足音

永盛愛美

第1話 妾と呼ばれて

 夏が、近付いていた。


 梅雨の晴れ間が日差しを呼び込み、庭先の草花が一層色を増している。


 玄関先から中門まで続く石畳に、日光が久し振りの熱を与え草履の裏に伝えていた。


 「佐喜代さきよ様、やはりお召し物は薄物になさった方がよろしいのではございませんか。今日はまるで夏のようなお天道様ですよ」


 女主人の中谷佐喜代なかたにさきよの手荷物と自身の風呂敷包みを抱え、女中の智子ともこは外門に着く前に、召し替えの意思を尋ねた。既に迎えの車は到着している。


 「大丈夫よ、智子さん。このまま参りましょう。柴田しばたの奥様をお待たせしては申し訳ありませんもの」


 僅か数ヶ月前まで、佐喜代と智子は柴田家の使用人であり、特に佐喜代は若いながらも女中頭を長年務めていた。

 今は、柴田の御屋敷から二里離れた田舎に近い場所でこじんまりとした屋敷を与えられ、二人きりで暮らしている。


 時折柴田家の一人息子の柴田茂保しばたしげやすが佐喜代を訪ねて来る。

 彼女は俗に言う「妾」であった。




 今年に入って直ぐのこと。一人息子の茂保に突如縁談話が舞い込んだ。以前より女中頭の佐喜代に好意を抱き続けていた彼は、慌てて彼女に胸の内を告げた。


 佐喜代は、身分違いを理由に最初は拒否や辞退を繰り返していた。が、柴田家と相手方の代田しろた家のことをさまに我が身の行く末を危ぶみ、歯止めが効かなくなった茂保は、毎日の様に両親や使用人の目を盗んでは、真摯に熱い恋心を佐喜代に語るのであった。



 ひと月以上も続いた茂保の甘く熱い情熱の言の葉を一身に受け、佐喜代は遂に彼の心を受け止める決心をした。



 それからは、ひとしきりお家騒動の様な寸劇が両家で繰り広げられた。

 茂保は両親に懇願し、説得を試みた。彼女以外に伴侶はあり得なかった。

 すんでの所で二人が駆け落ちをし、準禁治産者になる未来を回避出来た。

 佐喜代は茂保の両親、特に母の志津乃のお気に入りの女中頭であった為、功を成したと言っても過言ではない。


 両親を説き伏せた茂保は賭けに出た。先ずは代田家の御息女と婚約してから、佐喜代の存在を明かして相手方に結婚の可否判断を預けようと考えたのである。

 この話は無かった事に、と応えられたならば、次のお相手には初めから打ち明けて話を進めて頂こう、と。

 佐喜代は正妻には据えられない。


 ならば、理解ある正妻を探すしか道は無い。


 思いの外、話はとんとん拍子に進み、茂保と佐喜代は目を見張る勢いで周囲も自らも状況が一変してしまった。


 代田家の御息女は、少しばかり風変わりな人物であったらしい。


 妾となるかたと、この先ずっとお互いが何の障害もなく、行き来出来ること…………これが柴田家に嫁ぐ条件であった。



 かくして、無事に婚儀を終えた柴田家に、妾である佐喜代と女中の智子が招かれたのである。




 外門の傍らには、柴田家お抱えの運転手が二人を待っていた。彼女らに気付いた初老の男は車から降り、女主人に向かって恭しくこうべを垂れた。

 長年柴田家に仕えている運転手である。使用人達は、柴田家の敷地内に長屋を与えられ、寝食を共にしていた。従って、家族の様な心地良さがあった。


 特にこの初老の運転手は、茂保が生を受ける前より柴田家に仕えている。

 茂保がじいや、と慕う運転手であった。昔から、何処へ出掛けるにもこの運転手が柴田家の人々を送迎していた。


 「佐喜代様、お久しぶりでございます。お迎えに上がりました。どうぞこちらへ」

 

 車の扉を開けて、佐喜代を中へと促した。手を添える構えを見せている。


 「こんにちは。お久しぶりです。つかささん。本日はどうぞ宜しくお願い致します」


 佐喜代も柴田家の人々と共に幾度も同乗させてもらった車である。

 しかし、自分の為だけに差し向けられた事は初めてであった。


 「佐喜代様、どうかその様なお声掛けはお止め下さい。あなた様はご立派な中谷家の女主人になられたのですから」


 

「いえ、そんな……急に言われましても……」

 数ヶ月前までは、この司という運転手と同じく柴田家に仕えていた佐喜代である。女中の智子は後輩で、彼は大先輩だという位置にあり、いきなり主人気取りで振る舞えるわけが無い。

 

 佐喜代と智子が車に乗り込むと、扉を締めて司も運転席に上がった。


 「佐喜代様らしいですね。坊ちゃまがお離しになられない理由が分かる様な気が致します」

 「つ、司さん……ご冗談はお止め下さい……」

佐喜代は恥ずかしそうに頬を赤く染めて俯いてしまった。智子はその主人の姿を見て、軽くため息をつく。



 司は控え目な人物で、懐深く思慮深い。だが、時には茂保に対して憚りながら、苦言を呈する事もあった。茂保は彼を尊敬し慕い頼りにしていた。

 実は佐喜代との仲を両親よりも先に内密に彼に相談していたのである。


 駆け落ちを実行に移せなかった理由の一つには、司の提言も含まれていた。


 二人にとって、司は恩人であった。


 「では、御屋敷へ向かわせて頂きます。失礼致します」


 慣れているはずの車内が、見知らぬ場所の様に感じられて佐喜代は緊張を隠せなかった。


 御屋敷では若奥様が二人の到着を楽しみにして待っていた。



 

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