カッサンドラの呪い

高山小石

カッサンドラの呪い

 B子さんは、厳格な父と典型的な日本女性である母の間によって、丁寧に育てられてきました。

 頭ごなしに怒鳴られたことはなく、静かに諭されてきました。

 幼い時から、感情を高ぶらせることは恥ずかしいことだと教えられ、学校で同級生が怒鳴ったり叫んだりすることは見たことがあっても、親がするところは見たことがなく、叱られることはあっても怒られることはありませんでした。


 そして、結婚すれば夫に尽くすこと、夫に従うことを言外に伝えられてきました。


 B子さんは結婚してから、なんでも夫と二人で生活を楽しむ、穏やかな日々を過ごしていました。

 変化が訪れたのは子どもが産まれてからです。


 子どもが産まれてから、夫は豹変しました。

 赤ちゃんが夜中に泣くと、夫が壁を叩いたり蹴ったり。子どもの耳元で「静かにしろ!」「うるさい!」と怒鳴るのです。


 B子さんは何度も「赤ちゃんは言葉を話せないから泣くのだ」と説明しましたし、大声を出さないで欲しいと伝えましたが改善されず、ある夜は物を投げつけられ、当たった子どもは当然ながらさらに泣き叫びました。


 困ったB子さんは、実の母に相談しました。「夜うるさいと怒鳴られる。できれば離婚したい」と伝えました。


 B子さん母は言いました。

 どうしてB子さんがそう思ったか、どんなことが起きているのか聞くこともなく、「仕事をしているのだから、夜眠れないのは困るでしょう。寝室をわけたら? 賭け事、借金、暴力、浮気をしていないのなら、安易に離婚するべきじゃないわよ」と。


 B子さんは寝室をわければ穏やかな日々に戻れるかと思いましたが、違いました。

 怒鳴られることは止まりません。


 そこで、いわゆるママ友にも「困っているのだけど、そんなことはないか」とたずねてみました。もしあるなら、どうすればいいのか聞きたかったからです。

 「ないない。むしろお手伝いしてくれるなんていい旦那様じゃない」と返されました。


 ママ友にすれば、見たことも会ったこともない他人の旦那様に対して悪く言うことなどできません。お追従を言うしかないのです。だから「日頃から手伝ってくれる」という部分を褒めたのです。


 しかしB子さんは思います。

 お手伝いしてくれればなんでも帳消しになるのでしょうか。

 夫がお皿を洗ってくれれば「誰が皿を洗ったと思ってる! 無駄に使うな!」と言われても我慢しなくてはならないのでしょうか。


 B子さんが「子どもがいると毎日の掃除が大変」と夫に伝えれば「毎日掃除機かけるなんて神経質か!」と言われます。アレルギーっぽい子のためにはホコリは厳禁だと保健センターやら医師やらから口酸っぱく言われるので気を付けているのですが、説明してもわかってもらえません。


 来客があるのでトイレ掃除をしようとすれば「いっつもしてないのに!」と掃除をさせてもらえませんでした。確かに毎日トイレ掃除はしませんが、夫が知らないだけで、来客前にはいつもしていました。

 その時の男性客からは「奥さんがトイレ掃除しないならお前がしろよー」と言われてしまいました。


 親戚の家に行った時は「水を流しっぱなしで洗い物したら水道代がかかりますよね」と、さもB子さんがジャージャー流しっぱなしで洗い物をしているように言われましたが、実際にそうしているのは夫です。


 B子さんは、夫がいうタライを置きたくないと話しただけです。

 水をはったタライにつけておいて洗うのは効率が良いとは思うのですが、夫はタライにつけておけばいいとばかりに、タライの水が濁ろうが臭おうがそのままにするので、タライを撤廃したのです。


 しかしそんな細かいことを親戚やママ友の前で説明するわけにはいきません。

 ママ友との会話の流れは速いですし、親戚の前でそんなことを言えば、夫を貶めることになるからです。


 B子さんは結婚する前からの友達に相談してみました。


 まずだいたい最初に「あなたが選んだんでしょ?」「旦那さんとはお似合いだと思うけどな」と言われます。ちなみに、それほど深くない友達なら、さらっと話題が変えられます。


 B子さんにとっては、友達の何気ない「旦那さんとお似合い」だという言葉からは「つまり自分は旦那に怒鳴られ続けて意見を聞いてもらえないゴミみたいな存在がお似合いなんだ」と聞こえてしまいます。


 DV相談に相談すると、子どもに関する内容なら児童相談所に相談するように言われました。

 児童相談所に相談したら、精神科にかかっているのなら精神科に相談するように言われました。

 精神科にはもう何年も相談しています。


 こうなったらと、どちらの両親にも相談することにしました。

 今までは、できれば家庭内のことは家庭内でなんとかしようと思って頑張ってきたのですが、B子さんの思考が「このまま子どもが骨折もしくは後遺症が残るような暴力を受ければ、この生活から逃げられるのではないか」と思ってしまい、そんな自分自身に危機感を覚えたからです。


