では、あんたが一番まともらしい、って聞いてきたんだよ。信頼は裏切らないで欲しいね」

 勝手なことを言う。ウェルは敢えて返事をしなかった。

 誰に聞いたのか知らないが、それでも仕事を運んできてくれるのは嬉しかった。これで数日は食事の心配をしなくて済む。



 ウェルたちが向かったのは、移民街でも最も貧しい通りだった。

 長屋とも共同住宅とも違う。細長く伸びた鰻の寝床のような空間に、仕切りも何もなく数人の男女が暮らしている。勿論、彼らは家族ではない。赤の他人である。

 そういった人々が同じ部屋に住み、同じ寝台に眠り、生活しているのである。これで間違いが起こらないはずがない。この地域を指して、教養人たちは最も下賤な通りと呼んでいた。けだもの長屋、と侮蔑を込めて言うものもいる。

 ともかく、この時代にはそんな場所が沢山あったのだ。

「お医者さんを連れてきたよ。薬剤師じゃない、本物の、先生」

 ハルは皮肉のつもりか、<先生>の部分を強調した。この時代、外科医は内科医と違い、社会的な地位が低かった。患者の体に触りもせず、話を聞いて処方箋を書くだけの内科医は、紳士階級に属しているのに、外科医は下層階級と見なされていた。

 神の与えたもうた肉体を切り刻むなど、言語道断と言うのだろう。

 ウェルは腐った木枠に手を掛け、中をのぞき込んだ。奥に恐ろしく巨大な寝台があり、そこに一人の女が座っている。赤毛にそばかす、お約束のボロを纏い、街娼の証を髪に巻いたその女性は、目だけをこちらに向けた。そこにウェルの姿を認めると、胡散臭そうに鼻にしわを寄せる。二十歳をやっとすぎたくらいの若すぎる堕胎医に、不満なのだろう。ウェルはさして気にもせず、軽く会釈すると部屋に入った。そうして、懐から手術用具を取り出す。

 それは、細い銀の棒であった。銀、と言っても純銀ではないのかもしれない。東区の、それも外科医の持ち物などたかがしれている。これもご大層に見えるが、その実ただの火掻き棒ではないかとその街娼も疑っているようだ。それでいったい何をするんだい、とはすっぱな言葉で問いかける。北方訛が混じっているので、彼と同じグィールからの移民なのかもしれない。そこで普通ならば親しみもわくところだが、あいにく彼にそんな感傷はなかった。

「火、起こしてくれないか」

「火?」

 訝りながら、街娼は暖炉に火を入れる。薪をケチっているので、対して火力はない。貧民にとって、燃料はこの上なく高価なものである。十月に入っても、暖炉を使わず肌で温めあうことをしているような人々だ。医師に言われたからといって、素直に従うものばかりではない。ウェルは、銀の棒を火にかざした。先端を、念入りにあぶる。それを見ていた街娼は、また騒ぎ出した。ウェルは幾分苛ついて、

「うるせーな。ぐだぐだいってねえで、そこに寝ろ」

 無造作に寝台を指さす。寝台、とは名ばかりの空き箱をつなげた台である。これでも彼女らにとっては大切な財産なのだろう。板を踏み抜かぬよう慎重に、彼女はその上に横たわる。ウェルは彼女の靴を脱がせ、更に下着にまで手を掛けた。彼女は慌てて半身を起こす。

「ちょいと! 仕事じゃないんだよ。なにするんだよ」

 しかしウェルはその言葉を無視した。はぎ取った下着を脇に投げ、乱暴に彼女の足を捕える。

「ちーっと痛ぇけど、我慢しろよ」

 彼は棒の先端をぺろりとなめた。熱くない。それを確かめると、棒を彼女の中に一気に突き立てた。ひいっ、と彼女が悲鳴を上げる。



 手術が済んだのち。

「あんたのやりかたは、荒っぽいんだよね」

 ハルはうずくまる同僚を見やり、苦笑を漏らした。

「麻酔なし、ってのは、さすがにきついだろ」

「贅沢いってんじゃねーよ。ありゃー高価たかいんだぜ。おまえらに代金が払えるかっての」

 ウェルは軽くあしらう。娼婦の日銭などたかがしれている。客一人につき、簡易宿泊所素泊まり分程度しか貰えない。それは即ち、食事一食分。ジンを買ってしまえば、それだけで消える。堕胎費用はと言えば、医師によってまちまちだが、彼のような駆け出しでも最低ジン五十本分は支払うことになるのだ。

