第2話 若奥様は芙美香様

 懐かしい御屋敷だった。


 ほんの数ヶ月前まで、この中で毎日を過ごしていたなどと佐喜代は夢の様に思われた。それとも、別宅を頂いて何不自由なく暮らしている現在が夢なのだろうか……。


 車が守衛もりえと呼ばれる門番小屋の主に確認されて、屋敷の内門へと通される。彼らも佐喜代と智子を目の当たりにして、夢を見ているかの思いを抱く。立場や職務は異なれども、同じ柴田家の使用人であった。



 車は客用の玄関口に停められ、降車を促される。二人共、使用人達が利用している裏玄関に回されるものと思い込んでいたらしい。

 「佐喜代様、智子さん、恐れ入りますが、お二方ともこちらでご降車願います。お客様でいらっしゃいますから」

 司が愉快そうに聞こえる声でそう言い、扉を開けた。智子は、はっ、と気付いて、すぐさま車を降りた。


 「佐喜代様、さ、こちらへ」

 智子はいつもお客様を迎える側の女中であった。記憶の中にある限りの客人のお付きの者は、どのような働きをしていた? その様な場面では、主人に対してどんな気遣いをしていた? 


 まだ一人前の女中とは言えない歳の智子。幼い頃に柴田家へ上がらせて頂けなかったならば、売春宿へ売られていたと言う。

 柴田家としては即戦力の女中を求めていた為、飛び入りらしくいきなり現れた智子の奉公は端から相手にされてぃなかった。


 そこを佐喜代が自分の空いた時間に面倒を見るから、下働きに奉公させて欲しいと柴田家の奥様に願い出たのである。志津乃は初めて佐喜代が女中頭として自分に願いを申し出た事に満足し、智子を屋敷に上がらせた。




 その様な経緯いきさつがあった為、一人の女中を傍に付ける事を許された時、茂保も佐喜代も迷わず智子を選んだのであった。佐喜代にとって、この屋敷の一番の味方は智子である。




 客人用の玄関先では、かつての仲間達が緊張した面持ちで二人を待っていた。


 柴田家の次代当主の正妻と、妾で元女中頭の佐喜代の初めての対面である。

 若奥様とかつての同僚の一騎打ち、と言わんばかりに張り詰められた空気の中へ二人は向かった。

 


 本日は茂保の両親は出掛けている。若奥様はその日を狙って待ち構えていたらしい、と屋敷中のどの者達からもそう思われていた。


 普段ならば、出迎える女中は数名である。佐喜代と智子は目を疑った。

 「さ……佐喜代さま」

 「智子さん、先に行ってください」

 「何を仰います、佐喜代様がお先にお入りくださいませんと、わ、わたしは困ります」

 女中頭を筆頭に、総数の三分の二と思しき女中達が揃って出迎えていた。

 智子の足が震えているのが見て取れる。佐喜代は一歩も前に進めない。しばし立ち止まってしまった。


 そんな二人を目の当たりにした新女中頭の満津みつは、地に縫いつけられてしまった二人の足を離すべく、口火を切った。


 「お待ちしておりました。佐喜代様、どうぞこちらへ。お疲れでいらっしゃいますでしょう。」

 二人に歩み寄りながら、智子の手荷物を代わりに運ぼうとした。智子はかつての大先輩に思いもよらなかった行動に出られたので、恐縮してしまった。

 「だ、大丈夫ですから……」

 智子は荷物をぎゅっと握りしめ、抱きしめた。満津は、まだ年端もいかぬ後輩の肩を抱き寄せて、「大丈夫よ。取って食いはしませんから安心なさい」と頭を撫でた。


 その様子を見て、佐喜代の肩からほんの少しだけ力が抜けた。わずかに歩を進める事も叶った。


 「皆さん……こんにちは。お久しぶりです。本日は、どうぞ宜しくお願い致します」

 「お元気そうで何よりです。佐喜代様。さあ、中にお入り下さいまし」


 口々に、「佐喜代様」「佐喜代様」「智子さん」と声が掛かる。


 「さあさ、皆さんお二人のお顔を望めましたでしょう。そろそろ自分の持ち場へ戻って、職務に励みましょう。これ以上はお客様のご迷惑になります。若奥様もお待ちの事です。はい、解散! 」

 両手をぱん、と鳴らして、満津は女中達を下がらせた。後に残った者達が、職務を遂行する。

 「佐喜代様……少しお痩せになられましたか」

 「お満津さん……有難うございます。皆さんにお会い出来て、心強く思えます。私は変わっておりません。大丈夫です。」

 今までとは違うのだ……古巣へ帰ったつもりでも、立場が違う。置かれた環境が異なる。佐喜代は改めて、自分の身の丈を省みた。身に余る光栄と思える自分、身分を弁えずにずうずうしく正妻にご挨拶をさせて頂こうとしている自分……。


 智子は努めて気丈に振る舞おうとしている。若奥様に直接ご挨拶出来るのは、佐喜代のみ。満津に案内されて、智子はお付きの者が待機する別室へと連れて行かれた。


 程なくして、満津が応接間に戻って来た。茂保の結婚を機に、椅子や長椅子が新調されて、趣の異なる洋風の部屋へと一変していた。

 

 「間もなく若奥様……芙美香ふみか様がおいであそばします。」


 「はい。」

 「佐喜代様。お幸せでらっしゃいますか」

 満津は、佐喜代よりも一回り以上年上の女中である。佐喜代が異例の昇進などしなければ、彼女がもっと早くに女中頭になっていただろう。

 初めは佐喜代に対して頑なな面を向けていた満津であった。が、しかし、智子が屋敷に奉公に上がった頃から佐喜代に接する態度が軟化した。終いには、姉の様な存在にもなった。


 「……はい。お蔭様で。幸せです。有難うございます」


 その言葉を聞いて、満津は優しく微笑んだ。佐喜代を見つめる眼差しは、とても穏やかで暖かかった。


 失礼致します、と一礼して、満津はその場から下がって行った。

 

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