 B子さんとしては、とにかく夫と離れたい。少なくとも夫と子どもを離したいという気持ちでしたが、なぜかどちらの両親も「家族再生のために家族全員で一緒に頑張れ」的な意見でした。


 B子さんにとっては信じられないことですが、いじめが横行してる場所から動かずに耐えながら再生しろという無茶ぶりです。


 確かに夫を選んだのはB子さんですが、ブラック企業に入社したことがわかったのだから退職したいと思うことはおかしいのでしょうか?


 夫からは「昔から離婚を考えてたのならさっさと離婚したら良かったのに!」と言われました。過去にも伝えていたのですが、当時の夫は「めんどくさいから離婚はしない」と言っていました。


 両親からは「もっと早くに相談してくれたら良かったのに」と言われました。

 言いましたよね? 暴力になったから離婚できると思ったのに、「ここまでやってきたんだから最後まで添い遂げたら」と返ってきました。


 後出しジャンケンは最強です。


 B子さんに親身になってくれているとずっと相談していた親戚からは「私に愚痴を言うんじゃなくて、本人と話し合ったら?」と返されました。

 その話し合いができなかった記録を報告していただけなのですが、愚痴だと思われていたようです。


 精神科の医師にこれまでのことを話すと「話した相手が悪かったですね」と言われました。


 ならB子さんは誰に話せば良かったのでしょう?


 主な相談所には相談してきました。肉親にも親戚にもしました。後は知恵袋でしょうか?

 でも、弁護士の先生から、「誰か特定されるような文章は名誉毀損でうったえられますよ」と注意を受けました。


 B子さんは、確かに家庭のことを家庭外に相談するのは危険だなと思いました。

 名誉毀損うんぬんもありますが、まず自分の置かれている状況を正確に伝えることが難しいからです。

 話を聞く人たちにはそれぞれの立場があり、その立場から(肉親なり親戚なり友達なり)や先入観ありきの意見になるのです。


 B子さんと同じ状況に寸分違わず立って考えてくれることはまずありません。


 もしかしたら正解は、自分が「無理だ」と思った時点で、相談しないでさっさと退職することだったのかもしれません。


 もちろん、頑張りにがんばりを重ねて会社ごと改善できれば物語的に盛り上がるのでしょうが、それは他人事だから楽しめるのであって、それを望むのであれば望む人が自分でやればいいとB子さんは思います。


 B子さんの望みは、物語を盛り上げることではなくて、怒鳴られない心安らかな生活なのです。


 そして、これはいわゆる、いじめ自殺や無理心中も同じ構図じゃないかな、とB子さんは思いました。今なら、自殺する子どもの気持ちや、子どもと一緒に死を選ぶ気持ちがわかります。


 どこにも味方はいないと絶望し、自殺すればこの状況から逃げられる。

 なんて簡単で楽なんでしょう。


 よくニュースで「気づかなかった」「そんなことするようには見えなかった」と報道されているけれども、きっといじめに合った子は誰かに相談しているはずだとB子さんは思います。本当にどうしていいのかわからなくなると、誰かに聞きたくなるものですから。


 おそらく相談された誰かは、そんなギリギリのSOSだとは思わず、なんとなく返したり、スルーしたり、先送りになったりするのでしょう。

 

 そうこうしているうちに、B子さんと同じように、相談すればするほど本来の困っていることは変わらないのに、自分自身がどんどん傷ついていく状態に陥ります。


 B子さんは大人でしたからここまでねばれましたが、子どもならどうでしょう?


 だからB子さんは呪いをかけようと思いました。


 困っていると相談されたら、できる限り先入観や立場を捨てて聞いて欲しいのです。ただ、聞いてくれるだけでいいのです。


 救おうなんて思わないでください。救おうとしたあなたが壊れます。 

 一人のヒーローが人を救えるのは物語だからです。

 現実では一人を救うには複数人の力が必要です。

 だから、たくさんの人に呪いをかけます。

 

 ただ、話を聞いて下さい。



 カッサンドラー……ギリシャ神話に登場するトロイアの悲劇の予言者(Wikipediaより抜粋)。


 アポロンに見初められ関係を迫られるが、恋人になる条件として予言能力をもらったとたん捨てられる未来が見えたのでアポロンを拒絶したところ、怒ったアポロンから誰も予言を信じない呪いをかけられてしまう。


 有名エピソードは「トロイの木馬」。

 木馬は危険だと予言したけれども誰にも信じてもらえなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カッサンドラの呪い 高山小石 @takayama_koishi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