「暴利だね」

 娼婦たちはそういうが。命を粗末にしたツケは、支払わねばならない。それに比べれば、このくらいの金では安すぎるくらいだ。たとえ苦痛を伴ったとしても、仕方のないことではないか。

 売春婦には売春婦たちの言い分というものがあるかもしれない。だが、ウェルにとってそれはどうでもいいことだった。

「わかってると思うが、神父サンには内緒だぜ」

 彼は窓越しに見える教会に目をやる。旧教では堕胎は罪だ。懺悔をしたとしても許されることではない。

「おや。あんたにも信仰心なんてのがあったのかい」

 ハルがこれ見よがしの皮肉を言う。ウェルの故郷・グィールではいまだ敬虔な旧教徒が多い。故にグィールからの移民が多数を占めるこの街でも、旧教が主流となる。旧教の教えは、天主教に比べれば戒律も少ないが、新教、国教に比べれば雲泥の差である。国教が祭司の妻帯を許し、離婚、再婚を容認しているのに対し、旧教はそれらをいっさい認めない。倫理観がかなり違う。そんな土地柄に生まれた男が、こともあろうに堕胎専門の外科医をしているなど。ハルのような地元民には笑いの種であろう。

 ウェルはたった一つの手術用具を汲み置きの雨水で清め、筒の中に戻す。それから上着を羽織り、粗末な引き戸を乱暴に開ける。途端に異臭が鼻を突いた。川の匂いである。生活排水やゴミ、排泄物、自殺者の類が放り込まれている水である。臭いはずだ。彼は饐えた匂いに僅かに顔をしかめ、路地に踏み出す。と、いきなり袖を引かれた。見ればハルが彼の上着を掴んでいる。何をしようと言うのか。ウェルは露骨に眉をひそめた。

「女なら間に合ってるっていっただろうが」

 つれない言葉に、ハルは苦笑する。そうじゃなくてさ、とかぶりを振った。

「あんたに用があるんだよ。少し時間、もらえるかい」

 意外に真摯な眼差しをする。ウェルは一瞬迷った。が、売春婦の手管は知っているつもりだ。こうやって口実を作り、うまく客として引き留めるつもりなのだろう。下手をすれば、誘うだけ誘っておいて財布を奪って逃げるような連中である。まともに取り合う筋合いはない。しかし。

「いいのかい、ブランウェルさん? あんたの師匠のことなんだけど」

 ピクリ、とウェルの肩が震えた。

「――早く、済ませてくれよ」

 その台詞を彼女は予期していたようだ。軽く頷いて、先に部屋を出る。背中を見せる、ということは彼を信頼しているのだろう。きりりとまとめられた琥珀の髪を見下ろし、ウェルは溜息をつく。

 どこへでも連れていってくれ。そんな気分だった。



 彼女がその路地に立ち始めたのは、先月からであった。

 東区の教会通り。現在、アランダで最も有名な通りである。

 ここを根城にする路上売春婦は、かなり多かった。が、その大半は四十過ぎの中年女性。しかも、生活に疲れ、酒におぼれた子持ち女である。彼女らは一様にやせぎすで、棒きれのような首の上に目ばかりぎょろぎょろと光った頭を載せていた。当然肌の艶はなく、化粧すらもしていない。纏っているものも色のはげたボロ切れに近い古着である。そして、大部分の女は、裸足であった。

 彼女らの持ち物の中で、唯一色が付いているものといえば、髪に巻いた赤いバンダナだけだった。これは特に規則があるわけではない。だが、東区に立つ街娼は、例に漏れずこれを身につけていた。どこから入手するのか、彼女らのバンダナは常に色が鮮やかであった。娼婦が人の血を吸っている、と噂されるのも、そのせいかもしれない。

 彼女もまた、その<娼婦の証>で髪を縛り、人待ち顔で瓦斯灯の下に佇んでいた。

 美しい娘である。これが下町の街娼か、と思えるほど整った顔立ちをしていた。髪の色は金。それも白金に近い。瞳が薄い青であるところを見ると、グィールの娘か、それとも少し北大陸地方の血が混ざっているのか。憂いを含んだ双眸は、見るものの心を引きつけずにはいられない。年の頃も二十歳前後。東区の娼婦としては破格の商品である。

