夜の囁き
上庄主馬
序章
「ねえ、いったいどこまでいくのさ」
女の声は、闇の中に吸い込まれた。冷えた石壁に、微かな反響。半ば消えかけた瓦斯灯の明かりに、二つの影がぼんやりと浮かび上がる。彼女と、そしてもう一人。漆黒のコートの襟を立てた、中背の男である。ひたひたと裸足で歩く女の足音を聞きながら、彼は無言で歩き続ける。彼女の声が聞こえていないのか。それとも初めから聞く気がないのか。いらえは、ない。
彼女はムッとしたが、それ以上何もいわなかった。
暗がりの中で野良犬がゴミをあさる音が聞こえる。他に物音はなく、街は寝静まっていた。今、路地を徘徊しているものと言えば、物取りか、変質者か、または彼女らのような街娼しかいない。いな、あと半時ほどで薄明というこの時間帯に客と寝床を探している女など、彼女くらいなものだろう。他の仲間はとっくに客をくわえ込んで、安宿にでもしけこんでいるに違いない。
「まったく、ついてないよ」
街灯の下でジンを舐めながらぼやいていた彼女に声を掛けたのが、今、前を行く男だった。
厚手のコートの襟を立て、帽子を目深にかぶっている。そのせいで容貌は全くわからない。若いのか年寄りなのか。移民なのかそうでないのか。背は、男性にしては幾分小柄である。と、いうことは大陸の移民か。どちらにしろこの時期にコートを着込むなど、地元の人間では考えられない。しかし、そんなことはどうでもよかった。ようは金さえ払って貰えればいいのである。不景気の昨今は、「乗り逃げ」の被害も相次いでいる。
この客は、どうだろう。
彼女は、
彼の背中を用心深く見つめた。
と。不意に男は足を止めた。彼女も慌てて立ち止まる。顔を上げれば、男の肩越しに教会が見えた。東区移民街の教会である。
「こんなところで、やるのかい」
罰当たりだねえ、と呟いたものの、彼女に悪びれた様子はない。早速仕事、とばかりに裾をめくりあげる。何日も洗っていない、粉だらけの太股が露わになった。彼女は客の気をそそるように、軽くしなを作ってみせる。それから、ゆっくりと背後の壁に背を預けた。
「早くおいでよ。夜が明けちまう」
媚びた笑いが誘いを掛ける。客は彼女を見下ろし、ポケットに手を入れた。そこからなにかをスッと抜き出す。消えかかったガス灯の明かりを、それは微かに反射した。彼女は「え?」と声を上げる。一瞬、先に金を払ってくれるのかと思ったのだ。しかし、その期待は裏切られた。男が彼女に向けたもの。それは先端の鋭い、肉厚の短剣だった。
ひっ、と彼女の喉が鳴る。細い、棒きれのような足が、逃げようと路面を蹴った。だが。それは空しい抵抗でしかない。男は彼女の肩を掴むと、痩せた体を引き寄せる。女は声にならぬ悲鳴を上げた。その首筋に、銀の閃光が舞い降りる。
ザクッ。
湿った音があたりに響く。
闇の中に、血の匂いが広がった。
*
記者は、ペンを置き、下書きにザッと目を通す。
「こりゃあ、売れるな」
満足げな笑みが、こぼれた。
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