第3話 正妻と妾
佐喜代と智子にとって長い一日が始まった。
後に、二人……いや、三人は、生涯で最も濃密な長い一日であったと記憶する事になると思われる。
「お待たせしました」
椅子に腰掛けていた佐喜代は、すぐさま立ち上がり、深々と
「お初にお目にかかります。中谷佐喜代と申します。奥様、この度はご結婚おめでとうございます。 ほ、本日はお招き頂きまして、誠に有難うございます……」
堰を切った様に言葉をつないだ。申し訳なさが先に立つ。招かれたからと言って、本当に伺っても良かったのであろうかと、この期に及んで悔やまれた。
下げた頭を上げられず、出来る事ならこのまま土下座をした方が賢明だろうかと思案した。
「まあ、佐喜代さん、あなたもおめでとうございます、でしょう? 」
「え……。」
思ってもいなかった返答に、やっと顔を上げる事が出来た佐喜代に、静かに芙美香は近付いた。
「こちらこそ、はじめまして。芙美香です。やっとあなたに会える事が出来て嬉しいわ。これから先、宜しくお願いしますね、佐喜代さん」
「お、奥様……っ……」
上品な物腰のお嬢様、と第一印象が勝る芙美香であった。
きりりとした眉や口元、二重まぶたの大きな瞳、鼻筋の通ったすっきりとした顔立ちの美しい人である。
が、意思の強そうな眼差しと、少しばかり日に焼けた健康的な肌の色が、深窓の令嬢とは異なる雰囲気を醸し出していた。
「ね、座りましょうよ。こちらの椅子は特注らしいのよ。お義母様が自慢なさっていたわ。めったにあたくしもこのお部屋へは出入り適わないの。ささ、座り心地を堪能しましょ? 」
そう言いながら、芙美香はさっと向かいの椅子に座り込んだ。
「ほら、あなたもよ。お話しが長くなるのだから、ずっと立ち通しでは疲れてしまうわよ? 」
多少変わられた若奥様だと茂保から話を聞いていた佐喜代であったが、覚悟していた第一声で罵詈雑言を浴びせられず、放心状態になってしまった。
「そう言えば、あなたのお仕事は立ってらっしゃる時間が多かったのかしら。でも、もうあなたは女中ではなくてよ。ね、お座りなさいよ」
「は、はい。失礼致します」
そう言われ、静かに腰を降ろしてみる。しなやかさを背もたれから座面から感じる、ふわりとした沈み心地は何とも形容し難かった。
「あらあ。これは宜しいわね。お義母様が自慢なさるわけだわね」
歯に衣着せぬ物言いに、佐喜代はふふふ、と笑った。それを見た芙美香もうふふ、とつられた。
「良かったわ。あなたが噂通りの方でいらして」
心臓の鼓動が早鐘を打つほどに、佐喜代は驚いた。噂話をどなたがされていたのか……。
「若奥様、失礼致します。お茶をお持ち致しました」
その時、満津がお茶と和菓子を盆で運んで来た。
今までは、私の仕事であったのに……と、もてなされる立場になった面映ゆさを感じた。
和菓子は佐喜代の好きな最中である。
「さあ、お噂通りのあなたの好物を用意させましたのよ。どうぞ召し上がって」
芙美香の言葉に目を丸くしていると、満津が笑いを堪えながら退室して行った。
……もしかしから、若奥様はお満津さんに私の事をお聞きになられたのかしら……?
いくら好物であるからといっても、この空気の中でおいそれと味わえるはずが無い。
「あたくしも頂きますわ。さあ、佐喜代さんもどうぞ? 」
女中あがりの自分にこれだけ親しく接してくださる若奥様に、佐喜代は言葉をどう返して良いものか考えあぐねてしまった。
考えても仕方ない。素直に頂戴させて頂く事にする。
「有難うございます。では、遠慮なく頂戴致します」
「どうぞ。とても美味しくてよ。あたくしもこちらは好みのお味だわ」
佐喜代の方は、とても喉を通せるものではなかった。茶で乾いた口元を潤し、頂いた好物の近江庵の最中は普段とは異なる風味がした。
佐喜代は芙美香とは全てにおいて正反対で有った。
容姿、家柄、身に付けた教養、性格など。育った環境が真逆であれば、ものの捉え方や考え方もそれなりに対極に位置する。支配する側とされる側一つ取ってみても、立ち位置に雲泥の差が見えた。
そんなかたと、これから久しく宜しくお願い致します、とお付き合いさせて頂くなんて……許されるのでしょうか。
たとえそれを若奥様がお望みであったとしても。
何の障害も無く、自由にお互いが行き来出来る事……これが、妾を持つ茂保の元へ嫁ぐための条件であったと言う。
佐喜代は思いも寄らなかった正妻の態度にしばし困惑していた。
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