 ひとは彼女を「マギー妃殿下プリンセス・マギー」と呼んだ。

 貴族が聞けば、卒倒するであろう。女帝・キャサリンの孫、皇太孫エドワードの妃と同じ名を冠する娼婦。世界に冠する帝室を冒涜していると、問答無用で処刑されかねない。

 それでも、東区の住民たちはその呼び名をかえなかった。己の利益のため、ひたすら増税を続ける貴族院に対しての、ささやかな抵抗のつもりなのかもしれない。

 が、とうの彼女はそういったことにはとんと無頓着であった。自分が類い希な美貌の持ち主だということにも、気づいていない。いな、そんなことはどうでもよかった。彼女の関心事は二つ。

 ひとつは、より多くの稼ぎをあげること。

 もうひとつは、恋人の心をできるだけ長く自分にとどめておくことである。彼女がこうして路地に立つのも、定職に就かずヒモとして暮らしている<最愛の人>に金を貢ぐためだった。彼女が稼ぐ金は、その全てが情夫のものとなる。彼は今日も、安アパートの部屋の中で、ジンを舐めながら彼女の帰りを待っていることだろう。その姿を思い浮かべ、彼女は疲れた笑みを浮かべた。と。

「マーガレット」

 名を呼ばれ、彼女は視線をあげた。

 通りを隔てたところに、大柄な男の影が浮かび上がる。マーガレットは、それがすぐに誰であるか察した。アランダ市警の巡査、アキノである。彼は制服の下に隠した細身の護身用ナイフに手を添えながら、こちらに駆け寄ってきた。

「街に立つときは、必ず二人で行動するようにと言われてますよねえ。聞いているでしょ。 で、いつもの相棒はどうしたんです?」

 咎めるように彼は言う。ここ数週間のうちに教会通りで起きた連続殺人事件のためだ。マーガレットは口を尖らせて長身の警官を見やる。

「だって。ベスは仕事に出られないんだもの」

「ベス? ああ、あの赤毛のおばさん」

 鼻が上を向いた、幾分傲慢そうな中年女の顔を思い浮かべているのだろう。アキノの顔が僅かに歪んだ。この男は、はすっぱなあのグィール女が苦手のようである。むかし借金を断ったときに、ひどく罵られたらしい。どんなことを言われたのか再三尋ねても答えようとしないのだから、よほど屈辱的な言葉だったのだろう。

「で? お腹でもこわしたんでしょうか。あのおばさん」

「違うのよ」

 内緒だけど、とマーガレットが唇の前に指を立てると、アキノは愛の告白でも受けたかのように赤面した。何を思ったか、半眼を閉じて顔を近づける。その耳元に彼女は囁いた。

「おろしたのよ。だから、暫くはここに来られないの」

 マーガレットはいたずらっぽく口元を歪める。ついでにちらりと背後の教会を振り返った。あの中にいる堅物の偽善者は、数日前ベスがおこなったことを知ったら、どんな顔をするだろうか。冒涜だ、としたり顔で説教するに違いない。

「堕胎、ですかぁ?」

 アキノは鼻にしわを寄せた。

「いけませんね。絶対にいけません。近々禁止令も出るはずですよ。子供は国の宝、愛しい天使です。ああ、そう、それに売春婦の規制も議会で可決されるらしいですよ。風紀の乱れが著しいからって」

「あら。そんなこと、ぺらぺら喋っちゃっていいの。でも、幾ら規制されたって、あたしらこの仕事、やめられないからねえ」

 これは本音である。マーガレットだけではなく、現在アランダで路地に立つ女は皆、生活のために身を売っている。この商売がなくなってしまえば、彼女たち、ひいてはその家族たちも飢え死にするより他はない。中にはマーガレットのように、同棲中の男に貢ぐ金をためているものもいるが。

 彼女は肩に掛けたショールを胸元に引き寄せた。そろそろ寒さが厳しくなってくる。秋とはいえ、朝夕はかなり冷え込むのだ。特に今年は、寒波が厳しいといわれている。裕福な家では、すでに暖炉に火を入れているところもあるくらいだ。煙突から出る煙は街を覆い、深い霧と化す。

