お婆ちゃんの爪切り
約三ミリ。一般人なら一ヶ月で伸びる爪の長さ。一瞬で爪が伸びたひとを見たら要注意だ。時間旋に長く滞在したか……あるいは
胞子ネットワークを読み、人知を越えた能力を持つ人々。紀元前から北欧では彼女たちをこう呼び、恐れた。爪の長い女……
※
能力を使えばおそらく、自分の身に使用分の老化が起こるのだろう。髪や血管に変化が出る場合もあるが、人それぞれである。爪には魂が宿る、お婆さんから聞いた言葉だった。
三年前の夏、能力に目覚めた私は両親に相談した。空間の歪められた時間旋が、となりの街に発生していることを言ったのだ。
信じてはもらえなかった。これ以上は病院に連れていかれるのが関の山だと思った。苛立ち、自分の部屋の隅に座り耳をふさいでいた。
暗く広大な世界で私はひとりぼっちだった。人間より優れた知的生命体の声がかすかに聞こえる。その内容は不快なものばかりだった。以前にもこんなことはあった。
だがその日、私は急に恐ろしくなった。恐ろしくてたまらなくなった。もう無視出来ないと思って、両親にぶちまけたのだ。
その晩、聖子お婆ちゃんは私に教えてくれた。部屋に入るなり笑顔で私の頭を優しく撫でて、こう言った。
「家出すんのかい?」
「ぶっ……し、しないけど。放っておいて」
「わだすたちは常人より、運がいんね。連中の声が聞こえたのは、いつからだい?」
「えっ!」驚いた。「お、お婆ちゃんにもあの声が聞こえるの? 不快な悪魔の企みや、人間をとって食おうっていう会話が」
「……まあねぇ。だんども別の生物の思考なんて気にすることはないでよ。やってることは、縄張り争いか覇権争いなんだから」
「聞きたくないのに聞こえてくるの」
「ええやぁ、ウザいわな」
「……え、そんな感じ?」
「まんず、そんなもんよ。聞いたってろくなことはねぇから、放っておけばよろし」
アカシックレコードとも呼ばれる胞子ネットワーク。そこに接続し膨大な知識を得た先人は、みな強大な富や権力を得た。
だが繁栄と衰退を繰り返し、必ず不幸な末路をたどると聞いた。だから見る必要も、聞く必要もないと教えてくれた。
魔女の爪は長くて黒い。祖母はよく、私の爪を切ってくれた。そして教えてくれた。むかしは
ただこの発展した現代においても魔女が、どれだけ嫌われ、追いたてられ、迫害されているかを聞かせてくれた。
『敵対者、怪人は有肢菌類だけじゃない。海洋生命体に爬植石生物、おなじ人類までもが魔女を狩ろうとうごめいている』
ある日は富士の樹海で、ある日は濁流あふれる溪谷で、ある日はこの新都心にあるビル群で、私たちは技を磨いた。
「舞ちゃん、こうやって二人で行動するのも今回で終わりだっぺ。もう教えることもねんだわさ」
「えーっ、まだまだ駄目よ。わたし弱いもん」
お婆ちゃんとの小旅行は最高だった。今まで知らなかった祖母の知識、知恵、茶目っ気や魔術はどれも、洗練されたものだった。
「あんら、舞ちゃんにとって強さっつーのはいったい何だろね?」
「それゃ、聖子婆ちゃんが教えてくれた魔術でしょ。三つだけだけどさ」
空間歪曲により目標を捻り潰す魔法、
「武器も使わないし、お婆ちゃんって戦わない方法ばっかり教えるじゃん。強いのかな」
「つえーよ、わっしは。あははは」
私には何も取り柄がなかった。両親は、能力のことを信じていなかったし、学校や塾にも友だちと呼べるひとは一人もいなかった。
「ある武器で、わだすたち魔女は無敵の存在になったのさ。これさえあれば怖いものなしっつー術があるんじゃよ」
「なになに?」
「
「……ぷっ!」お婆ちゃんとの会話はいつも楽しかった。楽しいだけでなく勇気も沸いた。「それが本当の強さなの?」
「そうさね。アハハハハハ」
「あははははは」
教会にはよく連れていってくれた。厳格な場所ではなく、老人どうしの集会場として使われていた。頭の禿げた神父が出迎え、いつも何人かの老人がたむろしていた。