 霧の都アランダ。その霧の正体は、炉から溢れるガスである。決して美しいものではない。

 その、微かに漂い始めた霧の中を、人々が泳ぐように行き過ぎていく。彼らの中に、今夜自分を買ってくれるものはいるだろうか。マーガレットは、比較的身なりの良さそうな男たちに視線を投げていた。アキノはそんな彼女を、複雑な目で見ている。

(巡査が側にいると、客が寄りつかないじゃない)

 マーガレットの内心の罵倒は、幸いなことに鈍い巡査には届いていない。彼女は話の切れ目ごとに、少しづつ彼から体を遠ざけた。アキノとの距離がほんのわずか開いただけでも、道行く男の目が変わってくるような気がする。

 マーガレットは、今し方止められた馬車から降りてきた男に秋波を送った。辻馬車ではない、自家用の馬車である。そんなものを持つものは東区にはいない。西区の、それもかなりゆとりのある身分の男だろう。内科医か、商人か、ジョッキークラブの関係者か。誘って損はしない相手だ。彼女は通りの中央まで進み、その男に声を掛けた。

「今日のお相手を、お捜し?」

 彼女の予想通り、彼は紳士だった。正絹の三つ揃いの上に、兎の毛をふんだんに使った黒いコートを羽織っている。手にしたステッキは象牙だろうか。見事な細工が施されている。男にしては幾分小柄な彼は、黒い山高帽を目深にかぶり、顔の大部分を隠している。瓦斯灯の鈍い明かりに照らされた口元には、品のいい口ひげが蓄えられていた。

(黒い髭? 黒髪? 大陸のひと?)

 マーガレットは目を細めた。男は自分よりも頭一つ分ほど小柄な彼女を見下ろし、二、三度手を振った。犬を追い払う仕種である。これにはさすがの彼女も腹が立った。眉をつり上げ、男に詰め寄る。

「ちょっと。それって失礼じゃない」

 しかし男はそれすらも無視した。彼女から視線を逸らすと、足早にそこを立ち去る。ちょっと、と彼女が声を掛けたときは、黒い後ろ姿は闇の中に消えかけていた。

「なに、あれ。失礼よね」

 拳を固めるマーガレットに、アキノが掠れた声を投げかける。

「やめておいたほうが身のためです。あれは、たぶん」

「たぶん?」

「殿下です」

「殿下?」

 彼女は頓狂な声を上げる。殿下、ということは皇族か。彼女たち最下層のものにしてみれば、貴族などは雲の上の存在である。ましてや女帝の一族といえば。

 とんでもないものに声を掛けてしまった。今更ながら彼女は、かたかたと震えだした。

「でも、何でそんな人がこんなところに?」

 問いにアキノは肩をすくめただけだった。

 貴族たちが西区の歓楽街に出入りしたり、売春婦を買ったりすることはよくあることである。公にはされていないが、あの女帝でさえ西区のお気に入りの居酒屋に身分を隠して通っているという。ただ、彼らも移民街のある東区は危険区域と見なして、近づこうとはしなかった。唯一例外であったのが、皇太孫・エドワードである。

 彼はここに何をしに来たのだろうか。

 マーガレットは好奇心からその行方を目で追った。

 ガス灯の淡い光の中に、黒い背中が消えてゆく。滑るようになめらかに。紳士は慣れた足取りで、教会へと進んでいった。この通りの由来となった、その建物へと。

「うそ。旧教の教会に」

 意外であった。

 アルビオンの国民は、例外なく国教に帰依しなければならない。これは法律でも決められていることである。旧教や新教、その他諸々の異教の信仰を許されているのは、移民だけなのだ。それなのに、国教会の長たる女帝の孫が、その掟を破っているとは。

「このことは、吹聴しない方がいいですよ。公然の秘密、ですから」

 アキノが低く言った。おっとりとした彼にしては珍しく面を強張らせている。勢いに押され、マーガレットは頷く。彼女はそっと辺りを見回した。通行人は、あの紳士がエドワードと知って見て見ぬ振りをしているのか、それとも知らずにいるのか。特に彼に関心を払っている様子はない。

「ねえ」

 マーガレットは巡査を見上げず、半ば独り言のように

「もしも、殿下が今度の殺人鬼の正体だったら、アキノは彼を捕まえるの?」

 アキノは答えなかった。答えられるはずはない。マーガレットは溜息をつく。

 エドワードが犯人であったなら、売春婦が幾ら殺されたとしても市警は動かない。こうやって彼女の心配をしてくれるアキノでさえ、彼女が殺されても抗議すらしないであろう。そういうものだ。

「いつか、私も殺人鬼に殺されるかもね」

 苦笑する彼女をアキノが寂しげに見つめる。

「夢を見るのよ、誰かに切り刻まれる夢。だから」

 殺される。きっと、いつか。


 十月も終わりに近づいたとある晩。プリンセス・マギーがエドワードを見かけた、その夜。第四の事件が起きた。

 しかし、この時点では誰もそのことを知らない。

 惨劇が人の口に上るのは、翌日のことである。



 久しぶりに夢を見た。

 幼いころの夢だった。幼い、といっても、あれは十三、四歳頃だろうか。

 初めて師のもとに弟子入りしたときだから、七年も昔のことになる。

 医師や職人のもとで七年間技術を学べば、国がその資格を認めてくれる。

 そんな法律を知った彼は、外科医である師に師事したのだ。


 ――俺は、錬金術師崩れだが。


 自嘲する師は、しかし確かな腕を持っていた。

 いい師匠についた、と彼は心底喜んだ。だが。

 二年前、師は死亡した。

 これでは医師の資格どころか、外科医の資格すら取れない。

 彼が思ったのは、そんな利己的なことだったかもしれない。

 いや、そうだった。それしか考えなかった。


「俺は、最低なヤツかもしれない」


 夢の中で彼は呟いた。本当は、師匠こそ最低だ、と。思っているくせに。


「顔色が悪いねえ。寝てないんでしょ」

 早朝から押し掛けてきたハルは、ウェルの顔を見るなりそういった。

 早朝も早朝、朝未来、と呼ばれる時刻である。表は暗く、夜の名残が街のそこここに残っていた。早起きで知られる行商人や、四つ辻掃除人すらも起きてはいないだろう。そんな時分に一人で移民街を訪れたというのだろうか、この女性は。

 切り裂き魔が徘徊しているかもしれないと言うのに、たいした度胸である。

 彼女の住まいはアランダ塔一番街だといっていたから、東区の中でも裕福な住宅街だ。そこから移民街――教会通りを中心とした、東区の南東地区を占める地域まで足を運ぶとなるとかなりの距離がある。

「朝から走ったから、おなか空いたねえ。何か無いの」

 催促されて、ウェルは夕べ露店で買い込んだ腸詰ブラックプディングを指さした。パンは適当にあり合わせのものを籠に放り込んで、卓上に投げる。そこから一番大きな固まりを取り出すと、ハルは勝手に火を入れた暖炉に向けてそれをかざす。腸詰めも火掻き棒の先に刺し、念入りにあぶり始める。

 彼女はいつもこうしているのか。一般の労働階級が火を通したものを食べるのは、一週間に一度あるかないかというご時世なのに。

 ウェルは濃い隈の浮き出た目元を擦りながら、身繕いを整える。顔を洗おうとしてのぞき込んだ水鏡に映る自分は、いたく目つきが悪かった。よく眠れなかったうえ、突然の来訪者に貴重な朝食を半分以上とられたのだ。怒鳴らないだけましかもしれない。

「で、なんの用だよ」

 だぶついたズボンをサスペンダーで吊りながら、ウェルは恨めしそうに彼女を見つめる。ここ数日、彼の住居兼診療所である共同住宅の中二階に、ハルは欠かさず顔を出していた。教会通りで第三の殺人が起きた翌日からだから、もう十日あまりになるだろうか。

 初めてここに来たときも、彼女は朝食をたかっていたような気がする。あまつさえひとの荷物を勝手に覗きまわり、


 ――これ、何?


 凝った装幀の分厚い本を引きずり出し、ぱらぱらと頁をめくりはじめた。ウェルは露骨に眉をひそめて、それを取り上げた覚えがある。


 ――はん。錬金術かい。


 馬鹿にした笑みには、答えなかった。これは俺のじゃない、と口の中で呟くようないいわけをし、本を寝台の下に押し込んだ。

 そうだ。あの本は、今寝台の下にある。ウェルはそちらに目をやり、もう一度尋ねた。

「何の用だよ、あんた」

 ハルは大げさに肩をすくめる。

「おや、ごあいさつだね。仕事に決まってるだろ」

「こんな朝っぱらかからか?」

「あたりまえ。街娼はね、朝しか金を持っていないの。昼には稼いだ金がジンにばけちまうんだよ。客と別れてすぐに仕事しちまえば、しっかりお金を貰えるわけ。おわかりかい?」