「能力はね、他人のために使ってはなんねぇよ。禁忌魔法はとくに寿命が吸いとられっから、ぜってー駄目だ。自分のために使いなせ」
「分かってるよ。わたし戦わないし、まして人の為に自分の寿命使うなんてありえないわ」
「……分かってりゃええんよ。わがってら」
「……」
突然。お婆ちゃんは二年前、突然亡くなってしまった。家族は誰もお婆ちゃんがどうして死んだのか知らなかった。
ただ朝がきて、痩せ細った老女は目を覚まさなかった。早すぎる死に、私は自分を納得させることが出来なかった。
また、ひとりぼっちになった。葬儀の後、教会へ行くと神父を囲むように、黒服に身を包んだ老人たちが沢山きていた。お婆ちゃんの写真をみて泣いている老人たちが聖堂にあふれ、五十人以上いたのだ。
私は荘園で田中の爺さんを見つけて聞いた。お婆ちゃんは、どうして突然居なくなってしまったのか。なんで死んでしまったのか。
「ま、舞ちゃんか、すまなんね」白髪に黒服をきた老人は私の肩を優しく抱いて言った。
「聖子ちゃんは禁忌魔法を、使ってしまったんだよ。だから、寿命がすっかり亡くなってしまったんじゃ」
「なんですって?」答えに窮した。考えてもいなかった。「他人のために魔法を使うなんて、ありえないわ。だいたい、この人だかりは何? みんなお婆ちゃんの知り合いなの?」
「あ、ああ……聖子ちゃんは、みんなのアイドルじゃったからの。知っておるじゃろ?
「はあ!?」田中さんの話は意外なものだった。私は分厚い胸板に手を伸ばし、黒いスーツの襟をつかんでいた。「なんですって。お婆ちゃんは誰かと戦っていたってこと?」
「こ、こりゃ迂闊だったわい。すまなかった、聖子ちゃんは、秘密にしておったのか……」
田中さんは真っ青な顔をして額に汗をかいていた。ばつの悪そうな態度で、今にも私の前から消えたいように見えた。
「ごめんなさい。田中さんのせいじゃないのに。でも、どうしても知りたくて。お婆ちゃんがどうして魔法を使ったのか」
「……うまく、言えるとは思えんが」
「……」
じっと田中さんを見た。すぐ後ろには芦田さんも立っていた。荘園に人だかりが出来てしまい、皆が私たちを見ていた。
「我が親愛なる羽鳥聖子は、戦火をかいくぐり時間旋という危険地帯に向かっていった」
お婆ちゃんは古い友のために怪人と、戦ったという。私には想像もつかない世界で。
そして叫んだ。
「スンナー!」
「スンナー!!」
「
「おめっも、まだ
嘘だ。なんで……あれほど他人の為に魔法は使うなと言っていたお婆ちゃんが。
「……」
涙が溢れた。悔しかった。どうしてお婆ちゃんをもっと知ろうとしなかったのか。どうして最期を看取ってあげられなかったのか。
どうして。
そして今、お婆ちゃんの気持ちが少しだけ分かった。野口鷹志を助けたとき、ほとんど無意識だった。あれは自分の為だとさえ思えた。
『あんまり能力は使わないほうがいいのに、僕らを守ってくれたよね。本当にありがとう』
そう言って彼は私に「爪切り」をそっと渡してくれた。胸が締め付けられる。いくら目をそらしても無駄だ。お婆ちゃんは、他人の為に自分の命をかけたのだ。
惨めで、弱虫、いじめられっこ、靴下は左右柄違いで、誰も友達がいない男の子。でも本当に友達がいないのは私自身だった。
そんな彼が、ほんの一瞬……たった三ミリのびた爪を見て、私の身体を心配したのだ。自分のことより先に。
(死ぬな……野口鷹志)
私は朝の光をあびながら彼が玄関から、現れるのを見たとき、決意した。彼は精神を乗っ取られてはいけない人間だと。
彼の顔を見た。ぐっと近付いて、はっきりと。揺るぎない決意とはうらはらに、言葉が流れ出ていく。
「ねぇ、教えてっ。どうして、なんで私に爪切りなんかくれたのよっ!!」
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