 ハルは涼しい顔で言ってのける。ウェルはパンをちぎると、口の中に入れた。

「仕事ね」

「そう。あんたには、がしがし稼いで貰わなきゃならないからねえ」

 腸詰めを頬張るハルに、ウェルは冷めた視線を投げかける。

 そういえば、彼女に逢ったせいなのだろうか。師の夢を見たのは。




 ――師匠のことで、話があるんだけど。


 あの日、彼女はそう言ってウェルを誘った。渋々同行したウェルに、ハルは一通の証文を見せる。


 ――あんた、字は読めるよね。


 馬鹿にした言いぐさに腹が立ったが、ウェルはそれを黙読した。刹那、衝撃を覚え、そこが居酒屋の片隅などでなければ、間違いなく大声を上げているところだ。彼は反射的にそれをひったくろうと手を伸ばしたが、ハルは素早く引っ込めた。目の前に置かれた大陸産のジンを一口啜り、にんまりと笑う。指先で、黄ばんだ証文がひらひらと揺れた。


 ――ハミルトン医師が亡くなった今、あんたがこれを支払う義務があるのよ。


 師の生前の借用書だった。

 金額は、それほどたいしたものではないが、ウェルにとっては大金である。連日五件程度仕事が舞い込んできたときの、一ヶ月の収入にほぼ匹敵する。すぐに払え、といわれてもハイそうですかと出せる額ではない。それに、身内でもないウェルに支払い義務はないはずだ。


 ――ところがね、契約書はもう一枚あって、そこには医師にもしものことがあった場合、弟子に支払って貰うようにってかいてあったらしいの。


 詭弁だ。ウェルは額を押さえた。あの、脳天気なお気楽医師は、死後も自分に迷惑を掛けるのか。しかも、こんな若い女にまで金を借りるなど。尋常な神経ではない。


 ――あ、ちがうの。あたしは、取り立てるだけ。


 師に金を貸したのは、貴族崩れの商人だという。神秘主義に傾倒していた変わり者の女伯爵、ということだが、こちらも数年前死亡していた。証文は、彼女の甥が遺品を整理していて見つけたようだ。伯爵家は商売の方も運に見放され、没落の一途たどっていたため、はした金でも返して欲しいとのことである。

 そこで、ハルが証文を買い取ったのだ。


 取り立て屋。そんな商売があるとは聞いていたが、自分がその標的になるとは夢にも思っていなかった。取り立て屋は、貸し手から証文を買い取り、彼らの代わりに督促をする。うまく返済されれば、当然その金はすべて取り立て屋のものとなる。

 初めてハルを見たとき感じた違和感はそれだったのだ。売春婦の割にはバンダナもつけていない。目つきも鋭く、身のこなしに隙がなかった。


 ――だから、頑張って稼いでね。


 ハルが笑った。かなしいくらい、無邪気な笑みだった。



 借金取り、というと職場や住まいに押し掛け、嫌がらせをしたあげく器物を破損して帰っていくものだ、と思っていたのだが。ハルはどうやら違うらしい。率先してウェルに仕事を持ってくる。稼いできちんと借りを返せ、という。

「その方が確実だからね。あたしは無駄なことはしない主義なんだよ」

 抜け目のない女である。今のところ仕事一件につき、実入りの半分をハルにとられていた。借用書の期限は今年いっぱいとなっているから、あと二月あまりで返済しなければならない。これは至難の業である。とはいえ、ハルは優秀な助手で、日に少なくとも四件は仕事を斡旋してくれた。この分で行けば、ギリギリ年内に身ぎれいになれるかもしれない。

 ウェルは残りのパンを口に押し込み、上着を肩に掛けた。たった一つの手術用具を懐におさめ、席を立つ。ハルはそれを面白そうに見上げている。青灰色の瞳に、ウェルのふてくされた表情が映った。


「こっちが近道なんだよ」

 ハルに言われて踏み込んだのは、細い路地だった。教会通りから西区に向かって続く名も無き通り。こんなところを通るのは、盗賊か覗き魔、娼婦、とにかくろくでもない連中だけだろう。度胸だけが取り柄の街の悪童たちも、好んでここに足を踏み入れることはしない。

 彼女はこんなところを通って、ウェルの家まで通っているのだろうか。

 疑問に彼女はあっさり頷いた。

「そうだよ」

「このあたり、例の殺人鬼がうろついてるかもしれないんだぜ」

 脅しのつもりで言うと、ハルは笑い出した。

「なーに、おまえさん、信じてんの? あんなのどうせ、新聞屋のでっち上げに決まってるんでしょうが。娼婦連続殺人事件? 痴話喧嘩のもつれだよ、どれも。だいたい、同じ犯人の犯行だとして、目的はなにさ。娼婦なんか殺して何の得になるってんだよ。ついでに三人も殺されてるのに、未だに目撃者がいないなんてさ。作り話っぽいだろ、いかにも」

 彼女の台詞に、ウェルは思わず口笛を吹いた。同じだ。彼が持っている意見と。

「世間も、騒ぎすぎなんだよね。新聞に踊らされて。馬鹿みたい」

 ハルは両手を突き上げ大きくのびをする。彼女の手にあった角灯が高く掲げられ、小路が淡く照らし出される。ささやかな光は、路上に転がる不可思議な異物もそのかいなに抱きしめた。生ゴミの袋か、とおぼしきそれは、小路の隅にぺったりと転がっている。二人は、同時に立ち止まった。

 汚物の臭いに混じって、血の匂いが漂ってくる。

 道路脇の排水溝に半身を埋めるようにして、女性の遺体がそこに横たわっていた。

「うそだろ」

 教会通りの殺人鬼。その被害者だろうか。噂に違わぬその残虐さを目の当たりにして、ウェルは声を失った。こんなことをする人間が、本当に存在したのか。彼は遺体に近づいた。かがみ込み、そっとその肩に手を触れる。温かい。殺されて、まだそれほど時間は経っていない。と、なれば、犯人はまだこのあたりにいるかもしれない。ウェルは角灯を掲げた。崩れ駆けた石塀の陰には、人が潜めるくらいの隙間もある。目を凝らし、様子を窺っていた彼は、そこに妙なものを見つけた。

「こいつは」

 ウェルは思わず眉をひそめる。目の前の壁には、殴り書きで


 ――グィール人に文句があるのか。


 とあった。背後からその文字をのぞき込んだハルも、忌々しげに舌打ちする。

 犯人が書いたものにしろ、そうでないにしろ。厄介なことには違いなかった。


 その後。ハルが近所の靴屋のおかみを無理矢理たたき起こし、渋る彼女を市警に走らせた。ややあって、市警が駆けつけるころには通りに野次馬が集まりだし、貧相な路地裏はただならぬ熱気に溢れていた。

「また、ですか」

 若い巡査は、痛ましそうに鎮魂の印を結んだ。とぼけた顔に似合わぬ無骨な手で、被害者の瞼を閉じている。彼は目撃者であるウェルたちを頭から疑うこともなく、淡々と事情聴取を進めた。

「災難でしたねえ」

 心底気の毒そうに、こちらを見る。

「で、お二人はここで何をなさっていたのですか、念のため聞かせていただきたいですが」

 好奇心ではなく、純粋に仕事のためらしい。アキノ、と名乗った巡査は、手帳に几帳面な字で二人の名を書き込んでいく。

「お仕事で、ですか。それはまた。え? 借金取りとお医者さん? これはまた変わった取り合わせですねえ。ああ、近所で病人が出たので呼びにきた、と。ご婦人、なかなか勇気がありますねえ」

 ほのぼのと目を細めるアキノ。

「一歩間違えば、あなたがここに転がっていたかもしれなかったんですよぉ」

「ま、まあ」

 きつい冗談を言う男だ。ウェルは長身の巡査を見上げる。ハルと同じく生粋のアルビオン人であることは間違いない。白々と射し込む朝日に、琥珀の髪がよく映える。彼はウェルの視線に気づくと、にこりと笑った。ウェルもつられて硬い表情を崩す。その和みかけた空気を払拭したのは、甲高い巡査部長の声だった。

「なんだ、これは!」

 あの落書きに気づいたらしい。ウェルは舌を打った。巡査部長は、彼の予想通り青筋を立てて、問題の一文を指している。

「こんなところに、こんなものを! アキノ! 消せ! すぐに消すんだ!」

「部長。それは、犯人が書いたものかもしれませんよ。消したら証拠がなくなってしまいます。鑑識の人たちが来るまで待った方が」

 気の抜けた口調で、アキノが止めにはいる。しかし、巡査部長は聞かない。自らナイフを取り出し、塀を削り始めた。

「部長。まずいです、部長」

 長身の巡査は、機械仕掛けの人形のごとく、緩慢な動作で上司に近づいていった。その後ろ姿を見ながら、ハルが息をつく。

「優秀な上司だと部下は大変だねえ」

 皮肉にウェルも同意した。これでは、唯一の証拠も消えてしまう。

 けれども。あの落書きが記事に書き立てられて、下手にアルビオン人と移民たちとの間に摩擦が起きたらただでは済まない。アルビオン人の外国人に対する嫌悪感は、このところ日増しに高まっている。あの落書きは、消した方がいいのではないか。

 幸いなことに、落書きのある石塀は野次馬たちの目からは見えていない。自分たちさえ黙っていれば、あれは初めから無かったことになるだろう。

(俺も、せこくなったもんだよな)

 つまらぬ保身に走るなど。微かに苦笑を漏らし、彼は市警二人組から目をそらした。

「?」

 瞬間、ウェルの動きが止まる。

「どうしたのさ?」

 ハルが首を傾げる。

「いや。いま、なんか」

 視線を感じた。いつもの視線。彼に注がれる、殺意のこもった絡みつくような視線。それが一瞬感じられ、そして、消えた。

 殺人鬼。

 視線。

 落書き。

 街娼の遺体。

 それらが、頭の中で交錯する。点が線へとつながりかけ、彼は強く唇を噛んだ。

「ちくしょう!」

 ウェルはごった返す野次馬の中に飛び込んだ。後ろでハルが何か叫んでいる。それを無視して、彼は野次馬をかき分けた。あの視線の主。<彼>は、きっとこの中にいる。ウェルは脇にいた女性を力任せに押しのけた。

「悪りい。どいてくれ」

「きゃ!」

 小さな悲鳴が聞こえ、続いて、げぼ、と吐瀉物のこぼれる音。ウェルに押された女性が、口元を押さえてその場に座り込んだ。赤いバンダナに包まれた黄金の髪が、小刻みに揺れている。街娼か。ウェルはその女性の肩に手を掛けた。

「すまない。大丈夫か?」

「ええ。少し、気分が」

 か細い声が返ってくる。周囲の視線は、闖入者であるウェルに注がれていた。彼が女性に何かしたのではないか。無言の圧力が全身にかかる。ウェルは追跡をあきらめ、女性を抱き起こした。とりあえず、彼女を人混みの中から連れ出さなくては。

(この女)

 華奢な体に触れて、ウェルは顔をしかめた。線の細さの割には、下腹部が張っている。これはもしや。

(お客か)

 愚にもつかぬ事を考えながら、彼は人混みを脱出した。女性はぐったりと彼の胸に顔を埋めている。

「ちょっと。どうしたのさ。急に走り出さないでおくれよ」

 遅れて、ハルがやってきた。彼女は彼の腕に見知らぬ女性がいることに気づき、露骨に眉をひそめた。

「あんた。口説くんなら、もっと別のときにしてもらいたいねえ」

「ばか。病人を助けたんだよ。変な目で見んじゃねえよ」

「へえ」

 ハルは腕を組んだ。

「まったく、呑気なもんだよ。お客が殺されたっていうのにさ」

「え?」

「あの死体。あれ、サラ・グレイ。今日、あんたの患者になるはずだったひとだよ」

「なんだって?」

 これは、偶然なのか。ウェルは唇を舐めた。喉が、かさかさに乾いている。先程のイヤな方程式に、また新たな文字が加わった。

「ウェル、あんた何か気がついたんだろ?」

 ハルの目が光った。ウェルはそれを否定する。腕の中で、街娼が身じろぎした。

「ウェル? ――まさか、ブランウェル?」

 白い顔が、こちらに向けられる。懐かしい瞳が、彼の黒い双眸を見上げていた。深い、海を思わせる色。じっと見つめていると吸い込まれそうになる。

 ウェルは一度、強く瞼を閉じた。思い出の中の彼女と、目の前の女性が重なる。

 忘れもしない。忘れることなど出来はしない。

 彼は、彼女の名を口にした。

「メグ? ――マーガレット!」

 マーガレット。教会通りのプリンセス・マギー。

 腕の中にいる女性の現在の通り名など、ウェルが知る由もなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る